白巣城(しらすじょう)
●所在地 兵庫県洲本市五色町鮎原三野畑
●別名 三野畑城
●指定 洲本市指定史跡
●高さ H:320m(比高200m)
●築城期 不明(戦国時代か)
●築城者 不明(安宅氏か)
●城主 安宅氏他
●遺構 郭・土塁・竪堀等
●備考 安宅八家衆
●登城日 2016年1月10日
◆解説
先ごろの市町村合併により淡路島は、北から淡路市、洲本市、そして徳島県と接する南端部の南あわじ市の三つの区分となった。このうち、洲本市は同島の中央部に当たるが、今稿で取り上げる白巣城は、同市にあって旧津名郡五色町に築かれた山城である。
【写真左】白巣城
西の丸に建立された安宅冬秀の石碑
現地の説明板より
“史跡 白巣城跡 (しらすじょうあと)
洲本市五色町鮎原三野畑(あいはらみのばた)所在の白巣城は、標高320mの白巣山山頂に位置する戦国時代の山城で、別名「三野畑城」とも呼ばれています。江戸時代の地誌『味地草(みちくさ)』には「険阻にして要害無双の城なり」と記されています。
永正16年(1519)に淡路守細川家が滅亡後、淡路島は三好氏の勢力下に入り淡路国人衆が台頭する戦国時代がはじまります。国人衆の中で最大の勢力を誇ったのが淡路水軍を率いていた安宅氏(あたぎし)です。
●所在地 兵庫県洲本市五色町鮎原三野畑
●別名 三野畑城
●指定 洲本市指定史跡
●高さ H:320m(比高200m)
●築城期 不明(戦国時代か)
●築城者 不明(安宅氏か)
●城主 安宅氏他
●遺構 郭・土塁・竪堀等
●備考 安宅八家衆
●登城日 2016年1月10日
◆解説
先ごろの市町村合併により淡路島は、北から淡路市、洲本市、そして徳島県と接する南端部の南あわじ市の三つの区分となった。このうち、洲本市は同島の中央部に当たるが、今稿で取り上げる白巣城は、同市にあって旧津名郡五色町に築かれた山城である。
【写真左】白巣城
西の丸に建立された安宅冬秀の石碑
現地の説明板より
“史跡 白巣城跡 (しらすじょうあと)
洲本市五色町鮎原三野畑(あいはらみのばた)所在の白巣城は、標高320mの白巣山山頂に位置する戦国時代の山城で、別名「三野畑城」とも呼ばれています。江戸時代の地誌『味地草(みちくさ)』には「険阻にして要害無双の城なり」と記されています。
永正16年(1519)に淡路守細川家が滅亡後、淡路島は三好氏の勢力下に入り淡路国人衆が台頭する戦国時代がはじまります。国人衆の中で最大の勢力を誇ったのが淡路水軍を率いていた安宅氏(あたぎし)です。
【写真左】案内図
現地に設置された「白巣山生き物マップ」という案内図で、下方が北を示す。
白巣城はこの図では左上に配置されている。
安宅氏は淡路各地に城を構え、その主な城は「安宅八家衆(あたぎはっかしゅう)」の城と呼ばれ、白巣城も安宅八家衆の一つに数えられています。しかしその安宅氏も三好氏の衰退とともに次第に衰えていきます。そして天正9年(1581)、羽柴秀吉による淡路攻めで国人衆は秀吉軍に降伏、淡路国人衆の時代はここに幕を降ろすこととなります。
現地に設置された「白巣山生き物マップ」という案内図で、下方が北を示す。
白巣城はこの図では左上に配置されている。
安宅氏は淡路各地に城を構え、その主な城は「安宅八家衆(あたぎはっかしゅう)」の城と呼ばれ、白巣城も安宅八家衆の一つに数えられています。しかしその安宅氏も三好氏の衰退とともに次第に衰えていきます。そして天正9年(1581)、羽柴秀吉による淡路攻めで国人衆は秀吉軍に降伏、淡路国人衆の時代はここに幕を降ろすこととなります。
【写真左】登城道途中に設置されているゲート
城域の真下まで車で行けるようになっているようだが、ご覧の通り狭く、次第に急坂道となったので、安全のためこの日は、手前の空き地に駐車し、そこから歩いて向かった。
因みにこのゲートから城域までは凡そ30分かかる。
白巣城についての当時の資料は残っておらず、詳細なことはわかっていません。江戸時代の地誌『淡路国名所図絵』によると「白巣城は足利の末、安宅九郎左衛門尉冬秀二三代居住す」と記されています。他の地誌にも「安宅冬秀」が白巣城主であったと記されており、安宅冬秀城主説が現在最も有力とされています。
【写真左】白巣城見取図
北側から見た見取図になるが、説明板にもあるように、本丸を中心に右に西ノ丸を置き、少し下がって立岩、馬責場があり、東に延びる尾根には馬繋ぎ場、米倉、東の丸などがある。
白巣城は、自然の地形をうまく利用して築かれており、縄張りの大きさは南北350m、東西約300mで戦国時代の淡路島の城の中でも最大級の規模です。
「本丸」「西の丸」「東の丸」「馬繋場(うまつなぎば)」「馬責場(うませめば)」「米倉」と呼ばれる曲輪が堀切により独立しており、土塁や竪堀など当時の遺構が今も良好な形で残っています。
また東は大阪湾、西は播磨灘を望見でき、瀬戸内海や大阪湾を往来する船を監視するには最適の場所です。
【写真左】この階段を上がる。
登城道終点地点で、北側に当たるが、数年前までこの周りが崩落していたようで、この日訪れたときには復旧していた。
秀吉による淡路攻めで淡路国人衆は悉く降伏し、淡路島は3日間で陥落したといわれています。その中で白巣城主は唯一抵抗し、秀吉軍の火攻めにより炎上し落城したと伝えられています。
「竹の皮合戦」や「黄金の鶏(にわとり)」など落城時の伝説が今も地元で語り継がれています。
平成24年3月29日に洲本市の史跡に指定され、大切に守り管理しています。”
【写真左】堀切
階段を上がって少し進むと、さっそく堀切が現われる。
安宅氏(あたぎし)
城域の真下まで車で行けるようになっているようだが、ご覧の通り狭く、次第に急坂道となったので、安全のためこの日は、手前の空き地に駐車し、そこから歩いて向かった。
因みにこのゲートから城域までは凡そ30分かかる。
白巣城についての当時の資料は残っておらず、詳細なことはわかっていません。江戸時代の地誌『淡路国名所図絵』によると「白巣城は足利の末、安宅九郎左衛門尉冬秀二三代居住す」と記されています。他の地誌にも「安宅冬秀」が白巣城主であったと記されており、安宅冬秀城主説が現在最も有力とされています。
【写真左】白巣城見取図
北側から見た見取図になるが、説明板にもあるように、本丸を中心に右に西ノ丸を置き、少し下がって立岩、馬責場があり、東に延びる尾根には馬繋ぎ場、米倉、東の丸などがある。
白巣城は、自然の地形をうまく利用して築かれており、縄張りの大きさは南北350m、東西約300mで戦国時代の淡路島の城の中でも最大級の規模です。
「本丸」「西の丸」「東の丸」「馬繋場(うまつなぎば)」「馬責場(うませめば)」「米倉」と呼ばれる曲輪が堀切により独立しており、土塁や竪堀など当時の遺構が今も良好な形で残っています。
また東は大阪湾、西は播磨灘を望見でき、瀬戸内海や大阪湾を往来する船を監視するには最適の場所です。
【写真左】この階段を上がる。
登城道終点地点で、北側に当たるが、数年前までこの周りが崩落していたようで、この日訪れたときには復旧していた。
秀吉による淡路攻めで淡路国人衆は悉く降伏し、淡路島は3日間で陥落したといわれています。その中で白巣城主は唯一抵抗し、秀吉軍の火攻めにより炎上し落城したと伝えられています。
「竹の皮合戦」や「黄金の鶏(にわとり)」など落城時の伝説が今も地元で語り継がれています。
平成24年3月29日に洲本市の史跡に指定され、大切に守り管理しています。”
【写真左】堀切
階段を上がって少し進むと、さっそく堀切が現われる。
安宅氏(あたぎし)
白巣城の城主といわれているのが、安宅氏である。安宅氏については以前取り上げた同市小路谷の洲本城でも紹介しているように、紀州熊野水軍の一族・安宅氏の出である。
淡路に移る前の安宅氏の本拠地は、紀州の日置(ひき)川にあった安宅荘で、紀伊水道の河口周辺には海城を居城としていた安宅本城や、八幡山城などが残っている。
【写真左】西の丸・本丸方面に向かう。
最初に西側に向かっていく。
淡路に移る前の安宅氏の本拠地は、紀州の日置(ひき)川にあった安宅荘で、紀伊水道の河口周辺には海城を居城としていた安宅本城や、八幡山城などが残っている。
【写真左】西の丸・本丸方面に向かう。
最初に西側に向かっていく。
ところで、安宅氏が紀州に下向する前にいたのが、実は阿波国である。鎌倉末期に幕府から熊野海賊制圧の命を受け、阿波から紀州に派遣されたからだといわれているが、阿波国にあった時点で既に水軍領主として一定の勢力を誇っていたのだろう。
このことから、元々阿波国にあったときは、安宅姓を名乗らず、紀州に下向してから安宅氏を名乗ったことになる。そして後に三好氏(勝瑞城(徳島県板野郡藍住町勝瑞)参照)から養子を迎えることになるが、同氏(安宅氏)が阿波国を本拠としていた点を考えると、遡れば同国の出である三好氏(阿波守護・小笠原氏庶流)の系譜に繋がっていたかもしれない。
【写真左】本丸と西の丸を連絡する郭
手前が本丸で後ほど紹介するが、奥に少し高くなった箇所があり、西の丸が控える。
本丸下の郭で、東側には馬繋場があり、そこから西まで伸びているので、本丸と西の丸を連絡する郭だが、馬繋場の一部としての役割をもったものだろう。
築城期
当城の築城期についてもはっきりしないが、安宅氏が最初に築城したとされる洲本城とほぼ同じころ、すなわち永正年間(1504~)初頭と思われる。
【写真左】馬せめ場降り口
さきほどの郭から西に降りていくと、馬せめ場が控えている。
「馬せめ場」とは「馬攻め」すなわち、調教する場所だが、この日はそこまで向かっていない。見取図を見る限りあまり広くないようなので、実際には上掲の本丸と西の丸を連絡する郭での使用が多かったのかもしれない。
【写真左】本丸と西の丸を連絡する郭
手前が本丸で後ほど紹介するが、奥に少し高くなった箇所があり、西の丸が控える。
本丸下の郭で、東側には馬繋場があり、そこから西まで伸びているので、本丸と西の丸を連絡する郭だが、馬繋場の一部としての役割をもったものだろう。
築城期
当城の築城期についてもはっきりしないが、安宅氏が最初に築城したとされる洲本城とほぼ同じころ、すなわち永正年間(1504~)初頭と思われる。
【写真左】馬せめ場降り口
さきほどの郭から西に降りていくと、馬せめ場が控えている。
「馬せめ場」とは「馬攻め」すなわち、調教する場所だが、この日はそこまで向かっていない。見取図を見る限りあまり広くないようなので、実際には上掲の本丸と西の丸を連絡する郭での使用が多かったのかもしれない。
安宅九郎左衛門尉冬秀
白巣城の城主については、説明板にもあるように「白巣城は足利の末、安宅九郎左衛門尉冬秀二三代居住す」と書かれている。ただこれは江戸時代の地誌からの引用で、時期についても漠然としておりはっきりしない。
因みに、三好元長の三男冬康(長慶の実弟)が安宅治興へ養子に入って安宅冬康を名乗っているが、白巣城の城主冬秀は安宅氏嫡流の武将である可能性が高い。
【写真左】西の丸に設置された石碑
西の丸はさほど大きなものでなく、片隅には「白巣城」と筆耕された石碑が建つ。
【写真左】西の丸から瀬戸内方面を眺望する。
麓は五色町の街並み
【写真左】立岩
西の丸から下に降りると馬責場があるが、その途中には郭の隅に縦に長く伸びた岩が見えている。
このあと、少し下に降りてみる。
【写真左】二条の堀切
上から見たもので、尾根幅は少し狭くなって、小規模な二条の堀切が確認できる。
このあと、Uターンして本丸を目指す。
【写真左】本丸途中の段
【写真左】本丸
本丸はきれいに削平され整備されている。連れ合いが合掌しているのは、左側に祠が祀られているからである。
このあと、本丸の東南に伸びる郭段に向かう。
【写真左】馬つなぎ場
【写真左】虎口か
馬つなぎ場の一角には開口部があった。おそらく虎口の一つだろう。
【写真左】土塁
馬つなぎ場の二辺は土塁が構築されている。そのうち一辺は2m近い幅を持つ。
また、隅の一角には礎石や列石の一部が残っている。
このあと東の丸に向かう。
【写真左】米倉
東の丸に向かう途中には米倉が配置されている。
この箇所だけ独立した単郭で、周囲より2m前後高くなっている。構造から考えて、米倉と併せ物見櫓的な役割も担っていたのかもしれない。
【写真左】堀切
米倉の付近にはご覧の堀切がある。
【写真左】東の丸
この位置から右方向が大阪湾に当たる。
【写真左】東の丸からさらに伸びる尾根
この尾根先端部からさらに下に降るようになっていたので、降りてみる。
【写真左】竪堀
見取図には描かれていないが、途中に竪堀が構築されていた。
白巣城の城主については、説明板にもあるように「白巣城は足利の末、安宅九郎左衛門尉冬秀二三代居住す」と書かれている。ただこれは江戸時代の地誌からの引用で、時期についても漠然としておりはっきりしない。
因みに、三好元長の三男冬康(長慶の実弟)が安宅治興へ養子に入って安宅冬康を名乗っているが、白巣城の城主冬秀は安宅氏嫡流の武将である可能性が高い。
【写真左】西の丸に設置された石碑
西の丸はさほど大きなものでなく、片隅には「白巣城」と筆耕された石碑が建つ。
【写真左】西の丸から瀬戸内方面を眺望する。
麓は五色町の街並み
【写真左】立岩
西の丸から下に降りると馬責場があるが、その途中には郭の隅に縦に長く伸びた岩が見えている。
このあと、少し下に降りてみる。
【写真左】二条の堀切
上から見たもので、尾根幅は少し狭くなって、小規模な二条の堀切が確認できる。
このあと、Uターンして本丸を目指す。
【写真左】本丸途中の段
【写真左】本丸
本丸はきれいに削平され整備されている。連れ合いが合掌しているのは、左側に祠が祀られているからである。
このあと、本丸の東南に伸びる郭段に向かう。
【写真左】馬つなぎ場
【写真左】虎口か
馬つなぎ場の一角には開口部があった。おそらく虎口の一つだろう。
【写真左】土塁
馬つなぎ場の二辺は土塁が構築されている。そのうち一辺は2m近い幅を持つ。
また、隅の一角には礎石や列石の一部が残っている。
このあと東の丸に向かう。
【写真左】米倉
東の丸に向かう途中には米倉が配置されている。
この箇所だけ独立した単郭で、周囲より2m前後高くなっている。構造から考えて、米倉と併せ物見櫓的な役割も担っていたのかもしれない。
【写真左】堀切
米倉の付近にはご覧の堀切がある。
【写真左】東の丸
この位置から右方向が大阪湾に当たる。
【写真左】東の丸からさらに伸びる尾根
この尾根先端部からさらに下に降るようになっていたので、降りてみる。
【写真左】竪堀
見取図には描かれていないが、途中に竪堀が構築されていた。
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