2019年1月27日日曜日

天正寺城(兵庫県神戸市北区淡河町淡河)

天正寺城(てんしょうじじょう)

●所在地 兵庫県神戸市北区淡河町淡河
●高さ 232m(比高 85m)
●築城期 戦国期(天正年間)
●築城者 豊臣秀長等
●形態 山城
●遺構 郭・石垣等
●備考 天正廃寺、神社
●登城日 2016年6月18日

◆解説
 前稿で紹介したように、淡河城(兵庫県神戸市北区淡河町淡河)攻めを行った織田軍が向かい城として築いたのが天正寺城といわれている。
 場所は、淡河城の北方約1キロの位置にあって、現在天正寺城の南麓を山陽自動車道が東西に走っている。
【写真左】天正寺城遠望
 南方の淡河城から見たもの。
 麓を山陽自動車道が走っている。







中世の淡河

 淡河地域における歴史については断片的な記録しかないようだが、数十年前に敷設された淡河を東西に横断する山陽自動車道の建設に伴い、発掘調査が行われ主だった遺跡の報告がなされている。

 これによると、集落が形成され始めたのは平安末期から鎌倉時代にかけてとみられ、特に淡河地区の古刹といわれる石峯寺(しゃくぶじ)などは、当地における寺社勢力の代表的な支配者であったものと予想されている。
【写真左】石峯寺・その1
所在地:神戸市北区淡河町神影110
宗派:高野山真言宗
参拝日:2019年10月23日

 白雉2年(651)法道仙人開基と伝わる。孝徳天皇の勅願所として栄え、中世には一里四方を寺領として持ち、多数の僧兵や学侶を抱えた。
写真:室町時代に建立されたという重要文化財の三重塔
【写真左】石峯寺・その2

 康安元年(1362)に播磨最古の木版刷り法華経を刊行し全国に配布したといわれる。また、この寺を含めた後背の山には城郭・石峯寺城を抱え、寺院城郭としても隆盛を極めた。
 


 また、前稿で紹介した淡河氏が集落を形成する上でどの段階から関わっていたかどうかははっきりしないが、承久の乱後には淡河氏がその後の在地領主(地頭)として根付き、連綿と続いてきたことを考慮するならば、前述した石峯寺という寺社勢力と有機的な結合のもとに歩んできたのではないかと想像される。
【写真左】登城口付近
南側の淡河城側から北に向かって農道を進むと、山陽自動車道と並行して走る道に出てくる。この道の途中で山陽自動車道の下をくぐるトンネルがあり、そこを抜けると御覧のような広い空き地がある。

 奥に天正寺城に向かう階段が見えるが、後述するように、天正寺城跡に社が祀られていたようで、登城道は当時の参道であったようだ。

天正寺

 さて、今稿「天正寺城」の名称である天正寺については、先述した遺構調査報告書に、当城の主郭がある尾根筋の北側に「天正(廃)寺」という場所が記されているので、これから命名されたものと思われる。

 ちなみに、この場所からさらに東に進んで天正寺城と同じく南側に突き出した舌状丘陵部に「経塚」の遺構も確認されている。おそらく天正寺に関わるものと思われる。

 ところで、天正寺城の尾根をさらに北に進むと、現在ゴルフ場が造成され、往時の姿はほとんど原形をとどめていないが、ゴルフ場内に論破山(H:250m)という小山が残されている。そして、このゴルフ場から東に石峯寺方面に向かうと、「北僧尾」「南僧尾」という字名があり、石峯寺と関わる修験道場のような坊舎が広域的に点在していたのではないかと想像される。
【写真左】小さな祠
 登城道の途中には小さな祠が二つ祀られている。








淡河城攻めの陣城

 天正6年から8年にかけて行われた秀吉らによる三木城攻めの際、淡河城も三木城の支城としてその戦禍を受けたが、このとき秀吉方が陣城として使ったのがこの天正寺城である。

 当城は淡河城の北に位置しているが、これと反対に南側から向城(陣城)として使われたのが、別所氏から離反した有馬氏の居城三津田城である。
【写真左】登城道・その1
 この道が当時の登城道かどうか分からないが、後述するように社が祀られていた当時(江戸期以降か)は、立派な参道だったのだろう。



 これら二つの陣城が直接的な淡河城攻めに絡んだものとされているが、淡河城攻め前後には、これらとは別に羽柴秀長が攻略した城郭がさらに南方に所在している。それが、丹生山城である。

丹生山城

 丹生山城は淡河町の南に隣接する神戸市北区山田町坂本にあって、淡河城から直線距離で3キロ余りだが、実際には東方を走る国道(428号線)筋を使うとおよそ12キロ前後ある。
【写真左】登城道・その2
 段々と道幅は狭くなる。登城道(参道)は南斜面につくられ、数回九十九折りするコースがとられている。

 上に行くに従い斜面の傾斜がきつくなっているので、要害性は十分確保できる。




 丹生山は六甲山地を形成する丹生山系の一つで、往古呉越より渡来した水銀鉱山を生業とした丹生氏(にうし)の氏神が祀られている。平安時代末期には平清盛が福原京の鎮護として日吉山王権現を勧請し、多くの僧兵らも修行したといわれる。

 戦国期の三木城攻めの際、淡河氏と同じく別所氏に味方したため、秀長らによって焼き討ちにあい、数千人の僧・稚児が焼死したといわれる。
 なお、丹生山山系エリアには、源平合戦の際、源義経が歩いたという義経道などという道もあり、いずれ機会があれば登城してみたい山城である。
【写真左】最初の段
しばらく登って行くと、やがて南斜面に広い削平地が出てくる。
 城郭遺構としては腰郭もしくは出丸の機能を持ったものだが、もとは天正寺時代の寺院遺構だったのかもしれない。
【写真左】天正寺城から淡河城を俯瞰する。
 この場所に立つと、秀吉方(秀長)陣城としては理想的な場所であったことが、よくわかる。
【写真左】最初の階段
 先ほどの段から北の主郭に繋がる階段がある。階段は上下2段設置されている。
 高低差は14~15m前後あり、予想以上に傾斜がついている。
【写真左】次の階段
 最初の階段を登りきると小規模な平坦地があり、再び次の階段が設けられている。
 おそらくこの平坦地も天正寺城のときは腰郭の機能を有していたのかもしれない
【写真左】主郭
 幅8m×奥行30m前後の規模を持つもので、手前には神社時代の楼門らしきものや、灯篭の跡が残る。
 秀長らが在陣したころは城郭というより、天正寺という寺院をそのまま陣所として使った可能性もある。
【写真左】奥から振り返る。
【写真左】祠
 主郭奥には本殿の跡地に倉庫のような簡易建物が建っているが、その脇には御覧のような祠が鎮座している。上部の方はよく見えないが、「森神社」と筆耕されている文字が確認できる。

 写真でもわかるように、現在では定期的な祭事も行われないような状況なので、廃宮となっているかもしれないが、概ねこうした場合、地元にある他の神社に合祀されていることが多い。

 こうしたことから、地元淡河の郷社である淡河神社が、淡河氏や有馬氏の崇敬を受けていたことから、当社に合祀されているのかもしれない。

 このあと、さらに奥(北)の藪の中に向かってみる。
【写真左】瓦片
 奥に向かうと、当時本殿などで使われていたであろう瓦などが積んであった。
【写真左】北東方向に伸びる尾根
 雑木林の姿となっているが、高低差はほとんどなく、フラットに伸びている。

 この付近で経塚が発掘されているので、天正寺関連の建物もあったのかもしれない。
【写真左】竪堀か
 西側斜面に認められたもので、規模は大きくないが、筋状の谷が出来ている。


2019年1月22日火曜日

淡河城(兵庫県神戸市北区淡河町淡河)

淡河城(おうごじょう)

●所在地 兵庫県神戸市北区淡河町淡河
●別名 上山城
●高さ 152m(比高 30m)
●形態 丘城
●築城期 承久4年(貞応元年:1222年)
●築城者 淡河氏
●城主 淡河氏、有馬氏
●遺構 郭・堀等
●登城日 2016年6月18日

◆解説
 淡河城は、端谷城(兵庫県神戸市西区櫨谷町寺谷 満福寺)の稿で少し触れているが、別所氏の居城三木城(兵庫県三木市上の丸) より東へ直線距離で10㎞余り向かった淡河町淡河に築かれた丘城である。
【写真左】淡河城遠望
北側の天正寺城から見たもの。
 天正寺城は、淡河城攻めの際、秀吉方が向城として築いた。




現地の説明板より

❝淡河城跡市民公園
淡河城
 淡河の里を眼下(比高差約20m)に一望できる河岸段丘上端に築かれたこの城は、淡河氏代々の居城でしたが、天正6~8年(1578~80)羽柴秀吉による三木城(別所氏)攻めの後は、有馬氏一万五千石の居城として慶長6年(1601)まで、淡河と共に栄えてきました。

 城の遺構は現在、本丸と天守台、堀を残すだけとなっています。幅15m、深さ3~5mの堀に囲まれ、本丸の南辺に東西50m、南北8~16mの天守台を配する構えは、当時の面影を残しています。
 また、本丸の南東には竹慶寺(ちくけいじ)跡があり、境内には城主淡河氏代々の墓碑があります。❞


【写真左】淡河周辺部の案内図
 淡河城の位置は左図の道の駅淡河の西隣に配置されている。
 既述した天正寺城は緑線で示した山陽自動車城の北にある。また、淡河川を下っていくと、三木城に繋がる。



淡河氏と北条氏
 
 淡河城の築城者である淡河氏は、鎌倉幕府執権の北条氏後裔といわれる。承久3年(1221)5月、後鳥羽上皇は鎌倉幕府第2代執権北条義時追討を企て、西園寺公経父子を幽閉、京都守護伊賀光季を討った。

 これに対し、幕府軍は鎌倉を出立後、木曽川、宇治川の防衛線を突破、6月14日京都に入り、北条時房・泰時は六波羅に駐在、瞬く間に京都を制圧、後鳥羽上皇の企てはわずか1か月で鎮圧された。7月、後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へそれぞれ配流された。世にいう「承久の乱」の顛末である。
【写真左】北側から見る。
淡河川をはさんで北側から見たもので、中央には模擬天守風の建物が竹林の間から見える。



 この戦いで、幕府方に付き随った多くの東国武士がその功によって西国に新補地頭職として下向している。

 承久の乱における幕府方のリーダーの一人が、前記した北条義時の実弟・時房であるが、彼は乱後しばらく京に留まり、初代六波羅探題南方を勤めた。この時房の嫡男時盛の子に時治がおり、彼が承久4年(貞応元年)すなわち乱鎮圧の翌年、播磨国美嚢郡淡河庄の地頭職として補任され下向し、淡河城を築城したといわれている。
【写真左】淡河城復元図
 模擬天守風の建物の中に掲示してあったものだが、文字や彩色などが薄くなり分かりずらいが、北東部に本丸があるほか、6~7か所程度の郭が描かれている。
【写真左】川を渡り城域へ
 当城の麓には川が流れているが、これが濠の役目をしたものと思われる。
 左側の木製の橋を渡り城域へ向かう。



 しかし、これとは別に現地淡河城の麓にあった碑文には、同年(貞応元年)北條右近将監成正が補任され、こののち淡河氏を名乗ったとある。この北條成正の出自ついては不明である。

 このことから淡河氏始祖については諸説あり、また伝承の域を出ない部分が多いため、はっきりしないが、いずれにしても冒頭で述べたように執権北条氏の後裔であることは間違いないだろう。
【写真左】建物の脇へ着く。
 6月とはいえすでに夏のような暑さで、登城するにはいい条件でなく、周辺部は草木が生い茂り、遺構の確認には難が伴う。
 この付近から本丸と思われる。



赤松氏から別所氏へ

 南北朝期に至ると、淡河氏は南朝方に与し、北朝方の攻めを受けたがその都度防戦に努め退けた。
 この戦いで赤松氏の支援を受け、以後赤松氏の旗下となって東播磨の国境の守備を担当していった。その後、嘉吉の乱においては、大軍で押し寄せた山名氏の軍門に降り、一時的に山名氏に属したが、再び赤松再興の一翼を担った。

 こののち、赤松氏の庶流であった三木城の別所氏が台頭していくと、淡河氏は端谷城(兵庫県神戸市西区櫨谷町寺谷 満福寺) の衣笠氏と共に、別所氏に属していき、別所氏は東播磨の盟主となった。
【写真左】郭・その1
 現状は野地のようになっている。
 復元図に書かれている郭跡だが、同図の文字がかすれていて名称は分からない。二の丸的な用途だったと思われる。


秀吉の播磨攻め

 豊臣秀吉が播磨攻めを開始したのは、三木城(兵庫県三木市上の丸)の稿でも述べたように、天正6年(1578)の4月からである。

 秀吉の三木城攻めが始まると、淡河城の淡河氏は、福中城(神戸市西区平野町福中字本丸:遺構消滅)の間島氏らとともにいち早く別所氏の三木城支援に当たった。
 秀吉による三木城攻めは、1年10ヶ月に及んだが、天正8年(1580)1月17日、別所長治の自害によってその幕を下ろした。
【写真左】外側の段
 記憶がはっきりしないが、少し高くなった土塁上の位置に小屋があり、そこから中の方へ進む。




 さて、淡河城での戦いは、同7年4月ごろが最も激しく、秀吉軍は淡河城の四方に付城を築き、これに対し、城主淡河弾正忠定範は、6月27日敵陣に牝馬を放ち、秀吉方の羽柴秀長らを敗走させつかの間の勝利を得たという。

 しかし、淡河城を取り巻く情勢はますます厳しくなり、城主定範はじめ郎党たちは城を脱出、三木城に逃げ込んだ。このあと、淡河城に入城したのは有馬刑部郷法印則頼である。則頼ももとは三好長慶や別所長治に仕えていたが、秀吉による三木城攻めの際、長治から転じて秀吉に属した。
【写真左】郭・その2
 上の段辺りから見たもので、畑地跡のように見ええる。
 位置的には家臣団の屋敷跡とも考えられる。


有馬氏

 淡河氏に替わって淡河城の城主となった有馬氏が最初に居城としていたのが、淡河城から南西へ4.2㎞へ向かった三木市志染町三津田の三津田城(満田城)である。淡河城に入城したとき3,200石を領し、以後秀吉傘下の武将として、山崎の戦い、長久手の合戦などで功をあげ、15,000石を増封した。
 関ヶ原の戦いでは家康方の東軍に与し、合戦後の10月(慶長5年)戦功により有馬郡三田城に20,000石を家康から賜り、淡河城はそれに伴い同6年正月を以て廃城となった。
【写真左】本丸付近か
 この辺りは整備され公園のような施設となっている。
【写真左】淡河城の石碑
公園(本丸付近)には「淡河城」と刻銘された石碑が建立されている。
【写真左】公園内部
 公園内には石碑のほか、祠なども祭られている。

 このあと、外側に回る。
【写真左】郭跡か
 本丸周辺部は圃場整備された田んぼが広がり、往時の面影は消えているが、当時この付近も郭などの遺構があったものと思われる。
【写真左】堀
当城の遺構としてはこの堀が最もよく残るものだろう。
 空堀にように見えるが、当時は水をたたえた濠だったと思われる。
【写真左】淡河家廟所
 本丸南東部に淡河家の菩提寺といわれた竹慶寺があったが、その跡地に淡河家の墓が建立されている。
【写真左】田圃側から遠望
 奥の竹藪となった箇所が淡河城だが、手前の田圃も当時は郭(城館)だったと考えられる。
【写真左】北側から遠望する。
北側を走る県道38号線側から見たもので、手前の田圃と奥の淡河城の間には淡河川の支流が流れ、これが濠の役目をしていたものと思われる。
【写真左】淡河城から天正寺城を遠望する。
 天正7年に織田軍が淡河城攻めを行った時、四方に向城を築いたといわれ、その一つがこの天正寺城である。当城については、次稿で取り上げたい。

2019年1月7日月曜日

但馬・亀ヶ城(兵庫県豊岡市但東町太田字城山)

但馬・亀ヶ城(たじま・かめがじょう)

●所在地 兵庫県豊岡市但東町太田字城山
●指定 豊岡市指定史跡
●高さ 172m(比高150m)
●築城期 承久3年(1221)
●築城者 太田昌明
●城主 太田氏
●遺構 郭・土塁・堀切・竪堀・畝上竪堀等
●登城日 2016年6月8日

◆解説(参考資料 「亀ヶ城保存会編パンフレット」、HP「城郭放浪記」等)
 但馬・亀ヶ城(以下「亀ヶ城」とする)は、以前取り上げた豊岡市出石町にある有子山城(兵庫県豊岡市出石町内町) の南麓を流れる出石川を東にさかのぼり、同川の支流太田川の北岸に所在する低山に築かれた城郭である。
【写真左】亀ヶ城遠望
出石町側から太田川と並行して走る国道482号線を進んでいくと、左手に「但東町指定文化財 史跡 亀ヶ城」と書かれた標柱が建っている。
 亀ヶ城はこの写真後背の山である。


現地の説明板・その1

❝史跡 亀ヶ城跡

 亀ヶ城は、鎌倉時代但馬守護であった太田氏の築城と伝承されている。
城域は東西約300m・南北約300mを測る大規模城郭で、中央部の堀切を挟んで「東城」と「西城」からなる。
【写真左】亀ヶ城縄張図
現地に設置されているもので、精緻な縄張図が描かれている。
 承久2年の築城以来、かなり手が加えられているようで、説明板にもあるように織豊期の特徴も残されていることから、およそ400年間存続していたものと思われる。


 「東城」は、土塁をもつ広い主郭部(Ⅱ)を、南側の曲輪群や竪堀、北側の広い帯曲輪で防御している。「西城」の主郭部(Ⅰ)は、北側の帯曲輪だけでなく、西側に構築した深い二重の堀切と、畝状竪堀で堅固に守備されている。
 亀ヶ城は土塁を利用した「二折れの虎口」や、畝状竪堀に特徴があり、戦国期から織豊期の傑出した縄張となっている。位置的にも、出石~宮津の街道を押さえるための、重要な拠点的城郭となっている。❞
【写真左】登城口付近
 近年はあまり整備されていないせいか、麓には竹林が覆い、枯れた竹が道を遮る。





太田昌明平時定

 亀ヶ城を築いた太田昌明は、もとは比叡山延暦寺の僧で、常陸坊を称し西塔側に住んでいた。源平合戦が終わった後、源頼朝と義経は不和となったが、このとき頼朝の叔父にあたる行家は、義経に与同した。このため、頼朝は義経・行家追討の院宣を賜り、その任を受けた平時定の配下・太田昌明が捕らえ、行家を討ち取った。

 この平時定の出自についてははっきりしない点があるが、その名前から考えて父はあの有名な言「平家にあらずんば人にあらず」を発した平時忠ではないかと思われる。もっともこの時忠は、壇ノ浦でほとんどの平氏が滅亡したのにもかかわらず捕虜となり、神鏡を守った功績により減刑を求め、義経に接近していく。その後、紆余曲折のあと時忠は配流地の能登で没した。
【写真左】最初の段
 登城コースは西側から登って行ったが、倒竹は少なくなったものの、全体に竹の繁茂が著しい。
 写真の郭は、縄張図でいえば、Ⅶの箇所。


 ところで、この時忠の子には、第一子時実をはじめ8人の子がいたとされ、時定は第六子といわれる。もっとも時定は時実とは異母兄弟であったことも影響しているのか、時実が父と同じく終始義経に随行していったのとは対照的に、時定は頼朝に属していった。

 さて、この時定に常陸坊(後の太田昌明)がどのような経緯で出会ったのかわからないが、武蔵坊弁慶が常陸坊と同じ西塔にいた僧兵であったことから、常陸坊も武士と対等に渡り合う法師武者であったのだろう。

 昌明が行家の首を鎌倉の頼朝のもとへ送ったところ、当初頼朝は「下郎の実を以て良将を殺害した」として恩賞を与えず、逆に罪として流罪の刑を下した。家来たちも頼朝の真意を計りかねていたが、のちに頼朝は昌明を許し、2か所の食邑(しょくゆう)(知行地)を与えた。
【写真左】Ⅶの郭から東側の谷を見る。
Ⅶの郭を構成する尾根とは反対に、東側にも尾根があり、その先端部にⅥの郭が配されている。

 この後、直接「東城」に向かうためには、直登できないため、一旦東側にコースをとり、そこから向かう。


 その一つが但馬の「太田荘」で、もう一つが摂津の「葉室荘」である。これら二つの荘は、おそらく没官領(平家)だったと思われる。昌明はこのうち但馬の太田荘を選与えられ、常陸坊から太田昌明と名を変えた。

 承久の乱の際には、度々後鳥羽上皇側から再三の誘いを受けたが、院宣を持ってきた使者を5人も殺害、但馬の状況をつぶさに幕府方に報告していたこともあり、恩賞として但馬守護に任ぜられた。
【写真左】東の尾根に向かう。
Ⅶ郭とⅥ郭それぞれの尾根を繋ぐ幅の細いU字の郭で、この位置に立てば、両尾根下の動きが一番よくわかる箇所となる。



 なお、その後の太田氏や亀ヶ城に関する記録はあまり残っていないようだが、当地が但馬国の東端部に当たり、隣接する丹後・丹波との国境に所在していることや、縄張図に残る遺構などから見ても、戦国期や織豊期にも境目の城として、山名氏・一色氏などが関わり、終盤には細川氏などが統治するなど、重要な役割を果たしていたことは論を待たないだろう。
【写真左】Ⅵ郭・その1
 東側の尾根先端部に伸びる郭で、長径40m×幅7~8mの規模。
 尾根の自然地形に対し、先端部はかなり人工的に盛土などで伸ばしたような跡が見られる。


亀ヶ城支城等

 それを裏付けるものとして、当城のおよそ3キロ以内には、それぞれ3か所の城郭・館・砦が配置されている。特に、亀ヶ城の南麓を流れる太田川をおよそ1キロほど下ったところには、岩吹城(H:203m)があり、逆に2キロ余り遡ったところには仏清城などが配置されている(HP『城郭放浪記』参照)。

【写真左】Ⅵ郭・その2
 先端部から振り返る。この辺りからは竹は少なく、植林された檜のおかげで施工精度がよくわかる。
【写真左】東城の主郭(Ⅱ)に向かう。
 当城の標高は170m余なので、さほど堅固な城だとは思っていなかったが、このあたりから「足ごたえ」のある様相を呈してきた。
【写真左】竪堀
 堀切の延長として構築されたもので、斜面の傾斜もある上に、竪堀を駆使しているので効果は絶大だろう。
【写真左】東城の主郭(Ⅱ)・その1
 当城最大の郭で、東西40m×南北55mの規模。
【写真左】土塁
 主郭(Ⅱ)下の段にあるもので、L字に組まれている。
【写真左】東城の主郭(Ⅱ)・その2
 長手方向の反対側から見たもの。
【写真左】主郭(Ⅱ)から西城に向かう途中の腰郭
 Ⅱ郭から北西端には二折れ虎口(下の写真参照が介在し、一旦腰郭のような段ががある。

 写真の右下は険しく長大な切岸が周囲を囲み、その下には東尾根を包むような大規模な帯曲輪(Ⅴ)が取り巻いている。
【写真左】二折れ虎口
 Ⅱ郭から下の腰郭並びに、その下に繋がる堀切までの犬走に通じる箇所で、特に上段部分で二折れを構成している。
【写真左】堀切A・その1
 先ほどの腰郭から見下ろしたもので、上から見てもよくわかる。
【写真左】堀切A・その2

 横からみたもの。

【写真左】堀切Aの底部から北側を見下ろす。
 写真では分かりづらいが、左斜面に竪堀、その奥に後ほど紹介する西城の主郭(Ⅰ)の腰郭から落とした竪堀がある。
 そして、その位置からは北側を囲繞する帯曲輪(Ⅳ)が配されている。
【写真左】堀切Aから北に回り込む。
堀切Aは東城と西城の中間点になるが、写真でもわかるように、西城側の切岸はかなりの高低差を持たせている。
 このあと、西城に向かう。
【写真左】西城主郭(Ⅰ)東の段
 先ほどの堀切を登り西城に向かうと、最初の段がある。長径7m×短径5mほどの規模。
 奥に主郭(Ⅰ)が見える。
【写真左】西城の主郭(Ⅰ)
 こちらの規模は東城の主郭(Ⅱ)に比べ、およそ1/2の規模で、L字の形状。
 西端部は御覧のように1m程度高くなっている。
【写真左】西城の腰郭
西城主郭(Ⅰ)の北側には5,6m程度下がった位置に腰郭が設けられている。
【写真左】畝状竪堀・№11
当城の見どころの一つである畝状竪堀。

 写真のものは、図面番号で言えば№11のもので、北西端に構築されている。
【写真左】西側の畝状竪堀
 上掲の畝状竪堀より南側にあるもので、こちらも見ごたえがある。
【写真左】深い堀切
 畝状竪堀や堀切が集中している箇所はこの西城の西側に当たる。

(Ⅰ)郭からこの堀底部まで降りようと試みたが、どの斜面も70度前後はあろうかという急峻な切岸のため断念した。確実に降りるためには、頑丈なロープを使わないとまず無理だろう。

 このような経験は久しぶりで、亀ヶ城はまさに手つかずの遺構を残している見ごたえ十分な山城である。


遺構概要

 参考までに、当城における主だった遺構の概要が説明板に記されていたので、紹介しておきたい。

現地の説明板・その2

❝主な史跡等の規模(一部省略)
  • 項目  規模等              図面表示
  • 標高 東城 165m、西城 172m
  • 城域 東西約300m、南北約300m
  • 東城(主郭) 東西約40m、南北約55m     Ⅱ
  • 西城(主郭) 東西約40m、南北約26m     Ⅰ
  • 曲輪   大規模 7か所          Ⅰ~Ⅶ
  • 竪堀       6か所          1~6
  • 畝状竪堀     3か所
  • 堀切       4か所          A~D
  • 土塁       6か所 ❞