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2018年10月21日日曜日

大谷吉継の墓・陣跡(岐阜県不破郡関ヶ原町山中32)

大谷吉継の墓・陣跡(おおたによしつぐのはか・じんあと)

●所在地 岐阜県不破郡関ヶ原町山中32
●指定 国指定史跡
●参拝・登城日 2016年3月5日


◆解説
 徳川家康と石田三成による天下分け目の戦いといわれた関ヶ原の戦いについては、以前関ヶ原古戦場・笹尾山(岐阜県関ヶ原町)で紹介したが、本稿ではその三成に与し、現地で壮絶な戦いの末自害した大谷吉継の陣跡及び、墓を紹介したい。
【写真左】大谷吉継の墓
 吉継の墓は後段で紹介している陣跡から凡そ5分のところに建立されている。
 この日参拝したときも、一人の若い女性が花を持って上がってきたが、しばらくするとまた別の女性2,3人が同じく花を抱えて登ってきた。
 噂には聞いていたが、本当に彼の墓には花が絶えることがないようだ。


現地の説明板より その1

“国史跡(昭6・3・30指定)

大谷吉隆(吉継)墓

 吉隆は三成の挙兵に対し、再三思い止まるよう説得しましたが、三成の決意は変わりませんでした。
 旧友の苦痛を察した吉隆は、とうとう死を共にする決意をし、死に装束でここ宮上に出陣してきたのです。
 壮絶な死闘の末、吉隆は、首を敵方に渡すな、と言い残して自害しました。
 これは敵方藤堂家が建てたものです。

     関ヶ原町”
【写真左】藤川台(ふじかわだい)
 この辺りには藤古川(関の藤川)という川が流れているが、その右岸に位置している箇所で、その名が示すように、地形が平で、やや高いところにある。

 この場所で、吉継、戸田重政、平塚為広らが対陣し、小早川秀秋隊と壮絶な死闘を展開した。
 ここから右へ600mほど向かったところには、宇喜多秀家隊(18,000)があり、左に100m向かうと、平塚隊(吉継麾下)があったというから、平塚隊は、ほぼこの写真の場所である。

 吉継が最初に構えた陣はここから500mほど奥の森に入った場所にある。このあとそちらに向かう。


【写真左】大谷吉継の墓・その1
  途中で吉継陣跡と吉継墓に向かう分岐点があるが、先にこちらに向かった。
 周辺部は木立があるものの、整備されている。

 墓地の入口両側には吉継が使っていた二つの家紋のうち、「鷹の羽」の幟が建てられている。


大谷吉継

 大谷吉継については以前敦賀城(福井県敦賀市結城町)の稿でも述べたように、秀吉が関白になったとき、同時に刑部少輔に任じられ、天正17年(1589)9月に越前・敦賀城主として5万7千石を与えられている。
 吉継の出自については諸説あり確定していない。一説では近江伊香郡余呉町小谷の出で、父は九州豊後の大友宗麟の家臣・大谷盛治という。また別説では、六角義賢(よしかた)の家臣・大谷吉房の子ともいわれているが、いずれも裏付けがなく、定かでない。
【写真左】大谷吉継の墓・その2
 中央のものが吉継の墓で、その左奥にあるのは、湯浅五助隆貞。

 吉継の最期を見届けたのは、湯浅五助をふくめ僅か4名だったといわれる。
 吉継は彼らに、自分の頸を敵に晒したくない、敵に分からぬよう地中深く埋めるようにと命じていた。
 吉継自刃のあと、五助らは吉継にいわれた通り陣羽織に包んだまま埋めたという。その後五助以外の者は敵中に飛び込み討死したという(五助については後段参照)。

 なお、吉継の墓は五輪塔形式だが、湯浅五助のものは近世に建立されたもののようだ。因みに、墓そのものが設置されたのは明治39年8月と記されている。


 ところで、白い頭巾で顔を隠した姿が紹介されているが、それがハンセン病であったというのも記録になく、断定できない。もっとも関ヶ原の戦いの頃は殆ど目も見えない状態であったらしく、進行性の高い病気であったことは確かのようだ。

 関ヶ原の戦い前、再三再四三成に翻意を促そうとしたが、意志を曲げない愚直な三成に吉継も根負けし、勝ち目のない戦と知りながら三成との友情を選んだ。
 三成とは秀吉に仕官して以来およそ20年の付き合いである。因みに、吉継の娘は真田幸村の妻となっていることはよく知られているが、幸村の妹(姉とも)は、宇田頼次に嫁ぎ、頼次の妹は石田三成の妻である。つまり、真田昌幸を介して親戚関係でもあった。

 昨今の歴女ブームなどでも大谷吉継の人気が高くなっているが、男性からみても「義に生きた武将」として心を打たれるものがある。

藤堂高虎
 
 吉継の墓の脇には吉継の石碑が建立されている。これらは下段にもあるように、藤堂高虎の子孫で、第21代当主高紹の書になるものである。
【写真左】「大谷刑部少輔吉隆碑」と筆耕された石碑
 表には
昭和15年9月15日
東京帝国大学教授文学博士 宮地直一 撰文
関ヶ原古蹟保存會長 升田憲元 建立

 とあり、裏には
伯爵 藤堂高紹 書
 と刻まれている。

 藤堂高紹(たかつぐ)は、藤堂高虎に繋がる藤堂宗家第21当主。関ヶ原の戦いで高虎は東軍方として戦い、京極高知(たかとも)らと吉継を相手に戦った。

 伝承では、湯浅五助が吉継の頸を埋めていた現場を藤堂高利(高虎の甥)に見られ、このことを口外しないとの約束で、五助は高利の介錯により頸をうたれた。そして、五助の頸は家康による頸実検の場に出され、高利は吉継の頸のありかを問われたが、五助との約束を堅く守り答えなかった。家康もそれ以上問い詰めることもなく、むしろ褒め称えたといわれる。
 頸実検の際、おそらく高虎も同席していたと思われ、事前に高利は高虎に相談し、家康に問われても拒否する旨を伝えていたものと思われる。

 関ヶ原合戦後、藤堂高虎はこの地に吉継の墓と五助の墓を建立したとされ、上掲したように明治になって再築されたものと思われる。

◎関連投稿
宇和島城(愛媛県宇和島市丸之内)

大谷吉継陣跡

 吉継の墓から南に少し向かうと、吉継の陣跡がある。この場所は南麓を東西に走る旧中仙道を挟んで、南に小早川秀秋が陣した松尾山を望む位置になる。

現地の説明板より その2
 
“大谷吉隆(吉継)陣跡

 親友三成の懇請を受けた吉隆は、死に装束でここ宮上に出陣してきました。
 松尾山に面し、東山道を見下ろせるこの辺りは、古来山中城といわれるくらいの要害の地でした。
 9月3日の到着後、山中村郷士の地案内と村の衆の支援で宇喜多隊ら友軍の陣造りも進め、15日未明の三成ら主力の着陣を待ったといいます。
     関ヶ原町”

【写真左】吉継陣跡・その1
 吉継の周りにはこの陣下に平塚為広、木下頼継、戸田重政らが陣取り、吉継前線部隊の形をとっていた。
 写真でいえば、右側の斜面付近に当たる。
【写真左】吉継陣跡・その2
「宮上 大谷吉隆陣所古址」と刻まれた石碑が建立されている。
 このあと、さらに東にある松尾山眺望地に向かう。
【写真左】松尾山眺望地
 陣跡から少し歩くと松尾山眺望地がある。

現地の説明板より

“松尾山眺望地

 正面1.5キロ先に望む標高293mの山が松尾山である。関ヶ原合戦において、小早川秀秋が布陣したことで有名である。当時の遺構がほぼそのまま残っており、山頂に軍旗が翻っているのが確認できる。

 吉継は予てから秀秋の二心を疑っていたので、自ら約2千の兵を率い下方山中村の沿道に出て、専ら秀秋に備えていた。案の定秀秋の兵1万3千が山を下り突撃してきたが、その大軍を麓まで撃退すること三度。遂に総崩れとなり吉継は自刃した。
 こうして眼下で数倍の敵と互角以上の死闘を展開した大谷吉継の雄姿が偲ばれる。
    関ヶ原町”
【写真左】眺望地から松尾山を見る。
【写真左】吉継の顔出し看板
 どういう目的で設置されいるのか分からないが、吉継公に憚りながら………。
【写真左】関ヶ原古戦場 決戦地
 関ヶ原古戦場・笹尾山(岐阜県関ヶ原町)の稿でも述べたが、大谷勢が小早川勢の攻撃を受け西軍方右翼が崩壊すると、東軍の攻撃が左翼にあった笹尾山の石田勢に一気にシフトする。

 笹尾山の南では激戦が繰り広げられた。この場所を決戦地としている。
 なお、この場所から石田勢の笹尾山が見える。

2018年2月4日日曜日

岐阜城(岐阜県岐阜市金華山)

岐阜城(ぎふじょう)

●所在地 岐阜県岐阜市金華山
●別名 稲葉山城、金華山城、井ノ口城
●高さ 336m(比高308m)
●築城期 建仁年間(1201~04)
●築城者 二階堂行政
●城主 二階堂行政、佐藤朝光、その他(下段参照)
●廃城年 慶長5年(1600)
●指定 国指定史跡
●遺構 郭・石垣・居館等
●登城日 2015年10月25日

◆解説
 切り立つ山の頂点に天守(模擬)を設け、眼下に広大な濃尾平野を俯瞰する岐阜城。改めて紹介する必要もないほどの有名な城郭であるが、管理人にとって長い間未登城のままだったこともあり、今回(2015年)やっとその念願がかなった。
【写真左】岐阜城遠望
 麓から見たもので、管理人のカメラはズームの能力に限界があるため、天守は豆粒ほどの大きさになっている。
 手前は織田信長像。



 岐阜城の歴史については、下段に示すように現地に詳しい内容が掲示されている。

現地の説明板・その1

“岐阜城の歴史(1) 二階堂行政~長井新左衛門尉

 13世紀のはじめ(建仁のころ)、鎌倉幕府の政所令(まんどころれい)二階堂行政が、ここに砦を構えたのが築城のはじめです。二階堂氏は鎌倉の二階堂に住み、氏を称えました。
 その一門は、関東から美濃・伊勢・薩摩などで豪族として栄えました。美濃の場合、関の新長谷寺(しんちょうこくじ)(吉田観音)を建てたのも二階堂氏です。

 その後、行政の子孫はここに居城し、姓を稲葉氏と改め稲葉山城といわれるようになりました。
 戦国時代の動乱の中で、土岐・斉藤氏の一族が稲葉氏の砦遺構を利用して、ふたたび城を築き、城下町もできました。大永5年(1525)、美濃国で内乱がおき、守護土岐氏と守護代斉藤氏の実権は、長井氏に移りました。稲葉山城も斉藤氏の一族が居城していましたが、長井氏に追放され、長井新左衛門尉の居城となりました。新左衛門尉は、斉藤道三のの父親といわれ、大永から享禄年間(1521~32)の史料に、名前がしばしばでてきます。”
【写真左】若武者の出迎え
 いつもの山城と違って、岐阜城ではこのように甲冑を身に付けた若武者が出迎えてくれた。

 10月の後半とはいうものの、この日は夏の様な陽射しで、特に冑を被った左の武将には、顔から滝のような大汗を掻きながらポーズをとっていただいた。ご苦労様です。





現地の説明板・その2

“岐阜城の歴史(2)  斉藤氏三代(道三・義龍・龍典)

 斉藤道三が、灯油売り商人として、京都から美濃国へ下り、守護土岐頼芸(よりなり)の知遇を得て、美濃一国を征服したことは、NHKの大河ドラマ「国盗り物語」などで有名です。
 しかし、最近発見された南近江の大名六角承禎(じょうてい)書状から、道三の前半生は父の長井新左衛門尉のことであり、後半生が道三の事績ということがわかりました。

 道三は稲葉山城を要害化し、山の西麓に居館を建て、百曲通(ひゃくまがりどおり)と七曲通(ななまがりどおり)に住人を集めて城下町をつくりました。
 また、御園・岩倉・中川原に市場を設けて、商取り引きを盛んにしました。
 天文23年(1554)、道三は突然隠退して家督を子の新九郎利尚(としひさ)(義龍(よしたつ))に譲りましたが、やがて父子の対立が生じ、弘治2年(1556)の戦いで討死しました。
【写真左】岐阜公園案内図
 岐阜城の東麓部には岐阜公園をはじめとする多くの史跡が点在している。
 この図では文字が小さいため分かりにくいが、左上に岐阜城があり、一般の観光客は東麓部にある金華山ロープウェーを使って向かう。

 因みに、このロープウェー乗場の近くには、現在発掘調査中の織田信長居館跡(後段参照)などがある。
 

 義龍は戦国大名として領国経営に力をそそぎましたが、道三死後、わずか6年で突然病死し、あとを幼い虎福丸(龍典)が継ぎました。
 しかし、斉藤氏の勢威は弱まり、織田信長の攻勢が盛んになる時に、永禄7年(1564)、家臣の竹中半兵衛重治らによって、稲葉山城が一時期占拠される事件がおきました。
 その後、竹中氏らは敗北し、稲葉山城は再び龍典の手に戻りましたが、この事件によって斉藤氏は一挙に衰退し、ついに永禄10年(1567)、稲葉山城は織田信長に攻略され、龍典は城を捨てて逃れました。

    岐阜市”
【写真左】山頂のロープウェー駅に着く
 本来ならば麓から足を使って登るべきだが、乗車中に見る稲葉山からの景色も見たかったので観光客と一緒にロープウェーに乗って着いた。

 写真は本丸に向かう最初の門だが、この駅の手前に硝煙蔵などがある。



歴代城主

 およそ400年という長い歴史を持つ城址であることから、当然歴代城主の数も多くなる。しかし他の城郭はそうした状況の場合、城主名が詳細に記録されているところは意外と少ない。この点岐阜城については、史料が余り消失することがなかったのか詳しく残っている。参考までに現在分かっている城主名を時系列で紹介しておきたい(参考 Wikipedia:等)。
【写真左】伝・一ノ門跡
 岐阜城の各出入口にはこうした巨石や石垣を使った門跡がある。手前の石は元々上に積まれていたようで、崩落してこの位置にあるようだ。




(1)二階堂氏・伊賀氏  (鎌倉~南北朝~室町初期)

 二階堂行政(二階堂氏祖)、伊賀朝光(二階堂行政の娘婿)、伊賀光宗(朝光次男)、稲葉光資(光宗弟)、二階堂行藤(二階堂行有の子)
【写真左】馬場跡
 現地にはご覧の様に敷石が張られ、歩きやすい通路のようになっているが、当時の馬場跡といわれている。
 規模 幅3間(5.4m)×長さ30間(54m)。一説では馬場でなく、矢場ともいわれる。



(2)美濃斉藤氏・家臣  (室町~戦国期)

 斉藤利永(稲葉山城再興)、斉藤妙椿(利永弟)、斉藤利藤(利永嫡男・妙椿養子)、斉藤利茂(利藤養子の息子)、長井新左衛門尉(長井長弘家臣:元京都妙覚寺僧)、斉藤道三(長井新左エ門城嫡男)、斉藤義龍(道三嫡男)、斉藤龍興(義龍嫡男)、安藤守就(龍興家臣)
【写真左】切通
 馬場跡を過ぎて進むと、途中で左手に尾根を断ち切った切通(堀切)が見える。
 写真左側が登ってきた一ノ門で、右に行くと次に紹介する二ノ門などが控える。



(3)織田氏及び豊臣家臣  (戦国期~安土桃山)

 織田信長、織田信忠(信長嫡男)、斉藤利堯(斉藤道三の子・織田信忠家臣)、織田信孝(信長三男)、池田元助(池田恒興嫡男)、池田輝政(池田恒興次男)、豊臣秀勝(秀吉姉の子)、織田秀信(織田信忠嫡男)
【写真左】二ノ門
 この辺りから道は屈曲したラインとなり、二ノ門という虎口が出てくる。これを過ぎると、再び屈曲して「下台所」という郭段があり、そこから階段を登っていくと、「上台所」が控える。
 写真に見える白壁の塀は近代のもの。
【写真左】上台所へ向かう。
 この写真では見えてないが、中央の明るい箇所には天守が見えている。
【写真左】井戸跡
 台所(上台所)の脇から下に降りると、ご覧の井戸跡がある。
 井戸といってもこの付近の地形・地質から考えて、下に水源があるとは思えず、現地の説明板にもあるように、岩盤を四角形にくり抜いて造られ、雨水を貯めた貯水施設だったようだ。
【写真左】いよいよ天守が見えてきた。
【写真左】鷺山城及び黒野城を俯瞰する。
 坂道途中から左手に長良川を挟んで、北西方向には鷺山城と黒野城が確認できる。

 鷺山(さぎやま)城は、標高70m弱の丘城で、鎌倉時代に佐竹常陸介秀義が築城したといわれ、その後土岐氏が代々居城とし、戦国期に至り、土岐頼芸の重臣であった斉藤道三がのちに嫡男義龍と対立したとき、この城に拠った(下段の説明板参照)。

 黒野城は、秀吉の家臣加藤貞泰が築城し、家康の代までわずか16年間しか使用されなかった。
【写真左】天守
 鉄筋コンクリートによる3層4階建てで、昭和31年(1956)復元されている。
 斉藤氏や信長時代、どのようなものだったかわからないが、「天守」は池田輝政時代に改変されている。

 なお、岐阜城ではもう一つ「てんしゅ」と呼ばれていたところがある。それが麓の「天主」といわれたところで、信長時代の御殿跡を指す。下段の写真でも紹介しているように、現在も発掘調査が続けられている。
【写真左】二階堂行藤画像
 天守の中には岐阜城に関係した武将たちの資料などが展示されている。

現地説明板より

“二階堂氏
 鎌倉時代に入って、源頼朝い仕えて功績を挙げた二階堂山城守行政が、建仁年間(1201~1204)に稲葉山頂に砦を築いたとする説がある。ついでその子・佐藤伊賀守朝光、その二男・伊賀二郎左衛門光宗、光宗の弟・稲葉伊賀三郎左衛門尉光資まで代々居城したといい、正元の頃(13世紀半ば)に、二階堂行政の5代目に当たる二階堂出羽守行藤入道道雅が暫く居城したとされる(美濃明細記、美濃雑事記)。行藤の画像が関市の新長谷寺にある。” 

 なお、二階堂行藤は行有の子で、永仁元年(1293)に鎌倉幕府政所執事となり、正安3年(1301)出家し、同年東宮儲嗣問題解決のため、幕使として上洛している。


【写真左】斉藤妙椿像
 
 現地説明板より

“斉藤妙椿(みようちん)
  応永18年(1411)~文明12年(1480)

 美濃守護代として、応仁文明の乱に守護土岐成頼在洛10年の間、その兵站の確保に努め隣境の諸強の侵入を許さず、よく留守役の大任を果たした。
 土岐氏は初め東軍細川氏に従ったが、後に西軍山名氏に味方した。東軍側に味方していた郡上郡大和村牧の東常縁の篠脇城を占領し、不破郡関ヶ原町今須の長江氏を滅ぼした。後日東常縁の和歌に感動して、篠脇城を東氏に返還した。文武両道をわきまえた立派な武将である。”

 斉藤妙椿は、文明3年(1471)に近江の太尾山城(滋賀県米原市米原)を攻略しているが、この戦も応仁・文明の乱の最中で、おそらく上掲の説明板にある不破郡関ヶ原町今須の長江氏を滅ぼした戦いと連動したものだったのだろう。 
【写真左】斉藤道三像

現地説明板より

“斉藤道三公
  生年不詳~弘治2年(1556)
 斉藤道三は下剋上大名の典型であり、僧侶から油商人を経てついに戦国大名にまで成りあがった人物だとされてきた。近年は古文書「六角承禎条書」によって、美濃の国盗りは道三一代のものではなく、父・長井新左衛門尉との二代にわたるものとする説が有力になっている。
 道三は、天文年間(1532~54)には稲葉山城の修築を行い入城したとされる。また、のちに娘・濃姫を嫁がせ織田信長と姻戚となった。天文23年(1554)、家督を子・義龍へ譲り、常在寺で剃髪入道を遂げて道三と号し、鷺山城に隠居した。
 弘治2年(1556)、長良川の戦いで子・龍興に敗北し戦死。その首塚が道三塚として今に残る。”


【写真左】織田信忠像

現地説明板より

“織田信忠
  弘治3年(1557)~天正10年(1582)
 元亀3年(1572)正月に弟の信雄・信孝とともに岐阜城で元服して勘九郎信重と名乗り、7月には信長に従って浅井攻めに初陣した。天正2年(1574)、信忠と改めた。翌3年11月、信長から正式に家督と尾張・美濃を与えられ、岐阜を居城とする。同5年10月には松永久秀討伐の功績により、従三位左中将に叙任。これ以後、順次信忠は信長に代わって軍団を指揮することが多くなり、同7年の荒木村重討伐や、同10年の甲斐遠征には一月足らずで武田氏を討伐するなど、その手腕が大いに発揮された。本能寺の変時には、寄宿先の妙覚寺から二条新御所に立て籠もるが、明智光秀軍の猛攻に遭って自刃した。享年26歳。”
【写真左】織田秀信所用烏帽子形兜
 織田秀信は、織田信忠の嫡男で、信長の孫に当たる。幼名は三法師。

 有名な清州会議で信長後継を巡って、秀吉が肩車している絵が知られているが、その秀吉の肩に乗った幼児が三法師、後の織田秀信である。
 関ヶ原の戦いでは西軍に属し、敗戦後岐阜13万石は没収され、高野山へ送られた。しかしほどなくして下山し、死因は不明だが、奇しくも父と同じ26歳の若さで亡くなっている。
 結果的には岐阜城最期の城主となった。
【写真左】石垣
 天守台を降りて、帰りはさらに南に延びる犬走りのような道を進んだが、その途中の右上にご覧の石垣が見える。

 元々この付近の地形は谷を形成していたが、この石垣で両側を護岸し通路を構成している。
 また、この近くにも貯水用の井戸が残っている。
【写真左】信長居館跡・その1
 ロープウェーで下山後、西麓にある信長居館跡に向かう。
 現在も発掘調査中のため、中に入ることは出来ないが、外から状況を確認できる。
【写真左】信長居館跡・その2
 今のところ、信長居館跡は、2か所に分散し、A地区では大規模な庭園が、B地区では
茶室などがあったとされている。
【写真左】信長以前の居館
 斉藤氏時代のものといわれ、下層から石積の穴と階段が確認されている。

 地面の上に炭層があることから、信長が稲葉山城(岐阜城)を攻略した際、火災があったことを示すものとされる。  



秀吉と墨俣城

 ところで、歴代城主として最も有名なのは、上掲した説明板にもあるように、斉藤道三と織田信長であるが、信長が岐阜城を落城させ、入城したのは、永禄10年(1567)8月15日といわれる。
【写真左】岐阜城から墨俣城方面を見る。
 右に見える長良川を下っていくと、次第に左にカーブし、大垣市の飛地の一つ墨俣町が西岸と接し、その北東端では犀川が合流する。

 墨俣城はちょうどその合流地点に築かれた平城である。
 伝承では秀吉が一夜で築いたといわれ、通称「墨俣一夜城」とも呼ばれている。


 
 入城に至るまでの経緯は他の資料などにも多く書かれているので詳細は省くが、岐阜城攻略の下準備をつくったのは信長の命を受けた木下秀吉(秀吉)である。永禄9年(1566)9月24日、斉藤龍興を落とすため、秀吉は同国(美濃)墨俣に城を築き、龍興を破った。

 この墨俣城というのは、岐阜城の麓を流れ長良川を凡そ12キロほど下った大垣市墨俣町墨俣にあった城で、現在その位置に墨俣一夜城歴史資料館という模擬天守が建っている。

2011年2月23日水曜日

関ヶ原古戦場・笹尾山(岐阜県関ヶ原町)

関ヶ原古戦場(せきがはらこせんじょう)
           ・笹尾山(ささおやま)

●所在地 岐阜県関ケ原町
●指定 国指定史跡
●探訪日 2008年3月19日

◆解説
 今稿は山城ではないが、戦国時代最大の合戦が繰り広げられた美濃国不破郡の関ヶ原古戦場を取り上げる。
 【写真左】関ヶ原古戦場の碑













青野原の戦い

 ところで、この関ヶ原では、慶長5年(1600)の合戦よりさかのぼること約260年前の南北朝期にも大きな戦が行われている。

 延元3年(暦応元年:1338年)正月28日、南朝方の命運をかけて奥州から北畠親房の長子・顕家(あきいえ)が、足利軍の大将・高師冬とこの関ヶ原で激突した。当時、この地は「青野原(あおのがはら)」と呼ばれていたところで、この戦いは後に「青野原の戦い」と呼ばれている。

 戦いの結果は顕家の大勝利に終わるが、5月25日、和泉堺浦で大敗し顕家は討死した。わずか21歳であった。
 顕家は公家の出であったが、武功の誉れ高く、また建武の新政を行った後醍醐天皇に対しても遠慮することなく、堂々と意見を述べている(「顕家奏上文」)。

 ところで、当地の地名「青野原」が、いつごろ「関ヶ原」となったか分からないが、一説には現在の「関東」「関西」の元となったのが、「関ヶ原」の「関」からきているともいわれている。

笹尾山
 さて、この日探訪したのは、西軍方石田三成が陣した笹尾山付近である。戦いの推移については他の史料やサイトで紹介されているので、ここでは一部を除いて割愛させていただく。
【写真左】関ヶ原町観光案内図
 写真中央上部に「笹尾山」の位置が示されている。

【写真左】「決戦地」の案内板

“国史跡(昭和6年3月30日指定)
 決戦地

 西軍有利な陣形で臨んだ戦いでしたが、小早川と脇坂ら4隊の裏切りは、たちまちにして戦況を一変させました。

 小早川勢の大谷隊への突入と同時に、西軍の敗色が濃くなり、各軍の兵士の浮足立つなか、石田隊は集中攻撃を受けながらも、最後まで頑強に戦いました。

 笹尾山を前にしたこの辺りは、最大の激戦のあったところです。
関ヶ原町”

【写真左】島左近(勝猛)陣跡の説明板

“島左近(勝猛(かつたけ)陣跡

 三成が家禄の半分を与えてまでも仕官させたといわれる左近です。

 前日の杭瀬川の戦で中村隊を破り、本戦では石田隊の先手として布陣。黒田・田中らと奮戦後、家康本陣に迫ろうとしましたが、銃弾を受けて討死したともいいます。

 鬼の左近と称され、謎に満ちた猛将像は、諸書に様々な姿で描かれています。
関ヶ原町”

【写真左】石田三成の陣地・笹尾山
 小高い丘陵地にあって、「竹矢来(たけやらい)」という竹や丸太をもちいた囲いが復元されている。

 三成はこの丘の頂部に陣取り、指示を与えていたという。




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大谷吉継の墓・陣跡(岐阜県不破郡関ヶ原町山中32)

2009年7月10日金曜日

苗木城(なえぎじょう)跡・岐阜県中津川市苗木

苗木城(なえぎじょう)

●登城日 2007年10月16日
●所在地 岐阜県中津川市苗木
●別名  霞ヶ城、赤壁城
●遺構  石垣、郭
●築城主 説その1:遠山直兼、広恵寺城を高森山に移築
      説その2:建武年間(1334~35)
●城主  遠山氏、森氏、川尻氏
●指定  国指定(昭和56年)

◆解説
 当城の初期の沿革ははっきりしないところがあって、上段に示した遠山直兼が天文元年(1532)に移築した時期が築城期とされているが、当城の特徴から見ると、もっと古いような気もする。

【写真左】苗木城の石垣








 もともと砦形式の要塞だったものを直兼が、織田信長の支援によって改修・拡張したということらしい。

 そもそもこの地をおさめていた遠山氏は、前稿の岩村城と同じく南北朝時代にすでにこの地で活躍していたことを考えると、築城期はそのころと考えた方がいいと思う(別の史料によれば、後醍醐天皇が建武の新政をおこなった時期、すなわち1334~35年という記録もある)。
【写真左】苗木城













 前稿で取り上げた「岩村城」と同じく、遠山氏一族の居城だが、遠山氏は室町期に入ってから東美濃地方で勢威を張り、七遠山、遠山三人衆などと呼ばれた。この中の三人衆とは、岩村城の岩村、明知城の明知、そして今稿の苗木の遠山氏である。

 戦国時代になると、城主・直兼は岩村城と同じく織田信長の妹をめとり、信長方に属する。しかし、信長が本能寺の変で亡くなると、豊臣方の森長可に攻め落とされ、直兼の養子だった友忠は、家康方を頼って落ち延びる。

 関ヶ原の戦いが勃発すると、友忠の嫡男・友政は当寺苗木城主だった川尻氏(豊臣方)から当城を奪還する。この軍功を家康から認められ、遠山氏は再びこの苗木の領有をすることになり、江戸の末期まで苗木藩を治めていく。

【写真左】天守跡に建つ矢倉
 苗木城の特徴はとにかく岩や巨石の多さと、それを巧みに利用した普請が挙げられれる。

 写真の矢倉は最近復元されたもので、当時こうした形だったかははっきりしないが、おそらくこれに類した木製構造の建物があったのだろう。
【写真左】苗木城本丸から眼下を望む。












【写真左】大矢倉跡

これも地山の岩を利用しながら、石垣をうまく築いたもので、三の丸に当たる。
 








【写真左】本丸跡付近から見た木曽川

 川向うの町は中津川市街。城域全体が岩山でできたような雰囲気があり、そのために本丸付近には余分な雑木も少なく、眺望は極めて良好である。

 意外と現在の山城で四方を望める眺望をもったものは少ないが、その点、苗木城は十分満足させてくれる。
【写真左】本丸の下部分














◆まとめ

●登城したのは、前稿の岩村城登城と同じ2年前で、当時デジカメも少し型が古く、撮影した写真枚数は多くなかった。
 また、撮影のアングルもいま一つのものばかりで、今思うと、もう少し要所を考えて撮ればよかったと少し悔いが残る。

●なお、苗木城も見ごたえのある山城だが、さらによかったのは、麓にある「苗木遠山資料館」である。とにかく苗木城に関する資料の多さ、収蔵品のグレードが予想以上に高く、さらに研究・調査資料の質の高さ等々、数えればきりがない。

 じっくりと調べようとするなら、この資料館で丸一日はかかってしまう。さすがに国の史跡指定を受けるだけのものはある。

 日本三大山城も素晴らしいが、この苗木城は別の意味で感動できる山城である。

2009年7月7日火曜日

岩村城(いわむらじょう)跡・岐阜県恵那市岩村町字城山

岩村城(いわむらじょう)跡

●登城日  2007年10月16日
●通称    霧ヶ城
★日本三大山城の一つ、標高721m
●城郭構造 梯郭式山城 ●天守構造 なし
●築城主 加藤景廉
●築城年 1185年(文治元年) または1195年(建久6年)
●主な改修者 川尻鎮吉、各務兵庫
●主な城主 遠山氏、森氏、大給松平氏、丹羽氏
●廃城年 1871年(明治4年)  ●遺構 石垣、郭
●指定文化財 史跡
●再建造物 藩主邸
●所在地 岐阜県恵那市岩村町字城山

【写真左】岩村城の石垣群
一段ごとの高さはさほどないものの、何層にもわたって積み上げられた光景は他の山城とは一線を画すものだ。






★はじめに
 このところ島根・出雲部の山城を連続して投稿していて、なかなか県外の山城紹介に至っていない。
 そこで、今年に入って前稿までが99回ということから、100回目は県外の山城とし、日本三大山城の一つ、岐阜の岩村城を取り上げる。

 ところで、当ブログ名である「西国…」という区域からすると、この岩村城は「西国」とは言えず、むしろ「東国」といったほうがいいかもしれない。しかし、山城探訪に興味を持つものとしては、日本三大山城の一つであるこの岩村城は、他の二城(高取城・備中松山城など)と同じく、一度は登城したいという衝動にかられる山城である。

 ただ、何しろ出雲からこの信州に近い恵那の山奥に行くまでは相当の距離があり、さすがに普段の近在の山城探訪(日帰り)というわけにはいかなかった。事前に当城の麓にあった宿(白壁の岩村城を模した建物)に予約をとっておき、出発日(2007年10月)朝早く出雲を出て、高速を乗り継ぎ、現地の宿に着いたのは意外に早く、3時過ぎだったと思われる。

 あくる日の朝、この宿から登って行った。途中で「クマ出没:注意」との表示があった。こうした表示は事前の心構えとしては有難いが、実際にクマが出てきたら、これはもうどうしようもない。用心棒がわりとして愛犬「トミー嬢」を連れているが、実際に出くわしたら、トミー嬢は、用心棒どころか、我先に逃走すること間違いない「不忠義の犬」である。

 注意表示の話でついでながら、よく断崖絶壁下の道を車で通ると、「落石注意!」という標識を見かける。これも「落石」した段階でぶつかればアウトで、「注意」しようにも、車の運転をしておれば、ほぼ不可避で、「運がなかった」ということだと思っている。

 脱線してしまった。岩村城の登城道は途中の遺構を楽しむため、徒歩によるコースと、汗をかかず車で本丸付近まで行けるコースとがある。クマさんとの出会いは、当然徒歩のコースだが、途中に何箇所か石敷の道があり、雨上がり後の登城は足元が滑るので注意が必要。
 本丸までの時間はどのくらいだったか、2年も前のことなのではっきりと覚えていないが、おそらく2時間程度はかかったと思われる。途中で興味のある遺構が点在していたこともあり、じっくりと見たことや、結構きつい傾斜面もあり、結果として時間を相当費やした。

◆解説
 この山城については、他のサイトや紹介資料で相当説明がされているので、当ブログで改めて紹介する必要もないが、一応記しておきたい。

 冒頭の沿革にもあるように、築城期には2説あり、ひとつは文治元年(1185)であるから、源義経が壇ノ浦で平氏を滅ぼし、頼朝が諸国に守護・地頭を置いた時期。もう一つは建久6年(1195)とあり、頼朝が征夷大将軍になった建久3年から3年後である。2説ともそれらしい時期に思われるが、どちらにしても鎌倉の開幕期であることは間違いない。


【写真左】岩村城下(町)にある「巌邑城址碑」の公園付近
 巌邑城と銘記されているため、当初この地に同城があったものと思われたが、岩村城の別名であるようだ。
 ただ、この付近は信長勢が岩村城を攻めよせた際に陣取った場所の一つでもあるらしい。


 築城者となっている加藤景兼は頼朝の重臣だが、本人は一度もこの岩村の地には地頭として赴任しておらず、景兼の子・影朝の代になって初めて岩村の地に赴任し、姓も加藤から遠山氏に改姓した。

 下って、戦国期の元亀元年(1570)、遠山氏最後の城主となった景任は、武田信玄に攻められるが、信長の援護で死守する。しかし、翌元亀2年、景任は病没したため、信長が五男の御坊丸を遠山氏の養子とさせる。御坊丸は幼少だったため、景任の未亡人である「おつやの方」(おゆう、またはお直の方とも)が御坊丸に代わって「女城主」として采配を振るったという。なお、この「おつやの方」は信長の叔母に当たる。このこともあって、当城には「女城主」としての秘話が残されている。

 元亀3年(1572)10月、武田信玄は遠江の徳川家康を攻めると同時に、配下の秋山信友に岩村城の攻略を命じた。しかし、岩村城は標高721mに本丸を頂く山城である。容易に岩村城は落城しなかった。このため信友はおつやの方を説得し、自分の妻に迎えて遠山一族を守ることとした。
【写真左】本丸跡付近から岩村の町を見る
 本丸跡から城下が望める場所はあまりなく、特に成長した樹木が多く、眺望は期待できない。






 天正3年(1575)、長篠の戦いで武田勢が弱体化した期を図って、信長は岩村城を奪還すべく5か月にもわたる激戦を展開、ついに岩村城は落城した。

 この際、遠山氏の主だったものの命は保障するとの約束を、信長は翻して、信友夫妻(おつやの方)をふくめ5名が、長良川河川敷で逆さ磔(はりつけ)となって処刑されたという。自分の叔母でも殺すという、残虐な行為を行う信長の冷酷な一面が見える。

 その後、織田方の城となり、河尻秀隆が城主となった。この秀隆の時に大規模な改修がなされたといい、現在の岩村城の基礎が出来上がる。

 その後、秀隆は甲斐に移封され、団忠正が城主となるが、3か月後本能寺の変で忠正は戦死。信濃国から森長可が接収、長可没後は森忠政と森氏2代が続く。このときの城代家老・各務兵庫助元正が18年の歳月をかけて現在の岩村城を近代城郭とした。
 その後の経緯については、省略する。
【写真左】岩村城の石垣その1
 岩村城の紹介写真ではよくこの石垣が取り上げられるが、おそらくこの石垣群が整備されたのは織豊期である河尻秀隆が城主となったころと思われる。







【写真左】岩村城の石垣その2

 左側が本丸になり、右にはかなり大きな平坦地がある。現在その場所に売店のようなものが建っている。







【写真左】本丸跡付近
 この場所には、100円か、200円を入れると、最初に歌が流れてくる機械が設置してある。歌っているのは、故人となった演歌歌手・春日八郎で、歌の題名も確か「岩村城」か「女城主」を讃えたものだったと思う。

 この歌を聞いた瞬間、もうずいぶん前だが、春日八郎が、この岩村城や女城主に興味を持っていたことをテレビで見たこと思い出した。

 歌が終わった後は、当城の説明がしばらく続く。現地まで徒歩で登ってきた者にとって、休憩と併せてこうしたものを聞けるのは何となく気が休まる。

 ちなみに、歌までは入っていないが、本丸に説明用のアナウンスが流れる仕組みがあったのは、広島・備後の新高山城にもそうしたものがあったと記憶している。




◆岩村城はその城下町と合わせ観光地としてかなり有名なようだ。また、遠山氏は江戸期に入って、その末裔が、昔テレビでやっていた「遠山の金さん」こと、遠山金四郎とのことで、これもまた興味深い流れがある。