譲傳寺(じょうでんじ)
●所在地 鳥取県鳥取市鹿野町今市39
●探訪日 2010年4月24日
●宗派 曹洞宗
◆解説
前稿でも紹介したが、今稿では亀井玆矩が菩提寺とした譲傳寺を取り上げる。
【写真左】譲傳寺門前
周辺には、温泉(鹿野温泉)公園、温泉病院、老健施設といった保養施設が立ち並んでいる。
当院寺伝によれば、応安5年(1372)笑厳宥誾が、最初に当院から1キロ登った古仏谷の山中に寺を建て、毫王山抱月寺と号した。そして、この抱月寺を拠点として、因幡の曹洞宗を広めていったという。
天正9年(1581)、当地の領主として入部した亀井玆矩は、仏教にも熱心であったが、抱月寺が山奥であり、道が険しいため、同寺の和尚と相談の結果、現在の場所に移設し、名称も小林山譲傳寺と改めた。そして、当寺を菩提寺と定めた。
【写真左】譲傳寺境内
右の建物が本堂である。
なお、鹿野城(鳥取県鳥取市鹿野町鹿野)の稿でも記したように、当寺の裏山には城跡あったことが知られており、鹿野城の初期に支城のような役割を果たしていたのではないかと思われる。
【写真左】本堂屋根に見える家紋
当然ながら近江源氏佐々木氏一族の「目結紋」で、玆矩の趣味もあったのだろうか、朱色で彩色されている。
【写真左】亀井家一族の墳墓・その1
譲傳寺の境内右側(北側)の北丘に亀井家一族の墳墓が祀られている。
説明板によると、玆矩は譲傳寺を建立した際、一族の供養塔をここに設置した。
全部で五基あり、内容は次の通り。なお、玆矩本人の墓は、この場所ではなく、次稿で取り上げることにする。
1、湯(亀井)永綱(玆矩実父)
永禄12年(1569)7月17日討死
(これは、以前取り上げた島根県出雲市佐田町の「高櫓城」での、城主熊谷信正と尼子勢の戦いが、同年7月に行われたので、この時戦死したものと思われる。)
戒名 芳林善誉大居士
※おそらく上写真の中央のものが、亀井永綱のものと思われる。
2、玆矩実母(多胡辰敬の娘)
戒名不詳 五輪塔
3、玆矩の長男(母:亀井秀綱の二女)
幼名 鬼太郎 7歳天逝
戒名 魁玄智雄禅童子
【写真左】その2
全体にどの五輪塔も大型であるが、右端のものは特に巨大で、高さは優に2mはあるだろう。
4、松平玄蕃頭忠清(徳川家康の甥:三州吉田城主:玆矩次室の娘時子の聟)
慶長17年(1612)4月20日没
戒名 機叟勝全大居士
5、不詳
戒名 孤月妙圓禅定尼
【写真左】墳墓の周辺部
北側の尾根先端部に当該墓地があるが、この尾根筋には旧道が残っている。しかもこの道は、最終的に譲傳寺を囲むように、南側の丘陵地まで伸びている。
このことから、これらも含め、前稿で記したように、譲傳寺裏山が城跡であったことを考慮すると、すでにこの付近も当時の城域範囲であった可能性が高い。
【写真左】譲傳寺遠望
●所在地 鳥取県鳥取市鹿野町今市39
●探訪日 2010年4月24日
●宗派 曹洞宗
◆解説
前稿でも紹介したが、今稿では亀井玆矩が菩提寺とした譲傳寺を取り上げる。
【写真左】譲傳寺門前
周辺には、温泉(鹿野温泉)公園、温泉病院、老健施設といった保養施設が立ち並んでいる。
当院寺伝によれば、応安5年(1372)笑厳宥誾が、最初に当院から1キロ登った古仏谷の山中に寺を建て、毫王山抱月寺と号した。そして、この抱月寺を拠点として、因幡の曹洞宗を広めていったという。
天正9年(1581)、当地の領主として入部した亀井玆矩は、仏教にも熱心であったが、抱月寺が山奥であり、道が険しいため、同寺の和尚と相談の結果、現在の場所に移設し、名称も小林山譲傳寺と改めた。そして、当寺を菩提寺と定めた。
【写真左】譲傳寺境内
右の建物が本堂である。
なお、鹿野城(鳥取県鳥取市鹿野町鹿野)の稿でも記したように、当寺の裏山には城跡あったことが知られており、鹿野城の初期に支城のような役割を果たしていたのではないかと思われる。
【写真左】本堂屋根に見える家紋
当然ながら近江源氏佐々木氏一族の「目結紋」で、玆矩の趣味もあったのだろうか、朱色で彩色されている。
【写真左】亀井家一族の墳墓・その1
譲傳寺の境内右側(北側)の北丘に亀井家一族の墳墓が祀られている。
説明板によると、玆矩は譲傳寺を建立した際、一族の供養塔をここに設置した。
全部で五基あり、内容は次の通り。なお、玆矩本人の墓は、この場所ではなく、次稿で取り上げることにする。
1、湯(亀井)永綱(玆矩実父)
永禄12年(1569)7月17日討死
(これは、以前取り上げた島根県出雲市佐田町の「高櫓城」での、城主熊谷信正と尼子勢の戦いが、同年7月に行われたので、この時戦死したものと思われる。)
戒名 芳林善誉大居士
※おそらく上写真の中央のものが、亀井永綱のものと思われる。
2、玆矩実母(多胡辰敬の娘)
戒名不詳 五輪塔
3、玆矩の長男(母:亀井秀綱の二女)
幼名 鬼太郎 7歳天逝
戒名 魁玄智雄禅童子
【写真左】その2
全体にどの五輪塔も大型であるが、右端のものは特に巨大で、高さは優に2mはあるだろう。
4、松平玄蕃頭忠清(徳川家康の甥:三州吉田城主:玆矩次室の娘時子の聟)
慶長17年(1612)4月20日没
戒名 機叟勝全大居士
5、不詳
戒名 孤月妙圓禅定尼
【写真左】墳墓の周辺部
北側の尾根先端部に当該墓地があるが、この尾根筋には旧道が残っている。しかもこの道は、最終的に譲傳寺を囲むように、南側の丘陵地まで伸びている。
このことから、これらも含め、前稿で記したように、譲傳寺裏山が城跡であったことを考慮すると、すでにこの付近も当時の城域範囲であった可能性が高い。
【写真左】譲傳寺遠望
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