山科本願寺跡(やましな ほんがんじあと)
●所在地 京都府京都市山科区西野阿芸沢町
●指定 国指定史跡
●形態 寺院城郭・寺内町
●築城期 文明10年(1478)
●築城者 蓮如上人
●高さ 標高46m(比高0m)
●遺構 土塁、濠
●登城日 2016年8月23日
◆解説(参考文献 「入門 親鸞と浄土真宗」洋泉社発行、「畿内・近国の戦国合戦」福島克彦著、「近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編」仁木宏・福島克彦編等)
浄土真宗中興の祖・蓮如が築城した寺院城郭山科本願寺は、京都の西方山科に建てられた。山科は古代から交通の要所として栄えた場所で、西へは洛東といわれた東山へ繋がり、東へは逢坂関をこえて大津宿へ繋がっていた。
【写真左】内寺内に残る土塁
現在の山科中央公園にある通称「御土居の森」といわれているところで、東西75m、南北600mの規模を持つ。
現地説明板より
“山科本願寺・寺内町
山科本願寺は、文明10年(1478)に浄土真宗中興の祖である蓮如上人により造営が開始された寺内町です。寺域は南北約1km、東西約0.8kmにおよび、周囲には防御施設として土塁や濠が巡っており、寺域内は主要な堂舎がある「御本寺(ごほんじ)」、家臣や僧侶が生活する「内寺内」、寺に関わる職人・商人などが生活する「外寺内」の3つの郭で構成されていました。
「寺中広大無辺にして、荘厳さながら仏国のごとし」と言われるほど、繁栄していたことが想像できます。しかし天文元年(1532)に細川晴元が率いる法華宗徒と延暦寺、近江守護六角氏の連合軍により、焼き討ちにあいます。
【写真左】山科本願寺推定復元図
現地に設置されているもので、斜めから撮ったため見ずらいが、上から外寺内、内寺内、御本寺のエリアが図示されている。
このうち、残存土塁は冒頭のものとは別に、中小6ヶ所残っている。
当時の土塁として推定されているのが、黄土色の区画線に当たり、中央の御本寺を囲み、さらにその外側の内寺内も同じく土塁で囲んでいるが、外寺内の囲みは土塁は設置されていないようだ。ただ東西を流れる川を利用して部分的に濠が巡らされている。
この地は山科本願寺の北東部に位置します。昭和48年に団地の建設に伴い、山科本願寺における最初の本格的な調査が行われた場所です。
「御本寺」と「内寺内」を限る南北方向の土塁と平行する濠や「御本寺」と「内寺内」をつなぐ道路や、石垣、鍛冶場、石組みの井戸が見つかりました。またこれら上面に堆積していた焼土や灰は、山科本願寺が焼き討ちにあったことを裏付ける証拠となりました。
これまでの調査成果で、土塁の造成の様子や中枢部である「御本寺」西側に庭園や石風呂などの施設のほか、全国的にも珍しい工芸品なども出土し、その重要性がより一層明らかになってきました。
【写真左】山科本願寺復元イメージ図
中央の青い屋根などが示されている箇所が御本寺で、この境内には御影堂をはじめ、阿弥陀堂、宗主居館等が設置されていた。
また寺域を巡る土塁は一部現存しており、その姿を今も目にすることができます。
中でも現在地のすぐ北にある山科中央公園に残る土塁は、「内寺内」の北東角にあたり、東西75m、南北60mにわたって残っており、当時の状況をよく留めています。
平成14年には蓮如の隠居所としてつくられた南殿とともに、国史跡に指定されています。
平成26年3月 京都市”
【写真左】安祥寺川
探訪したこの日は北側の四丁野町(しちょうのちょう)側にある駐車場に停め、そこから安祥寺川に沿いの道を南に歩いて向かった。
安祥寺川は北側の外寺内と内寺内の境を流れ、南北に続いていた土塁と並行に流れていたと思われるが、現在のように内寺内区域内を縦走せず、外寺内側を流れていのかもしれない。
中央奥に見える森のような箇所が下段で紹介する大型の土塁跡で、写真の左側には東本願寺山科別院が建っている。
浄土真宗中興の祖・蓮如
寛正6年(1465)、同宗開祖親鸞の本来の教えに戻るべく大胆な改革を行った蓮如は、比叡山衆徒や高田専修寺から激しく非難され、大谷本願寺を破却された。それから近江を転々とし、越前に辿りつき、吉崎御坊(福井県あわら市吉崎)を建てた。
その後、蓮如が吉崎御坊をあとにしたのは、文明7年(1475)の8月21日といわれている。越前を去った後、再び教線拡大に努めるべく摂津、河内、和泉と足を延ばした。丁度世はあの大義なき争乱、応仁・文明の乱が終わる頃である。10年余りの長い間戦禍にまみれ、その結果洛中洛外は勿論のこと、畿内の至るところに飢餓や疫病による死骸が横たわり、さらには窃盗、略奪、放火、ならず者の横行が頻発した。長らく続いてきた公家・寺社の荘園支配は、この乱後ほとんどが崩壊し、多くの公家も京都を離れた。
【写真左】外寺内側から見た土塁
上掲の道を南に進んで行くと、途中で右手に安祥寺中学校があり、さらに進むとご覧の公園が現れる。正面奥のこんもりとした森のようなものが山科本願寺跡の中で最大の規模のもの土塁である。
この土塁を超えると内寺内に入る。
疲弊しきった人々が求めたものは、飢えからの解放と、平穏な日常の渇望である。民衆は、その方途として精神のよりどころを信仰に求めた。蓮如の行くところはどこでも多くの参詣者が集まった。まさに時代が求めていたということだろう。
【写真左】山科中央公園内案内図
現地の案内図に管理人よって土塁の位置を加筆したもの。
土塁の南西側には多目的広場として運動場があるが、野球場でいえば、センター側の外野スタンドのような配置になっている。
本願寺の再建
大谷本願寺が破却されてから18年後の文明10年(1478)、蓮如は山科に本願寺を再建すべく造営を開始した。
再建する際に、いわば仮住まいとしたのが「柴ノ庵」である。その後、「馬屋」、翌年には寺務所の「綱所(向所)(こうしょ)」を、4月には堺にあった古坊を移築し「寝殿」が建てられた。この区域が「御本寺」といわれる箇所で、造営開始から3年後の文明13年春には竣工している。
その後、内寺内、外寺内などが順次建てられた。このうち、内寺内は蓮如の第23子・実悟が残した記録『山科御坊事並其時代事』によれば、永正初年頃(1504~)に内寺内(第2郭)を、同10年頃に外寺内(第3郭)を建てたとされる。
【写真左】土塁に登る。
北側の遊園地側に設置された階段を使って土塁天端に登る。
遊園地側から目測で見ると、凡そ7,8mの高さはあると思われる。
ところで、永正元年(1504)閏3月15日、将軍足利義澄(大内氏遺跡・凌雲寺跡(山口県山口市中尾)参照)が本願寺を訪れ(『後法興院記』)、同3年7月14~16日にかけては、管領細川政元(勝瑞城(徳島県板野郡藍住町勝瑞)参照)が当寺を訪れている(『後法成寺関白記』『宣胤卿記』)。
この二人(義澄と政元)の間には微妙な関係があり、対立しながらも幕府を支えた。しかし、政元は山科本願寺を訪れた翌々年(永正5年)、暗殺されてしまう。
【写真左】土塁天端
中央部にはご覧の様な歩道が設置され、西端から南端まで歩けるようになっている。
場所によっては郭ほどの幅を持つ箇所もある。
また、再興された山科本願寺が再び隆盛を誇りだした永正3年、加賀・能登・越中の一向一揆宗徒は、越前の朝倉貞景(一乗谷朝倉氏遺跡・庭園(福井県福井市城戸ノ内町)参照)によって撃退され、蓮如が創建した吉崎御坊は破壊された。
山科本願寺再建を終えた蓮如は、延徳元年(1489)法灯を五男・実如に譲った。形式上は隠居だが、蓮如の教化に対する熱意は衰えることなく、その後明応6年(1497)には大阪に入って御坊を建立した。これがのちの石山本願寺となる。その2年後、波瀾万丈の85年の生涯を山科本願寺にて終え遷化した。
【写真左】石碑
L字状となった土塁で、南に降りた箇所には「山科本願寺土塁跡」と刻銘された石碑が建つ。
寺院城郭
山科本願寺に残る御本寺付近の土塁などは蓮如の生存中に設置されたものだが、内寺内・外寺内を含めたいわゆる惣構えの形態を完成させたのは、実如や証如の時代とされる。特に、明応8年(1499)から落城する天文元年(1532)の30年余の間に、本格的な寺院城郭が整えられたといわれている。
【写真左】西端部
右側はグランドになっており、この位置が西端部になる。
このあと左側に向かう。
【写真左】濠跡か
案内図では「自由広場」といわれているところで、手前のグランド面より2~3mほど低くなっている。
写真の右側が土塁になるが、低くなった分だけ土塁天端との比高はさらに高くなりおよそ10m程度になる。
【写真左】南側から土塁を遠望する。
土塁の南側にはかなりおおきなグランドがある。この付近が内寺内の北側に当たる。
このあと、東に進んで蓮如上人御廟所に向かう。
【写真左】安祥寺川を挟んで土塁と蓮如上人御廟所
グランドの南側にある道を東に進むと、安祥寺川に掛かる橋がある。おそらく左側の土塁は安祥寺川に沿って南まで延びていたものと思われる。
この橋を右に進むと、右に見える蓮如上人の御廟所が祀られている。
【写真左】蓮如上人御廟所・その1
唐門風の門があり、この扉を開けて中に入る。
【写真左】蓮如上人御廟所・その2
五輪塔もしくは宝篋印塔型式の墓石があると思ったが、柵の中は盛土した塚のようなものとなっている。
【写真左】蓮如上人像
安祥寺川を挟んで東側にある東本願寺山科別院境内に建立されている。
【写真左】南殿の石碑
上記まで紹介した箇所とは別に、蓮如上人御廟所から東へ凡そ600mほど行った音羽伊勢宿町には、「南殿跡」がある。この日は時間もなかったため、こちらには探訪していない。
●所在地 京都府京都市山科区西野阿芸沢町
●指定 国指定史跡
●形態 寺院城郭・寺内町
●築城期 文明10年(1478)
●築城者 蓮如上人
●高さ 標高46m(比高0m)
●遺構 土塁、濠
●登城日 2016年8月23日
◆解説(参考文献 「入門 親鸞と浄土真宗」洋泉社発行、「畿内・近国の戦国合戦」福島克彦著、「近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編」仁木宏・福島克彦編等)
浄土真宗中興の祖・蓮如が築城した寺院城郭山科本願寺は、京都の西方山科に建てられた。山科は古代から交通の要所として栄えた場所で、西へは洛東といわれた東山へ繋がり、東へは逢坂関をこえて大津宿へ繋がっていた。
【写真左】内寺内に残る土塁
現在の山科中央公園にある通称「御土居の森」といわれているところで、東西75m、南北600mの規模を持つ。
現地説明板より
“山科本願寺・寺内町
山科本願寺は、文明10年(1478)に浄土真宗中興の祖である蓮如上人により造営が開始された寺内町です。寺域は南北約1km、東西約0.8kmにおよび、周囲には防御施設として土塁や濠が巡っており、寺域内は主要な堂舎がある「御本寺(ごほんじ)」、家臣や僧侶が生活する「内寺内」、寺に関わる職人・商人などが生活する「外寺内」の3つの郭で構成されていました。
「寺中広大無辺にして、荘厳さながら仏国のごとし」と言われるほど、繁栄していたことが想像できます。しかし天文元年(1532)に細川晴元が率いる法華宗徒と延暦寺、近江守護六角氏の連合軍により、焼き討ちにあいます。
【写真左】山科本願寺推定復元図
現地に設置されているもので、斜めから撮ったため見ずらいが、上から外寺内、内寺内、御本寺のエリアが図示されている。
このうち、残存土塁は冒頭のものとは別に、中小6ヶ所残っている。
当時の土塁として推定されているのが、黄土色の区画線に当たり、中央の御本寺を囲み、さらにその外側の内寺内も同じく土塁で囲んでいるが、外寺内の囲みは土塁は設置されていないようだ。ただ東西を流れる川を利用して部分的に濠が巡らされている。
この地は山科本願寺の北東部に位置します。昭和48年に団地の建設に伴い、山科本願寺における最初の本格的な調査が行われた場所です。
「御本寺」と「内寺内」を限る南北方向の土塁と平行する濠や「御本寺」と「内寺内」をつなぐ道路や、石垣、鍛冶場、石組みの井戸が見つかりました。またこれら上面に堆積していた焼土や灰は、山科本願寺が焼き討ちにあったことを裏付ける証拠となりました。
これまでの調査成果で、土塁の造成の様子や中枢部である「御本寺」西側に庭園や石風呂などの施設のほか、全国的にも珍しい工芸品なども出土し、その重要性がより一層明らかになってきました。
【写真左】山科本願寺復元イメージ図
中央の青い屋根などが示されている箇所が御本寺で、この境内には御影堂をはじめ、阿弥陀堂、宗主居館等が設置されていた。
また寺域を巡る土塁は一部現存しており、その姿を今も目にすることができます。
中でも現在地のすぐ北にある山科中央公園に残る土塁は、「内寺内」の北東角にあたり、東西75m、南北60mにわたって残っており、当時の状況をよく留めています。
平成14年には蓮如の隠居所としてつくられた南殿とともに、国史跡に指定されています。
平成26年3月 京都市”
【写真左】安祥寺川
探訪したこの日は北側の四丁野町(しちょうのちょう)側にある駐車場に停め、そこから安祥寺川に沿いの道を南に歩いて向かった。
安祥寺川は北側の外寺内と内寺内の境を流れ、南北に続いていた土塁と並行に流れていたと思われるが、現在のように内寺内区域内を縦走せず、外寺内側を流れていのかもしれない。
中央奥に見える森のような箇所が下段で紹介する大型の土塁跡で、写真の左側には東本願寺山科別院が建っている。
浄土真宗中興の祖・蓮如
寛正6年(1465)、同宗開祖親鸞の本来の教えに戻るべく大胆な改革を行った蓮如は、比叡山衆徒や高田専修寺から激しく非難され、大谷本願寺を破却された。それから近江を転々とし、越前に辿りつき、吉崎御坊(福井県あわら市吉崎)を建てた。
その後、蓮如が吉崎御坊をあとにしたのは、文明7年(1475)の8月21日といわれている。越前を去った後、再び教線拡大に努めるべく摂津、河内、和泉と足を延ばした。丁度世はあの大義なき争乱、応仁・文明の乱が終わる頃である。10年余りの長い間戦禍にまみれ、その結果洛中洛外は勿論のこと、畿内の至るところに飢餓や疫病による死骸が横たわり、さらには窃盗、略奪、放火、ならず者の横行が頻発した。長らく続いてきた公家・寺社の荘園支配は、この乱後ほとんどが崩壊し、多くの公家も京都を離れた。
【写真左】外寺内側から見た土塁
上掲の道を南に進んで行くと、途中で右手に安祥寺中学校があり、さらに進むとご覧の公園が現れる。正面奥のこんもりとした森のようなものが山科本願寺跡の中で最大の規模のもの土塁である。
この土塁を超えると内寺内に入る。
疲弊しきった人々が求めたものは、飢えからの解放と、平穏な日常の渇望である。民衆は、その方途として精神のよりどころを信仰に求めた。蓮如の行くところはどこでも多くの参詣者が集まった。まさに時代が求めていたということだろう。
【写真左】山科中央公園内案内図
現地の案内図に管理人よって土塁の位置を加筆したもの。
土塁の南西側には多目的広場として運動場があるが、野球場でいえば、センター側の外野スタンドのような配置になっている。
本願寺の再建
大谷本願寺が破却されてから18年後の文明10年(1478)、蓮如は山科に本願寺を再建すべく造営を開始した。
再建する際に、いわば仮住まいとしたのが「柴ノ庵」である。その後、「馬屋」、翌年には寺務所の「綱所(向所)(こうしょ)」を、4月には堺にあった古坊を移築し「寝殿」が建てられた。この区域が「御本寺」といわれる箇所で、造営開始から3年後の文明13年春には竣工している。
その後、内寺内、外寺内などが順次建てられた。このうち、内寺内は蓮如の第23子・実悟が残した記録『山科御坊事並其時代事』によれば、永正初年頃(1504~)に内寺内(第2郭)を、同10年頃に外寺内(第3郭)を建てたとされる。
【写真左】土塁に登る。
北側の遊園地側に設置された階段を使って土塁天端に登る。
遊園地側から目測で見ると、凡そ7,8mの高さはあると思われる。
ところで、永正元年(1504)閏3月15日、将軍足利義澄(大内氏遺跡・凌雲寺跡(山口県山口市中尾)参照)が本願寺を訪れ(『後法興院記』)、同3年7月14~16日にかけては、管領細川政元(勝瑞城(徳島県板野郡藍住町勝瑞)参照)が当寺を訪れている(『後法成寺関白記』『宣胤卿記』)。
この二人(義澄と政元)の間には微妙な関係があり、対立しながらも幕府を支えた。しかし、政元は山科本願寺を訪れた翌々年(永正5年)、暗殺されてしまう。
【写真左】土塁天端
中央部にはご覧の様な歩道が設置され、西端から南端まで歩けるようになっている。
場所によっては郭ほどの幅を持つ箇所もある。
また、再興された山科本願寺が再び隆盛を誇りだした永正3年、加賀・能登・越中の一向一揆宗徒は、越前の朝倉貞景(一乗谷朝倉氏遺跡・庭園(福井県福井市城戸ノ内町)参照)によって撃退され、蓮如が創建した吉崎御坊は破壊された。
山科本願寺再建を終えた蓮如は、延徳元年(1489)法灯を五男・実如に譲った。形式上は隠居だが、蓮如の教化に対する熱意は衰えることなく、その後明応6年(1497)には大阪に入って御坊を建立した。これがのちの石山本願寺となる。その2年後、波瀾万丈の85年の生涯を山科本願寺にて終え遷化した。
【写真左】石碑
L字状となった土塁で、南に降りた箇所には「山科本願寺土塁跡」と刻銘された石碑が建つ。
寺院城郭
山科本願寺に残る御本寺付近の土塁などは蓮如の生存中に設置されたものだが、内寺内・外寺内を含めたいわゆる惣構えの形態を完成させたのは、実如や証如の時代とされる。特に、明応8年(1499)から落城する天文元年(1532)の30年余の間に、本格的な寺院城郭が整えられたといわれている。
【写真左】西端部
右側はグランドになっており、この位置が西端部になる。
このあと左側に向かう。
【写真左】濠跡か
案内図では「自由広場」といわれているところで、手前のグランド面より2~3mほど低くなっている。
写真の右側が土塁になるが、低くなった分だけ土塁天端との比高はさらに高くなりおよそ10m程度になる。
【写真左】南側から土塁を遠望する。
土塁の南側にはかなりおおきなグランドがある。この付近が内寺内の北側に当たる。
このあと、東に進んで蓮如上人御廟所に向かう。
【写真左】安祥寺川を挟んで土塁と蓮如上人御廟所
グランドの南側にある道を東に進むと、安祥寺川に掛かる橋がある。おそらく左側の土塁は安祥寺川に沿って南まで延びていたものと思われる。
この橋を右に進むと、右に見える蓮如上人の御廟所が祀られている。
【写真左】蓮如上人御廟所・その1
唐門風の門があり、この扉を開けて中に入る。
【写真左】蓮如上人御廟所・その2
五輪塔もしくは宝篋印塔型式の墓石があると思ったが、柵の中は盛土した塚のようなものとなっている。
【写真左】蓮如上人像
安祥寺川を挟んで東側にある東本願寺山科別院境内に建立されている。
【写真左】南殿の石碑
上記まで紹介した箇所とは別に、蓮如上人御廟所から東へ凡そ600mほど行った音羽伊勢宿町には、「南殿跡」がある。この日は時間もなかったため、こちらには探訪していない。