2013年9月30日月曜日

有子山城(兵庫県豊岡市出石町内町)

有子山城(ありこやまじょう)

●所在地 兵庫県豊岡市出石町内町
●築城期 天正2年(1574)
●築城者 山名祐豊
●城主 山名祐豊、羽柴秀長、前野長康、小出吉政
●廃城年 1615年ごろ
●高さ 321m(比高300m)
●指定 国指定史跡
●遺構 郭・石垣・井戸・石取場など
●備考 出石城(麓)
●登城日 2013年6月13日

◆解説(参考文献「パンフ 国指定史跡 有子山城跡~獅子の山城~」等)
 有子山城は、前々稿の八木城から北東へ約23キロほど向かった出石町(現豊岡市)に築かれた居城で、八木氏をはじめとする山名四天王の総帥・山名氏の本拠となった城砦である。また、麓には近世城郭となった出石城がある。
【写真左】有子山城と出石城
 北側から見たもので、麓には出石城跡がある。
 観光名所としては有子山城よりも出石城の知名度が高いため、探訪者は当然ながら出石城が多い。


 
 現地の説明板より

国史跡 有子山城跡

指定年月日 平成8年11月13日
指定理由
 基準 
  特別史跡名勝天然記念物及び史跡名勝天然記念物指定基準(昭和26年文化財保護委員会告示第2号)史跡の部二(城跡)による。
【写真左】有子山城遠望
 山城に残る石垣を麓から確認できる城跡は意外と少ないが、有子山城は麓からも見ることができる。




 説明 

  有子山城跡は、室町幕府の四職家で最大級の大名であった山名氏が、根拠地である但馬国に築いた山城跡である。同じく山名氏の居城であった此隅山城跡とともに、我が国の中世の政治史と城郭史を示す貴重な遺跡であるので、山名氏城跡として一括して史跡に指定し、その保存を図るものである。
【写真左】登山口
 出石城の奥に稲荷神社があるが、その箇所からさらに奥に進むと見えてくる。

 以前の登山ルートはここから右側の谷筋に設けられていたが、何年か前の台風のため崩落し、このため新たに尾根筋をほぼ直登する現在のコースが設けられている。
【写真左】縄張図
 図が小さいため分かりずらいが、左上が登城口で、そこから右斜めに尾根筋にそった登城ルートが記載されている。


但馬山名氏

 山名氏は新田氏の流れをくむ関東上野国の武士で、足利尊氏にしたがって室町幕府成立の騒乱で活躍。室町幕府の四職家で最大級の大名となった山名氏は、その一族が但馬、因幡、丹波、美作など日本全国66カ国中11カ国の守護職を兼帯して「六分の一殿」と呼ばれた。
【写真左】尾根始点
 この位置から本丸まで980mと標記されている。

 これまで元気いっぱい牽引してくれた「忠犬チャチャ丸(嬢)」も御年16歳とヨワイを重ね、今では耳もほとんど聞こえず、脚力は弱り、こちらが引っ張ってやらなくてはならないようになった。
 人間でいえば90歳前後のお婆さんになる。これからは“彼女との同伴登城”の場合は、負担の軽い平城程度にすべきかもしれない。


 明徳の乱により一族の内紛を起こし衰退したが、嘉吉の変で勢力を回復し、応仁の乱では宗全(持豊)が西軍の総帥となった。但馬はこの山名氏の根拠地であり、戦国時代まで一貫して山名氏が守護大名としてこの但馬国を治めた。

 しかし戦国時代に入って山名氏はその勢力を失い、永禄12年(1569)に織田軍の木下秀吉の但馬侵攻により、当時居城であった北方約2.5kmにある此隅山城が落城。この後に山名祐豊が築いた城がこの有子山城で、天正2年(1574)のことという。またその名は「子盗」(此隅)の名を嫌って「有子」と命名されたものという。
【写真左】登城道
 本丸付近まではこうした岩塊状の道が続き、しかも要所で急傾斜がある。
 蒸し暑い6月の登城のためか、息が荒くなり大汗をかく。

 「遊歩道」という標識が設置してあったが、結構滑る個所が多い。靴底の堅いハイカット用の登山靴がお勧めだろう。


 しかし天正8年(1580)ふたたび織田軍の羽柴秀長の但馬侵攻によって有子山城は落城、城主は因幡に出奔した。このあと秀長が入城し、のち天正13年(1585)には前野長康が5万石で入城するが、豊臣秀次事件に連座して改易され、播州龍野から小出吉政が入城。江戸時代に入りその子吉英の近世出石城築城により廃城となった。
【写真左】竪堀
 尾根筋道には3か所の竪堀がある。下段のものは尾根の左側(北東側)、中段のものは尾根両斜面(堀切)、上段のものは右側(西側)となっている。


城郭遺構

 最上部に石垣によって築かれた主郭とその西方に階段状に続く曲輪があり、また、主郭の東南に千畳敷と呼ばれる曲輪が残っている。豊臣時代のいずれかの城主によって改築されたものと思われる。

 山腹にも小規模な曲輪や堀切などの空堀を見ることができ、中世山城の特徴を今によく伝えている。さらに周辺には石垣に用いられている石とよく似た石が露出しており、石垣の石が山中から採取されていたことを思わせる。”
【写真左】本丸まで500mの地点
 直登した尾根の終点で、このピークから右に向かってトラバースする。

 なお、すでにこの地点が北端に延びる郭群の最下段部(6段目)になっている。
 郭段を横断する道は設置されていないので、このまま西の尾根に構築された三の郭側の方に進む。


山名氏の居城

 説明板にもあるように、山名氏が初期に本拠城としたのは、有子山城の北方にあった此隅山城(兵庫県豊岡市出石町宮内)である。築城期は文中年間(1372~74)とされ、築城したのは山名師義といわれている。したがって、此隅山城は永禄12年に落城するまでの約200年弱の期間同氏の居城であった。
【写真左】井戸郭
 上記の位置から約200mほど進んだところから見えるもので、井戸を石垣で確保した全国的にも珍しいものである。

 なお、この郭の箇所からさらに下に目を転ずると、戦国期の登城道(旧道)が一部見られる。



 これに対し有子山城は、天正2年(1574)山名祐豊が築城してからわずか6年後に落城し、そのあと出石城ができる慶長9年(1604)までトータルしても30年という短命の城砦といえる。

山名祐豊

 祐豊については、以前道竹城(鳥取県岩美郡岩美町新井)でも述べたように、山名氏惣領であった誠豊が享禄元年(1528)に亡くなると、甥であった祐豊が跡を継いだ。このころ、因幡山名氏とは敵対していたため、因幡の山名誠通を討ち、実弟の豊定や棟豊を因幡守護として入封させた。

 ほぼ同時期に祐豊は毛利氏と手を結んでいたが、鳥取城番であった武田高信の謀反などもあり、但馬山名氏としての因幡国での勢威は次第に衰えていくことになる。また、その後天正年間に至ると、今度は東隣の黒井城(兵庫県丹波市春日井春日町黒井)主・萩野(赤井)直正が但馬に侵入、このため、祐豊は信長方に転じている。

 こうした対応をとらざるを得なかったのは、それまで山名氏を支えてきた四天王が次々と離反していったことも背景にあった。但馬山名氏の支配力はもはや衰微のものとなっていたわけである。

【写真左】旧道と現登城道との合流点
 上記の位置から100mほど進むと、ここで北西方向に延びる尾根筋に突き当たるが、旧道と現在の登城道との合流点でもある。

 また、ここから上に向かって第3郭などが控えるが、写真はその下の方に延びる郭群で、およそ5段程度の郭が連続する。

 向きを変えていよいよ第3郭・本丸・千畳敷の方へ進む。



 ところで現地の説明板には、織田方(羽柴秀長)による二度目の但馬侵攻よる落城の際、有子山城の城主名が記載されていない。史料によれば、城主は築城者祐豊の三男・堯熙(あきひろ)といわれている。堯熙は西隣因幡国へ奔走したが、その後秀吉に許しを得て馬廻衆として仕えた。秀吉が亡くなった後は、秀頼に仕えたとされる。

◎関連投稿
宵田城(兵庫県豊岡市日高町岩中字城山)


【写真左】第3の郭
 最初に見えてくるのは第6の郭で、その脇を進みながら、第5郭、第4郭と続き、ここで一旦南側へ向かう通路を進んで行くと、真上に第3郭の石垣が見える。

 なお、この郭群と並行してさらに南の下段側には石取り場という遺構もあるらしいが、この日はそこまで向かっていない。
【写真左】高石垣
 第3から本丸方面に延びる北側の犬走り沿いの石垣は保存状態がよく、整然と並んでいる。

 この付近から直接本丸に向かうこともできるが、一旦この道を進んで本丸の東方にある千畳敷に向かう。
【写真左】千畳敷・その1
 当城最大の郭で、長径120m×短径50mという規模を持つ。

 これだけ大規模な郭であることから、相当数の居住建築物があったものといわれている。
【写真左】千畳敷・その2
 細かく見ると、3区分されており、西側(本丸側)が最も高く、東に向かって次第に下がっている。

 この巨岩は中央部北側にあったもので、大きな亀裂ができている。居館など施工した際利用されたものだろうか。
【写真左】本丸と千畳敷
 千畳敷から本丸に向かうにはいったん写真にみえる切通しのような底部に降り、再び本丸に向かって登る。

 地形的に築城前までは千畳敷と本丸箇所は連続する一つの尾根、もしくは頂点を一つにした箇所だったと思われる。

 切通しされた土は、左右の本丸・千畳敷の盛土としてかなりの量が使われたのだろう。

 そして、千畳敷と、本丸・第1,2,3郭などのグループとを完全にここで縁切りし、千畳敷における居館エリアを独立させていたものと思われる。
 この写真では、左側が本丸で、右側が千畳敷になる。
【写真左】本丸・その1
 千畳敷では見られなかった眺望がこの本丸で一気に広がる。
 この写真は南側から北を見たもの。

【写真左】本丸・その2
 本丸は長径50m×短径30mの規模でほぼ長方形の形をなし、西側の一角で少し高くなった箇所に天守台があったという。
【写真左】本丸から北を遠望
 写真右側には山名氏が有子山城に移る前の居城・此隅山城が見え、さらに奥には城崎の来日岳(567m)が見える。


【写真左】本丸から出石の街並みを見る。
 写真下段の方に観光客用の駐車場があり、一般の観光客はここを利用して出石の城下町を散策している。

 管理人もこの駐車場を利用させていただいたが、登城の準備をしているときに、係の男性の方から、有子山城に登城する我々夫婦に対し、御親切にパンフレットを頂いた。

 その際、山城としては近くの但馬・竹田城ばかりが有名になり、地元出石町としても、有子山城・此隅山城の知名度をもっと高めたいと、熱く語られた。
【写真左】第2郭
 これで下山するが、今度は直接本丸から第2郭へ降りていく。
【写真左】第2郭から本丸の石垣を見る。
 なお、この写真には写っていないが、本丸の北側の石垣には、「横矢掛かり」として西側に突き出た石積みが残る。




◎関連投稿
此隅山城(兵庫県豊岡市出石町宮内) ・その2

2013年9月25日水曜日

今滝寺(兵庫県養父市八鹿町今滝寺)

今滝寺(こんりゅうじ)

●所在地 兵庫県養父市八鹿町今滝寺
●開基 延久元年(1069)
●開祖 覚増上人
●指定 木造金剛力士立像(県指定文化財)等
●備考 八木氏菩提寺
●探訪日 2013年8月27日

◆解説(参考文献『但馬・八鹿 八木城跡』『城下町 八木散策絵地図』以上城下町八木の明日を創る会・八木城跡保存会編纂、その他)

 前々稿八木・土城(兵庫県養父市八鹿町下八木)で紹介した「城下町散策絵図」にもあるように、当地八木には八木氏に関係した史跡が数多く点在している。
【写真左】今滝寺
 この場所に着くまではなんどもカーブを繰り返しながら登っていく道をたどる。
 坂を登っていくと、上に少し見えている山門がある。
 


 ところで、八木城は平成9年頃国指定を受けているが、具体的に遺跡指定されているものは
  1. 八木城
  2. 八木土城
  3. 殿屋敷遺跡
  4. 赤淵遺跡
の4か所である。残念ながらこのうち3および4の遺跡については管理人は訪れていない。
 3、の殿屋敷遺跡は、第4代八木泰家のころ、即ち鎌倉期に地頭として八木庄の61町歩を治めていたころのものとされている。
 4、の赤淵遺跡とは、3、の殿屋敷から北に少し上った現在の赤淵池に当たり、天保6年(1835)の堤設置工事の際、柱・茶臼、開元通宝(12貫)などの出土により、この場所が伝承されていた赤淵大明神の跡とされている。
【写真左】今滝寺山門
 本堂のあった場所より大分下がった位置にあり、現在はこの門をくぐって本堂まで行く道は消滅している。
 山門の左右に下段の金剛力士像が入っている。


今滝寺

 今稿の今滝寺は国指定を受けてはいないが、八木氏の菩提寺として代々の位牌を祀ってきた寺院である。所在地は、前々稿八木・土城(兵庫県養父市八鹿町下八木)の中で写真で紹介しているが、八木城・八木土城の北の谷を隔てたところにある。

 現地の説明板より

“兵庫県指定文化財 木造金剛力士立像
  指定年月日 昭和58年3月29日
  所有者  今滝寺

 今滝寺は、八木城主八木氏の菩提寺として栄え、九院三坊の塔頭が並ぶ大寺院でした。今滝寺の山門には、二体の金剛力士像が安置されています。金剛力士像は仁王像とも呼ばれ、神通力で外敵を追い払い、寺院を守護する役割があります。
【写真左】金剛力士像・阿形
 こちらの方はうまく撮れたが、下段の吽形は手前の網でうまく撮れなかった。
【写真左】金剛力士像・吽形


 像はヒノキ材を用いた寄木造りで、口を開けた阿形は高さ235cm、左手を挙げて独鈷杵(とっこしょ)を握り、右手は下方にのびて五指を伸ばします。

 口を閉じた吽形(うんぎょう)は、高さ247cm、右手に独鈷杵を握り、左手は拳を握っています。上半身は裸でろっ骨が発達し、腕は太く筋肉質です。頭が大きくて胴体は長く、素朴な作風から地方作とみられています。

 木像の胎内に墨書の文字があり、正嘉2年(1258)3月に常光寺の仁王像として作られたことが判明しています。仏師は阿形が澄玄(ちょうげん)、吽形が淡路公です。

 常光寺も八木氏の菩提寺でした。八木氏第12代・八木宗頼の子の聖芳が常光寺の住職になっています。金剛力士像は永和4年(1378)、常光寺から今滝寺に移されたと伝えられています。

 今滝寺の山門は、昭和57年に解体修理をしてこの地に移転しました。今滝寺の正面の山には、国指定の八木城跡があります。
 地元で「今滝のおにおうさん」と呼ばれる金剛力士像は、八木城主ゆかりの歴史的文化遺産です。
   平成25年3月
        養父市教育委員会”
【写真左】今滝寺本堂
 山門の場所から再び車で上の方へ進むと本堂がある。現在建っているものは最近のもののようで、無住となっている。

 往時の建物は知るすべもないが、九院三坊であったことを思うと、かなりの規模だったものと考えられる。
 おそらくこの谷全体に今滝寺の建物が林立していたものと思われる。

 「当山の什物は県立歴史博物館へすべて預託中です。 今滝寺」
 とかかれた紙が貼ってある。

八木宗頼
 前稿でも宗頼について述べているが、宗頼の子聖芳を常光寺の住職にしたのは、文明16年(1484)とされている。この年、宗頼は播磨野口の合戦に出陣、奮闘した。この戦いは宗頼の主君山名教豊と、播磨の赤松政則との戦いである。
 宗頼は八木氏累代の中でも特に教養の高い武将であったようで、和漢に通じていたという。
【写真左】今滝寺から八木土城を見る。
 今滝寺の南の谷を隔て一旦西側に回り込み、そこから急峻な尾根を登っていくと、八木土城に繋がっているようだが、現在は道は消滅している。
 おそらく当時はこのルートが頻繁に使われていたものと思われる。
【写真左】熊野神社
 今滝寺本堂の向背に祀られている。
八木氏をはじめ、山名四天王の1人太田垣氏も熊野大権現(大社)の信仰者であった。



その他の八木氏関連史跡

西方寺

 今滝寺と同じく八木氏ゆかりの寺院で、第5代・八木重家、すなわち八木城を築城した鎌倉末期のころ、山深い今滝寺への寺詣でが困難な母のため、麓に建てたといわれる。国道9号線脇にあり、春になるとこの寺のシンボルともなった一本桜が車窓から眺められる。


薬師堂

 康平年間(平安期)の領主・閉伊氏が傷病平癒の祈願所として建立されたといわれる。八木城の登城口付近にあるため分かりやすい場所に建っている。
【写真左】薬師堂

 この他数多くの史跡があり、地元の「城下町八木の明日を創る会」や「八木城跡保存会」などによって作成された2種類のパンフに詳細が記載されており、大いに参考になる。

2013年9月21日土曜日

八木城(兵庫県養父市八鹿町下八木)

八木城(やぎじょう)

●所在地 兵庫県養父市八鹿町下八木
●別名 八木石城
●指定 国指定史跡
●築城期 建久5年(1194)~正治2年(1200)ごろ
●築城者 朝倉高清・八木重清
●城主 八木氏、別所重棟・吉治
●高さ 標高330m(比高230m)
●遺構 石垣・郭・堀切・土塁等
●登城日 2013年5月5日

◆解説(参考文献『但馬・八鹿 八木城跡』『城下町 八木散策絵地図』以上城下町八木の明日を創る会・八木城跡保存会編纂、その他)

 前稿「八木・土城」に続いて、今稿では東隣の尾根に築かれた八木城を取り上げる。
【写真左】八木城 本丸跡
【写真左】八木城の縄張図
 下段の説明板にもあるように、本丸の南に高さ9m、長さ40mの石垣が組まれているが、天守台跡と併せてこの城は、織豊時代の城郭構造の源流ともなっている。



現地の説明板より・その1

“但馬・八木城
 八木城跡
 八木町の背後にある西から東に延びる細い尾根上には、八木城と八木土城の2つの山城があり、南北朝時代(1333~92)のはじまりという。
 八木城は、標高330mの城山に造られた山城で、南北260m、東西340mに広がる大規模なものである。

 本丸には、山石を荒削りした石材で9.3mの高い石垣を積んで防御の要とし、文禄年間(1592~96)の構築と推定される穴太(アノウ)流の城郭石垣を造っている。さらに本丸には天守台や矢倉台、石塁を築いており優れた技術を見ることができる。
【写真左】登城始点口
 前稿「八木・土城」で紹介した下八木登山道の入口で、ご覧の柵が施された入口がある。
 猪・鹿よけのもので、中に入った後は、しっかりと扉を施錠しておく。
 ここから本丸までは約900mの距離である。


 縄張をみると、尾根を平坦にした曲輪を造り、東に6段、南に5段、北に3段というように山全体に城郭を配置している。

 八木城は、戦国時代の八木氏の本城であり、また別所氏が改修した豊臣時代の城郭である。八木城は、1万5千石の八木藩の貴重なシンボルであり、八木町は初期城下町として貴重な町並みを伝えている。
   八鹿町観光協会”
【写真左】城域に入る。
 写真には写っていないが、左側には岩を刳り貫いた箇所に地蔵(秋葉さん)が祀られている。
 なお、手前の削平地は東端部の最初の郭で、北側の斜面をほぼ真っ直ぐに進むと主郭(本丸)に至る。


現地の説明板より・その2

“八木城跡❶
 八木城は、中世の但馬国を代表する有力国人である日下部姓八木氏の城館跡である。

 麓には鎌倉時代以来の居館跡、山頂部には室町期の遺構、中腹部には戦国期から豊臣期の石垣等(八木城)が残り、中世の各時期の遺構が連続して遺存している。

 室町期の八木氏は山名四天王の1人として但馬国に勢力を張り、越前の朝倉氏とは同族である。豊臣期には山陰経営の拠点として豊臣大名の別所氏が入城し、城郭を整備拡張した。
 八木城跡は、「中世の山陰地方の政治史と城郭史を示す貴重な遺跡」として、平成9年3月6日に国の史跡に指定された。”
【写真左】二の丸
 前記の登城道には、途中で鋭角に分岐し三の丸方面に行く道があるが、先に本丸方面に向かうことにする。最初に出てくるのが二の丸である。

 主郭をほぼ全周囲む配置で、東に延びた先は三の丸に繋がる。
 写真奥に主郭(本丸)が控える。


八木氏

 上掲の説明板・その1では、築城期を南北朝時代としているが、前稿でも紹介したように、八木・土城については、平安後期の康平6年(1063)頃で、築城者であった閉伊氏が以後約130年間当地を治め、その後、鎌倉期の建久5年~正治2年(1194~1200)になると、日下部氏の流れを持つ朝倉高清が、閉伊氏最後の城主・閉伊十郎行光を攻め滅ぼし、高清が新たに土城の東峰に八木城を構えたとされる。
【写真左】二の丸から本丸へ向かう。
 本丸に向かうには、一旦南側まで回り込み、何度か折れながら枡形虎口となる主郭入口まで進む。



  同氏については、これまで但馬・朝倉城(兵庫県養父市八鹿町朝倉字向山)津居山城(兵庫県豊岡市津居山)鶴城(兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城)小代・城山城(兵庫県美方郡香美町小代区忠宮)男坂城(兵庫県養父市大屋町宮垣)などでも断片的に紹介しているが、八木氏を興した始祖八木安高は、朝倉高清の子である。

 前稿の八木・土城(兵庫県養父市八鹿町下八木)でも述べたように、それまで当地を支配していた閉伊十郎行光を朝倉高清が攻め滅ぼしたのが、建久5年(1194)前後といわれている。時期的には源頼朝が征夷大将軍になって間もない頃だが、同氏が当地を完全に領地したのは、やはり承久の乱(1221年)ごろといわれている。その後八木氏は15代、約300年以上にわたってこの地をおさめていくことになる。
【写真左】石垣
 主郭入口(枡形虎口)手前に見える算木積みによる石垣で、この面から西に向かって高石垣が続き、北に回るとしのぎ積みの遺構が続いている。
 おそらくこれらが下段に示す織豊時代、すなわち別所氏が城主となった時のものと思われる。


八木氏系譜

  1. 初代  八木安高 朝倉高清の子。八木氏始祖
  2. 2代  八木高吉 別名三郎。吾妻鏡に記載。常光寺に仁王像建立
  3. 3代  八木家高 別名二郎。建政元年(1275)京都八幡宮造営にあたり、5貫寄進。
  4. 4代  八木泰家 別名又次郎。八木庄(61町)地頭(1285年)。
  5. 5代  八木重家 別名弥二郎。法名・覚恵。初めて築城したという。
  6. 6代  八木家直 別名孫二郎。
  7. 7代  八木高重 法名・蓮阿。
  8. 8代  八木直重 法名・常光寺殿宗栄。
  9. 9代  八木重秀 法名・宝林院殿道彗。
  10. 10代 八木頼秀 法名・臨川院殿宗林。
  11. 11代 八木重頼 法名・曹源院殿宗材。
  12. 12代 八木宗頼 法名・大樹院殿長川宗久、花八重立老翁。
  13. 13代 八木貞直 法名・済川院殿宗森。
  14. 14代 八木直信 12代宗頼の子・宗世の33回忌を宗世寺で行う。
  15. 15代 八木豊信 法名・惰琳孺院宗松。天正5年(1577)第一次但馬攻めで降参。天正8年(1580)第二次但馬攻めにおいて、八木城から因幡・若桜鬼ヶ城跡(鳥取県若桜町)へ移る。
【写真左】主郭付近・その1
 主郭は手前の壇と、2m弱高くなった奥の壇にとに区分されている。
 天守台があったといわれているので、その基礎部分は高くなった箇所と思われるが、現地の規模を見るかぎり、さほど大きなものではなかったと推測される。
 低い方にはご覧の祠や仏像などが祀られている。



山名四天王
 
 説明板・その2にも記されているように、八木氏は後に山名氏の四天王の1人となっていくが、八木氏が山名氏に属したきっかけは南北朝期といわれている。資料によっては6代とされている5代・重家で、時の但馬国守護山名時氏のころで、本稿の八木城が丁度この頃本格的に前稿・土城から東峰に築かれることになる。
 12代・宗頼のころになると、時氏の孫・持豊(宗全)を補佐し、文明5年(1473)に宗全が死去すると、その嫡男・教豊の重臣となっていく。
【写真左】主郭付近・その2
 西側からみたもので、右に高石垣があり、手前から左側(北側)は算木積みが施されている。





八木豊信
 
 八木城における八木氏最後の当主・第15代豊信は、鶴城(兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城)でも触れたように、このころ八木氏をはじめとする山名四天王の統率は乱れ、それぞれ織田方・毛利方に分かれていった。
【写真左】高石垣・その1
 八木城の特徴である高石垣で、南側にあるが、説明板にもあるように、文禄年間(1592~96)の構築と推定される穴太(アノウ)流の城郭石垣。
 この写真は東側から見たもの。


 豊信は毛利方に与し、織田方による第一次但馬攻めの直前、豊信は吉川元春に援軍の要請を行っている。このころ毛利方は山陰側の攻めの拠点として、八木城と但馬竹田城を挙げている。
 上掲の系譜にもあるように、豊信は天正5年(1577)、羽柴秀長の但馬攻めにおいて降伏、その3年後には秀吉に従い、鳥取城(鳥取城・その1(鳥取県鳥取市東町2)参照)攻めに参加している。豊信は後に日向(宮崎)の佐土原城主・島津家久に仕えた。
【写真左】西端部の石垣
 西側から北側にかけては算木積みの石垣となっている。








別所氏

 天正13年(1585)、新たな八木城主となったのは、別所重棟(宗)である。別所氏については、以前播磨の三木城(兵庫県三木市上の丸)でも紹介しているが、有名な「三木の干殺し(三木合戦)」で自害した三木城主・別所長治は、重棟の甥に当たる。重棟は秀吉・信長に与すべきとして、一族内での意見が合わず、事前に合戦の前に三木城を出て、自ら浪人となっていた。
【写真左】三の丸・その1
 二の丸から東に向かって長く伸びるのが三の丸で、特に写真にみえる郭は長さ66m×最大幅17mと長大である。



 重棟は、その後秀吉から12,000石を与えられ、八木を本格的な城下町として整備し、八木藩を興した。6年後の天正19年(1591)、重棟の跡を継いで八木城主となった吉治は、重棟の子といわれているが、一説には長治の子ともいわれている。

 吉治はその後、関ヶ原の合戦では、西軍に与し、東軍方の丹後・田辺城(丹後・田辺城跡(京都府舞鶴市南田辺)参照)を攻めたが、西軍の敗戦によって、北由良に転封となり、慶長5年(1600)八木城は廃城となった。
【写真左】地蔵「三つ顔さん」
 三の丸最先端分に祀られているもので、地蔵二体がある。
 この先を下ると、更に鋭角に尖った長さ20m程度の郭があり、更に下には長方形の郭があり、その下には登城した際に見た「秋葉さん」が祀られている。