冷泉氏館(れいぜんしやかた)
●所在地 山口県岩国市周東町祖生
●形態 館跡
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 冷泉判官隆豊
●高さ 標高100m(比高10m)
●登城日 2013年5月1日
◆解説(参考文献『サイト・城郭放浪記』『日本城郭体系第14巻』等)
冷泉氏館跡は、以前紹介した周防の鞍掛山城(山口県岩国市玖珂町字谷津)のある玖珂から南東に伸びる国道437号線を南下し、祖生(そお)の東小学校北に見える丘状にある。
【写真左】冷泉氏館跡遠望・その1
南側から見たもので、竹藪が見えるところ。
冷泉氏
当館の主といわれる冷泉隆豊は、以前とりあげた大内義隆墓地・大寧寺(山口県長門市深川湯本)でも紹介したように、天文20年(1551)大内義隆が重臣陶晴賢の謀反によって当地に追われ、義隆が自害する際介錯を行った人物である。
【写真左】冷泉氏館跡遠望・その2
緩やかな棚田状の一角に残っており、現在残っている規模は、東西150m×南北200m前後ぐらいだろうか。
周辺部が土地改良によって改変されているため、当時の周辺の状況は不明だが、要害性はこの位置からはあまり感じられない。
ただ、下段に示すように東側にはみるべきものがある。
なお、この年から23年後の天正2年(1574)、毛利氏は備中三村氏討伐を行い、最期に残った常山城(岡山県玉野市字藤木・岡山市灘崎町迫川)の城主上野隆徳を滅ぼしたが、その際当城の一時的な城番として、冷泉元満らを置いている。
【写真左】南側の入口付近
現在周囲は畑や田圃が取り囲んでいるが、入口に当たる南側には簡易舗装された道が設置されている。
この元満は大寧寺で義隆を介錯・殉死した隆豊の嫡男である。
父隆豊が亡くなったとき幼少であったことから庇護を受け、平賀弘保(頭崎城(広島県東広島市高屋町貞重)参照)に仕えたのち、毛利氏の重臣として活躍していく。
天正20年(1592)の秀吉による文禄の役で朝鮮に出兵、一時帰国したとき、出雲国の亀嵩城(旧三沢氏居城:下段2つの写真参照)の城主になっているが、その後再び朝鮮に出兵(慶長の役)、蔚山城の戦いで討死している。
【写真右】亀嵩城遠望
三沢氏後期の居城で、島根県奥出雲町亀嵩にある。
付近は松本清張の小説「砂の器」の舞台となった所で、記念碑などがある。
【写真右】冷泉民部の墓
亀嵩城の麓・覚融寺から少し下がった所に、清龍寺廃寺があり、その入り口に案内石碑がある。ただ、廃寺跡には民部と思われる墓は見いだせなかった。(2013年11月25日)
【写真左】冷泉氏館跡・南側の箇所
以前は畑地となっていたようだが、野地になっている。この左側の高くなったところに居館跡があるが、この位置からの比高差は約6,7m前後あり、そのまま東に回り込んでさらにその比高差を持たせている。
館附近に残る名所
馬屋の跡、蔵の跡、風呂屋の跡、築山の跡、鞠の庭といわれている箇所があるというが、具体的にはどの場所なのか分からない。
また、この近くの末元城の山に、冷泉氏の一の家老木村勘七が居住したというところ、及び同じく末元の小字北が迫に、二の家老尾高高庄兵衛が居住した場所があるという。
【写真左】鳥居
この先には冷泉社という社が祀られているが、その手前にこの木製の鳥居がある。
この位置は東側に当たり、そのまま北の方へ進む。
【写真左】東側の箇所
冷泉氏の居館が単純な館ではなく、要害性を併せ持ったものであることを感じさせるのはこの東側の法面(切崖)とその比高差である。
右の田圃からの比高差は10m以上はある。
【写真左】冷泉社
冷泉氏を祀ったものと思われるが、鉄筋コンクリート製の社が建つ。
【写真左】五輪塔群
社のすぐ近くには中小の五輪塔20前後が残る。冷泉氏一族のものだろう。
【写真左】中央部
社からさらに中央部に進むと、かなり奥行きのある削平地が見える。おそらく、当時は数棟かの建物があったものと思われる。
【写真左】北側から遠望する。
手前は田圃で土地改良されているため館周囲の状況は解らないが、この付近にも何らかの付属施設があったのかもしれない。
●所在地 山口県岩国市周東町祖生
●形態 館跡
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 冷泉判官隆豊
●高さ 標高100m(比高10m)
●登城日 2013年5月1日
◆解説(参考文献『サイト・城郭放浪記』『日本城郭体系第14巻』等)
冷泉氏館跡は、以前紹介した周防の鞍掛山城(山口県岩国市玖珂町字谷津)のある玖珂から南東に伸びる国道437号線を南下し、祖生(そお)の東小学校北に見える丘状にある。
【写真左】冷泉氏館跡遠望・その1
南側から見たもので、竹藪が見えるところ。
冷泉氏
当館の主といわれる冷泉隆豊は、以前とりあげた大内義隆墓地・大寧寺(山口県長門市深川湯本)でも紹介したように、天文20年(1551)大内義隆が重臣陶晴賢の謀反によって当地に追われ、義隆が自害する際介錯を行った人物である。
【写真左】冷泉氏館跡遠望・その2
緩やかな棚田状の一角に残っており、現在残っている規模は、東西150m×南北200m前後ぐらいだろうか。
周辺部が土地改良によって改変されているため、当時の周辺の状況は不明だが、要害性はこの位置からはあまり感じられない。
ただ、下段に示すように東側にはみるべきものがある。
なお、この年から23年後の天正2年(1574)、毛利氏は備中三村氏討伐を行い、最期に残った常山城(岡山県玉野市字藤木・岡山市灘崎町迫川)の城主上野隆徳を滅ぼしたが、その際当城の一時的な城番として、冷泉元満らを置いている。
【写真左】南側の入口付近
現在周囲は畑や田圃が取り囲んでいるが、入口に当たる南側には簡易舗装された道が設置されている。
この元満は大寧寺で義隆を介錯・殉死した隆豊の嫡男である。
父隆豊が亡くなったとき幼少であったことから庇護を受け、平賀弘保(頭崎城(広島県東広島市高屋町貞重)参照)に仕えたのち、毛利氏の重臣として活躍していく。
天正20年(1592)の秀吉による文禄の役で朝鮮に出兵、一時帰国したとき、出雲国の亀嵩城(旧三沢氏居城:下段2つの写真参照)の城主になっているが、その後再び朝鮮に出兵(慶長の役)、蔚山城の戦いで討死している。
【写真右】亀嵩城遠望
三沢氏後期の居城で、島根県奥出雲町亀嵩にある。
付近は松本清張の小説「砂の器」の舞台となった所で、記念碑などがある。
亀嵩城の麓・覚融寺から少し下がった所に、清龍寺廃寺があり、その入り口に案内石碑がある。ただ、廃寺跡には民部と思われる墓は見いだせなかった。(2013年11月25日)
【写真左】冷泉氏館跡・南側の箇所
以前は畑地となっていたようだが、野地になっている。この左側の高くなったところに居館跡があるが、この位置からの比高差は約6,7m前後あり、そのまま東に回り込んでさらにその比高差を持たせている。
館附近に残る名所
馬屋の跡、蔵の跡、風呂屋の跡、築山の跡、鞠の庭といわれている箇所があるというが、具体的にはどの場所なのか分からない。
また、この近くの末元城の山に、冷泉氏の一の家老木村勘七が居住したというところ、及び同じく末元の小字北が迫に、二の家老尾高高庄兵衛が居住した場所があるという。
【写真左】鳥居
この先には冷泉社という社が祀られているが、その手前にこの木製の鳥居がある。
この位置は東側に当たり、そのまま北の方へ進む。
【写真左】東側の箇所
冷泉氏の居館が単純な館ではなく、要害性を併せ持ったものであることを感じさせるのはこの東側の法面(切崖)とその比高差である。
右の田圃からの比高差は10m以上はある。
【写真左】冷泉社
冷泉氏を祀ったものと思われるが、鉄筋コンクリート製の社が建つ。
【写真左】五輪塔群
社のすぐ近くには中小の五輪塔20前後が残る。冷泉氏一族のものだろう。
【写真左】中央部
社からさらに中央部に進むと、かなり奥行きのある削平地が見える。おそらく、当時は数棟かの建物があったものと思われる。
【写真左】北側から遠望する。
手前は田圃で土地改良されているため館周囲の状況は解らないが、この付近にも何らかの付属施設があったのかもしれない。