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2017年12月4日月曜日

豊前・龍王城(大分県宇佐市安心院町龍王字古城)

豊前・龍王城(ぶぜん・りゅうおうじょう)

●所在地 大分県宇佐市安心院町龍王字古城
●別名 神楽岳城・臥牛城
●高さ 315m(比高215m)
●築城期 正安年間(1299~1302)
●築城者 安心院公泰
●指定 宇佐市指定史跡
●遺構 郭・石垣等
●備考 仙の岩(国指定名勝耶馬渓)
●登城日 2015年10月11日

◆解説(参考文献 『日本城郭体系 第16巻』新人物往来社刊』等)
 全国に4万社以上あるといわれる八幡社の総本宮といわれるのが、大分県宇佐市にある宇佐神宮である。この宇佐神宮の西方を流れるのが、由布岳などを源流として周防灘にそそぐ駅館川(やっかんがわ)である。同川は二級河川で規模は大きくないものの、中流域では多くの支流を抱え込む。そのうちの一つが支流津房川に合流する深見川である。

 龍王城はその深見川が大きく蛇行する安心院町龍王に所在する山城で、この地域は中世における豊前と豊後両国の境目となる要衝であった。
【写真左】龍王城遠望
 主郭から南西に伸びる尾根部分で、通称「仙の岩」といわれる。

 国指定の名勝耶馬渓の一つで、写真は、右側から100mの大絶壁の平岩、全耶馬渓随一の大岩柱の剣ヶ岳、屏風岩。


現地の説明板より

“町指定史跡
龍王城(神楽岳城・臥牛城)跡

 正安年中(14世紀初頭)に宇佐大宮司安心院公泰により築城された連郭式山城です。
 中世には、豊前国と豊後国の境にあるためこの地域での中核的な城としての機能を果たし、地頭安心院氏を中心とした抱城でした。
 近世になると、細川氏が入部し龍王城を再普請し、準城下町に町並みも含め整備しています。その後、元和元年(1615)の一国一城令で破却され、寛永16年(1639)に城主松平重直が高田城に移り、廃城となりました。
 近世の普請による町並みは、今もその面影を残しています。

   安心院町教育委員会”
【写真左】龍王・海神社
 北側から車で向かう道があり、登城口付近には「海神社」という社が祀られている。この境内が駐車場を兼ねているようで、ここに停める。



安心院氏(あじむし)

 安心院と書いて「あじむ」と呼称する。現在当城が所在する地区は平成の合併により宇佐市に包含されたが、鎌倉期以前に16ヵ村を数えた安心院荘が記録されており、隣接する院内町なども元は荘園であった。そして、その荘園領主が宇佐神宮である。平安時代には九州最大の荘園領主にもなったことから、その経営防備などを担う神職家や坊官家などは武士となったものが多い。
【写真左】宇佐神宮
 所在地:宇佐市大字南宇佐2859
参拝日:2008年12月4日
【写真左】登城開始
 海神社側の階段とは反対の位置に登城口がある。九十九折のコースとなった道で、傾斜は多少あるものの歩きやすい。




 龍王城を築いた安心院公泰は、宇佐大宮司公康といわれている。文字通り宇佐神宮の宮司である。築城期は正安年間(1299~1302)といわれているので、丁度鎌倉幕府がこのころ鎮西評定衆を置いた時期と重なるので、それらと連動した関係もあったのかもしれない。

 伝承では、公泰が当地に入村し、姓を当地名から安心院と名乗り、拠点とする居城を宇佐宮に祈願したところ、安心院の山上と覚ゆるところに経津主神が現われ、神楽を奏した夢を見たのでこの山に城を築いて神楽岳城と名付けたという。
【写真左】登城道
 登るにつれて周囲には大きな岩が目立つようになる。石で造られた階段が所々あるが、大分劣化している。





南北朝期から戦国期
 
 その後城主安心院氏の動向は戦国期に至るまではっきりしないが、南北朝期の建武3年(延元元年・1336)豊前守護代であった宇都宮冬綱(月光山 天徳寺(福岡県築上町本庄361)参照)が、この城を借用しその子親綱に守城させ、龍王城と改称したという。このことから、おそらくこのころは城井氏の支配が豊後国境となるこの辺りまで拡大していたのだろう。

 ところで、龍王城と密接な関係を持っていたのが、当城から北へ凡そ8キロほど下った院内町香下の妙見嶽城である。築城期は天慶3年(940)藤原純友が築城したというから、大宰府政庁跡(福岡県太宰府市観世音寺4-6-1)の攻撃と絡んだものだろう。
【写真左】妙見嶽城遠望
 龍王城の本丸からは見えないが、登城口の海神社境内から北北西方向を俯瞰すると確認できる。
 標高444m、別名極楽寺城ともいう。当城の登城も試みたが、比高差(約400m)と険峻な山容に圧倒されて断念した。

 なお、当城についてはHP『城郭放浪記』さんが既にアップしておられるのでご覧いただきたい。なかなか見ごたえのある城郭のようだ。



  さて、戦国期の天文年間(1532~ )に至ると、山口の大内氏が豊前統治のため、豊前・松山城(福岡県京都郡苅田町松山)に守護代を置き、妙見嶽城にはその代将を置いた。当城(妙見嶽城)には大内氏の重臣杉氏が代々務めている。そして、龍王城には城井三郎兵衛尉を置いた。
【写真左】北東方向を俯瞰する。
 奥に見える山並み(鹿子岳など)を超えると、駅館川の支流津房川や佐田川などが流れ、その北岸には下段で紹介している佐田氏の居城・佐田城や、飯田(はんだ)氏の居城・飯田城などが所在する。


 しかし、この体制も弘治2年(1556)になると大きく変わることになる。この年大友義鎮(宗麟)は1万2千の大軍を率いて龍王城に攻め入った。

 この戦いで城将城井統房をはじめ宇佐郡の地頭たちは皆降伏し、大友氏の傘下となった。このころ安心院氏の立場ははっきりしないが、おそらく城井氏の麾下となっていたのだろう、安心院公正は宗麟に謁し、麟の一字を許され麟生と改称した。麟生はその後永禄年間(1558~70)には大友氏の配下として門司城で毛利氏と刃を交え軍功を立てた。
【写真左】尾根鞍部にたどり着く。
 登城途中倒木や竹に覆われた箇所もみえたが、道そのものは何とか歩ける。
 ここで左右に分かれるが、本丸は右側。


 臼杵城(大分県臼杵市大字臼杵)の稿でも述べたが、天正6年(1578)11月、大友氏が耳川の戦いで大敗し同氏の衰頽が始まった。すると最初に反大友の烽火を挙げたのが、豊前・長岩城の野仲重兼である。

 重兼は翌7年、坂手隅・末広の諸城を落とし、大畑城に迫ったが、田原紹忍の下知に従って参戦した安心院・香志田・深見・臼杵諸氏の軍によって野仲軍は退却した。しかし、その後の大友氏の頽勢を押し止めることは出来ず、天正10年ついに安心院麟生も反大友に回った。
【写真左】郭段
 遺構として標示されたものはほとんどないが、この付近は尾根筋に何段かの郭が構成されていたような痕跡がある。




 このため、妙見嶽城の田原氏は宇佐郡衆の兵を募って龍王城を囲んだ。安心院麟生は一族郎党と共にこの要害堅固な龍王城に拠って必死に防戦に努めた。
 龍王城は結局落城せず、最終的には田原氏配下の佐田弾正忠が和睦の交渉に入り、降伏すれば本領安堵という条件をもって翌11年の正月開城した。

 開城後、麟生一族の動向については諸説紛々ではっきりしないが、一説には麟生は佐田の追討軍に狙撃されたとか、佐田鎮綱に後事を託して切腹し、麟生の子・千代松丸は許されて居館に帰ったなどといわれている。
【写真左】本丸と反対側方向
 おそらくこの下の段にも中小の郭などがあったものと思われるが、藪化しているため踏査していない。
 このあと、振り返って本丸方向に進む。
【写真左】本丸に向かう。
 石積による階段が設置されているが、これは後世のものだろう。
 前方に明かりが見える。
【写真左】腰郭
 経年劣化で郭の平坦さは失われているが、登城階段の左右には腰郭らしき遺構が散見される。
 点在している石も当時は郭段を構成していた石垣の跡かもしれない。
【写真左】本丸・その1
 頂部(本丸)にたどり着くと、NHKなどの無線中継の設備が設置されている。
 また手前の石碑には「龍王城児童遊園」と刻銘されている。
 どうやら以前は公園となっていたようだ。
【写真左】藤掛城遠望・その1
 よく見ると雑草の間に区画用の石が並んでいるが、これも遊園(公園)地のときのものだろう。
 一角には欠損しているものの、「神楽城址」と筆耕された石碑が建立されている。
【写真左】藤掛城遠望・その3
 無線中継所などが設置されているため、当時の状況は分からないが、規模はおよそ長径40m×短径30mで、楕円の形状をしている。
【写真左】石垣か
 下山途中に見えたもので、北側の一画に残る。
【写真左】仙の岩
 東麓を走る県道50号線(安心院湯布院線)に向かうと、冒頭で紹介した「仙の岩」がある。
 往古山岳仏教の修行場であったといい、大厳寺岩窟などがある。

 この写真でいえば、尾根を右伝いにいくと龍王城に繋がる。




◎関連投稿
利光宗魚の墓(大分県大分市大字上戸次字利光)

2017年11月29日水曜日

豊前・平田城(大分県中津市耶馬渓町大字平田字町丈)

豊前・平田城(ぶぜん・ひらたじょう)

●所在地 大分県中津市耶馬渓町大字平田字町丈
●別名 白米城
●指定 中津市指定史跡
●高さ 118m(比高30m)
●形態 平山城
●築城期 建久年間
●築城者 野仲重房
●城主 野仲氏・栗山備後守利安
●遺構 郭・石垣等
●登城日 2015年10月11日

◆解説(参考資料 パンフ「平田城跡(白米城)」平田城址保存会発行等)
 前稿豊前・長岩城(大分県中津市耶馬渓町大字河原口)から津民川を下り、本流山国川に合流しさらに3.5キロほど下ると、町丈という地区に入る。この付近は耶馬渓という独特の狭い谷間の多い流域のなかでも比較的開けた場所である。平田城はその丘陵地に築かれた平山城である。
【写真左】平田城遠望
 東麓を走る国道212号線側から見たもので、城域の南端部に当たる南台(下図参照)を撮ったもの。





白米城(まつたけじょう)

 平田城は別名・白米城と記され、これを「まつたけじょう」と読む。いわゆる「当て字」だが、その由来ははっきりしないものの、所在する地区名が「町丈」であること、また田圃が広く米の生産に恵まれていたことからきたものだろうといわれている。現在の「平田城」とされたのは近年らしい。
【写真左】平田城要図
 上方が北を示す。城域は大きく分けて3区分になる。

 赤字のラインで囲んだ区域が南台といわれ、戦国時代の遺構が多く残っていた箇所で、青字のものが北台といわれ、城主・重臣等の屋敷地として使用された。

 また左側は特に名称はないが、西側を防御する区域となっている。
 

現地の説明板より

“平田城跡(中津市指定史跡)

 平田城は別名白米城(まつたけじょう)ともいい、建久年間に長岩城主野仲重房が築城したと伝えられています。天正年間には平田掃部介が城番として居城していました。

 天正15年(1587)、黒田官兵衛が豊前国6郡を拝領し入国すると、野仲鎮兼はこれに反攻し家臣とともに長岩城に籠りました。黒田勢は長岩城を攻め落とし、官兵衛は戦功のあった栗山備後守利安に野仲氏の旧領6千石を与えました。
 栗山備後は平田城主となり、城を改修、現在もこの時築かれた石垣の一部が残っています。「黒田騒動」で名高い栗山大膳(栗山備後の長子)は、この城で少年期を過ごしています。
      中津市教育委員会”
【写真左】登城口付近
 東側に城跡公園入口と表示された場所があり、その道(公園用舗装道路)を進んで行くと、柵が設置されているので、これを開けてはいる。

 この写真では、左側が南台側で、右側が北台区域になる。


栗山備後守利安・大膳利章
 
 平田城の築城者は、豊前・長岩城と同じく野仲鎮房といわれ、その後同氏一族が山国川流域の押さえとして担った。

 豊前・長岩城の稿でも述べたが、天正16年(1588)における黒田長政らによる攻略において、平田城も同じく攻められたが、この時の戦いでは野仲氏一族は殆どが長岩城に終結していたこともあり、大きな戦とはならなかったといわれる。
【写真左】忠霊塔参拝道
 入口を過ぎると、そのまま真っ直ぐ進む道と、左側に向かう道に分かれており、最初に左側に向かう。
 現地では忠霊塔参拝道と名付けられているが、主郭の東側の段で、腰郭の遺構部。
 左下に町丈の集落や田圃が控える。



 長岩城での戦い後、武功を挙げた一人に栗山備後守利安がいる。彼は長政から当城(平田城)を与えられ居城とした。
 栗山利安は2014年に放映された大河ドラマ『軍師官兵衛』で濱田岳さんが演じているので、御記憶の方もおられると思うが、黒田氏の筆頭家老で官兵衛の股肱の家臣である。

 利安の子が利章で、利章は天正19年(1591)、この平田城で生まれている。そして慶長5年(1600)10歳のとき、黒田氏の国替により父・利安とともに福岡城に移った。後に「黒田騒動(別名『栗山大膳事件』)」といわれた福岡藩2代当主・黒田忠之との対立により、大膳利章は幕府裁決によって陸奥国の盛岡藩に預りの身となり、同国で没した。
【写真左】忠霊塔参拝道の階段部
 元々郭段を構成していたものだろうが、昭和18年に忠霊塔を建設した際、この付近はこのように改変されている。
【写真左】忠霊塔
 奥に忠霊塔が祀られている。改変されているため、当時の姿ははっきりしないが、外周部から考えて、長径40m×短径15~20m程度規模の中に、2段もしくは3段で郭が構成されていたものとされる。
【写真左】黒田氏時代の石垣・その1
 当時の遺構としてもっとも残存度が高いのが石垣である。

 写真は主郭を主とする南台の北側に残るものだが、これ以外にも北台に数か所点在している。形態は野面積みがほとんどだ。
【写真左】黒田氏時代の石垣・その2
 横から見たもの。
【写真左】東端部から「立留(たちどま)りの景」を見る。
 忠霊塔のある段の東端部には休憩小屋が建っているが、そこから東を見ると、山国川対岸にご覧の大岩が見える。

 「今から200年前に一夜轟然と大音響を発して、巌腹崩落して今日の景をなしたというこの景は、道行く人々が、自然と立ち留まって眺めるので、この名がついたという」

 と書かれている。
 このことから黒田氏時代にはこのような景観ではなかったということになる。
【写真左】郭段
 主郭(忠霊塔)の裏側(西側)を過ぎると、次第に下り坂となるが、その途中の南側には3段の郭が連続する。

 現在はご覧の様な果樹園となっている。

 このあと、このまま西側の道を下り、北台側に向かう。
【写真左】北台
 公園用舗装道路を挟んで北側の丘陵地に当たるところで、東西に伸びる尾根筋には6段の郭を構成し、北、南、及び東側の中段にも細長い帯郭状の小郭が囲繞するように点在している。

 現在はご覧の様な植林地やシイタケ栽培用のほだ木の育成地や墓地などとなっている。

 写真は舗装道路がカーブして下り始めた地点から見たもので、おそらく西側から2番目の郭があった場所と思われる。
【写真左】石垣
 整備された道はないが、急坂でもないため、適当に登っていくと、さっそく石垣が見えた。
【写真左】石垣で構成された土塁
 記憶がはっきりしないが、西端部の郭にあったもので、土塁高さも3m近くあるだろう。
【写真左】横から見たもの。
 大分崩れかけているが、植林された木の根によって保たれているようだ。
【写真左】西から3番目の郭
 この郭の北端部には井戸跡があるらしいが、現状は地面に落ちた枝などが多いため、確認できなかった。

 城主及び重臣たちの屋敷地といわれた箇所で、織豊期の城館遺構を色濃く残している。
【写真左】次の段
 尾根筋に残る郭段の中でもっとも長いのが西から4番目のものだが、東に進むにつれ整備されていないのでこの辺りで断念した。

 なお、この北台(群)の中で一番東の隅には、虎口跡と思われる箇所があり、当時は大手口のラインではなかったかとされるが、現状は藪コギ状態なので踏査していない。

 この他、冒頭の要図でも描かれている西側の区域についても平田城の城域と考えられ、中小の郭(12~13個所)で構成されているが、未調査の部分が大分残されている。
【写真左】平田城遠望
 南東麓側から遠望したもので、麓を横断している農道のような狭い道は、旧日田往還・中津街道である。

 左側の少し高くなった箇所が主郭のあった南台で、その右側に北台がある。

2017年11月26日日曜日

豊前・長岩城(大分県中津市耶馬渓町大字河原口)

豊前・長岩城(ぶぜん・ながいわじょう)

●所在地 大分県中津市耶馬渓町大字川原口
●指定 大分県指定史跡(平成23年3月29日)
●別名 永岩城
●高さ 530.8m(比高200m)
●築城期 建久9年(1198)
●築城者 野仲重房
●城主 野仲氏
●指定 中津市指定史跡
●遺構 石塁・砲座・虎口・竪堀・塹壕等
●登城日 2015年10月11日

◆解説(参考文献 『黒田官兵衛をめぐる65の城』中井均・萩原さちこ・吉田龍司共著タツミムック、諏訪勝則著『黒田官兵衛』中央公論新社等)
【写真左】長岩城の石塁
 当城遺構の特徴の一つで、「原型が完全に遺る石塁」と書かれた標識が設置されている。





 中津城(大分県中津市二ノ丁)の西麓を流れる山国川を遡っていくと、日本三大奇勝の一つ耶馬渓がある。一口に耶馬渓といっても大変に範囲が広く、本耶馬渓・深耶馬渓・裏耶馬渓・奥耶馬渓・椎屋耶馬渓・津民耶馬渓などが点在している。

 このうち津民耶馬渓は、山国川支流の津民川水系にあり、その西側に隣接する峰に豊前・長岩城(以下「長岩城」とする。)が所在する。
【写真左】長岩城跡の図
 現地に設置されているもので、この写真では文字が小さくて読めないかもしれないが、中央の細い渓流(なべもと谷)を挟んで、右に本丸・東之台・西之台があり、左側には今回踏査していないが、陣屋跡・馬場・砲座跡・石積櫓などが配置されている。
 なお、同図は下方向が北を示す。


現地の説明板より

“○耶馬渓町・長岩城址保存会○

 豊前の国の守護職宇都宮信房は弟重房に下毛郡野仲郷を分与した。
重房は姓を野仲と改め建久9年(1198)に長岩城を創築した。以後野仲氏22代、390年間の居城となった。

 この城は高い山や深い谷窪、岩壁等の天険の要害をとり入れ、石塁、砲座、塹壕等にて防備を補強した山城である。20余ヶ所に点在する石塁の長さh、延700m余の長さに達する。戦国時代の山城としては、九州における最大規模のものであり、尚銃眼のある石積櫓は全国に類例を見ない貴重な文化遺跡である。
【写真左】長岩城遠望
 北麓にある入口付近から見たもので、右側の山に本丸があり、谷を隔てた左側の山に陣屋跡などがある。
 




 野仲氏は次第に勢力を拡大し、下毛郡の政治軍事を掌握し、凡そ400年間、下毛郡の統治者として栄えた。全盛時代の所領支配は、宇佐郡、下毛郡の一部まで拡大した。
 その間、元寇の役や、玖珠城の戦い、大友義鎮(宗麟)の来攻等で下毛郡の勇者としての強豪振りを発揮した。

 然し天正16年(1588)には、後藤又兵衛を先陣とする黒田長政の精兵3500騎の大軍に攻められ、迎え撃つ長岩軍は城主野仲兵庫守鎮兼以下一族郎党700余、与力雑兵800余、合せ総勢1500余、難攻不落を誇った堅城に楯籠り勇戦したが、多勢に無勢、遂に落城し、野仲一族は自決滅亡した。以後廃城となる。”
【写真左】専用駐車場
 麓にはご覧のように数台駐車できる場所や便所などが設置されている。近年竣工したようだ。
 保存会の皆さんの熱意が伝わってくる。感謝申し上げたい。

 奥にある「おねがい」板には、
 「急いでも半日はかかります。ましてごゆっくりと御覧になりますと一日は充分にかかると思います。…また非常に危険な場所もかなり御座いますので、危ないと思われたら絶対に行かないで下さい。…」
 と書かれている。
 

野仲氏
 
 長岩城の城主・野仲氏については、すでに城井ノ上城(福岡県築上郡築上町大字寒田)の稿でも述べたとおり、宇都宮氏の庶流である。そして、野仲氏からは内尾・友枝・三尾母(みおも)・野依(のより)・犬丸等の分流が輩出した。

 ただ史料上に初めて登場するのは鎌倉時代後半期からで、『野仲文書』によると、南北朝時代に武家方(尊氏)に属して、玖珠城の大友貞順らを攻めたことなどが知られる。この頃は主家であった宇都宮城井氏の頼房時代が勢威を高めたときで、宇都宮庶家として頼房の傘下にあったのが、野仲氏をはじめ山田氏、西郷氏、友枝氏、佐田氏などである。
【写真左】記帳所
 登城口手前には津民川が流れ、橋が架けられている。その手前に記帳所がある。

 遭難することはないと思うが、先ず記帳しておく。



長岩城の落城

 説明板にもあるように長岩城での戦いで最も知られるのは戦国末期である。すなわち、落城することになった天正16年(1588)における黒田長政軍との攻防である。この戦いは、前述した城井ノ上城の戦いと連動するもので、その前年(天正15年)黒田官兵衛や小早川隆景らが、肥後一揆鎮圧に向かったあとである。

 官兵衛らは新しい領地となった豊前国の安定した掌握が、おそらく未だ完遂していないことを多少は自覚はしていたのだろう。しかし、天正15年(1587)9月7日付の秀吉からの書状には、小早川隆景と協力して肥後国一揆の鎮圧を成し遂げるよう命が出されている。当然官兵衛らはこの命に従わざるを得ない。

 官兵衛らが具体的に豊前国を出立し、肥後に向かった時期ははっきりしないが、この年(天正15年)の9月後半から10月上旬と思われる。
【写真左】登城開始
 津民川の橋を渡り、鳥獣防護の柵がある入口から進むと、ご覧のような幟などが出迎えてくれる。
 麓から急峻な地形になっているため、息が上がらない様ゆっくりと足を進める。

 
 城井ノ上城・長岩城など宇都宮一族が一斉蜂起したとの報を官兵衛らが受けたのは、行軍途中の久留米城(福岡県久留米市)に陣を構えていたときである。この急報によって、もはや肥後国鎮圧どころではなくなった。
 
 豊前国の蜂起は宇都宮(城井)一族を中心とするものだが、具体的には当城(長岩城)の野仲氏、犬丸城(中津市犬丸)の城主犬丸清俊、大畑城(同市加来)の城主賀来統直(むねなお)、田丸城(同市福島)の城主福島鎮充(しげみつ)ら地元国人領主たちである。
【写真左】一之城戸
 城戸は虎口の一種だが、長岩城にはこの一之城戸をはじめ、二之城戸、三之城戸と3か所が設けられている。
 概ね扁平な石を積んで塀を設け、敵の侵入を防いでいる。


 戦いの経緯については詳細なものはないが、最初に城井ノ上城が陥れられ、その後本稿の長岩城が落城、次いで犬丸城が攻略されたといわれる。

 なお、官兵衛方には途中から毛利軍(隆景)らの援軍が加わり、残りの大畑城や田丸城を一掃したという。官兵衛の息子長政は緒戦の城井ノ上城による戦いで失態を演じたが、その後の戦いで軍功を挙げ、秀吉から激賞され「御秘蔵之御馬」を送られた(『黒田家文書』)。
【写真左】二之城戸と石塁
 当城の特徴の一つである石塁が見えた。急斜面に崩れることなく丁寧に積み上げられている。
【写真左】三ケ月塹壕
 二之城戸の近くには三ケ月塹壕という遺構が残っている。写真では分かりずらいが、Uの字を逆さまにした竪堀のような構造となっている。
【写真左】なべもと谷の渓流
 登城道は本丸の左側を流れる急斜面の谷に沿って向かうコースになる。途中で2回ほどこの渓流を渡るようになっている。御覧のような場所なので、雨天時やその直後の登城は無理だろう。

 なお、この写真の位置だったと思うが、左側の真上には古城ヶ鼻・馬場跡などが残っている。
【写真左】三之城戸
 最終の城戸で、これを過ぎると谷筋からはなれて本丸側の斜面にコースを変える。

 なお、三之城戸や二之城戸はなべもと谷を挟んで両側に石塁が構築され、挟むように配置されているが、最初に通過した一之城戸はなべもと谷の右側にのみ設置され、虎口は直角に曲がる。
【写真左】本丸直下付近の案内図
 三之城戸を過ぎ、本丸に向かうには、左図のように東之台側から向かうコースと、西之台側から向かう二つのコースがある。
 今回は反時計回り(東之台から)を選ぶ。
【写真左】東之台に向かう道
 西之台に向かう分岐点を過ぎ、小さな谷を越えてしばらくトラバースする。周りには伐採や倒木などが散見され、道は踏み跡で自然にできたような状況だ。
【写真左】古城ヶ鼻側
 周囲は植林された木々に覆われているが、途中で木立の間から反対側の奇岩の山が見える。おそらく古城ヶ鼻があるところだろう。

 このさらに奥に津民耶馬渓があるが、長岩城そのものも地肌は凝灰岩で構成された山塊である。
【写真左】東之台
 本丸の下に所在する郭で、自然地形を利用しながらさらに人工的に盛土されたものだろう。
 なお、ここから左側の方に長い石塁が上に向かって伸びている。
【写真左】石塁・その1
 上方の本丸に向かって伸びる石塁。
 長岩城にはかなりの数の石塁が残るが、その中でも最長のもの。
【写真左】石塁・その2
 場所によって大きさに多少のばらつきはあるが、高さは2m前後、幅は1m弱の規模。
【写真左】石塁と竪堀
 傾斜が緩やかになった本丸近くの虎口付近から下方を撮ったもので、左側には竪堀が並列している。
 このあといよいよ本丸に向かう。
【写真左】本丸平面図
 下段の虎口付近から下に先ほどの石塁が繋がっている。
【写真左】虎口(城門)
 下から伸びた石塁が終点となったところには虎口が待っている。


【写真左】腰郭
 本丸直下の段で、概ね2か所で構成されているが、郭間は連絡されている。
【写真左】本丸
 ほぼ円形に近いもので、奥には礎石がのこることから簡単な建物があったと思われる。
 一角には「長岩城址修復記念之碑」と筆耕された石碑が建立されている。
 多少の凹凸はあるが削平されている。
【写真左】もう一つの腰郭
 登り口側とは別の腰郭で、北側に設置されている。
 なおこの一角にも虎口があり、石垣で構成された犬走りから向かうようになっている。
 このあと下山を兼ねて西之台に向かう。
【写真左】堀切
 西之台方面のルートもかなりの急坂となる下り坂で、度々足をすくわれ尻もちをついた。
 この堀切もそうした個所なので効果は大分あったのだろう。
【写真左】竪堀
 西之台に向かう途中ではこうした石塁に囲まれた竪堀を通ることになる。
【写真左】西之台
 西之台は東之台と大分雰囲気が違うもので、より実践的な遺構が残る。

 狭義的解釈をすれば、東之台側が大手道で、西之台側が搦手道のような位置づけだろうか。
 下からここに向かうまであまり防御的なものがないため、下段に示すようにこの付近には遺構が集約されている。
【写真左】堀切
 上から見たもので、二段(二条)の堀切だろう。
【写真左】物見台
 尾根筋の一画先端部に石塁を構築して下からの侵入を監視するようになっている。
【写真左】もう一つの堀切
 先ほどのものとは別の箇所に設けられているもので、この箇所には相当意を用いている様子がうかがえる。
【写真左】下山
 津民川にかかる「長岩城橋」を渡る。

 なお、このあともう一つの見どころである陣屋跡や砲座跡が残る隣の山にも向いたいところだったが、時間的にも体力的にも限界だったので、残念ながら下山することにした。


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