2014年11月16日日曜日

土佐・和田本城(高知県土佐郡土佐町和田字東古城)

土佐・和田本城(とさ・わだほんじょう)

●所在地 高知県土佐郡土佐町和田字東古城
●別名 土佐・和田東古城
●高さ 695m
●築城期 貞応2年(1223)11月
●築城者 和田義直
●城主 和田義直、三男・三郎衛門高(若狭守)など
●遺構 土塁・郭・堀
●備考 東八幡宮、土佐・和田西城
●登城日 2014年3月17日

◆解説
 土佐・和田本城は、2009年に紹介した土佐・和田城(高知県土佐町和田)と対をなすもので、高知県のほぼ中央部にある四国の「水がめ」といわれる早明浦ダムの南西に伸びる標高700m弱の山頂に築かれている山城である。
【写真左】「土佐和田城址」の石碑
【写真左】和田本城及び西城・子守神社配置図
 西城から東の本城までのラインは東西に走る尾根筋になり、南(左側)は総じて断崖絶壁となっている。

 このため南側からの攻撃は不可能である。尾根から北側は比較的緩やかで、高所の割に平坦地が多い。








 前回訪れた「土佐・和田城」は、このうち西側に築かれた高さ732mの山頂に築かれているが、この位置から東におよそ1キロほど尾根伝いに向かった標高695.3mの頂部に今稿の土佐・和田本城がある。また両城とのほぼ中間点に「子守神社」が建立されている。
【写真左】分岐点・その1
 さめうらダム湖の南岸を進むと、ダム湖をまたぐ上吉野川橋が見えるが、この橋を渡らず、少し進むと左側に細い道が分岐している。この道を進んで行くと和田地区に入る。

 前回通った時、林道のような狭い道で民家が途切れ、さみしくなるようなところだが、暫く登っていくと和田の集落が見えてくる。
 写真は分岐点の箇所で、左側にはおそらく小学校だったと思われる建物がある。
【写真左】分岐点・その2
 右にいくと前回探訪した子守神社や西城に向かう。
 今回は、反対側の東方面(左)へ向かい、和田本城(東八幡社)を目指す。

 

 現地には「土佐和田城址」と刻銘された石碑のほか、土佐・和田氏の由来などを記した石碑が数基建立されている。
 以下主だった碑文を転記しておく。なお、原文は漢字とカタカナで記されているが、便宜上カタカナをひらがなに、また句読点なども含め管理人によって若干校訂している。
【写真左】西側付近
 別名東古城といわれているように、前回探訪した「子守神社」を中心に東へ伸びる尾根を進んで行った箇所に当たる。

 東古城までの道路は、途中で二つに分かれるが、登り坂となる左側の道を進む。枯れ枝や小石などが転がっているので、慎重に運転していく。たどり着くと、ご覧のような広場が出迎えてくれる。
 ここが、和田本城・東八幡宮である。
【写真左】本丸遠望
 上の写真とほぼ変わらないが、奥に本丸があり、その麓は整地され、公園のようになっている。
 おそらく当時はこの周りも郭段となっていたと考えられる。



現地の石碑より・その1

“和田氏太祖 侍所別当和田義盛

 建保元年5月北条氏と政権を争う、同族の三浦氏に裏切られ和田合戦に敗れ討死す。

 子四男若狭守義直一族を引連れ鎌倉を下り、讃岐和田浜に7年住す。此の間二度追手と戦い貞応2年11月和田へ入国、城を築き宮を建つ。子孫大いに繁昌、広く県内各地に分家し世を忍ぶ。
一門の軍神弓矢八幡大神、高野に奉祀す。
 義直三男三郎衛門高宗7歳、後二代若狭守となる。四男若名3歳で入国。栗木分家。義直妹照代姫30歳で入国。
【写真左】本丸跡に建つ東八幡宮
 最高所であるこの位置には現在東八幡宮が祀られている。

 下段の写真でも示すように、三方が土塁で囲繞され、その中には和田若狭守の墓や、小規模な本殿(祠)が祀られている。


家来一番 若狭守弥二郎衛門宗高 38歳
   二番 若狭守弥三郎義高 45歳
   三番 仝 盛近義盛 35歳
   四番 仝 義盛 58歳
   五番 仝 清之助義盛 55歳
   六番 仝 伊左衛門元近 60歳
   七番 仝 和田彦左衛門 80歳
   八番 仝 三郎衛門盛近 25歳
   九番 仝 若名義盛 48歳 神官
   十番 仝 和田宗近高盛 18歳
   十一番 仝 伊左衛門盛義 48歳
   十二番 仝 和田鹿之助義高 10歳
   十三番 仝 盛近義兼 35歳
   十四番 仝 近盛左衛門高義 21歳
   十五番 仝 新左衛門高義 75歳
   十六番 仝 伊左衛門竹義 76歳
【写真左】主郭中央部に向かう。
 左側はコンクリート壁が設置されているが、当時この付近も土塁や切崖で構成されていたと考えられる。



貞応2年6月鎌倉の使者6名出発
同12月末到達し討死
   一番 和田義盛 37歳
   二番 和田新左衛門盛近 70歳
   三番 和田盛左衛門高近 30歳
   四番 森若狭守義宗 35歳
   五番 和田盛之助宗盛 25歳
   六番 和田盛若 17歳”

 さらに、土塁で囲まれた箇所(主郭)には、「和田若狭守之墓」が建立され、墓石の三面には同氏の遺徳を顕彰した銘文が刻まれている。
【写真左】和田若狭守之墓
 土塁でかこまれた主郭の北側に祀られている。









現地の石碑より・その2

和田若狭守由緒

 土佐名家系譜に言う和田氏は、日本の名族なりと桓武天皇苗栄裔高望より出て、11代三浦大助義明の孫左衛門尉義盛相州三浦郡和田荘に住み、和田氏を称え以て和田氏の祖神たり。

 後裔鎌倉の城主和田若狭守義直又の名義則、故有って退城、貞応年間、子守神社を勧請供奉一族を率いて土佐に入国、土佐郡土佐村に止まり、邑主となる後、居城を興し地名を和田村と改め、威令四辺に及び、子孫大いに繁昌、幾多の功業を遣して此地に没す。
【写真左】東八幡宮・祠



  昭和44年如月裔栄進高野に鎮座す和田一門の軍神弓矢八幡並びに、祖神慰霊の祭儀奉仕の砌、和田若狭守の由緒の碑建立の儀を、石鎚派権中教範田岡妙栄に記して、伺い奏し奉りし處、突如榊葉揺れて其儀ゆくりなくも愛ぐし欣かしお思うとの神託あり、仍而和田一族の有志並に協賛者相諮り、若狭守由縁の地東古城の奥津城(おくつき)を撰び、謹みて此碑を建て、以て祖神の遺徳を顕彰す。
  和田義章 撰

 昭和45年3月15日
      建碑先達  和田栄進
        副先達  明坂峰富
    外和田一族並びに協賛者有志”
【写真左】主郭・祠・土塁
 土塁の上に登り、北から西側の方を見たもので、主郭内底面からの土塁の高さは1.5m前後だが、土塁の外側のうち、西・北・東面は切崖となっている。


和田義盛と和田合戦
 
 建保元年(1213)5月、頼朝以来幕府創立功臣の1人で、侍所別当であった和田義盛は、2代執権北条義時と鎌倉で争い、兵力に勝る幕府軍が圧倒、義盛は同月24日討死した。これを和田合戦という。
【写真左】北側の土塁
 この辺りの土塁天端幅は広い











 ところで、源頼朝が鎌倉幕府を開いた時期については、一般的にこれまで建久3年、すなわち1192年とされてきた。しかし、近年になって、この他に、①1180年説、②1183年説、③1185年説、④1190説などさまざまな説が生まれてきている。

 どちらにしても建久3年より早い段階で幕府の体制が確立していたことを示しているが、この時期は、のちの鎌倉御家人といわれる諸族が最も活躍したころである。
【写真左】西側の土塁
 南側から見たもので、南北およそ30m前後の長さを持つ。









 和田義盛は、上掲した説明板にもあるように、相模国三浦郡衣笠城主・三浦義明の孫といわれている。久安3年(1147)の生誕とされるので、頼朝と同じ年に生まれている。

 義盛が敗死した和田合戦のきっかけは、元をただせば頼朝の急死から始まる。こののち、嫡男頼家や、頼家の子・一幡(いちまん)および実朝などに託したものの、混迷の極みに達した。
【写真左】虎口跡か
 西側の土塁の途中にはご覧の開口部がある。おそらく虎口だったと思われる。
 また左側には根元に石積が見える。




 そして、結果的には将軍家外戚であった北条氏が、次々と有力御家人を誅滅・排除していったことになる。

 主だった御家人として、最初に討たれたのが梶原景時で、その後、頼家の外戚・比企能員(よしかず)、畠山重忠と続き、建保元年(1213)、北條氏打倒の陰謀があったとして、和田義盛までも北条義時によって討たれることになる。
【写真左】本丸から西方を見る。
 本丸の西方には整地された公園のような景色が広がる。

 中央の小高いところには休憩小屋のような建物があるが、出丸であったかもしれない。


和田合戦のその後

 義盛亡き後、和田一族余党は翌建保2年(1214)11月13日、頼家の三男・栄実を奉じ、京において蜂起した。栄実は一幡の異母弟であるが、彼はまだこのときわずか14歳であった。

 しかも和田余党に担がれる前、同じく北條氏に反旗を翻した信濃の豪族・泉親衡にも担がれ、北条義時誅滅の首謀者とされた。
【写真左】建仁寺
所在地・京都市東山区
臨済宗建仁寺派大本山寺院、京都五山の第3位。
創建、建仁2年(1202)、開基 源頼家、栄西(開山)。





 この謀計は義盛が討たれる3か月前の建保元年(1213)2月であったが、露見したため束縛、同年11月、祖母・北条政子の計らいで出家し、当時京に建立して間もない建仁寺伊志見郷(島根県松江市宍道町伊志見)参照)を建てた栄西の弟子となり、法名を栄実と名乗った。
【写真左】本丸西側の切崖
 西側が公園のようなっているため、比高はさほどないが、切崖の形状を残している。






 出家して間もない栄実であったが、翌2年11月13日、和田余党は京において再び彼を担ぎ出した。
 鎌倉における北条氏打倒の動きは、京においても同じような状況を呈していた。六波羅探題はいち早くこうした動きを封じ込めるため、監視体制をとっていたのだろう。和田余党はあえなく探題に攻め滅ぼされ、年若い栄実はここに自害した。
【写真左】本丸南側
 左側に本丸(東八幡宮)があり、その南側はご覧のように舗装された駐車場が施工されているが、おそらく当時はこのあたりに腰郭などがあったものと思われる。

 なお、その外側はかなり傾斜のついた斜面となっているので、要害性は高い。


四男・和田若狭守義直の四国下向

 京における和田余党の乱から2年後の建保4年(1216)、義盛の四男・義直は讃岐に入った。幕府御家人を次々と滅ぼした北条義時は、この年大江広元に源実朝の官位昇進を諌めさせた。これは明らかに政権を源氏から執権北條氏へ替えようとする動きの一つであった。
【写真左】和田氏末裔による寄付芳名者
 八幡宮の中にある建物には、和田氏一族の末裔者と思われる方々の芳名が記されている。
 地元土佐町をはじめ、佐川町、土佐山村、鏡村等が記されている。


 さて、義直が足を踏み入れた讃岐和田浜とは、現在の香川県観音寺市豊浜町和田浜付近で、ここに7年間住んだという。この間、追手である北條氏が2度も当地を攻めたといわれる。

 ところで、この追手追討は和田余党による栄実を奉じて蜂起した戦いのあとのものだけでなく、この間の承久3年(1221)に起こったいわゆる「承久の乱」があったことから、おそらく義直らは後鳥羽上皇に与し、敗れた結果、さらなる六波羅探題の追討をうけたため、讃岐からさらに奥深い四国山脈を越えた険しい山並みのこの地・和田へ逃げこみ住み着いたものだろう。

寳劍 伝天國

 義直の土佐入国以来、和田氏一族が代々秘蔵として受け継いできたものに「刀匠・天国」作といわれる「宝剣」があるという。その由来も現地の石碑に刻まれている。
【写真左】石碑に刻まれた「宝剣 伝天國」
















寳劍 伝天國 土佐和田家 重代

 「天国」は奈良朝末期から平安朝初期にかけて大和国に出現した神秘の刀匠と云われ、従来の唐太刀とは全くその作刀の基調を異にする諸刃鎬造の純日本刀を創始した。

 現在「天国」在銘の剣は皆無であり、皇室の御物小烏丸(伝天国)が天国の作ではなかろうかと云われているのみである。かくの如く上古刀の天国は幽玄で格調の高いものである。

 鎌倉時代―時の侍所の別当であった和田義盛が北條氏の策謀により非業に斃(たお)れた時、嫡子義則は危うく難を免れ、少数の同族と共にこの宝剣を抱いて四国山脈の懐深く潜伏し、時の至るのを待った。

 爾後星霜七百余年、幾多の起伏を経て天国の剣は、奇しくも殆ど完全な姿のまま和田一族の間に秘蔵されてきた。誠に神仏の加護による歴史的奇跡と云う他はあるまい。

    和田義盛後裔會
    昭和丁卯四月吉日
    医学博士法学士
        和田健偉 建立”

26 件のコメント:

  1. 和田家の末裔とされている家の者です。我が家の墓所は高知県の夜須にあるのですが、常石という名字の古い墓石がいくつあります。
    言い伝えによると、落ち延びた和田氏が一時的に常石と名を変え、山中で隠れ住んでいたようです。
    隠れ住んでいた土地を和田の谷といい、そこには和田神社という神社があったようですが、その神社に我が家に伝わっていた甲冑、刀、家系図を奉納したようです。
    今では管理する人が絶えてしまい場所も不明ですが、いつか探してみたいものです。

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    1. コメントありがとうございます。
       和田家の末裔とのこと。また、土佐・和田城の所在地和田町より離れた夜須に御先祖の墓所があるということ。そして世を忍んで和田姓を定石という姓にしていたことなど興味深いですね。
      土佐・和田氏はブログでも紹介しているように、戦国期に至ると長宗我部氏の臣下として活躍しています。おそらく夜須に移住したご先祖は、この長宗我部氏の伸張期に当地に移ったのかもしれませんね。また、和田氏が「落ち延びた」というのは、織豊期における秀吉の四国統一の際、長宗我部氏が敗れますが、そのとき姓を一時的に変えた可能性もあるかもしれませんね。ご先祖が崇拝した和田の谷にある「和田神社」、みつかるといいですね。
      トミー拝

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    2. 横から失礼します。
      Unknownさんは、夜須にお住まいですか?
      お話に興味が沸き、偶々香南市に友人がいるので聞いてみました。和田の谷、香南市香我美町舞川の大蛇の藤と呼ばれる藤の花の綺麗なところらしいです。和田の谷は既にお分かりで、神社だけ不明ということで余計な情報であったかもしれません。

      処で、私も和田です。トミーさんが書いていただいた土佐村(現在の土佐町)和田の近く、土佐町・地蔵寺出身です。昔、親からこの地・和田がご先祖様の地と聞かされておりました。小学生まで地蔵寺にいました。和田は近隣であるのですが、子供の足でには遠く訪れることが無いまま関東で50年になりました。今度、高知に行った際は是非訪ねようと思う次第です。また大川村の和田さんがどうも本家筋らしいのでその地も訪れ色々情報を聞きたいと思っております。70歳近い齢になり、興味を抱いてきた次第です。

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  2. 母の実家が早明浦ダムのそばにあり、母の旧姓が和田です。先祖が落ち武者で、生き延びるために、こんな田舎に辿り着き住みついたのだと聞かさせていました。和田家の墓は、早明浦ダムから狭い道を通り、少々上の方に上がって行った場所にありました。ちょうど和田地区といわれるあたりになると思います。子供の頃の記憶を辿ると、舗装されていない崖のような急な坂を登って、墓参りに行っていたのを覚えています。祖父の名前は、和田xx盛と申し、ご先祖から一文字頂いたのではなかろうかと思います。
    和田家の事を、どんなに小さい事でも構いませんから、どんどん情報をシェアして頂けると大変嬉しいです。

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    1. 拝復 コメントありがとうございます。土佐・和田城や和田義盛公にかかわる方々からこのような情報をいただくと名状しがたい感慨を持ちます。「西国の山城」を探訪していくと、築城者の出自が東国武士である場合がしばしば見受けられます。鎌倉開幕期や、承久の乱後も合わせると、一説には50万人前後の人々が西国に下向(移住)したといわれています。そして恩賞とはいえ、山岳地方にその土地を得たものに待っていたのは、入植者として厳しい自然環境の中での開拓作業だったようです。特に四国山中に本拠を構えた一族は、のちに山岳武士として独特の歩みを刻んだようです。

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  3. はじめまして、三浦和田氏の末裔で和田家の歴史について色々と調べています。
    トミーさんの記事、参考にさせて頂いています。

    私は私のルーツを探るために4年前に大川村の土佐和田家の本家に伺わせて頂きました。
    そこで家系図を見せて頂いたのですが、少なくとも私の家系は和田義茂の家系みたいです。
    確かに和田義盛4男の和田義直は、和田合戦で戦死しているようなので、義茂の子孫というのは合点がいくのですが。。
    記事に書かれている石碑に刻まれている、和田義直が一族を率いて~という事に関してはハテナ?なので混乱しています。。
    何かご存知であれば教えて頂きたいです。

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    1. 拝復 コメントありがとうございます。大川村に土佐和田家の本家があるとのこと。土佐町よりさらに奥に入り、伊予(愛媛県)と隣接した村ですね。この大川村にも大薮城という山城が記録されており、当城も土佐和田氏もしくは、伊予和田氏との関連がうかがわれます。
       さて、和田義直の件ですが、撰文された和田栄進氏が出典元を明らかにされていないため、真偽のほどはわかりません。ただ、義直の別名を義則としている段階で何らかの齟齬が生じたのかもしれません。しかし、仮に義直でなかったとしても、義盛の嫡流が土佐に下向したことは間違いないと思われます。和田本城に佇み「和田義盛後裔會」の碑文を目にしたとき、大げさに言えば、800年前の出来事が時空を超えて、脳裏に蘇りました。土佐・和田氏にかかわる人たちによって、今後ともその歴史を忘れることなく、語り継いでいってもらいたいものです。
       トミー 拝

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  4. 愛媛に本家がある和田の分家の者です。
    最近和田家を調べ始めたのですが、私の先祖、本家は河野家臣の和田通興だった様です。
    和田通興は岩伽羅城主だった様ですが、その末裔である私の先祖が岩伽羅山に和田神社という和田家の守護神を祀った様です。
    お探しの和田神社と関係があれば何かのお役に立てるかと思いコメントさせて頂きました。

    無知でお恥ずかしいのですが、三浦和田氏と河野家臣の和田は何か縁があるのか調べているところです。何かご存知でしたら教えて頂けると有難いです。
    (東京都在住の和田より)

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    1. 拝復 コメントありがとうございました。返事が遅くなりました。

      三浦和田氏と河野家臣和田氏との関係の有無についてのお尋ねですが、実は本稿でとりあげた土佐和田氏を調べていく際、伊予の和田氏(河野氏家臣)との関連も気になっていました。しかし、今のところ両氏との関係をうかがわせる具体的な史料ついては、管理人も耳目に触れていないためよく分かりません。そして、三浦和田氏と河野家臣和田氏との関連も分かりません。
       因みに、伊予岩伽羅城の城主・和田通興の祖父通俊が文献史料に初めて現れるのが、天文3年(1534)です。通俊、通興とその名が示す通り、代々河野氏がつけていた「通」の名を用いていることから、河野氏家臣団の中でも重要な位置を占めていたと思われます。

       また、岩伽羅城の築城期は確定していないものの、南北朝期といわれております。従って、伊予和田氏は河野通盛の代(『湯築城』の稿参照)にその臣下となったと思われます。

      また、これも推測の域を出ないのですが、そもそも土佐和田氏が和田合戦に破れ、土佐に逃れる前、讃岐(和田浜)に7年間在住していますが、この間に承久の乱という大変に大きな動乱が起きます。このとき、同氏から離脱し河野氏に与した者がいる可能性も十分考えられます。

      トミー 拝

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  6. はじめて投稿いたします。
    以前からこのことについて大変興味があり以前から調べていまして、苗字の分布図などを見ますと、全国的に見ても、他の和田氏ゆかりの地を見てもとりわけ高知県には和田姓の方はかなりの数の方が住まれております。もちろん全て三浦和田氏との関係のあるとは限りませんがそれらしき縁となる地名がないということ等もあり、サイトの方を読ませていただいた限りでは人数的にもさほど多くの方が土佐逃れてきたとは思えないのですが、先ほどの数などを見ましたところこれ以上のかなりの多数の一族の方が後からも入ってきたと思われますしょうか。 それとも他の地域よりより繁栄したと考えた方がよろしいでしょうか。

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    1. 拝復 tkaz様 返事が遅くなりました。コメントありがとうございます。
      和田義盛四男・義直の土佐下向によって、子孫がその後当地(土佐)にどれほどの規模で繁栄していったのか詳細なことは分かりません。
      ただ、想像するに和田一族は幕府から追われる立場であったわけですから、少なくとも鎌倉幕府が倒れるまでは一族の結束力は強く、土佐入国後、本城といわれる東城をはじめ、西城さらにはその中心地となる位置に和田一族を祀る立派な子守神社(奈良吉野水分神社)を建立していますので、南北朝期以降はかなり隆盛を誇っていったものと思われます。

      トミー 拝

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  7. 最初のコメントを投稿させていただいた者です。
    しばらく見ていなかったのですが、皆様の興味深いコメントを拝見し、一層我が家のルーツに興味が湧いてしました。
    お盆に高知に行くので、帰りにまずは和田本城を訪問できればと考えております。

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  8. 高知に帰る途中、高岡の辺りで西和田という地名をカーナビで発見し、その近くに義盛山という山がありました。
    おそらく和田義盛がその由来なのでしょうが、どなたか詳しい話をご存知ではないでしょうか?

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  9. 初めまして。
    トミーさんの記事を参考にようやく土佐和田城跡に行くことが出来ました。

    昔、祖母、父から「ご先祖様は酷い亡くなり方をした」
    とだけ聞かされていました。

    祖父、祖母の家には土佐和田城跡の写真が飾られており子供ながら、こんな場所があるんだな程度にしか思っておりませんでした。

    自分も30歳を過ぎ、自分のルーツを知りたくなり色々と調べました。

    調べて行くうちに和田義盛にたどり着き生き残った和田一族が香川を経由し最終的に高知に逃れた事を知り興味がわきました。

    酷い亡くなり方とは、和田合戦での三浦氏の裏切りや和田家の滅亡の事だったんだなと話が繋がりました。

    結果的には和田義盛は北条に破れてしまう事になるのですが和田合戦に勝利していたら今の自分も存在も無い訳で…
    破れたかが故に北条幕府から終われ最終的にこの地に逃れ、子孫繁栄に至って今の自分があると、ご先祖に感謝をし手を合わせました。

    登城し土佐和田城跡石碑には3種(2種)の家紋があり。

    丸に三つ引き
    丸に木瓜(神社は丸に四方木瓜)
    の家紋がありますが、祖父のお墓に刻まれた同じ家紋や、寄付者の欄には祖父の名前があり自分のルーツを感じる事が出来ました。

    この経験はいつか子、孫へ繋げていきたいと思います。
    自分と同じ年代になる頃には私と同じく自分のルーツを探す旅に出て欲しい物と思いました。

    いつか、私も末裔として土佐和田城跡に寄付金を贈りたく思います。

    祖父の家は詳しく言えませんが高知県にあります。
    また訪れたく思います。

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    1. 拝復 御笑覧いただきありがとうございます。
       和田氏にかかわる人々からこれほど多くのコメントをいただくとは思ってもみませんでした。
       歴史、なかんずくルーツなどは、文献上の記録だけでなく、直接我が子や孫に口伝していく行為が最も重みをもつものでしょう。歳をとっていくと次第に先祖への感謝の気持ちが深まります。
       
      トミー拝

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  11. 先にコメントを残させて頂きました者です。

    どなたか、助馬、今朝盛、義経(綱?)、いずれかに関して、ご存知の方がおられましたら、情報を頂けませんでしょうか?

    よろしくお願いします。

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  12. はじめまして。大阪在住の《和田》です。
    大変興味深く拝見させて頂きました。

    私の父は香美郡夜須町仲木屋の出身で、
    家紋は丸に三つ引きです。高知では神職の事を《太夫(たゆう)》と言うのですが、曽祖父、祖父は太夫として暮らしていた様です。近くに《和田の谷》があるので、もしやとは思っていたのですが。
    先祖も『源平合戦で負けて山に逃げた』と思っていたのですが、こんな深い事情があるとは思いませんでした。因みに母は奈良の吉野水分神社の近くの出身です。少し鳥肌が立ちました。

    お陰で、改めて先祖に興味を持つ事が出来ました。
    ありがとうございました。

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    1. 拝復 返事が遅れました。御笑覧いただきありがとうございます。土佐和田城については管理人にとっても特別な印象が残っています。今はコロナで県外にいかれませんが、またいつか登城したいものです。来年の大河ドラマでどうやら和田義盛公が登場するようですのでとても楽しみにしています。
      トミー 拝

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  13. ご参考
    戦前に”高知県教育会発行の土佐名家系譜”(だったと思います)にある”和田氏”に関する部分コピーを99歳の叔母より以前受領しましたのでそのリンクを貼り付けておきます。
    ご参考になれば幸いです。
    https://drive.google.com/file/d/1A6m9RaG_QKq4Z0aytVKAiCxFTLz35n0n/view?usp=sharing

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    1. 拝復
       大変貴重な資料を公開していただきありがとうございます。
       義則(義直)が当地に入ったあと、長男を後継ぎにせず、三男・高宗に家督を譲ったことなど興味深いですね。
       また、平時の住まいが和田城の南側斜面である高野であったことから、主だった一族の墓はこの高野に眠っているとのこと。
       現地の石碑に撰文された和田栄進氏がもともと高野におられたことを考えると、栄進氏は、和田氏直系の方だったのでしょう。

      トミー 拝。
       

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  14. こんにちは。土佐の和田家の歴史を知ることができ嬉しいです。愛媛伊予の和田家のルーツも詳しく知りたいと思い、2018年発刊された「和田義盛の宝剣」という本を読んでみることにしました。和田合戦の後、和田一族の残党が各地に逃れて土着したという伝承が全国各地に見受けられ、とりわけ由比ガ浜から安房に逃れ行方不明と伝わる三男の朝比奈義秀の伝承が多い気がします。義秀関連の伝承は例えば和歌山県太地町の捕鯨業の創始者和田頼元が義秀の末裔といわれ、他にも群馬県長野原町の墓や日光の古山城、長野県大滝村の滝越集落・秋田市など数多いです。そうした中で、大分県竹田市植木鬼田にある義盛神社(盛八幡社)の由緒にも、三男朝日奈義秀の末裔がこの地に土着し八幡社を建てたと伝わっていますが、この神社に祀られているのは和田義盛と河野吉次郎、上貢久則の三士とあり、天文年間の石碑が建てられているので、豊後竹田の和田一族は伊予の河野氏と関りがあるのかと気になっています。大分も愛媛も船で佐賀関を通れば近いですし。全国の和田一族に伝わる伝承や歴史を集めてみると、いろんなところで繋がっていそうでとても興味深いですね。

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  15. はじめまして。札幌在住の和田哲と申します。

    祖父の代まで、現在の香南市香我美町撫川(和田の谷の近く)の県道51号沿いに住んでいたようで、今も「和田九平太」などの墓石があります。10年ほど前に訪れたことがありました。

    県道から脇道に入ると「和田の谷橋」という橋(33°38'08.7"N 133°51'45.3"E)があり、渡って右の方にしばらく行くと「和田神社」がありました。これがお探しの神社ではないでしょうか?

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    1. 和田哲様

      和田征洋と申します。
      5年前の私の投稿から、ここまで繋がったことに感動しております。
      Google Mapで座標を検索してみたところ、確かに橋がありました。
      その先までは見られませんでしたが、必ずこの目で確認してみたいと思います。
      地図を見ていると、さらに舞川沿いに北上したところにある弓矢八幡宮という所が有りました。
      Google mapのコメントを見ると、なかなか気になることが書いてあったので、こちらも伺ってみたいものです。

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