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2021年12月3日金曜日

備前・太鼓丸城(岡山県和気郡和気町田土 天神山)

 備前・太鼓丸城(びぜん・たいこまるじょう)

●所在地 岡山県和気郡和気町田土 天神山
●別名 天神山城
●高さ 409m(比高360m)
●築城期 享徳5年(1532)
●築城者 日笠氏、浦上宗景
●城主 浦上宗景
●遺構 石垣、土塁、郭、堀
●指定 岡山県指定史跡
●登城日 2017年4月16日

◆解説(参考資料 『日本城郭体系 第13巻』等)
 前稿の備前・日笠青山城(岡山県和気郡和気町日笠上)でも少し触れているが、浦上氏の居城であった天神山城(岡山県和気郡和気町田土)が築かれる際、最初に築いたのが太鼓丸城である。
【写真左】太鼓丸城
 太鼓の丸と記された郭。










現地の説明板より

❝太鼓の丸城(旧天神山城)
 室町時代以前に、日笠青山城の出城として日笠氏が築城したもので、浦上宗景の享禄4年天神山出陣の足掛かりとなり、天文時代より太鼓櫓として物見台の役目と家臣団集合の合図をした役目の櫓「人桝」と呼ばれ、東方に根小屋があり、搦手門となる。❞
【写真上】天神山(太鼓丸城跡)~和気美しい森 案内図
 現地に設置されているもので、右側に「和気美しい森」公園があり、そこから西に向かって太鼓丸に向かう道が描かれている。



浦上宗景、室津から太鼓丸城(天神山城)へ移る。

 太鼓丸城及び天神山城の城主は浦上宗景である。彼については既に三石城(岡山県備前市三石)の稿でも述べているが、宗景の父村宗が播磨中津川で討死したあと、宗景は兄・政宗と対立、播磨室津城から大田原・日笠・延原ら六名の部将を引き連れ、備前国天神山へ移った。

 天神山城を宗景の居城として勧めたのが、日笠青山城の城主日笠頼房である。最初に築いたのが本稿の太鼓丸城であるが、説明板にもあるように、元々日笠氏が出城もしくは砦形態のものとしてすでに築いていたとされている。
【写真左】和気美しい森公園
 天神山東部60㌶を整備し森林公園として岡山県が造ったもので、平成13年にオープン。
 写真は同公園入口。


 上図の案内図に主だった遺構が描かれているが、天神山城のもう一つの登城口となる南東側の「和気美しい森」公園から進むと、太鼓丸城まではおよそ500mほどになる。

 公園として整備されたため、元の地形がどの程度のものだったか分からないが、この区域も日笠氏時代にある程度城砦遺構があったのではないかと推測される。
【写真左】溜池
 太鼓丸城へ向かう途中、公園内にあったもので、小さな溜池があった。説明板などはなかったが公園になる前から存在していたような池である。あるいは井戸だったかもしれない。


宗景と政宗の対峙

 浦上宗景が太鼓丸城へ移ったのは、享禄4年(1531)である。翌天文元年(1532)、宗景の兄・政宗は富田松山城(岡山県備前市東片上)参照)に布陣し、弟宗景を討つべく動き出した。これに対し、宗景は太鼓丸城から南下し、富田松山城の北麓片上の葛坂に出陣した。

 片上の葛坂とは、現在のJR赤穂線の西片上駅と伊部駅の間にあって、当時の西国街道葛坂峠付近である。富田松山城からは直線距離で西へ1.5キロほど向かった位置になる。
 この時の合戦は理由は不明だが、途中で両者は軍を引き上げたため勝敗はつかなかった。
【写真左】根小屋
 公園の脇を抜けるとすぐに左手に根小屋の標識がある。
 雑木などに覆われているがかなりの広さで、家臣団などの屋敷があったところと思われる。


新たな天神山城の築城開始

 兄政宗との戦った翌年(天文2年)、宗景は太鼓丸城から北に延びる尾根伝いに新たな城を築き始めた(第一期工事)。おそらく太鼓丸城のままでは防衛戦略的に弱いと判断したのだろう。

 その後、天文8年にはさらに桜の馬場・西南端に鍛冶場・北に大手門・百貫井戸・長屋(倉庫)・腰曲輪を配し西方の中心部とした(第二期工事)。 
 そして最後の仕上げとなるのが第三期工事で、天文12年(1543)から開始し、三の丸・西櫓台・下の段を設け西方防備の郭とする。この年、宇喜多直家は初陣を果たしている。
【写真左】土塁
 冒頭の案内図に表記されている土塁だが、案内図そのものの絵図を見ると、郭の姿が描かれ、それを土塁と表示している。
 実際写真で見る限り、土塁の痕跡はあまり見られず、郭と比定した方がよいように思われる。


天神山城落城

 天神山城が落城する直接的要因は、家臣であった宇喜多直家(新庄山城(岡山県岡山市竹原)参照)の離反からであるが、大局的にみれば、東方から侵攻してきた織田信長と、中国の覇者毛利氏との板挟みによって生じた結果ともいえる。

 天正5年(1577)、4月12日、最初に日笠青山城が落城。5月には宗景の嫡男・浦上与次郎宗辰が直家により毒殺される。そして、8月10日天神山城は落城した。
 宗景が築いた天神山城は、初期の日笠氏時代もあったものの、ほぼ宗景一代の居城として46年の歴史に幕を閉じたことなる。
【写真左】堀切
 太鼓丸までの登城道は割と平坦に続くが、途中で堀切が出てくる。
 だいぶ埋まっているため浅いが、当時はもっと深かったものと思われる。
【写真左】次の堀切
 さきほどの堀切を抜けると、周囲には削平された平坦地が現れだす。
 整備されていないので規模は明確でないが、このあたりからまとまった郭が見え始める。
【写真左】三角点
 三角点は必ずしも最高所を示すものではないが、この位置がおそらく天神山の頂部(H:409m)となり、上掲した絵図の「本丸跡」になると思われる。
 絵図ではここから犬走を介して西にも出丸が描かれているので、そちらに向かう。
【写真左】出丸の礎石
 出丸は本丸からかなり離れた位置にあり、より吉井川沿いに配置されている。
 下段の鳥瞰図にもあるように、出丸にも建屋が描かれているので、写真はその礎石と思われる。
 このあと再び元の道に戻る。

 
 
【写真左】石門
 太鼓丸城の本丸とその先にある太鼓丸城(狼煙台)の間に設置されているもので、有事の際ここで敵の侵入を阻止するために設置されたものだろう。
【写真左】軍用石
 石門を過ぎると主に左側に大きな岩が積んである。下から敵が登ってくる際、この石を使って上から落とすためのものだという。
 それにしてもこのままでは大きすぎて、実際にはさらに砕いて使っていたものだろう。
【写真左】太鼓丸城が見えてきた。
【写真左】太鼓丸城・その1
【写真左】太鼓丸城・その2
 この岩も軍用石として使われたかもしれない。
【写真左】太鼓丸城・その3
 前記した天神山頂部にある郭(本丸)より整備が行き届いているせいか、こちらが本丸に思える。

【写真左】眼下に吉井川
【上図】天神山城(太鼓丸城)鳥瞰図
 前段で紹介した案内図と重複するが、この図は右に前期天神山城(太鼓丸城)を描き、左に堀切を介して後期天神山城の様子を鳥瞰図で描いたもの。
 太鼓丸城を過ぎて左(北側)に進むと次第に下っていき、上の門・下の門・古井戸・亀の甲などがあり、最深部で堀切となる。そしてそこから再び尾根筋を上がっていくと後期天神山城へと続く。
【写真左】太鼓丸城から北東方向を眺望する。
 中腹部が上田土で、その上の谷が杉平という地区になる。さらにその奥の山並みには大芦高原が見え、左側の谷を下がってくと吉井川と合流する。
【写真左】上の石門(上の門)
【写真左】後期天神山城が見えてきた。
 因みに後期天神山城の最高所は337mなので、太鼓丸城(天神山)の頂部409mと比べると、72mほど低い。
【写真左】コバノミツバツツジ
 山城登城しているとよく見かけるツツジだが、天神山城のツツジは特に色が鮮やかだ。


2021年11月28日日曜日

備前・日笠青山城(岡山県和気郡和気町日笠上)

 備前・日笠青山城(びぜん・ひがさあおやまじょう)

●所在地 岡山県和気郡和気町日笠上
●高さ 216m(比高140m)
●築城期 平安末期
●築城者 日笠将監親政
●城主 日笠氏、頼房、藤田甚左衛門
●遺構 郭、土塁、堀切、畝状竪堀
●指定 町史跡
●備考 長泉寺
●登城日 2017年4月13日

◆解説(参考資料 日笠朝子著「日笠物語」、日笠賢著「日笠荘」等)
 備前・日笠青山城(以下「青山城」とする。)は、以前紹介した浦上氏の居城・天神山城(岡山県和気郡和気町田土)から東へおよそ3キロほど向かった日笠上にある水精山に築かれた城郭である。
【写真左】青山城遠望
 南側から見たもので、中央の山が青山城。なお、この写真では天神山城は左方向になる。





現地の説明板より

❝日笠青山城跡
  和気町指定史跡(昭和54年11月26日指定)

 日笠青山城は、戦国時代に築かれた山城で、天神山城主・浦上宗景の宿老であった日笠頼房の居城でした。天神山城から南東へと続く丘陵上、日笠盆地を一望できる場所に築かれており、その重要性をうかがわせています。
 丘陵の頂部に主郭、その北側に北郭、東側の尾根に二の郭が位置し、郭が連なる形式(連郭式)を持った山城でした。また、郭からは竪堀が要所に多く掘られており、防御を意識した構造になっています。

 天神山城は、宇喜多直家により天正5年(1577)に攻略されました。日笠青山城も激しい合戦の末に落城したと伝えられます。
                  和気町”
【写真左】登城途中の道。
 長泉寺側の駐車場に止め、そこからきれいな道が上の方にあったので、勘を頼りに向かったが全く違う道だった。幸い、当院の御住職に御親切に登城口を教えていただいた。お礼申し上げます。

 写真は登城途中の箇所で倒木・竹などが少し道を塞いでいた箇所。荒れた箇所はこの部分のみであとはさほど難儀でない。
【写真左】青山城縄張図
 東側の尾根に二の郭を置き、その南側には畝状竪堀群が設置され、西に向かって一旦細くなり、虎口を設けて主郭に至る。

 ここから軸は南北に変わり、主郭北端で堀切を介し、北郭に繋ぐ。北郭及び主郭の西及び北斜面には執拗なまで畝状竪堀群を配置している。



日笠氏

 日笠城の由来は、平安末期に日笠将監親政が水精山に城を築き、当地を本拠としたことに始まる。因みに日笠氏は坂上田村麻呂の子・若狭国日里宇まで遡るという。
 初代から数えて9代目の頼房の時、戦国時代を迎える。このころすでに日笠氏は浦上氏の家臣として仕えていた。当時の浦上氏の居城は三石城(岡山県備前市三石)である。
【写真左】左二の郭、右主郭に向かう分岐点
 登城道は上記のように、二の郭と主郭に向かう分岐点に繋がっている。
 このあと先ず左の二の郭に向かう。


 ところで、浦上氏は室町期に備前国守護となった赤松氏(置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)参照)の重臣で、三石城を拠点として同国守護代となっていた。

 嘉吉の変で赤松満祐が将軍足利義政を暗殺し、その後幕府軍によって満祐が討伐された際、浦上氏も主家に殉じたが、その後浦上則宗が再び赤松家を再興する。しかし、則宗の孫・村宗の代になると、村宗は赤松氏と対立、主家の赤松義村は大永元年(1521)村宗の刺客によって殺害された。こののち浦上氏は播磨国支配へと動き始める。
【写真左】二の郭・その1
【写真左】二の郭・その2
 二の郭には電波塔のような施設が建っている。
【写真左】二の郭、東の郭段
 このあと主郭に向かう。









 この後浦上氏は村宗の子であった政宗と宗景兄弟は不仲となり、弟・宗景は日笠頼房の勧めで吉井川の東岸に天神山城を築いた。時に享禄5年(天文元年・1532)のことである。
 宗景は、その後吉井川沿いに繋がる東備前から北方の美作地方まで治めていくことになる。
【写真左】虎口郭
 縄張図にある虎口郭とされている箇所で、虎口そのものは大分埋まっているが、当時は左右に土塁の高まりがあったものと思われる。
【写真左】主郭南端部
 少し左に回り込むと、主郭入口と思われる個所に二つ目の虎口と思われる入口が現れる。
 上段が主郭となる。



 天文12年(1543)に浦上氏の被官となった宇喜多直家(乙子城(岡山県岡山市乙子)参照)は、浦上氏の命により多くの戦功を立てていたが、世は次第に下剋上の時代となっていく。

 天正5年(1577)直家は主君浦上氏に牙を向いた。直家による天神山城落城の時期は、天正5年(1577)8月10日とされ、日笠氏の青山城は天神山城の落城前の4月12日といわれている。青山城も直家らの攻防に対し、数か月間籠城したものの、下から火を放たれ落城したといわれる。
【写真左】主郭の南端部
 虎口を上がると標柱が建ち、奥に小社が見える。
【写真左】小社
 主郭のほぼ中央に御覧の小社が祀られている。

 記憶がはっきりしないが妙見社といわれている。日笠氏を祀るものだろう。
【写真左】主郭北側の切岸
 主郭から北の方へ向かった位置から見た右側(東)の切岸。

 なお、縄張図にある西側の畝状竪堀群は整備されていないため、残念ながら写真に収めていない。
【写真左】堀切
 主郭と北側にある北郭の間に構築されているもので、この堀切を過ぎると北郭は少し高度を下げる。
【写真左】北郭
 北郭は御覧のように主郭ほど整備されていないが、十分に踏査できる状態。
 長径50m×短径10~15mの規模
【写真左】北郭の北端部
 急傾斜となっており、この下まで行くと、東面及び西面に畝状竪堀群があるはずだが、御覧の藪コギのため断念。



長泉寺

 ところで、青山城の北麓には古刹・長泉寺が建立されている。当寺は地元日笠、及び青山城と深い関係があるので触れておきたい。
【写真左】日蓮宗長泉寺
 青山城の北東側中腹に建立されている。








 備前国には法華宗(日蓮宗)の寺院が極めて多い。これには南北朝時代に大覚妙実僧正(1297~1342)によって大々的に布教が行われ、多くの寺院が改宗していった背景がある。

 備前・船山城(岡山県岡山市北区原)の稿でも触れたが、金川城(岡山県岡山市北区御津金川)の城主松田氏が、天台宗を宗派としていた金山寺に日蓮宗(法華宗)に改宗するよう迫ったのは、松田氏が南北朝時代に妙実僧正に帰依し、地元の福輪寺を蓮昌寺と改め、ここを伝道活動の拠点としたことから備前国に布教が拡大していった。
【写真左】長泉寺境内
 訪れた時期がよかったのか、境内の樹木には多くの花が咲いていた。






 こうした背景もあって青山城主・日笠頼房は熱心な法華経の信者で、当時青山城の東麓にあたる日笠川の東岸に日笠山乗蓮寺という寺院を建立している。

 しかしこの寺は江戸時代の寛文5年(1666)、備前岡山藩の初代藩主池田光政により不受不施派の禁制施策によって翌6年に破却された。光政は儒教への傾倒が強く、備前法華に対する敵愾心があったからだといわれている。
【写真左】長泉寺側から青山城方面を見る。
 桜が境内に色を添える。








 ところで、先述した宇喜多直家による天正5年(1577)の青山城落城から9年後の天正14年(1586)、宇喜多家家臣藤田甚左衛門は、邑久郡久々井村に常立山長泉寺を建立した。

 藤田甚左衛門は、青山城落城後、天王久保山城に入城し日笠を治めた武将である。天王久保山城というのは、青山城の北東1キロ余りの入尾の地区に所在する城郭である(下の写真参照)。
【写真左】長泉寺から天王久保山城を遠望する。
 









 江戸期に入ると、池田光政による乗蓮寺廃寺から32年後の元禄12年(1699)、青山城(水精山)中腹に長泉寺を移転建立した。そして、300年後の平成9年(1997)檀信徒により4年の歳月をかけて新築された。開山上人は本行院日宥上人、現生上人は22世である。

2019年10月13日日曜日

備前・明見山城(岡山県岡山市北区三野本町)

備前・明見山城(びぜん・みょうけんやまじょう)

●所在地 岡山県岡山市北区三野本町 三野公園
●別名 妙見山城・鑵子の釣城・釣城
●高さ 60m(比高50m)
●築城期 不明(天文年間以前か)
●築城者 須々木氏
●城主 須々木四郎兵衛
●備考 三野公園
●登城日 2016年10月26日

◆解説(参考資料 『日本城郭体系 第13巻』等)
 備前・明見山城(以下「明見山城」とする。)は、前稿備前・船山城(岡山県岡山市北区原) の支城として、須々木氏一族が居城とした丘城である。
 所在地は船山城から旭川沿いに南に2キロ余り降った三野本町の独立丘陵に築かれている。
【写真左】明見山城遠望
 南側の道路から見たもの。右側には旭川が流れる。







須々木四郎兵衛

 明見山城の築城期は不明だが、本城の船山城とほぼ同時期には構築されていたと考えられる。当城の城主として記録が残るのは、船山城主であった須々木豊前の子・四郎兵衛が在城していたとされ、前稿でも述べたように、永禄10年(1567)の明禅寺合戦後に、宇喜多直家に城と領地を没収されたと伝わる。
【写真左】登城口に設置された「三野公園」の看板
 登城口は上の写真の道路(27号線)を進んでいくと、左側に御覧の看板があり、そこから入っていく。



縄張

 当城は現在三野公園という施設に改変されているが、遺構としては、独立丘陵の南東側頂部を本丸とした郭や、一段下がった腰郭などはその面影を残している。

 『日本城郭体系 第13巻』では、各郭基礎地形が土壇筑成となっており、掘立柱の建物、櫓、柵などを主体とした上部構造物から成り立っていることから、居館的山城と推定されるとしている。

 なお、下段の写真でも指摘しているように、城域は尾根南側の公園部分となっているが、北側奥に祀られている天神社周辺部も数段の帯郭状の遺構が残っていることから、この付近も当時は北方を扼する櫓などがあった可能性もある。
【写真左】登城道

 御覧のように、南側は急傾斜となっているため、何度も屈曲する九十九折りの道となっている。




鑵子の渡し場 

 ところで、明見山城の東麓足下を旭川が流れているが、当時この付近には「鑵子(かんす)の渡し場」というところがあり、須々木氏はこの個所の権益すなわち、渡河等の許可権を持っていた。
 このため、当城は別名・鑵子の釣城とか、釣城とも呼ばれた。

 戦国末期に至ると、宇喜多直家が岡山城を築き、城内に引水を導く計画を立てるが、このころ旭川は度々氾濫を来したため、江戸時代になると、この渡し場付近から百閒川という人工的な放水路を新たに東側から分岐させ、直接瀬戸内海(児島湾)に流している。

 こうしたことから、明見山城における須々木氏の役目は、前記した権益も含め、堰を主体とする水利や、治水など旭川中流域の疎水全般に関わるものが多かったものとみられる。
【写真左】この階段を登る。
 九十九折りの道も途中からは緩やかな坂道となり、そのまま進めば本丸(公園)までたどり着けるが、途中で近道となるこの直線階段があり、これを使った。

 以前はこの程度は一気に登れたが、だんだんと休憩回数が増えてきた。年には勝てない。
【写真左】帯郭
 登りきるとやがて整備された公園がでてくる。
 左が本丸側で、下のこの個所が帯郭。
【写真左】本丸
 公園として造成する前の状況は分からないが、かなり広い規模だ。
【写真左】本丸から北側を見る。
 本丸の北端部の先には、2m程度下がった段がある。腰郭というより二の丸といった方が相応しい大きさだ。
【写真左】小合金光翁の石碑
 三野公園設立に尽力した地元岡山市議会議員の小合金光氏の顕彰碑。
 戦前から桜の名勝地であったらしい。

 このほか北側中央部奥には「岡山縣十勝地」と刻銘された石碑が建立されている。
 これは戦前の昭和10年頃、当時の山陽新報社が募集して県下の景勝地・史跡などを投票によって決めたものだという。

 この中には、城郭としては笠岡山城(岡山県笠岡市笠岡西本町) 、備中・福山城(岡山県総社市清音三因) などがランクインしている。

【写真左】下の段
 本丸と並行して南北に走る郭

 このあと、北側の天神社の方へ向かう。
【写真左】参道
 明見山城から一旦西側の道を少し下り、改めて北に向かう道で、すでに参道の一部となっている。
【写真左】天神社
 手前の楼門を潜ると、天神社の社殿が正面に鎮座している。
【写真左】境内東側
 奥に本殿が見えるが、この部分が当該丘陵(明見山)の中で最高所となるので、先述したように、北を扼する櫓的機能があったのかもしれない。
【写真左】磐座か

 奥には注連縄が掛かった岩がある。磐座(いわくら)と思われる。

【写真左】「明見宮」の鳥居

 下山は別の道を選んだが、終点近くに鳥居があったので見上げたところ、額束に「明見宮」とあった。

 本殿が天神社で、入口が明見宮となっていることから途中で主祭神も変更になったのかもしれない。