豊後・岡城(ぶんご・おかじょう)
●所在地 大分県竹田市竹田
●指定 国指定史跡
●別名 臥牛城・伏牛城・豊後竹田城
●高さ 325m(比高100m)
●築城期 文治元年(1185)
●築城者 緒方三郎惟栄
●城主 緒方氏、中川氏
●登城日 2013年10月13日
◆解説
豊後・岡城(以下「岡城」とする)は、大分市から南西に約35キロほど向かった豊後・竹田市に築かれた城砦である。この竹田市からは、さらに西に豊後街道(R57)が走り、肥後(阿蘇方面)に繋がる要衝の地でもあった。
【写真左】岡城の石垣
岡城の見どころの一つがこの石垣群である。
現存している石垣のほとんどは、下段の説明板にあるように、文禄3年(1594)播磨国・三木城から入部した中川秀成(ひでしげ)時代のものといわれている。
施工にあたったのは、「穴太伊豆」で、有名な穴太衆らが大坂から呼び寄せられた。
現地の説明板より・その1
“国指定史跡 岡城跡
岡城は、文治元年(1185)大野郡緒方荘の武将緒方三郎惟栄(これよし)が、源頼朝と仲違いをしていた弟義経を迎えるため築城したと伝えられるが(註1)、惟栄は大物浦(だいもつうら)(兵庫県)を出航しようとして捕えられ、翌年上野国(群馬県)沼田荘に流された。
【写真左】「たけた」の街並み絵図
豊後・竹田市の竹田は「たけた」と呼称する。但馬の竹田城と同じ名称だが、こちらは「たけだ」と濁音する。
この絵図では岡城は右側に図示されている。
建武のころ豊後国守護大友氏の分家で、大野荘志賀村南方に住む志賀貞朝は、後醍醐天皇の命令を受け、岡城を修理して北朝と戦ったとされるが、志賀氏の直入郡への進出は、南北朝なかばの応安2年(1369)から後で(註2)、その城はきむれの城であった。のちに志賀氏の居城は岡城に移った。
天正14年(1586)から翌年の豊薩(ほうさつ)戦争では、島津の大軍が岡城をおそい、わずか18歳の志賀親次(ちかよし)(親善)は城を守り、よく戦って豊臣秀吉から感状を与えられた。しかし、文禄2年(1593)豊後大友義統(よしむね)が領地を没収されると、同時に志賀親次も城を去ることになった。
【写真左】岡城案内図
現地に設置されているものだが、図の表面はアクリルのようなものがあるため、写真では反射して見ずらい。
白い部分が遺構部で、東西に大変に長く伸びた城域を構成している。
文禄3年(1594)2月、播磨国三木城(兵庫県)から中川秀成(ひでしげ)が総勢4千人余で入部。築城にあたり志賀氏の館を仮の住居とし(註3)、急ぎ近世城郭の形をととのえ、本丸は、慶長元年(1597)に完成、寛文3年(1662)には西の丸御殿がつくられ、城の中心部分とされていった(註4)。
明治2年(1869)版籍奉還後の4年(1871)には、14代・277年続いた中川氏が廃藩置県によって東京に移住し、城の建物は7年(1874)大分県による入札・払い下げ(註5)ですべてが取りこわされた。
【写真上】岡城絵図
岡城は北に稲葉川、南を白滝川という川に挟まれ、さらに両川はいずれも内側まで切り立った断崖絶壁となって深い谷を構成している。これだけでも十分要害性があるが、さらに険しい傾斜を持たせた石垣で造成されているため、要害堅固な城砦である。
滝廉太郎は、少年時代を竹田で過ごし、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かったとされ、明治34年(1901)に中学校唱歌「荒城の月」を作曲、発表している。
註1
『豊後国志』巻6 直入郡の項による。但し当時、惟栄は京都に滞在していた可能性が極めて高い。(『源平の雄 緒方三郎惟栄』)
註2
『豊後国志』巻6 直入郡の項による。但し、志賀氏の直入郡進出は、応安2年直入郡代官職・検断職を預けられた以降で、天文21年ころは大友氏加判衆(老職)をも勤めていた。(『竹田市史』上巻)
註3
『中川史料集』に「志賀湖左衛門親次が旧居に御住居」とあり、戦国時代の城郭を基礎として近世城郭の整備・城下の町割り(竹田町の建設)などをおこなった。
註4
岡城は山城的殿舎(御廟)、平山城的殿舎(本丸・二の丸・三の丸)、平城的殿舎(西の丸)で構成され、これらが一体となっていることは近世城郭史上特異な城である。
註5
明治7年2月19日付『大分県布告書」で、(県内五城の建造物)岡城は69棟が入札に付されている。
平成10年3月
竹田市教育委員会”
【写真左】登城口付近
南西側に総役所跡だった広い駐車場があり、そこに停めて、暫く歩くと登城口がある。
現地の説明板より・その2
“ 国指定史跡 岡城跡
指定年月日 昭和11年12月16日
指定の理由
岡城跡は、明治維新後荒廃し、樹木が鬱蒼としていたが、昭和6年より一部を公園として公開し、藩制当時の盛観を偲ばせ、公衆行楽の諸施設を施している。
さらに、展望は飽きることなく、北は九州アルプスの連峰、西は東洋第一の阿蘇の噴煙を眺め、南は祖母の高峯一帯の大森林を一望の裡(うち)い収め、実に天下絶景の地である。
【写真左】大手門
坂道を登ると最初に大手門がある。
ここからさらに350mほど進むと本丸にたどり着く。
【写真左】古大手門
上掲の大手門はおそらく近世城郭となった江戸期に整備されたものと思われるが、それ以前の中世にはご覧の大手門が残る。
現在の大手門の右側にあり、当時の大手道は現在とは異なるルートがあったものと思われる。
説明事項
城の外観が牛の臥せたる如きにより、別名「臥牛城(がぎゅうじょう)」という。
築城伝説
文治元年(1185)豊後武士団棟梁であった、緒方三郎惟栄が築城。建武年中(1333~38)志賀貞朝から17代、260年間志賀氏の居城。
戦歴
天正14年(1586)城主志賀親次は、島津義弘率いる薩軍と激しく交戦して最後まで死守し、岡城が堅城としての名声を天下に示した。
現存城郭
文禄3年(1594)中川秀成が入部してから13代、277年間中川氏の居城。
注意事項(省略)
(説明文は、指定申請書を現代文に改め、抜粋復刻したものである。)
【写真左】朱印倉跡
祐筆、又は右筆とも書くが、この場所の建物の中で公式文書などを専門に清書する役人がいた。
【写真左】城代屋敷跡
藩主が江戸参勤中には、留守を預かる責任者が必要となる。これが、いわゆる城代家老という役職者で、藩主に成り代わって治政を司った場所である。
ここからさらに奥に進み、本丸方面に向かう。
【写真左】石垣群
岡城の見どころの一つはこの石垣群である。
全国にある平城や平山城に見られる石垣もそれなりの趣があるが、土台となるこうした険阻な山を基礎とする山城はさらにその周辺部の景観と相まって、独特の凄味さえ醸し出す。
【写真左】太鼓櫓跡
ここから中に入り、冒頭の写真にある三ノ丸側から上に進み、本丸に向かう。
【写真左】本丸跡・その1
ご覧の通り、大変に広く、奥には岡城天満神社が祀られている。
説明板の一部を掲載しておく。
“岡城天満神社
……(中略)……
ここ岡城本丸跡は、中世の志賀氏時代は天神山といわれ、天神祠(やしろ)が祀られていました。中川氏時代になると城を拡張して、この天神山を本丸として天神祠を岡城の守り神としました。そして1595年(文禄4)4月29日には社殿を新築し、片ヶ瀬(この拝殿の対岸の丘陵地帯)の天満神社が所蔵していた狩野元信筆といわれる「菅原道真公の影像」と、名刀「天国作の太刀」をご神体として迎えて祀りました。…(後略)…”
【写真左】本丸跡・その2 御金蔵跡
本丸の隣に設置された箇所で、文字通りに解釈すれば、ここに藩の軍資金やお宝があったということか。
【写真左】二ノ丸跡
本丸の北側下の段に配置されたもので、作曲家・滝廉太郎の銅像が建立されている。
廉太郎は、この竹田市に12歳から14歳まで暮らした。有名な「荒城の月」は土居晩翠の作詞で、晩翠は宮城県仙台市の青葉城や、会津若松市の鶴ヶ城などをイメージしていたといわれ、これに対し、作曲した滝廉太郎は、少年時代に過ごしたこの竹田市の岡城をイメージして作曲したとされる。
【写真左】二の丸から家老屋敷を見る。
後段で紹介するように、岡城は西側の西の丸を扇の要のようにして、北西側に伸びる尾根伝いに家老屋敷や普請方跡などが配置されている。
【写真左】九重連山
同じく二の丸付近からは北西方向に九重連山が眺望できる。
【写真左】家老屋敷・普請方方面に向かう。
二の丸・三ノ丸の北側から、上掲した家老屋敷に向かう道が内側に造られているが、この写真はそのうち家老屋敷の東側の入り口付近に当たる。
なお、この位置からすぐに左に向かうと近戸門へ繋がる。
【写真左】中川覚左衛門屋敷跡・その1
現地の説明板より
“中川覚左衛門屋敷跡
岡藩家老中川覚左衛門門家は、茶道織部流の祖、古田織部正重勝の子孫です。覚左衛門門家は、藩主中川家に代々仕え、中川の姓を賜り、延享2年(1745)にこの屋敷地に移りました。
古田家の記録には、「ここは、字を奥近戸と言い、東南が開けて前に深い谷がある。竹林が繁り、西北には松の木があり、東西北には岩がそびえて、ここは険しい城のなかでも特に険しい所である。敷地は広く2,300石取りの家老屋敷にふさわしい所である。」といっています。
【写真左】中川覚左衛門屋敷跡・その2
また、歴代お藩主は、城内外に屋敷を持つ家老・城代宅などへ立寄ることが慣例で、覚左衛門屋敷には文化8年(1811)、安政4年(1857)・5年の三度の訪問が確認されています。
覚左衛門屋敷跡は、平成5(1993)~7年まで発掘調査を実施し、玄関部に向かう飛石列、屋敷の範囲を表す礎石、束石、狭間石等が確認されました。さらに、敷地内の様子や屋敷の間取りが詳細に記された絵図があります。整備は、その図と検出された遺構をもとに、間取り等の復元を行いました。
【写真左】中川覚左衛門屋敷跡から谷を隔てた二の丸・三ノ丸方面を見る。
復元は、畳の面まで床立ちさせ、柱、床束の足元、土台は光付け加工、その他の継手、仕口、仕上げ等は古来の技法によって加工しています。また、使用した材料の木材は、耐久性・寸法安定性の高い保存処理をしています。畳は、板を張り合わせて畳大に成形し、板畳の緑を黒色塗料で表現しました。”
【写真左】普請方跡
家老屋敷の隣で、近戸門との間にあるもので、岡城の北西端に位置する。
【写真左】岡城から騎牟礼城を遠望する。
騎牟礼城は岡城から西方へ約5キロほど向かった飛田川字古城にある城砦で、仁平年間、源為朝が築いたといわれる。
戦国期の天正年間には、岡城の支城となり、薩摩島津氏の襲来に備えたといわれる。
【写真左】西の丸
最初に登城した大手門の左側にある郭。非常に広大で、ほぼ長方形となっている。
おわりに
岡城は今稿で紹介したところ以外にも多くの遺構があり、城下の武家屋敷・足軽屋敷跡や市街地の中にも多くの史跡が点在している。
今回の登城はあまり時間がなかったため、駆け足で見た程度である。岡城そのものも見どころ満載だが、竹田市の街並みも旅情をそそる。いずれまた機会があったら、じっくりと散策探訪したい城下町である。
●所在地 大分県竹田市竹田
●指定 国指定史跡
●別名 臥牛城・伏牛城・豊後竹田城
●高さ 325m(比高100m)
●築城期 文治元年(1185)
●築城者 緒方三郎惟栄
●城主 緒方氏、中川氏
●登城日 2013年10月13日
◆解説
豊後・岡城(以下「岡城」とする)は、大分市から南西に約35キロほど向かった豊後・竹田市に築かれた城砦である。この竹田市からは、さらに西に豊後街道(R57)が走り、肥後(阿蘇方面)に繋がる要衝の地でもあった。
【写真左】岡城の石垣
岡城の見どころの一つがこの石垣群である。
現存している石垣のほとんどは、下段の説明板にあるように、文禄3年(1594)播磨国・三木城から入部した中川秀成(ひでしげ)時代のものといわれている。
施工にあたったのは、「穴太伊豆」で、有名な穴太衆らが大坂から呼び寄せられた。
現地の説明板より・その1
“国指定史跡 岡城跡
岡城は、文治元年(1185)大野郡緒方荘の武将緒方三郎惟栄(これよし)が、源頼朝と仲違いをしていた弟義経を迎えるため築城したと伝えられるが(註1)、惟栄は大物浦(だいもつうら)(兵庫県)を出航しようとして捕えられ、翌年上野国(群馬県)沼田荘に流された。
【写真左】「たけた」の街並み絵図
豊後・竹田市の竹田は「たけた」と呼称する。但馬の竹田城と同じ名称だが、こちらは「たけだ」と濁音する。
この絵図では岡城は右側に図示されている。
建武のころ豊後国守護大友氏の分家で、大野荘志賀村南方に住む志賀貞朝は、後醍醐天皇の命令を受け、岡城を修理して北朝と戦ったとされるが、志賀氏の直入郡への進出は、南北朝なかばの応安2年(1369)から後で(註2)、その城はきむれの城であった。のちに志賀氏の居城は岡城に移った。
天正14年(1586)から翌年の豊薩(ほうさつ)戦争では、島津の大軍が岡城をおそい、わずか18歳の志賀親次(ちかよし)(親善)は城を守り、よく戦って豊臣秀吉から感状を与えられた。しかし、文禄2年(1593)豊後大友義統(よしむね)が領地を没収されると、同時に志賀親次も城を去ることになった。
【写真左】岡城案内図
現地に設置されているものだが、図の表面はアクリルのようなものがあるため、写真では反射して見ずらい。
白い部分が遺構部で、東西に大変に長く伸びた城域を構成している。
文禄3年(1594)2月、播磨国三木城(兵庫県)から中川秀成(ひでしげ)が総勢4千人余で入部。築城にあたり志賀氏の館を仮の住居とし(註3)、急ぎ近世城郭の形をととのえ、本丸は、慶長元年(1597)に完成、寛文3年(1662)には西の丸御殿がつくられ、城の中心部分とされていった(註4)。
明治2年(1869)版籍奉還後の4年(1871)には、14代・277年続いた中川氏が廃藩置県によって東京に移住し、城の建物は7年(1874)大分県による入札・払い下げ(註5)ですべてが取りこわされた。
【写真上】岡城絵図
岡城は北に稲葉川、南を白滝川という川に挟まれ、さらに両川はいずれも内側まで切り立った断崖絶壁となって深い谷を構成している。これだけでも十分要害性があるが、さらに険しい傾斜を持たせた石垣で造成されているため、要害堅固な城砦である。
滝廉太郎は、少年時代を竹田で過ごし、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かったとされ、明治34年(1901)に中学校唱歌「荒城の月」を作曲、発表している。
註1
『豊後国志』巻6 直入郡の項による。但し当時、惟栄は京都に滞在していた可能性が極めて高い。(『源平の雄 緒方三郎惟栄』)
註2
『豊後国志』巻6 直入郡の項による。但し、志賀氏の直入郡進出は、応安2年直入郡代官職・検断職を預けられた以降で、天文21年ころは大友氏加判衆(老職)をも勤めていた。(『竹田市史』上巻)
註3
『中川史料集』に「志賀湖左衛門親次が旧居に御住居」とあり、戦国時代の城郭を基礎として近世城郭の整備・城下の町割り(竹田町の建設)などをおこなった。
註4
岡城は山城的殿舎(御廟)、平山城的殿舎(本丸・二の丸・三の丸)、平城的殿舎(西の丸)で構成され、これらが一体となっていることは近世城郭史上特異な城である。
註5
明治7年2月19日付『大分県布告書」で、(県内五城の建造物)岡城は69棟が入札に付されている。
平成10年3月
竹田市教育委員会”
【写真左】登城口付近
南西側に総役所跡だった広い駐車場があり、そこに停めて、暫く歩くと登城口がある。
現地の説明板より・その2
“ 国指定史跡 岡城跡
指定年月日 昭和11年12月16日
指定の理由
岡城跡は、明治維新後荒廃し、樹木が鬱蒼としていたが、昭和6年より一部を公園として公開し、藩制当時の盛観を偲ばせ、公衆行楽の諸施設を施している。
さらに、展望は飽きることなく、北は九州アルプスの連峰、西は東洋第一の阿蘇の噴煙を眺め、南は祖母の高峯一帯の大森林を一望の裡(うち)い収め、実に天下絶景の地である。
【写真左】大手門
坂道を登ると最初に大手門がある。
ここからさらに350mほど進むと本丸にたどり着く。
【写真左】古大手門
上掲の大手門はおそらく近世城郭となった江戸期に整備されたものと思われるが、それ以前の中世にはご覧の大手門が残る。
現在の大手門の右側にあり、当時の大手道は現在とは異なるルートがあったものと思われる。
説明事項
城の外観が牛の臥せたる如きにより、別名「臥牛城(がぎゅうじょう)」という。
築城伝説
文治元年(1185)豊後武士団棟梁であった、緒方三郎惟栄が築城。建武年中(1333~38)志賀貞朝から17代、260年間志賀氏の居城。
戦歴
天正14年(1586)城主志賀親次は、島津義弘率いる薩軍と激しく交戦して最後まで死守し、岡城が堅城としての名声を天下に示した。
現存城郭
文禄3年(1594)中川秀成が入部してから13代、277年間中川氏の居城。
注意事項(省略)
(説明文は、指定申請書を現代文に改め、抜粋復刻したものである。)
【写真左】朱印倉跡
祐筆、又は右筆とも書くが、この場所の建物の中で公式文書などを専門に清書する役人がいた。
【写真左】城代屋敷跡
藩主が江戸参勤中には、留守を預かる責任者が必要となる。これが、いわゆる城代家老という役職者で、藩主に成り代わって治政を司った場所である。
ここからさらに奥に進み、本丸方面に向かう。
【写真左】石垣群
岡城の見どころの一つはこの石垣群である。
全国にある平城や平山城に見られる石垣もそれなりの趣があるが、土台となるこうした険阻な山を基礎とする山城はさらにその周辺部の景観と相まって、独特の凄味さえ醸し出す。
【写真左】太鼓櫓跡
ここから中に入り、冒頭の写真にある三ノ丸側から上に進み、本丸に向かう。
【写真左】本丸跡・その1
ご覧の通り、大変に広く、奥には岡城天満神社が祀られている。
説明板の一部を掲載しておく。
“岡城天満神社
……(中略)……
ここ岡城本丸跡は、中世の志賀氏時代は天神山といわれ、天神祠(やしろ)が祀られていました。中川氏時代になると城を拡張して、この天神山を本丸として天神祠を岡城の守り神としました。そして1595年(文禄4)4月29日には社殿を新築し、片ヶ瀬(この拝殿の対岸の丘陵地帯)の天満神社が所蔵していた狩野元信筆といわれる「菅原道真公の影像」と、名刀「天国作の太刀」をご神体として迎えて祀りました。…(後略)…”
【写真左】本丸跡・その2 御金蔵跡
本丸の隣に設置された箇所で、文字通りに解釈すれば、ここに藩の軍資金やお宝があったということか。
【写真左】二ノ丸跡
本丸の北側下の段に配置されたもので、作曲家・滝廉太郎の銅像が建立されている。
廉太郎は、この竹田市に12歳から14歳まで暮らした。有名な「荒城の月」は土居晩翠の作詞で、晩翠は宮城県仙台市の青葉城や、会津若松市の鶴ヶ城などをイメージしていたといわれ、これに対し、作曲した滝廉太郎は、少年時代に過ごしたこの竹田市の岡城をイメージして作曲したとされる。
【写真左】二の丸から家老屋敷を見る。
後段で紹介するように、岡城は西側の西の丸を扇の要のようにして、北西側に伸びる尾根伝いに家老屋敷や普請方跡などが配置されている。
【写真左】九重連山
同じく二の丸付近からは北西方向に九重連山が眺望できる。
【写真左】家老屋敷・普請方方面に向かう。
二の丸・三ノ丸の北側から、上掲した家老屋敷に向かう道が内側に造られているが、この写真はそのうち家老屋敷の東側の入り口付近に当たる。
なお、この位置からすぐに左に向かうと近戸門へ繋がる。
【写真左】中川覚左衛門屋敷跡・その1
現地の説明板より
“中川覚左衛門屋敷跡
岡藩家老中川覚左衛門門家は、茶道織部流の祖、古田織部正重勝の子孫です。覚左衛門門家は、藩主中川家に代々仕え、中川の姓を賜り、延享2年(1745)にこの屋敷地に移りました。
古田家の記録には、「ここは、字を奥近戸と言い、東南が開けて前に深い谷がある。竹林が繁り、西北には松の木があり、東西北には岩がそびえて、ここは険しい城のなかでも特に険しい所である。敷地は広く2,300石取りの家老屋敷にふさわしい所である。」といっています。
【写真左】中川覚左衛門屋敷跡・その2
また、歴代お藩主は、城内外に屋敷を持つ家老・城代宅などへ立寄ることが慣例で、覚左衛門屋敷には文化8年(1811)、安政4年(1857)・5年の三度の訪問が確認されています。
覚左衛門屋敷跡は、平成5(1993)~7年まで発掘調査を実施し、玄関部に向かう飛石列、屋敷の範囲を表す礎石、束石、狭間石等が確認されました。さらに、敷地内の様子や屋敷の間取りが詳細に記された絵図があります。整備は、その図と検出された遺構をもとに、間取り等の復元を行いました。
【写真左】中川覚左衛門屋敷跡から谷を隔てた二の丸・三ノ丸方面を見る。
復元は、畳の面まで床立ちさせ、柱、床束の足元、土台は光付け加工、その他の継手、仕口、仕上げ等は古来の技法によって加工しています。また、使用した材料の木材は、耐久性・寸法安定性の高い保存処理をしています。畳は、板を張り合わせて畳大に成形し、板畳の緑を黒色塗料で表現しました。”
【写真左】普請方跡
家老屋敷の隣で、近戸門との間にあるもので、岡城の北西端に位置する。
【写真左】岡城から騎牟礼城を遠望する。
騎牟礼城は岡城から西方へ約5キロほど向かった飛田川字古城にある城砦で、仁平年間、源為朝が築いたといわれる。
戦国期の天正年間には、岡城の支城となり、薩摩島津氏の襲来に備えたといわれる。
【写真左】西の丸
最初に登城した大手門の左側にある郭。非常に広大で、ほぼ長方形となっている。
おわりに
岡城は今稿で紹介したところ以外にも多くの遺構があり、城下の武家屋敷・足軽屋敷跡や市街地の中にも多くの史跡が点在している。
今回の登城はあまり時間がなかったため、駆け足で見た程度である。岡城そのものも見どころ満載だが、竹田市の街並みも旅情をそそる。いずれまた機会があったら、じっくりと散策探訪したい城下町である。