吉末城(よしすえじょう)
●所在地 広島県東広島市豊栄町安宿
●登城日 2009年2月22日
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 安宿氏
●遺構 郭、土塁、空堀等
◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
広島県の旧賀茂郡豊栄町にある小規模な山城で、現在の国道375号線の豊栄町から三原市方面に繋がる国道486号線を約3キロほど走ると、安宿(あすか)という地区に築城されている。
なお、吉末城の読みは、「よしすえ」と思われるが、確証はない。
【写真左】吉末城遠望 道路側から見たもので、写真に見える右上がりの道が登城路の一つ。もう一つは写真左側にある墓地付近から登る道もある。
前述したように、小規模な山城で、比高はおそらく50m程度だろう。
当城に関する資料は乏しく、築城期や、築城者は不明で、おそらく小早川氏の一族・安宿(あすか)氏が居城したものといわれている。
なお、この安宿地区には当城以外としては、北方3キロに聳える天神嶽(757.5m)に築城されたといわれる「中野山城」や、「門田山城」などが記録されているが、詳細はいずれも不明である。
【写真左】本丸下の郭と本丸
下段の郭は帯郭状のもので、本丸との高低差は約5m前後。
吉末城の現地の状況は、遺構部分も含め大半が杉などの植林で覆われ、この日訪れたときには、間伐作業が終わった後だったこともあって、多少は形状の確認ができたが、麓にある看板以外、他の説明板のようなものは一切なく、漠然と見れば山城であること自体忘れてしまいそうな雰囲気を感じた。
【写真左】土塁
主として本丸の西側に設けられている。深さは2,3m前後だが、当時はもう少し深く、また距離も長かったものと思われる。
【写真左】本丸跡
ほぼ円形の形状で、長径25m前後か。地面は割とフラットな仕上げになっている。
【写真左】五輪塔群
南側の登城口から少しそれた位置にあり、近くには地元民家の墓地もある。小規模な五輪塔形式で、6,7基程度建立されている。
【写真左】吉末城から南東方向を望む
この日は雨天だったがこともあって、視界はよくなかったが、天気が良ければ眺望はいいだろう。写真にみえる小川は、椋梨川で、流下し白竜湖に入り、沼田川と合流し、三原で瀬戸内海に流れる。中世から両川を使って、多くの物資や兵糧が船で運ばれたことだろう。
●所在地 広島県東広島市豊栄町安宿
●登城日 2009年2月22日
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 安宿氏
●遺構 郭、土塁、空堀等
◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
広島県の旧賀茂郡豊栄町にある小規模な山城で、現在の国道375号線の豊栄町から三原市方面に繋がる国道486号線を約3キロほど走ると、安宿(あすか)という地区に築城されている。
なお、吉末城の読みは、「よしすえ」と思われるが、確証はない。
【写真左】吉末城遠望 道路側から見たもので、写真に見える右上がりの道が登城路の一つ。もう一つは写真左側にある墓地付近から登る道もある。
前述したように、小規模な山城で、比高はおそらく50m程度だろう。
当城に関する資料は乏しく、築城期や、築城者は不明で、おそらく小早川氏の一族・安宿(あすか)氏が居城したものといわれている。
なお、この安宿地区には当城以外としては、北方3キロに聳える天神嶽(757.5m)に築城されたといわれる「中野山城」や、「門田山城」などが記録されているが、詳細はいずれも不明である。
【写真左】本丸下の郭と本丸
下段の郭は帯郭状のもので、本丸との高低差は約5m前後。
吉末城の現地の状況は、遺構部分も含め大半が杉などの植林で覆われ、この日訪れたときには、間伐作業が終わった後だったこともあって、多少は形状の確認ができたが、麓にある看板以外、他の説明板のようなものは一切なく、漠然と見れば山城であること自体忘れてしまいそうな雰囲気を感じた。
【写真左】土塁
主として本丸の西側に設けられている。深さは2,3m前後だが、当時はもう少し深く、また距離も長かったものと思われる。
【写真左】本丸跡
ほぼ円形の形状で、長径25m前後か。地面は割とフラットな仕上げになっている。
【写真左】五輪塔群
南側の登城口から少しそれた位置にあり、近くには地元民家の墓地もある。小規模な五輪塔形式で、6,7基程度建立されている。
【写真左】吉末城から南東方向を望む
この日は雨天だったがこともあって、視界はよくなかったが、天気が良ければ眺望はいいだろう。写真にみえる小川は、椋梨川で、流下し白竜湖に入り、沼田川と合流し、三原で瀬戸内海に流れる。中世から両川を使って、多くの物資や兵糧が船で運ばれたことだろう。
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