2014年6月26日木曜日

佐用城(兵庫県佐用郡佐用町佐用字福原)

佐用城(さようじょう)

●所在地 兵庫県佐用郡佐用町佐用字福原
●別名 福原城・佐用構
●築城期 建武年間(1334~38)
●築城者 佐用範家
●城主 佐用範家、福原則尚
●形態 平山城
●遺構 郭・石垣・土塁・空堀
●登城日 2014年5月4日

◆解説
 佐用城は以前取り上げた西播磨の上月城から、佐用川沿いに約3キロ余りさかのぼった佐用町佐用に築かれた平山城である。
【写真左】佐用城
 城跡に福原霊社(頭様(こうべさま))が祀られている。










現地の説明板より

“佐用城(福原城)(さようじょう・ふくはらじょう)

 中世に築かれた代表的な「平山城」で、南面に川、後背に山の「城堅固」の立地で、空堀、防塁、馬落としなどよくその原型をとどめている。

 元弘3年(1331)4月28日、淀の久我畷(くがなわて)の戦いにおいて鎌倉方の総大将名越尾張守高家(なごえおわりのかみたかいえ)をただ一箭に討ち取った佐用兵庫介範家の築城と伝えられ、その後、赤松三十六家衆のうちの福原氏がこの城を継いだので、福原城ともいわれている。
【写真左】佐用城遠望
 東麓を走る国道179号線の脇に案内板が設置されているが、その脇道から少し入ると「仮設の駐車場」があり、車をそこに停めて、歩いて向かうとすぐに北側に棚田が見え、その奥に福原氏を祀る福原霊社が見える。



 戦国時代末期、東西の勢力拮抗の狭間で、西の上月城、南の高倉城、東の利神城(りかんじょう)とともに赤松一統の城郭群を形成していたが、天正5年(1577)11月、上方勢の羽柴秀吉との攻防により落城しその役割を終えた。
【写真左】登城道
 写真右側に福原霊社があり、城域はこの右側となっているようだが、中央の道も当時は空堀の役目を持ったものだったかもしれない。



 後世、土地の人々によって、時の城主福原藤馬允則尚(ふくはらとうまのじょうのりなお)の首級を祀るため、城跡に一社が造営され、「福原霊社(俗に頭様(こうべさま))」として今に広く崇敬されている。”
【写真左】福原霊社
 当社の奥から北に土塁が伸びているので、当時はこの付近も土塁の一部だったかもしれない。








羽柴秀吉の佐用攻略

 以前取り上げた上月城(兵庫県佐用郡佐用町上月)・その1でも述べているが、天正5年(1577)における秀吉の播磨攻めにおいて、上月城攻略前に落ちたのがこの佐用城である。

 写真でも分かるように、当城は一般的な山城でなく、平山城の形態を持つ城館である。このため、攻めるに易く、守備するには難のある城砦といえるだろう。
 しいていえば、東麓を流れる佐用川が一時的には濠の役目をしたであろうが、南北両方向からの攻めに対し、北側の切崖はあるものの、要害性は低い。
このため、城砦の機能より館としての役割が大きかったものと思われる。
【写真左】福原霊社の西側
 空堀跡のような道を挟んで西側の方には墓地が見える。
【写真左】墓地側
 この墓地は西から伸びてきた尾根の先端部に当たるが、当時はこの辺りにも遺構などがあったのかもしれない。
【写真左】北側に伸びる土塁
 霊社からさらに北に伸びる土塁で、幅3m前後、高さ2m前後(右側郭段からの高さ)。

 この土塁はそのまま伸びて、東に回り込んでいく(下の写真参照)
【写真左】東西に伸びる土塁
 最近伐採されたようで、土塁の形状がよく分かる。

 長さは30m前後か。このまま東に伸びて南に折れている。
【写真左】福原霊社から東の郭段を見る。
 ご覧のように現在は田畑となっているが、おそらく数段の高低差を持たせた郭段となっていたものと思われる。

【写真左】北側の切崖
 東西に延びる土塁の北側には急峻な切崖が残る。

 比高差は最高値で7m前後ある。このことから、北からの攻めは大分意識されていたようだ。
【写真左】東端部から佐用川を見る。
 現在佐用城と佐用川の間には国道179号線が走っているが、当時は佐用川が当城の際を流れていたのかもしれない。
【写真左】東端部を見る。
 南側から見たもので、奥に土塁が見えるが、当時はこの東側にも土塁が構築されていたものと思われる。

 また、土塁で囲まれた中央部は、現在畑地となっている。

 なお、青い幟には「軍師 官兵衛 ゆかりの地 佐用町」と書かれいる。
【写真左】南東部の切崖か
 南側の一段下がった郭付近だが、ご覧のように右・上段部は田圃となっており、元は郭段だったと考えられる。

 この箇所も当時の切崖だった痕跡を残している。
【写真左】南側から奥の土塁などを見る。
 手前の畑地となっているところに郭があったものとみられ、南北で2段の構成となっている。
 奥行は70m前後か。

2014年6月24日火曜日

志方城(兵庫県加古川市志方町志方町720)

志方城(しかたじょう)

●所在地 兵庫県加古川市志方町志方町720
●別名 市易城・観音寺城
●備考 観音寺
●築城期 明応元年(1492)
●築城者 櫛橋左京亮則伊
●城主 櫛橋氏
●形態 平城
●遺構 土塁等
●登城日 2014年3月14日

◆解説
 黒田官兵衛は他の戦国武将のように正妻とは別に側室などを置かなかった。相思相愛の夫婦であったわけである。

 官兵衛の妻は「光(てる)」と呼ばれ、官兵衛と同じく詩等を詠む文化人でもあったようで、後年「幸圓(こうえん)」と雅号した。
 この光の実家が本稿で取り上げる櫛橋家の居城・志方城である。
【写真左】志方城遠望
 志方城の北東1キロにある志方八幡宮からみたもので、典型的な平城・城館だったと考えられる。
 後段で紹介するように、現在は跡地に観音寺や小学校などが建っている。



現地の説明板より

“官兵衛の妻 光(てる)のふるさと
観音寺(志方城跡)

 曹洞宗の寺院で本尊は観世音菩薩です。観音寺の付近一帯は志方城跡です。現在の観音寺の境内を本丸とし、本丸を囲む内堀の周囲に二の丸(志方小学校所在のあたり)、西の丸(旧志方町役場所在のあたり)とかなりの規模の城であったようです。
【写真左】観音寺山門
 城下町特有の狭い通りで、志方城跡に建つ観音寺が見える。
 その両脇には光の幟が建ててある。
 探訪した折、この界隈には光・官兵衛関係の幟が設置してあった(下の写真参照)。

 なお、ご覧の通り大変に狭い道なので、この辺りに駐車場は確保できない(当院駐車場もあるが、地元の人でないと分からない場所)ので、西側大通り脇にあるスーパーの駐車場に停めて、そこからじっくりと散策気分で向かった方がいいだろう。


【写真左】官兵衛と光姫が描かれた幟
 「黒田官兵衛が生涯愛した「光」のふるさと 加古川」と書かれ、光は 「てるひめちゃん」というかわいらしい名前で紹介されている。



 この城の城主・櫛橋家は伊朝を祖とし、代々赤松氏の家臣でした。伊朝より五代の孫、櫛橋左京亮則伊は、赤松政則に仕えて大いに重んじられ、祖父の例にならって播備作三国の財産出納の役をつとめ、文明13年(1481)志方・天神山に城を築き、明応元年(1492)この地に志方城を築きました。

 以来、伊家・伊定・政伊と父子四代続き、天正6年(1578)羽柴秀吉の攻略にあって落城しました。伊定の娘・光/てる(幸圓/こうえん)は、秀吉の軍師として活躍した黒田官兵衛の妻となり、結婚した翌年に嫡男が生まれました。後の福岡藩主・黒田長政です。
【写真左】「志方城(観音寺城)」の標柱
 入口付近に建てられている。

 現在の観音寺は、志方城落城の後、天正15年(1587)、宝岩宗珍和尚が城主の墓碑を守るために城の本丸跡に禅寺を建立したのが始まりです。
 加古川市”
【写真左】西側駐車場付近
 南西端の入り口付近には当院の駐車場が確保されているが、当時この辺りには濠が巡らされていた。

 右側の駐車場と境内(左側)の高低差は、現在でも約3m前後あるので、濠があったころは、さらに高さを保持していたのだろう。

 写真左奥は本堂で、改修工事が行われていた。


櫛橋家

 説明板にもあるように、櫛橋家の始祖は伊朝(ただとも・これとも)といわれている。そして櫛橋氏は南北朝期に活躍した糟谷氏(加古川城・称名寺糟谷弥二郎元覚:凸岩井垣城参照)の庶流ともいわれているが定かでない。
【写真左】櫛橋家 累代墓所・その1
 櫛橋家の墓所は本堂の西側から北に向かって進み、小学校の校舎と相対する位置に祀られている。



 官兵衛の妻・光の父は、伊定(これさだ・たださだ)といわれている。大河ドラマ「軍師 官兵衛」でも紹介されたように、光の姉・妙寿尼(みょうじゅに)は、当時赤松氏の一族であった上月城主・上月十郎景貞に嫁いでいる。

 そして、伊定の嫡男・政伊も後に毛利方に属して織田軍と戦ったが、敗れ、政伊を以て志方城の櫛橋氏はここに没落した。
【写真左】櫛橋家 累代墓所・その2
 「志方城主娘黒田官兵衛正室 櫛橋幸圓」とかかれた幟が建てられている。
【写真左】土塁跡か・その1
 櫛橋家累代の墓所をはじめ、境内北側全体が墓地となっているが、右側(北側)の志方小学校との間には土塁跡がのこる。

 観音寺が本丸跡で、小学校が二ノ丸とされているので、この間に土塁が設けられ、二ノ丸は一段低く(3~3mの比高差)配置されていたと考えられる。
【写真左】土塁跡か・その2
 墓地の東側で、右側奥に観音寺本堂が見える。
 東側まで土塁が廻り込み、さらにその東には薮化した小丘が繋がる。
【写真左】櫛橋家墓より本堂を見る。
 北側から南を見たものだが、全体に北から南にかけて下り勾配になっている。
【写真左】志方八幡神社・その1
 天永2年(1111)宮谷に創祀され、明応元年(1492)、志方城主・棚橋左京亮伊則が現地に奉還して八幡神を勧請。

 播磨三社八幡の一つ。祭神は応仁天皇・神功皇后・玉依比売命。
【写真左】志方八幡神社・その2
 参道にも光姫の幟が設置されていた。

2014年6月22日日曜日

塩田城(兵庫県宍粟市山崎町塩田)

塩田城(しおたじょう)

●所在地 兵庫県宍粟市山崎町塩田
●築城期 戦国時代中期
●築城者 菅野氏
●城主 小寺政職
●高さ 標高236m(比高50m)
●遺構 土塁・石積・堀切その他
●登城日 2014年5月5日

◆解説
 塩田城は、前々稿篠ノ丸城(兵庫県宍粟市山崎町横須)の南麓を流れる菅野川を約8キロほど遡った山崎町塩田に築かれた小規模な城砦である。
【写真左】塩田城
 主郭の西側にある土塁を背後から見る。










 現地の説明板より

“塩田城址(しおたじょうし)
  【所在地】宍粟市山崎町塩田

 塩田地区を流れる菅野川右岸の標高236mの尾根上に築かれた山城で、戦国時代中ごろに地元の土豪菅野氏(すがのし)によって築城されたと伝わる。
【写真左】縄張図
 ご覧の通り小規模なものだが、西側の登城口から主郭に向かっては険しい切崖となっている。

 また、この図にもあるように、当地名は「字政所」と記されている。











 城郭としての規模は小さいものの、尾根の突端に東西約20m、南北36mの主郭を置き、北側に高さ7mの土塁・石積を設け、幅約1.2m、深さ約1.5mの堀切で二重に遮断して、尾根から来る敵の侵入を防いでいる。また、主郭南側のやや下がった場所に腰郭を設けており、北西側にも帯郭を配して防備を固めている。

 塩田城の対岸には、かつて荘園の中心地であったことを示す「政所」の地名が残る。また、ここは青木方面と葛根(かずらね)方面からの道が交差し、東へ峠を越えると宇野氏の本拠である長水城下へと至る地点であるため、実際には街道を監視する番所的な城だったと考えられる。
【写真左】登城案内
 この道路の右側から登っていく。直下には駐車スペースはないので、この写真の道路を少し上った先に空き地があるので、ここに停める。


 江戸中期に成立した『播磨鑑』は、黒田官兵衛の主人・小寺政職が、天文12年(1543)から天文14年(1545)の間、「塩田構居(しおたこうきょ)」(平城)に居城していたと伝えている。小寺氏の在所は、当時の史料からは確認できないが、近辺の明證寺(みょうしょうじ)(真宗)は、小寺氏所縁の寺院といわれており、この地域では小寺氏に関わる伝承が古くから語り継がれてきたようである。

   参考文献
      兵庫県教育委員会編
     『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』ほか”
【写真左】登城道
 すでにこの段階で主郭の位置が確認できる。
歩いて5分もかからないだろう。

 ただ、切崖のため階段には傾斜がある。



小寺政職(こでらまさもと)

 現在放映されているNHK大河ドラマ「軍師 官兵衛」で、片岡鶴太郎氏が演じているのが官兵衛の主君であった小寺政職である。この間の放映では有岡城から救出された官兵衛が、捕らわれた政職に自刃を迫ったものの、命乞いをしながら拒否したため、官兵衛は打果すこともせず、憐れな元主君を逃がしてしまう。
 伝聞では政職は、その後毛利氏の計らいで備後鞆の浦に落ち延び、天正12年(1584)当地で没したといわれる(異説あり)。
【写真左】堀切
 現在の登城道と兼ねたもので、北西端に位置する。
 ここから右に向かうと主郭に繋がる。






政職の父・則職(のりもと)

 鶴太郎氏の名演技で、官兵衛とは別にこの主君であった小寺政職が知れ渡ったが、政職に限らず播磨国における他の小国人領主達は、同じように織田信長(羽柴秀吉)と毛利氏の間で一族延命のために、右往左往しながら対応せざるを得なかった。

 さて、この政職の父は小寺則職といわれている(母については分からない)。則職は明応4年(1495)に生まれているが、その頃すでに赤松氏を主君として仕えている。永正17年(1520)主君で当時の播磨守護であった赤松義村の命によって、義村に反旗を掲げた浦上村宗(三石城(岡山県備前市三石)参照)討伐に動いている。
【写真左】主郭・その1
 主郭の背後である北側から西側にかけては土塁が囲繞している。
 看板の設置されている箇所が土塁で、主郭はその左側の低くなった箇所。


 これについては、以前取り上げた置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)・その2でも述べているが、結果的には村宗が主君であった義村を滅ぼしてしまう。

 この後、浦上氏は西播磨と東備前を領有する戦国大名となる。大永元年(1521)のことである。村宗はその後、中央における管領細川家の内紛に乗じて、細川高国に属し各地を転戦している。
【写真左】石仏
 主郭の脇には石仏が祀られている。後段で紹介する明證寺と関連するものだろう。
 なお、後方には土塁が見える。



 赤松義村の跡を継いだのが嫡男・晴政である。領地を奪われた晴政は一旦淡路国に逃れた。このとき則職も当時存命中だった父・政隆と一緒に、晴政の下に庇護されていた。
 しかし、享禄3年(1530)政隆が浦上村宗に攻められ討死したあと、翌4年(1531)に父の家督を継いだ則職は、晴政から離反していく。
【写真左】主郭・その2
 主郭の南東端から北西方面を見たもので、撮影地点である手前は、主郭から少し下がった位置にある腰郭になる。
 なお、この下にも小規模な腰郭が配置されている。


 そして天文7年(1538)11月、前年に引き続いて播磨国に進出した出雲の尼子経久らが赤松晴政を攻めた際(三木城(兵庫県三木市上の丸)参照)、則職は晴政の籠城する高砂城の攻め手として参陣している。

 敗れた晴政が奔った先は、前回と同じように淡路国であった。おそらく匿ったのは三好氏一族だったのだろう。
【写真左】主郭から北東側を見る。
 主郭からの眺望はあまりよくないが、当時は東麓の菅野川両岸が俯瞰できたものと思われる。





塩田城在城前後

 さて、政職が本稿の塩田城に在城したのが、天文12年(1543)から天文14年(1545)の間とされている。度々攻められた赤松晴政であったが、その後小寺氏をはじめとする播磨国人衆たちと和睦し、播磨に再び復帰した。丁度このころが政職が塩田城に在城していた時期と重なる。塩田城の在城最終年である天文14年(1545)、政職は父則職から家督を譲られ、塩田城から御着城(兵庫県姫路市御国野町御着)へと移ることになる。
【写真左】主郭から堀切を見る。
 縄張図では北西端の堀切は一条となっているが、現地ではその奥にも小規模な鞍部が見えるので、当時は二重堀切が構築されていたのかもしれない。
【写真左】明證寺
 塩田城の東麓に建立されている寺院で、小寺氏所縁の寺院といわれている。

2014年6月15日日曜日

聖山城(兵庫県宍粟市山崎町須賀沢)

聖山城(ひじりやまじょう)

●所在地 兵庫県宍粟市山崎町須賀沢(出石)
●別名 堅木城、篳篥(ひちりき)山城
●高さ 標高168m(比高74m)
●築城期 明応2年(1493)頃
●築城者 下村則真
●城主 豊臣秀吉か
●遺構 郭等
●登城日 2014年5月5日

解説(参考資料 「パンフレット 官兵衛 飛躍の地 宍粟(しそう観光協会事務局編」等)
 聖山城は前稿篠ノ丸城(兵庫県宍粟市山崎町横須)でも述べたように、揖保川を挟んで対岸の高取山の尾根筋に築かれた城砦である。
【写真左】聖山城遠望
 西麓を流れる揖保川左岸から見たもの。










現地の説明板より

“聖山城址
    【所在地】宍粟市山崎町須賀沢(出石(いだいし))

 出石(いだいし)地区を流れる揖保川左岸の標高168mの尾根上に築かれた山城で、明応2年(1493)宇野氏の重臣下村氏によって築城されたと伝わる。
【写真左】聖山城配置図
 当城をはじめ、篠ノ丸城・長水城・塩田城などが図示されている。






 城郭としての規模は小さいものの、尾根の突端に東西12m、南北約9mの主郭を置き、北側斜面に帯郭、西側斜面に腰郭を配して防備を固めている。

 また、主郭東側に二の郭・三の郭を置き、東端に高さ2.6mの土塁を築いて敵の侵入を防いでいる。主郭からは宇野氏の本拠篠ノ丸城・長水城への眺望が開けており、実際には見張台的な城だったと考えられる。
【写真左】篳篥神社本殿に掲げられている篳篥大明神
 麓には篳篥神社が祀られている。なお、聖山城主郭下には愛宕神社が祀られているが、両社との関係は分からない。



 江戸前期に成立した『宍粟郡守令交代記』によれば、天正8年(1580)4月、羽柴秀吉は対岸の篠ノ丸城・長水城に篭城する宇野氏を攻めるため、背後の高取山を越えて、先ずこの城を落とし本陣を置いたという。また同書には、このとき黒田官兵衛が「篝火(かがりび)に、宇野(鵜の)首見せる、広瀬かな」との発句を詠んだことが記されている。

 しかし、本来この句は武中半兵衛の子重門が著した『豊鑑(とよかがみ)』に連歌師の里村紹巴(じょうは)の発句としてあるもので、官兵衛がこの合戦に参加していたかどうかは不明である。

   参考文献
     兵庫県教育委員会編集
     『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』ほか”
【写真左】聖山城縄張図
 登城口はこの図でいえば、左下の方にあり、そこから先ず東方に進んで、その後3,4回九十九折の道を進むと、先端部の腰曲輪・愛宕神社に辿りつく。
【写真左】登城口
 この階段は聖山城・愛宕神社及び、さらに上にむかった高取山の登山道を兼ねている。

 雨が降って足元は滑りやすかったが、慎重に歩を進めた。
【写真左】南側から上を見る。
 南側斜面は近年伐採されたようで、上方の様子がよく分かる。
【写真左】愛宕神社
 最初に見えてくるのがこの愛宕神社で、主郭は右側の斜面を登ったところにある。

 当社の縁起などは分からないが、この場所も聖山城の郭(腰郭)の一部だったものと思われる。
【写真左】篠ノ丸城遠望
 前稿でも紹介したように、揖保川を挟んで正対するように西方に篠ノ丸城が見える。
【写真左】長水城遠望
 少し北側に目を転ずると、宇野氏の居城・長水城が霞んで見える。
【写真左】愛宕神社から主郭に向かう。
 神社西側には階段があり、そこを登っていくと聖山城主郭に繋がる。
【写真左】「官兵衛飛躍の地 聖山城」と書かれた幟が見える。
 主郭西方の小規模な腰郭付近に幟が設置されている。
【写真左】主郭付近
 当城は山崎町埋蔵文化財包蔵地となっているが、この付近には古代遺跡として、「須賀沢3号墳」「須賀沢4号墳」という古墳もある。

 ただ、これらについては場所は確定されていない。



【写真左】主郭から愛宕神社・揖保川を見る。
 愛宕神社から揖保川にかけての斜面は急峻となっており、比高の低さの割に要害性に優れている。
【写真左】主郭頂部
 主郭の付近が最高所であるが、5m四方と規模は小さい。

 このあと、東側に向かう。
【写真左】帯郭
 主郭から一旦次第に降る郭段があり、その左側(北側)には帯郭が付随している。
【写真左】高取山方面に伸びる尾根
 聖山城の縄張図に描かれている規模を城域とすれば、確かに小規模はものだが、実際には更に東に伸びる高取山方面までの尾根部分も何らかの用途をもった遺構だった可能性もある。