2019年10月11日金曜日

備前・船山城(岡山県岡山市北区原)

備前・船山城(びぜん・ふなやまじょう)

●所在地 岡山県岡山市北区原
●別名 須々木城
●高さ H:50m(比高 40m)
●築城期 永正・大永年間ごろ以前か
●築城者 須々木氏
●城主 須々木氏
●遺構 郭・土塁・堀切等
●登城日 2016年10月26日

解説(参考文献 『日本城郭体系 第13巻』等)
 備前・船山城(以下「船山城」とする。)は、岡山県の三大河川の一つ旭川の中流域に築かれた連郭式の丘城である。
【写真左】船山城遠望
 南側から見たもので、写真の右側には旭川が流れている。








須々木氏

 船山城の築城期は不明だが、鎌倉期後半以降に備前国御野郡北東部(旭川東岸山間部)に本拠を持っていた国人領主・須々木氏が戦国期(永正~大永年間)に当地に居城を構えたと推定されている。

 この須々木氏は、もともと武蔵七党の一つ「丹党」を始祖としている。そして、この丹党の中から、丹長房が秩父郡小鹿野町両神大字薄(すすき)に居を構え、薄四郎と称した。この場所は、現在の群馬との県境に近い奥秩父の埼玉県秩父郡小鹿野町両神薄である。

 そして薄氏本家である中村氏が播磨に国替えになった際、薄氏は備前に移ったといわれている。備前国に下向したあと、姓文字を薄から須々木に替えた。

 因みに、薄氏本家の中村氏とは、以前紹介した波賀城(兵庫県宍粟市波賀町上野)  の城主・中村氏と考えられ、同氏が赤松氏の有力家臣であったことから、おそらく須々木氏は、後段で紹介する備前の金川城主・松田氏に属する前は、旭川東岸に本拠を持ち、本家・中村氏と同じく赤松氏の被官であったと考えられる。
【写真左】東麓側の道路から見上げる。
 小規模な城郭だが、近くに寄ってみると、斜面の険峻さはかなりのものだ。




宇喜多氏による領地没収と廃城

 船山城の東麓を流れる旭川をおよそ18キロほど遡ると、以前紹介した金川城(岡山県岡山市北区御津金川) がある。須々木氏は、その後、旭川西岸に移り、この金川城の松田氏に従っている。おそらく、赤松氏の凋落によって鞍替えしたのだろう。
 その後、永禄6年(1563)備中の三村家親(鶴首城(岡山県高梁市成羽町下原) 参照)に攻められ、降伏し三村氏に従うことになった。

 しかし、その4年後の永禄10年(1567)、三村氏と宇喜多氏(備前・亀山城(岡山県岡山市東区沼)参照) の戦いとなった明禅寺合戦(明禅寺城(岡山県岡山市中区沢田)参照) で宇喜多氏が大勝したため、須々木氏は宇喜多氏へ従属する願いを出したが、宇喜多氏(直家)はこれを認めず、居城である船山城をはじめとする須々木氏の領地を没収、同氏はここに事実上消滅した(『日本城郭体系 第13巻』)。

 ただ、同氏の嫡流かどうか不明だが、その後須々木行連という武将が宇喜多氏によって知行30石を与えられていたようで、関ヶ原の戦いまで同氏の旗下にあったとされる。そのためか、最終的には帰農し、当地(船山城周辺)にもその子孫と思われる須々木姓の家々が現在でも点在している(写真:墓地周辺参照)。
【写真左】登城開始
 南西麓に階段があったので、ここから登る。









縄張

 当城は写真でも分かるように小規模な丘城である。現在は東麓を流れる旭川の川岸から250mほど入ったところに位置しているが、当時の地勢を考えると、川湊の機能を優先したいわゆる「河城」であった可能性が高い。

 特に、船山城の西麓は現在集落ができているが、船溜まりの場所として使われていた可能性が高く、居館及び屋形の施設なども併設していたものと思われる。
 また、当城から旭川沿いに2㎞ほど降った三野本町の明見山城が支城であったことから、少なくとも、旭川西岸部の中流域は、同氏の支配下に置かれていたのだろう。
【写真左】墓地
 階段を上がっていくと、墓地が現れた。墓地の造成により改変されていると思われるが、このあたりから城域だったものと思われる。


 当城の最高所である船山の頂部は標高50mほどであるが、この南側に本丸に置き、さらに南に一段下がって出丸郭を設け、その周りに帯郭を2~3列に配置している。

 本丸の北側には土塁を介して堀切で画し、その北に二段構えの郭(二の丸)を設け、その先の尾根続きを堀切で切断している。
【写真左】本丸・その1
 墓地からさらに登って行くと、やがて開けた場所に出る。

 これが本丸のようだが、出丸郭とはほとんど区画されてておらず、若干出丸側が傾斜している。
【写真左】本丸・その2
 本丸跡には小祠と石碑などが祀られている。
【写真左】須々木神社
 小規模な社だが、当時はもう少し大きなものだったのだろう。
【写真左】石碑・その1
 昭和59年10月に建立された須々木城の石碑で、「須々木城懐古」と筆耕されている。
【写真左】石碑・その2
 上記の石碑とは別に、明治35年2月に勲四等を受けた吉原三郎某という人物らが撰文した石碑も傍らにある。
 かなり古いものなので、読解は困難だが、「須々木氏」及び「松田氏」「宇喜多氏」などの文字が見える。
【写真左】本丸・その2
 振り返って見る。
【写真左】土塁
 石碑の後背に土塁が築かれている。ただ、石碑など近世に建立されたとき、大分削られたような跡がある。
 このあと、このまま奥に進んでみる。
【写真左】空堀・その1
 上の写真では分からないが、この土塁の後ろには並行して空堀が築かれている。
【写真左】空堀・その2
 現状はかなり埋まっているようだが、南北に伸びる尾根をこの場所で、断ち切っている。
【写真左】空堀・その3
 反対側
【写真左】切岸
 さらに奥に進むと、多少のアップダウンはあるものの、さほど高低差は感じない。
【写真左】削平地
 途中からどのあたりを踏査しているのか分からなくなったが、西側の帯郭から北に向かったあたりで、御覧の削平地が出てきた。
 おそらく帯郭の一角と思われるが、感覚ではこの付近が最高所のような気もする。
【写真左】笠井山を遠望する。
 上記の削平地から北西方向を見ると、展望台などがある笠井山が見える。
【写真左】石垣・その1
 西側の帯郭区域に見えたもので、規模は小さいものの、保存状態は良好。
【写真左】石垣・その2
 別の箇所にある石垣。
【写真左】船山城から旭川を望む。
 木立に遮られて視界はよくないが、当時はここから川を往来する船がよく見えたことだろう。
【写真左】須々木家の墓地
 登城途中に墓地があり、須々木姓の墓が多くみられる。
 家紋が酢漿草となっていることから、宇喜多氏時代につけられたのかもしれない。
 なお、この墓地付近も元は郭跡だったと推測される。
【写真左】船山城西麓の集落
 旭川の川岸から奥行600m、幅300mほどの狭隘な谷間に数十軒の家が建っている。
 このあたりに須々木氏の居館などがあったのだろう。
 奥に御崎宮がみえる(下段の写真参照)。
【写真左】御崎宮
 船山城から集落を隔てた西南の片山側に鎮座する社で、「オンサキグウ」と呼称する。

 当社本宮は、船山から旭川をおよそ3キロ余り降った北区北方の川土手下にあるが、「吉備温故」によると、上道郡竹田地内(現在の岡山市中島)に出雲の日御碕神社から勧請された。
【写真左】日御碕神社
 所在地 島根県出雲市大社町日御碕





 その後、天正年間に宇喜多秀家が岡山城に引き水するため、現在の岡山市北区北方に遷宮された。
 おそらく、船山の御崎宮もこれに合わせて天正年間に勧請されたものだろう。



金山寺

 ところで、船山城から北へ直線距離で3キロほど山の方へ向かうと、古刹金山寺(きんざんじ・かなやまじ)がある。
【写真左】金山寺・その1
 天台宗 銘金山 金山寺
所在地 岡山市北区金山寺481

 当寺は嘉応年間(1169~1170)宋より帰国した栄西によって護摩堂などが建てられ、天台宗に改宗されている。
写真:本堂

参拝日 2011年8月26日


 奈良時代に創建され、法相宗としていたが、後に天台宗に改宗した。戦国時代には、金川城の松田氏が自身の信奉する日蓮宗に改宗するよう迫ったが、これを拒否したため堂宇は松田氏によって焼失した。その後、伯耆国(鳥取県)の大山寺より同寺中興の祖といわれる豪円(1535~1611)が来山し、宇喜多直家の援助を得て、天正3年(1575)に本堂・護摩堂を再建している。
【写真右】大山寺
所在地 鳥取県西伯郡大山町大山9
天台宗別格本山 角盤山 大山寺





 同寺に伝わる「金山文書」によれば、文安2年(1445)に須々木大進という武将が、同寺の別当職的立場であったことが知られ、長享3年(1489)には、同氏の行景・信行らが近在の一族・住民らと連署した起請文を提出し、一揆的な結びつきを確立していたことが知られる。
【写真左】金山寺・その2
 県指定重要文化財となっている三重塔








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