防己尾城(つづらおじょう)
●所在地 鳥取県鳥取市金沢
●築城期 天正年間(1573~92)
●築城者 吉岡将監定勝
●高さ 38m(比高15m)
●形態 平山城(水城)
●別名 亀山城・吉岡城
●遺構 空堀・郭・切崖・船着場等
●登城日 2007年5月16日及び2010年6月26日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)
鳥取県鳥取市の西方に浮かぶ湖山池の西岸に築かれた平山城(水城)で、東側の対岸には以前紹介した天神山城(鳥取県鳥取市湖山町南)がある。
【写真左】防己尾城遠望
湖山池の北側から見たもので、この場所からは本丸側のみが望める。
現地の説明板より。
説明板①
“防己尾城址と吉岡将監
鳥取市の福井から金沢に至る間の湖山池に突出したこの山を防己尾という。
天正9年(1581)鳥取城を完全包囲した羽柴秀吉が、毛利氏との後方連絡を断つため、水軍に防己尾城攻略を命じた。
これを迎え撃った吉岡将監は、弟の右近と共に逆襲し、秀吉近習の黄母衣武者を討ち取り、秀吉が戦功を誇る千成瓢箪の馬印を奪い取った所。また、情け深い将監は、黄母衣武者の死を悼み、六地蔵を安置してねんごろに葬ったと伝えられる。
今なお古戦場の面影を残しており、頂上付近から湖山池を眼下に望む風景は絶景である。”
【写真上】防己尾城案内図
現地は城跡公園として整備されているが、左側の三の丸跡については公園化は図られていないようだ。
この図でいえば、鳥取城は右側(東)の方向になる。
説明板②
“ふるさと文化探訪
防己尾城跡
吉岡将監定勝が築城したといわれる。
城郭は本丸・二の丸・三の丸とそれに取り囲まれた町屋とから構成されており、北側には船着場が設けられていた。
天正9年(1581)羽柴(豊臣)秀吉鳥取城攻略の時、将監は奇襲によって、たびたび秀吉勢を悩ませた。
また、将監の弟右近は秀吉の千生瓢箪の馬印を奪い取ったという。しかし、この城はその後亀井茲矩(これのり)により落城した。
(日本城郭体系、新修鳥取市史第一巻より)
平成4年3月
鳥取市教育委員会”
【写真左】防己尾城遠望
西側の湖山池公園駐車場から見たもので、中央から左側が本丸に当たる。
なお、右側の道路は県道190号線で、この道路は、左側の本丸と、右側の三の丸の間にあった堀切跡を走っている。
登城口は何か所かあるが、この道路側から登って行った。
吉岡将監定勝
吉岡氏は地元の国人領主で、当初防己尾城の南方にあった「丸山城」(鳥取市六反田:未投稿)を居城としていたが、この城は小規模でかつ要害性も高くなかったことから、さらに南方へ「蓑山城」(鳥取市吉岡温泉町:未投稿)を築いた。
【写真左】蓑山城遠望
吉岡温泉から南に1.5キロほどにある蓑上山(H:297m)に築かれた山城である。
その後、天正9年に説明板にもあるように、豊臣秀吉の鳥取城攻めが始まると、湖山池西岸にこの防己尾城を築城し、毛利方として属し戦った。
【写真左】本丸・その1
本丸は南西から北東に向かって伸びる稜線状に二つの峰を持ち、さらに湖山湖に突出す出丸状のものから構成されている。
この写真は南西部の峰途中に見えた小規模な空堀と土塁遺構。
【写真左】本丸・その2 堀切
手前の峰と奥の峰(主郭)との中間部の鞍部で、堀切状のもの。
写真の階段を進んでいくと主郭に向かう。
【写真左】本丸・その3 主郭
麓から想像していた規模より大きく、広い削平地となっている。
公園化されているので当時の遺構がどの程度のものであったかわからないが、吉岡氏らが秀吉を度々悩まさせたという兵力を考えると、かなりの人数が当城に拠っていたのだろう。
【写真左】本丸・その4 石碑
主郭の一角には「防己尾城址」と刻銘された石碑が建つ。
【写真左】本丸・その5
本丸の東端部で「岬の展望台」といわれた箇所
から湖山湖を見る。
さきほどの主郭からさらに湖側に進むと、一旦低地まで降り、そこから再び登る形となっている。
当城の最東端部で、おそらく物見櫓のようなものが設置されていたのだろう。
この写真の中央やや右側の方向に鳥取城が控える。
【写真左】二の丸・その1
上記先端部から南に二の丸を見ることができる。
【写真左】二の丸・その2
本丸から南に下がると広場があり、そこから再び二の丸に向かって登る道がある。頂部も公園化されているため、この箇所の写真は撮っていない。
この写真は二の丸の東麓部から撮ったもので、先ほどの本丸先端部を見たもの。
遊覧船が停泊しているが、観光客用のものだろうか。
【写真左】湖山池
湖山池には青島、津生島という二つの島が浮かんでいる。
この写真の左の島は、津生島で、右奥には鳥取市と岩美町にまたがる駟馳山が見える。
余談だが、湖山池には水の中に石を積み、後日、石の上から棒で突きながら魚をおびき出すという珍しい漁法が伝承されている。
戦国期も兵糧の一つとして活用されていたのかもしれない。
●所在地 鳥取県鳥取市金沢
●築城期 天正年間(1573~92)
●築城者 吉岡将監定勝
●高さ 38m(比高15m)
●形態 平山城(水城)
●別名 亀山城・吉岡城
●遺構 空堀・郭・切崖・船着場等
●登城日 2007年5月16日及び2010年6月26日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)
鳥取県鳥取市の西方に浮かぶ湖山池の西岸に築かれた平山城(水城)で、東側の対岸には以前紹介した天神山城(鳥取県鳥取市湖山町南)がある。
【写真左】防己尾城遠望
湖山池の北側から見たもので、この場所からは本丸側のみが望める。
現地の説明板より。
説明板①
“防己尾城址と吉岡将監
鳥取市の福井から金沢に至る間の湖山池に突出したこの山を防己尾という。
天正9年(1581)鳥取城を完全包囲した羽柴秀吉が、毛利氏との後方連絡を断つため、水軍に防己尾城攻略を命じた。
これを迎え撃った吉岡将監は、弟の右近と共に逆襲し、秀吉近習の黄母衣武者を討ち取り、秀吉が戦功を誇る千成瓢箪の馬印を奪い取った所。また、情け深い将監は、黄母衣武者の死を悼み、六地蔵を安置してねんごろに葬ったと伝えられる。
今なお古戦場の面影を残しており、頂上付近から湖山池を眼下に望む風景は絶景である。”
【写真上】防己尾城案内図
現地は城跡公園として整備されているが、左側の三の丸跡については公園化は図られていないようだ。
この図でいえば、鳥取城は右側(東)の方向になる。
説明板②
“ふるさと文化探訪
防己尾城跡
吉岡将監定勝が築城したといわれる。
城郭は本丸・二の丸・三の丸とそれに取り囲まれた町屋とから構成されており、北側には船着場が設けられていた。
天正9年(1581)羽柴(豊臣)秀吉鳥取城攻略の時、将監は奇襲によって、たびたび秀吉勢を悩ませた。
また、将監の弟右近は秀吉の千生瓢箪の馬印を奪い取ったという。しかし、この城はその後亀井茲矩(これのり)により落城した。
(日本城郭体系、新修鳥取市史第一巻より)
平成4年3月
鳥取市教育委員会”
【写真左】防己尾城遠望
西側の湖山池公園駐車場から見たもので、中央から左側が本丸に当たる。
なお、右側の道路は県道190号線で、この道路は、左側の本丸と、右側の三の丸の間にあった堀切跡を走っている。
登城口は何か所かあるが、この道路側から登って行った。
吉岡将監定勝
吉岡氏は地元の国人領主で、当初防己尾城の南方にあった「丸山城」(鳥取市六反田:未投稿)を居城としていたが、この城は小規模でかつ要害性も高くなかったことから、さらに南方へ「蓑山城」(鳥取市吉岡温泉町:未投稿)を築いた。
【写真左】蓑山城遠望
吉岡温泉から南に1.5キロほどにある蓑上山(H:297m)に築かれた山城である。
その後、天正9年に説明板にもあるように、豊臣秀吉の鳥取城攻めが始まると、湖山池西岸にこの防己尾城を築城し、毛利方として属し戦った。
【写真左】本丸・その1
本丸は南西から北東に向かって伸びる稜線状に二つの峰を持ち、さらに湖山湖に突出す出丸状のものから構成されている。
この写真は南西部の峰途中に見えた小規模な空堀と土塁遺構。
【写真左】本丸・その2 堀切
手前の峰と奥の峰(主郭)との中間部の鞍部で、堀切状のもの。
写真の階段を進んでいくと主郭に向かう。
【写真左】本丸・その3 主郭
麓から想像していた規模より大きく、広い削平地となっている。
公園化されているので当時の遺構がどの程度のものであったかわからないが、吉岡氏らが秀吉を度々悩まさせたという兵力を考えると、かなりの人数が当城に拠っていたのだろう。
【写真左】本丸・その4 石碑
主郭の一角には「防己尾城址」と刻銘された石碑が建つ。
【写真左】本丸・その5
本丸の東端部で「岬の展望台」といわれた箇所
から湖山湖を見る。
さきほどの主郭からさらに湖側に進むと、一旦低地まで降り、そこから再び登る形となっている。
当城の最東端部で、おそらく物見櫓のようなものが設置されていたのだろう。
この写真の中央やや右側の方向に鳥取城が控える。
【写真左】二の丸・その1
上記先端部から南に二の丸を見ることができる。
【写真左】二の丸・その2
本丸から南に下がると広場があり、そこから再び二の丸に向かって登る道がある。頂部も公園化されているため、この箇所の写真は撮っていない。
この写真は二の丸の東麓部から撮ったもので、先ほどの本丸先端部を見たもの。
遊覧船が停泊しているが、観光客用のものだろうか。
【写真左】湖山池
湖山池には青島、津生島という二つの島が浮かんでいる。
この写真の左の島は、津生島で、右奥には鳥取市と岩美町にまたがる駟馳山が見える。
余談だが、湖山池には水の中に石を積み、後日、石の上から棒で突きながら魚をおびき出すという珍しい漁法が伝承されている。
戦国期も兵糧の一つとして活用されていたのかもしれない。