一乗山城(いちじょうさんじょう)
●所在地 広島県福山市熊野町上山田・黒木谷●別名 黒木城
●築城期 文明年間(1469~87)
●築城者 渡辺越中守兼
●城主 渡辺氏(兼・房・高・元・景)
●高さ 標高240m/比高100m
●遺構 郭・空堀・石垣・井戸・竪堀
●指定 市指定史跡
●登城日 2010年12月8日
◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
所在地である福山市熊野町は、備後沼隈半島にあり、一乗山城はこの半島のほぼ中央部熊ヶ峰連山の黒木谷の奥に築かれている。
【写真左】一乗山城遠望
北側からみたもので、写真にあるように手前はダム湖となっている。
現地の説明板より
“一乗山城と常国寺
一乗山城は、渡辺越中守兼によって、文明から永正年間(1469~1521)に築かれた中世の山城で、郭・石垣・堀切・井戸などの保存状態がよく、市史跡に指定されている。
渡辺氏は、室町時代の初め(1400年ごろ)、草戸村に入り、長和荘の管理にあたったが、4代目・兼の時代に山田荘(現熊野町)に移った。
初め尼子氏に就いたが、兼の晩年には毛利氏に属し活躍した。兼は日蓮宗に帰依し、城郭内に法華の守護神である七面大菩薩を祀り、麓には日親上人開基の常国寺を建立し菩提寺とした。
【写真左】ダム湖堤防
登城口に向かうには、この写真の右の堰堤に造られた道を前方に進み、写真左側へ向かう。
以来5代(兼・房・高・元・景)が一乗山城を拠点としたが、関ヶ原の戦いで敗れこの地を去った。その間、京を追われた室町幕府最後の将軍・足利義昭が毛利氏を頼って鞆へ来住したときは、その警護と接待役をつとめた。
また、常国寺は、日親上人や足利義昭関係の遺品(常国寺文書)をはじめ、江戸時代中期の建造物(唐門・鐘楼・番神社本殿)が市重要文化財に、ケヤキとモッコクが市天然記念物に指定されるなど、多くの文化財が所在している。
福山市教育委員会”
【写真左】渡辺氏の菩提寺である常国寺
一乗山城の西麓に建立されている。
なお、車は一乗山城登城口付近にも駐車スペースはあるが、境内に停めてそこから歩いて行った。
備後・渡辺氏
渡辺氏の出自は不明ながら、渡辺友綱が鎌倉末期にこの地域に入ったのが最初といわれ、その子・四郎兵衛尉持は、観応2年(正平6年:1351)、すなわち南北朝期の動乱のころ、石崎城(福山市駅家町大字中島:『城格放浪記』氏の「備後・石崎城」参照)で戦い、その子四郎兵衛尉究も、石成(現在の福山市上岩成・下岩成)で戦ったとされている。(芝山城(香川県高松市香西北町芝山)参照)
【写真左】登城口
西麓部にある場所で、コースはこの場所とは別に、当城舌状丘陵先端部から登る(神社参道)ものもあるが、登りはこのコースを選んだ。
写真に見える説明板より
“福山市史跡 一乗山城跡
福山市熊野町大字上山田
1964年(昭和39年)3月31日指定
戦国時代、熊野盆地を支配した渡辺氏によって築かれた山城跡です。渡辺氏は、初め草戸に本拠を置いていましたが、戦国時代の初頭、越中守兼の代に毛利氏後押しでこの地に入り、この城を築きました。
城は、熊野水源池に半島状に突き出た尾根を利用して築かれたもので、背後を堀切で断ち切り、前面に曲輪を階段状に並べた戦国期の山城の遺構がよく残っています。
福山市教育委員会”
【写真左】一乗山城配置図
上が北を示す。
一乗山城が築かれたのは、それから約100年後の文明年間である。4代目・兼(渡辺氏の名前は一字とするものが多い)は、天文3年(1534)、大内・毛利氏に属し、新市宮氏の亀寿山城(広島県福山市新市町大字新市)攻めに加わり、攻略後同城の監視役を務めた。
天文21年、兼の子・出雲守房は父と同じく、毛利氏による宮氏の志川滝山城攻めに名を連ね、その子・源三高は永禄12年(1569)の神辺城(広島県福山市神辺町大字川北)参照)合戦に参加した。
その後も渡辺氏は毛利氏に仕えたが、関ヶ原の戦いのあと、一乗山城は廃城、渡辺氏は浪人となったといわれている。
ところで、一乗山城は戦国期を通じて一度も戦禍に遭わなかった珍しい山城である。
また、現在一乗山城の麓には、上記渡辺氏の末裔とされる方が現在も住んでおられる。おそらく、江戸期ごろに先祖の供養をするために当地に戻ってきたと思われる。
【写真左】登城ルート途中の社
西麓から尾根筋に入ると、そこからほぼ一直線で登ることになるが、最初に出てくるのは写真にみえる社である。
おそらく渡辺氏、もしくは一乗山城を祀ったものだろう。
下山する時、この社を掃除しておられた御婦人に少し話を聞くことができたが、時々この社で祭礼を行うとのこと。ちょうど最近奉納したお神酒(ワンカップ)を、その方から頂き、恐縮した。
一乗山城は小規模な山城だが、このように地元の方々によって熱心に維持されていることを思うと、管理人としては我が事のようにうれしくなる。
【写真左】竪堀
先ほどの社のうしろをぐるっと回って、つづら折りに登っていくが、途中で竪堀が確認できる。
この竪堀は西側に見えたもので、長さはかなりある。
【写真左】途中の郭
本丸まで2カ所の郭段が認められる。この郭には写真にみえるように2段程度の石積みが残る。
【写真左】本丸・その1
規模は30m×20m程度で、南奥には石垣で組んだ台状のものが見える。
【写真左】本丸・その2
【写真左】井戸跡か
石が散在しているが、全体に真ん中を中心に同心円状に石が残る。
おそらく井戸跡と思われる。この場所で井戸水を確保しようとすれば、相当深く掘ったものと思われる。
【写真左】本丸・その3
南側にある高くなった台状のもので、おそらく南側からの攻撃を意識した土塁と思われる。
史料によれば、南側には鞍部に4カ所の堀切が残っているというが、現状は雑木で踏査不能。
【写真左】本丸・その4
先ほどの台状(土塁)から本丸を見る。
南側の樹木が伐採されていれば、かなりの眺望が期待できるが、急峻な山城であるので、作業は困難だろう。
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手城山城(広島県福山市手城町字古城)
●築城期 文明年間(1469~87)
●築城者 渡辺越中守兼
●城主 渡辺氏(兼・房・高・元・景)
●高さ 標高240m/比高100m
●遺構 郭・空堀・石垣・井戸・竪堀
●指定 市指定史跡
●登城日 2010年12月8日
◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
所在地である福山市熊野町は、備後沼隈半島にあり、一乗山城はこの半島のほぼ中央部熊ヶ峰連山の黒木谷の奥に築かれている。
【写真左】一乗山城遠望
北側からみたもので、写真にあるように手前はダム湖となっている。
現地の説明板より
“一乗山城と常国寺
一乗山城は、渡辺越中守兼によって、文明から永正年間(1469~1521)に築かれた中世の山城で、郭・石垣・堀切・井戸などの保存状態がよく、市史跡に指定されている。
渡辺氏は、室町時代の初め(1400年ごろ)、草戸村に入り、長和荘の管理にあたったが、4代目・兼の時代に山田荘(現熊野町)に移った。
初め尼子氏に就いたが、兼の晩年には毛利氏に属し活躍した。兼は日蓮宗に帰依し、城郭内に法華の守護神である七面大菩薩を祀り、麓には日親上人開基の常国寺を建立し菩提寺とした。
【写真左】ダム湖堤防
登城口に向かうには、この写真の右の堰堤に造られた道を前方に進み、写真左側へ向かう。
以来5代(兼・房・高・元・景)が一乗山城を拠点としたが、関ヶ原の戦いで敗れこの地を去った。その間、京を追われた室町幕府最後の将軍・足利義昭が毛利氏を頼って鞆へ来住したときは、その警護と接待役をつとめた。
また、常国寺は、日親上人や足利義昭関係の遺品(常国寺文書)をはじめ、江戸時代中期の建造物(唐門・鐘楼・番神社本殿)が市重要文化財に、ケヤキとモッコクが市天然記念物に指定されるなど、多くの文化財が所在している。
福山市教育委員会”
【写真左】渡辺氏の菩提寺である常国寺
一乗山城の西麓に建立されている。
なお、車は一乗山城登城口付近にも駐車スペースはあるが、境内に停めてそこから歩いて行った。
備後・渡辺氏
渡辺氏の出自は不明ながら、渡辺友綱が鎌倉末期にこの地域に入ったのが最初といわれ、その子・四郎兵衛尉持は、観応2年(正平6年:1351)、すなわち南北朝期の動乱のころ、石崎城(福山市駅家町大字中島:『城格放浪記』氏の「備後・石崎城」参照)で戦い、その子四郎兵衛尉究も、石成(現在の福山市上岩成・下岩成)で戦ったとされている。(芝山城(香川県高松市香西北町芝山)参照)
【写真左】登城口
西麓部にある場所で、コースはこの場所とは別に、当城舌状丘陵先端部から登る(神社参道)ものもあるが、登りはこのコースを選んだ。
写真に見える説明板より
“福山市史跡 一乗山城跡
福山市熊野町大字上山田
1964年(昭和39年)3月31日指定
戦国時代、熊野盆地を支配した渡辺氏によって築かれた山城跡です。渡辺氏は、初め草戸に本拠を置いていましたが、戦国時代の初頭、越中守兼の代に毛利氏後押しでこの地に入り、この城を築きました。
城は、熊野水源池に半島状に突き出た尾根を利用して築かれたもので、背後を堀切で断ち切り、前面に曲輪を階段状に並べた戦国期の山城の遺構がよく残っています。
福山市教育委員会”
【写真左】一乗山城配置図
上が北を示す。
一乗山城が築かれたのは、それから約100年後の文明年間である。4代目・兼(渡辺氏の名前は一字とするものが多い)は、天文3年(1534)、大内・毛利氏に属し、新市宮氏の亀寿山城(広島県福山市新市町大字新市)攻めに加わり、攻略後同城の監視役を務めた。
天文21年、兼の子・出雲守房は父と同じく、毛利氏による宮氏の志川滝山城攻めに名を連ね、その子・源三高は永禄12年(1569)の神辺城(広島県福山市神辺町大字川北)参照)合戦に参加した。
その後も渡辺氏は毛利氏に仕えたが、関ヶ原の戦いのあと、一乗山城は廃城、渡辺氏は浪人となったといわれている。
ところで、一乗山城は戦国期を通じて一度も戦禍に遭わなかった珍しい山城である。
また、現在一乗山城の麓には、上記渡辺氏の末裔とされる方が現在も住んでおられる。おそらく、江戸期ごろに先祖の供養をするために当地に戻ってきたと思われる。
【写真左】登城ルート途中の社
西麓から尾根筋に入ると、そこからほぼ一直線で登ることになるが、最初に出てくるのは写真にみえる社である。
おそらく渡辺氏、もしくは一乗山城を祀ったものだろう。
下山する時、この社を掃除しておられた御婦人に少し話を聞くことができたが、時々この社で祭礼を行うとのこと。ちょうど最近奉納したお神酒(ワンカップ)を、その方から頂き、恐縮した。
一乗山城は小規模な山城だが、このように地元の方々によって熱心に維持されていることを思うと、管理人としては我が事のようにうれしくなる。
【写真左】竪堀
先ほどの社のうしろをぐるっと回って、つづら折りに登っていくが、途中で竪堀が確認できる。
この竪堀は西側に見えたもので、長さはかなりある。
【写真左】途中の郭
本丸まで2カ所の郭段が認められる。この郭には写真にみえるように2段程度の石積みが残る。
【写真左】本丸・その1
規模は30m×20m程度で、南奥には石垣で組んだ台状のものが見える。
【写真左】本丸・その2
【写真左】井戸跡か
石が散在しているが、全体に真ん中を中心に同心円状に石が残る。
おそらく井戸跡と思われる。この場所で井戸水を確保しようとすれば、相当深く掘ったものと思われる。
南側にある高くなった台状のもので、おそらく南側からの攻撃を意識した土塁と思われる。
史料によれば、南側には鞍部に4カ所の堀切が残っているというが、現状は雑木で踏査不能。
【写真左】本丸・その4
先ほどの台状(土塁)から本丸を見る。
南側の樹木が伐採されていれば、かなりの眺望が期待できるが、急峻な山城であるので、作業は困難だろう。
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