2017年12月18日月曜日

越前・疋壇城(福井県敦賀市疋田)

越前・疋壇城(えちぜん・ひきたじょう)

●所在地 福井県敦賀市疋田
●別名 疋田城
●史跡 福井県指定史跡
●高さ 90m(比高20m)
●形態 丘城
●築城期 文明年間(1469~87)
●築城者 疋田久保
●城主 疋田氏
●登城日 2015年10月24日

◆解説
 越前・疋壇城は別名疋田城とも呼ばれ、現在の敦賀市を南北に流れる笙の川(しょうのかわ)中流沿いに築かれた丘城である。
【写真左】疋壇城
 主郭跡に設置された石碑
 近年まで「西愛発小学校」が建っていた場所の一角に残る郭跡で、現地には「天守台跡」の標柱も設置されている。

 

現地の説明板より

“史跡 疋壇城跡
    昭和29年12月3日 福井県指定

 疋壇城は、文明年間(室町時代 1469~1487)に朝倉氏の将・疋壇対馬守久保によって築かれた。
 疋田の地は、柳ケ瀬越・塩津越・梅津越といった越前と近江を結ぶ道が集まる交通・軍事上の要衝であり、越前の最南端における防御拠点としての役割を果たした。また、古文書からは、本城の東・南・西の三方にそれぞれ出城が設けられていたこともうかがわれる。

【写真左】疋壇城配置図
 国道8号線と161号線が交わる個所に設置された「愛発の歴史散歩」というタイトルの案内図だが、大分色が劣化していたため、管理人によって加筆修正している。

 疋壇城は北陸本線と国道161号線に挟まれた箇所にある。この図では中央に疋壇城があり、その東麓には国道161号線と8号線が交わり、北(上)に行くと敦賀市街へ、161号線を南に行くと滋賀県高島市へ、また8号線を右に行くと、途中で東方へは柳ケ瀬街道(140号線)、8号幹線を南下すると滋賀県長浜市に繋がる。因みに、柳ケ瀬街道をさらに分岐して南に向かうと、柴田勝家が拠った
玄蕃尾城(福井県敦賀市刀根)がある。


 元亀元年(1570)の織田信長による越前攻めの際に、天筒山城・金ケ崎城と共に疋壇城も落城した。信長軍が撤収した後に一旦は修復されたらしく、朝倉氏の栂野三郎右衛門尉景仍らが布陣した。
 しかし、天正元年(1573)8月に再び信長が越前に進撃すると、刀根坂の戦いで朝倉方は大敗、城主疋壇次郎三郎は討死、城も破却された。
 それからここに400有余年、今も石塁や濠跡が名残りをとどめ、周辺にのこる城郭関連の小字名と共に往時を物語っている。
   平成26年11月25日 
      敦賀市教育委員会”
【写真左】「疋壇城跡」の案内標識
 R161号線から枝分かれした旧道(西近江路)を南下していくと、右側にこの案内板がある。

 おそらくこの辺りから下段で紹介している「愛発関」があったものと思われる。


愛発関あらちのせき

 疋田城すぐ近くには、往古愛発関(あらちのせき)といわれる関所があった。これは奈良時代から平安時代初期に設置された古代三関(さんげん又は、さんかん)の一つで、因みに他は東海道の鈴鹿関、及び東山道の美濃不破関である。

 このうち、不破関は最も有名なもので、岐阜県不破郡関ヶ原町松尾にあり、比定地も確定し、敷地一角には「不破関資料館」なども建っている。もう一つの鈴鹿関については近年まで比定地が確定していなかったが、三重県亀山市関町新所の観音寺公園で北辺の城壁と見られる遺構が発見されたらしく、ほぼ確定しつつあるという。
【写真左】階段を上がる。
 以前は「西愛発小学校」という学校が建っていたようで、この階段も当時の通用門の一つだったかもしれない。

 ここからおよそ10m程登ったところに学校(疋壇城)がある。


 これに対し、越前の愛発関については、今のところ比定地は完全に確定していない。しかし、越前と近江を結ぶ古代から中世にかけての街道である三本の街道、即ち現在の「西近江路」(R161)、「塩津街道」(R8 )並びに福井県道・滋賀県道140号線(敦賀柳ケ瀬線)の三本が最終的に合流するこの疋田がもっともその候補地として絞られ、具体的にはこの位置(疋壇城東麓部周辺)とされている。
【写真左】北側の段を見る。
 階段の途中から左側(北側)を見たもので、学校などが建っていたことや、周囲には植林された木立があるため、当時の遺構は把握しにくいが、この付近も郭段らしきものがあったものと思われる。


恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん)

 古代の関所とされるこの三関で、最も有名な事件として知られるのが、奈良時代におきた藤原仲麻呂の乱、通称「恵美押勝の乱」である。

 詳細は省くが、天平宝字2年(764)9月、太政大臣藤原仲麻呂(恵美押勝)が、ときの女帝・孝謙天皇(こうけんてんのう)及び道鏡と対立し、軍事力を以て政権を奪い取ろうとした事件で、押勝は近江で捕えられ敗死した。この乱で、愛発関で官軍(天皇方)と押勝方との激しい戦いが繰り広げられた。
【写真左】説明板
 階段を登りきるとご覧の説明板が設置されている。平成26年の日付があるので、最近設置されたようだ。






疋壇城

 さて、文明年間に築城されたとされる今稿の疋壇城付近は、既述したように、こうした古代から越前と近江両国を結ぶ重要な交通の要衝であったことは、中世に至っても変わらなかった。

 当城は、朝倉氏の将・疋壇対馬守久保が文明年間に築城したという。丁度応仁の乱のころで、主君は朝倉孝景のときと考えられる。一乗谷朝倉氏遺跡・庭園(福井県福井市城戸ノ内町)でも述べているが、文明3年(1471)5月21日、孝景は東軍方に降り、越前守護職を補任されているので、ほぼ同時期に越前の南の押さえとして、疋壇対馬守久保が築城したものと思われる。
【写真左】広場(旧校庭)
 現在ゲートボール場のような広場となっているが、当時の校庭だったと思われる。

 奥にはJR北陸本線が走っている。左方向が滋賀県長浜市に、右方向は敦賀市へ向かう。
 おそらくこの辺りも城域だったと考えられる。
【写真左】天守台登り口
 広場の西側に登り口の一つがある。写真の右上付近が主郭(本丸)があったとされる箇所。
【写真左】天守台
 長径(東西)30m×短径(南北)15mほどの規模で、この箇所は整備されている。
【写真左】畑地
 現在主郭付近にはご覧の様な畑地が広がる。
【写真左】石垣
 天守台(主郭)付近から北に向けて2,3段の高低差があり、段の境目にはこうした石垣が残っている。

 当時のものか断定はできないが、野面積みで、中には大きな石も使用されている。
【写真左】北側から見る。
 奥に見えるのが天守台の高台で、手前に畑が伸びているが、この辺りにも屋敷などがあったのかもしれない。
【写真左】空堀・その1
 天守台の西側には南北に伸びる空堀跡と思われる箇所が確認できる。
 現在底部は畑となっており、その右(西)に大きな土塁が残り、その西をJR北陸本線が走っている。
【写真左】空堀・その2
 上の箇所からさらに南に向かった位置
【写真左】西端部
 左側にJR北陸本線が走り、田圃を介して右に疋壇城(空堀)が控える。

 写真奥に向かうと敦賀市街に繋がる。
【写真左】西側から見る。
 鉄道側から見たもので、手前の田圃の先には空堀があり、その奥に天守台が配置されている。
【写真左】「南城 踏切 1」の標識
 鉄道の南側にはご覧の様な標識が掛けられている。

 おそらくこの辺りに出城の一つ「南城」があったものと思われる。
【写真左】広場から天守台を見る。
 旧西愛発小学校グランドから北に天守台を見たもので、現在は削平されているが、天守台(主郭)を防御する郭段などの遺構があったものと思われる。




その他の史跡

 冒頭の配置図にも書かれているが、この付近には、疋壇城に関係したといわれる史跡が点在している。
 一つは、「戦国時代武将の墓」といわれているもので、国道8号線と161号線が交差する手前の、8号線の北側斜面に五輪塔が数点残る。
 もう一つは、そこから北に向かった谷の奥野という地区にある宗昌寺にも宝篋印塔形式のものが祀られている。残念ながら、疋壇城を登城したこの日は、件の箇所を訪れていないが、他のサイトで紹介されているので、ご覧いただきたい。

2017年12月13日水曜日

利光宗魚の墓(大分県大分市大字上戸次字利光)

利光宗魚(としみつそうぎょのはか)

●所在地 大分県大分市大字上戸次字利光
●備考 鶴賀城・成大寺
●参拝日 2015年10月12日

◆解説(参考文献『日本城郭体系 第16巻』等)
 豊前・豊後の山城探訪最終日となったこの日(2015年10月12日)、その7年前の2008年に訪れた長宗我部信親の墓・戸次河原合戦(大分県大分市中戸次)に関わる鶴賀城の麓を探訪した。

 この日は帰途に着く予定でもあったため、時間もなく最初から登城の予定を立てていなかった。しかし、そのまま近くをスル―するのも勿体ないため、登城口の確認だけして置こうと思い向かった。
【写真左】利光宗魚の墓
 宗魚の墓は中央のものだが、墓石が宝篋印塔又は五輪塔の形式でないことから、後年(近世)建立されたものとおもわれる。



現地の説明板より

“成大寺(じょうだいじ)由来

 開基は詳らかでないが、大日如来を本尊とする天台宗の寺であった。寛弘8年(1011)に佛工定朝(ぶつこうじょうちょう)が毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)を刻し安置している。
 建久7年(1196)大友氏入封後、九州鎮護の「惣道場」となり、嘉禎2年(1236)には、戸次氏の「祈願所」となる。正平2年(1347)より利光氏の「香崋院(こうげいん)」として、末院六か寺を有する大寺院であった。

 天文22年6月26日(1553)に大友宗麟より、肥後にある土地10町4反を寺領として、寄進を受け隆盛を極めていたが、天正14年(1586)の鶴賀城の戦いで全部焼失した。
 慶安元年(1648)戸次願行寺(がんぎょうじ)住職仁山(じんざん)和尚により、臨済宗妙心寺派の成大寺として再興された。その後、昭和27年(1952)寺籍を無くし利光区の管理となり現在に至る。

    平成18年12月吉日
    大分市地域まちづくり活性化事業
    協力  成大寺保存会“
【写真左】成大寺 住職 信庵阿奢利正忠の墓
 宗魚の右側に建立され、標柱の側面には「観応元年1月15日亡(1350)」と記されている。
 戸次氏から利光氏へと替わった頃なので、説明板にもあるように、末院六か寺を有する大寺院となったときの住職と思われ、いわば中興の祖と考えられる。
 ただ、墓の形式が五輪塔なので、元は武士(阿南氏か)だったと推測される。



利光氏

 鶴賀城の城主利光氏の出自についてははっきりしない点が多いが、佐藤蔵太郎著『鶴賀城戦史』によれば、前稿の豊後・戸次氏館(大分県豊後大野市大野町田中・最乗寺で紹介した大神氏系阿南基家のあと、大友氏(能直か)入国後、基家の弟親家が下賜され、姓を地名から利光としたとされる。

 しかし、上掲の説明板にもあるように、麓にあった成大寺が建久7年の大友氏入国後、九州鎮護の「惣道場」となり、嘉禎2年(1236)に、戸次氏の「祈願所」となったと書かれているので、この段階では、大友氏2代親秀の次男重秀が戸次荘(鶴賀城)に最初に入ったときと思われる。

 その後、理由は不明だが、戸次氏は当地・戸次荘を離れている(西部の大野荘地域へ)ので、大友氏傘下となった阿南氏が、正平年間(南北朝期)に戸次氏と入れ替わり、阿南から利光姓を名乗ったものと推測される。
【写真左】墓周辺
 成大寺跡には、件の墓石と左側に見える集会所のような建物が建っている。
 この場所が鶴賀城の登城口の一つになる。
なお、本丸はこの写真でいえば右側に当たる。


利光宗魚

 さて、長宗我部信親の墓・戸次河原合戦の稿で述べたとおり、天正14年(1586)、長宗我部信親ら豊臣軍が豊後水道を渡海する前まで、必死に島津軍の攻撃に耐えていたのが鶴賀城主・利光宗魚である。宗魚は別名、越前守鑑教、宗匡ともいった。

 当初2万の大軍を率いた島津軍が鶴賀城を包囲したとき、城主・宗魚は当城には在城しておらず、宗魚の嫡男・弾正忠統久をはじめ、弟の平助・叔父の成大寺豪永・高橋左近・村上三郎右衛門以下わずか700人、それに老若男女併せて3,000余人だったという。
【写真左】「鶴賀城跡↑」の案内板
 ここから本丸跡まで約900m(約30分)、のろし台(15分)、穀物倉(20分)などと付記してある。

 一瞬登城したくなったが、帰りの時間も考慮し断念した。機会があれば鶴賀城や鏡城などをはじめ、島津軍が進軍した城砦なども改めて訪ねてみたいものだ。


 城主・宗魚はこのとき、3,900余騎を引連れ肥前に出征中だった。この肥前とはおそらく島津方の島津忠長(ただたけ)及び伊集院忠棟の両将が2万の大軍を率いて北上し、大友氏に寝返った筑紫広門の守る肥前・勝尾城や朝日山城での戦いに援軍として向かっていたときと思われる。

 鶴賀城の危機を知った宗魚は急ぎ軍を引き返し、途中で龍王城(豊前・龍王城(大分県宇佐市安心院町龍王字古城)参照)にあった大友宗麟の嫡男・義統(よしむね)に謁して別れを告げ、鶴賀城に向かったという。

 義統が龍王城に在陣していた理由は、耳川の戦い後、大友氏に背いた安心院氏を当城で攻略した後ではあったが、本来ならば宗魚と一緒に鶴賀城に援軍すべきである。『九州諸家盛衰記』では彼のことを「不明惰弱(懦弱)(ふめいだじゃく)」と記している。優柔不断で識見状況判断に欠け、しかも酒乱であったという。一説には大友家の衰退は義統が招いたとも云われている。もっとも、このとき義統は、その後援軍してくる豊臣軍と合流するためにこの地に待っていたという説もある。
【写真左】成大寺跡から本丸方面を遠望
 成大寺からはほぼ南の方向に本丸が位置する。直線距離では700m前後となる。





 さて、宗魚が鶴賀城に戻ってから島津軍との戦いが再開された。時に天正14年11月末のことである。緒戦では局地的な戦いが繰り広げられたが、12月5日本格的な戦いが始まった。島津軍の猛攻により、三の丸・二の丸まで焼け落ち、いよいよ牙城本丸に差し迫った。しかし宗魚らの必死の抵抗があったため、島津軍は深追いせず一旦鶴賀城の南にある梨尾山の陣に引き上げた。

 12月7日の夕、宗魚は梨尾山にある島津軍の様子を見ようと、鶴賀城の櫓に上った。そのとき木陰に潜んでいた島津軍の一人の兵が一矢を放った。矢は宗魚の急所に当たり絶命したという。また、別説では流れ弾に当たったためともいわれている。
【写真左】成大寺から西方を眺望する。
 成大寺や鶴賀城の西麓を大野川(戸次川)が南北に流れ、対岸には阿南氏の居城といわれた天面山城がある。
 おそらく写真左側の山と思われる。
【写真左】大野川(戸次川)を見る。
 成大寺を少し降りたところの東岸部から北を見たもの。豊臣軍は下流となる奥の方から進軍してきており、西岸には豊臣軍が軍議を開いたという鏡城がある。

 従って、この位置はちょうど島津軍が鶴賀城を陥れたあと、豊臣軍と相対した場所になる。

2017年12月10日日曜日

豊後・戸次氏館(大分県豊後大野市大野町田中・最乗寺

豊後・戸次氏館(ぶんご・べっきしやかた)

●所在地 大分県豊後大野市大野町田中・最乗寺
●形態 居館
●遺構 不明
●備考 最乗寺
●築城者 戸次氏
●築城期 不明
●登城日 2015年10月12日

◆解説(参考資料 HP『戦国 戸次氏年表』、HP『城郭放浪記』等)
  大分県大分市には二つの大きな川が流れている。一つは西側にある大分川、もう一つは東側にある大野川である。いずれも一級河川であるが、このうち大野川の旧名は戸次川(へつぎがわ)と呼ばれ、長宗我部信親の墓・戸次河原合戦(大分県大分市中戸次)の稿でも紹介したように、天正14年(1586)この川を挟んで長宗我部信親ら秀吉から派遣された四国勢と、南から進軍してきた島津軍との壮絶な戦いが繰り広げられ、長宗我部元親の嫡男信親が悲運の死を遂げた。
【写真左】戸次氏館跡・最乗寺
 現在最乗寺という寺院が建立されているが、豊後大野市には14か所に及ぶ城郭(山城・館等)があったとされる。
 そのうち、大野町田中ある現在の最乗寺という寺院付近に戸次氏の館があったとされる。


 さて、この大野川(戸次川)を遡っていくと、大分市の南隣豊後大野市に入る。同川の支流平井川を北上していくと、矢田というところで二つに分かれ東側から田代川が注ぎ込む。

 この田代川をさらに遡り、国道57号線と交差する地域が現在の大野市のもととなった大野町である。
 戸次氏館はその大野町田中にあったとされる城館である。
【写真左】最乗寺前の通り
 この最乗寺から北へ約2キロほど向かった藤北にも戸次氏の館(藤北館)がある。また、そこからさらに北西方向に6キロほど向かったところに下段で紹介している鎧ヶ岳城がある。



大神氏その一族

 ところで戸次氏に関連する事項に入る前に、大雑把な豊後国の武士を中心とした中世の流れを見てみたい。

 平安時代後期、豊後(今の大分県中南部)に勢力を誇った一族に大神(おおが)氏がいた。大神氏はもともと宇佐神宮の神官として奉仕していたが、宇佐氏によって大宮司職を奪われると、宇佐を退去し豊後の南方に移り扶植していったといわれる。
 推測だが、この大神氏が宇佐を退去する前にいたと思われる本貫地が、現在の国東半島の南東部にある日出町大字大神(おおが)ではないかと考えられる。因みに、当地大神から宇佐神宮までは直線距離で25キロほどである。

 大神氏からは後に、臼杵大野・植田・阿南・高知尾氏などが分かれていく。このうち臼杵氏の分流となった一族に緒方氏がいる。
【写真左】山門
 先ほどの通りを抜けると、手前に階段がありその上部に最乗寺の山門が控える。








緒方氏大友氏

 緒方惟栄(これよし)は当初平家(平重盛)の御家人であったが、のちに源氏方に与し平家の拠点宇佐神宮を攻撃し、神宝などを略奪したため上州へ配流されたが、平家追討の功を認められ、再び豊後に戻った。そして平家滅亡後頼朝と不仲になった義経を九州に招くため、竹田に岡城を築いた(豊後・岡城(大分県竹田市竹田)参照)。惟栄の本拠地は同市(豊後大野市)の緒方町である。

 周知の通り、義経らは惟栄を頼って舟で九州へ向かったが台風に巻き込まれ、軍勢も散り散りになり西下計画も失敗に終わった。こうした経緯もあったため、豊後国は幕府を開いた頼朝にとって完全に統治した国ではなく、敵対する者も多かった。このため、その鎮圧と知行を目的として大友能直(よしなお)を豊後に送り込んだ。
【写真左】山門から田中の町並みを見る。
 高さは5m前後のもので、館があったとされる時代には郭段を構成していたものと思われる。




 能直は相模国(神奈川県)愛甲郡古庄郷司であった近藤(古庄)能成の子として生まれ、後に母の実家であった同国足柄上郡大友郷を継承して大友能直と名乗った。
 建久7年(1196)正月、能直は豊前・豊後両国守護並びに鎮西奉行を任じられた。

 能直の入国の前、先発として向かったのが能直の実弟とされる古庄重能である。果たせるかな、重能の入国を阻止するため一斉に立ちあがったのが、件の大神氏一族である。主だった同氏一族が拠って戦った城郭は次の通り。
  • 阿南惟家  高崎山城(大分市神崎)
  • 阿南家親  鶴ヶ城(長宗我部信親の墓・戸次河原合戦で紹介している鶴賀城と考えられるが、豊後大野市緒方にある鶴ヶ城の可能性もある。)
  • 大野泰基  神角寺城(豊後大野市朝地町烏田 神角寺)
  • その他
【写真左】本堂
 本堂の裏側はさらに高くなった丘陵地があり、そこに田中神社が祀られている(下段写真参照)。
【写真左】境内
 境内周辺には民家などが建っているが、本堂も含めたこの平地を当時の館敷地とすれば、凡そ長径(南北)50m×短径(東西)30mといったところか。




大友氏による豊後支配体制

 大神氏一族らによる抵抗はゲリラ作戦的な戦いが多く、大友氏はこのためかなり悩まされたが、次第にこれら在地武士を支配下に治めていった。

 貞応2年(1223)、大友能直は死の直前大野荘地頭職を妻・風早禅尼(深妙)に譲った。そして、延応2年(1240)、深妙は大野荘の地を7人の子に分与し、詫摩・一万田・志賀ら有力武士が誕生した。その後、二代親秀、三代頼泰と継嗣させ、二代親秀に多くの男子があったことから、彼らをそれぞれ豊後各地に配し、姓をその地名からとった。

  氏名       領主名(所領地)
 次男・重秀 ⇒ 戸次氏(大野川(旧戸次川)の中流域)
 三男・能泰 ⇒ 野津原氏(大分川支流七瀬川沿いの旧野津原町付近)
 四男・直重 ⇒ 狭間氏(由布市狭間町)
 五男・頼宗 ⇒ 野津氏(臼杵市野津町)
 六男・親重 ⇒ 木附氏(杵築市)
 七男・親泰 ⇒ 田北氏(竹田市直入町上・下田北)

※なお、史料によっては、初代能直、二代親秀までは実際に豊後に下向せず、三代頼泰のとき初めて当地に入ったとされるものもある。
【写真左】最乗寺の脇から田中神社に向かう。
 境内北側が少し高くなって、その奥には田中神社に向かう階段付の参道がある。




戸次氏

 さて、このうち戸次氏については、元々大神氏系臼杵氏の流れを持つ戸次惟澄がこれ以前から在地していたが、惟澄には子がなかったので、重秀を養子に押し付けたといわれている。

 大友氏が養子を送り込んで、戸次重秀と名乗らせる前の戸次氏は、臼杵惟盛から分かれた惟衡の子維家が初めて戸次姓を名乗っている。以後、惟隆、惟継、惟房、そして惟澄と続いた。

 惟澄が大友家から重秀を養子として迎えたあと、時親、貞直、頼時、直光、直世、親載、親貞と続き、親貞の代になって、戸次家惣領には親宣を、親続には片賀瀬戸次氏を、親延には藤北戸次氏を継がせている。おそらく片賀瀬戸次氏や、藤北戸次氏も養子の形で押し込んだのだろう。
 この惣領親信の孫が戸次鑑連(あきつら)、すなわち後に「鬼の道雪」又は「仏の道雪」といわれた立花道雪である。
【写真左】鳥居
 額束には「熊野権現宮」と刻銘された文字が見え、また柱には「文久二…」の文字が見える。
 創建期など不明だが、これから推測すると紀伊の熊野本宮から勧請されたものだろう。



立花道雪(戸次鑑連)

 戸次氏を語る上で、戦国期もっとも名を馳せた武将としては、立花道雪と立花宗成の二人(筑前・岩屋城・その1(福岡県太宰府市大字観世音寺字岩屋)参照)が挙げられるだろう。
 
 ところで上述したように戸次姓の基となった戸次地域は、戸次川(大野川)の中流域にあった戸次の荘(大分郡戸次荘)からきたものと思われるが、その後重秀はそこからさらに上流部に遡った今稿で取り上げている戸次氏館の北方、大野市大野町田中に鎧ヶ岳城を築いた。

 永正10年(1513)初春、戸次氏13代当主親家の次男として道雪が生まれた。道雪の幼名は八幡丸といい、彼が生まれたとき既に長男は夭逝しており、生まれながらに嫡子としての重責を背負うことになる。

 なお、道雪が生まれた場所については、居城・鎧ヶ岳城とする史料もあるが、現地は居館跡らしきものや、郭といった遺構などが希薄であったことから、当城の南麓にあったもう一つの館・藤北館(常忠寺裏)ではなかったかとする説もある。
【写真左】拝殿
 蔀戸もなく、柱だけ残した構造となっている。往時はこの場所で神楽などの奉納がされたのかもしれない。




 父・親家の妻は、同じく大神氏の流れを汲む由布加賀守惟常の娘で、八幡丸(道雪)を生んだ翌年死去してしまう。
 父・親家も生まれながらにして病弱で、八幡丸は14歳のとき父の名代として初陣を飾り、その功を以て主君大友義鑑(宗麟の父)から正式に戸次家の家督相続の許しを得、さらに偏諱を受けて、鑑連(あきつら)と名乗った。
【写真左】「田中神社」の額
 名称は当地名の田中からきたものだろうが、日本全国にある「田中神社」との関連もあるかもしれない。



 その後の経緯については少し端折るが、道雪となったのは、その当時の主君義鎮が剃髪して宗麟と号したとき、多くの家臣も主君に倣い入道となり、鑑連もこのとき「道雪」と号したからである。

 また、立花姓となったのは、大友氏の一族立花氏(立花山城(福岡県新宮町・久山町・福岡市東区)参照)が度々主君大友氏に反旗を翻していたため、これを追いやり、宗麟が道雪をして立花の名跡を継がせたからである。そして、道雪は筑前の立花城の城主となった。
【写真左】絵馬
 この出で立ち衣装は何となく赤穂浪士を髣髴させるのだが、よく分からない。
【写真左】田中神社境内
 最乗寺境内からおよそ7,8m程度高くなったところに祀られているが、ここからさらに北に向かって丘陵上の尾根が続く。
 中世はこの縁あたりが当時の街道であったかもしれない。

2017年12月4日月曜日

豊前・龍王城(大分県宇佐市安心院町龍王字古城)

豊前・龍王城(ぶぜん・りゅうおうじょう)

●所在地 大分県宇佐市安心院町龍王字古城
●別名 神楽岳城・臥牛城
●高さ 315m(比高215m)
●築城期 正安年間(1299~1302)
●築城者 安心院公泰
●指定 宇佐市指定史跡
●遺構 郭・石垣等
●備考 仙の岩(国指定名勝耶馬渓)
●登城日 2015年10月11日

◆解説(参考文献 『日本城郭体系 第16巻』新人物往来社刊』等)
 全国に4万社以上あるといわれる八幡社の総本宮といわれるのが、大分県宇佐市にある宇佐神宮である。この宇佐神宮の西方を流れるのが、由布岳などを源流として周防灘にそそぐ駅館川(やっかんがわ)である。同川は二級河川で規模は大きくないものの、中流域では多くの支流を抱え込む。そのうちの一つが支流津房川に合流する深見川である。

 龍王城はその深見川が大きく蛇行する安心院町龍王に所在する山城で、この地域は中世における豊前と豊後両国の境目となる要衝であった。
【写真左】龍王城遠望
 主郭から南西に伸びる尾根部分で、通称「仙の岩」といわれる。

 国指定の名勝耶馬渓の一つで、写真は、右側から100mの大絶壁の平岩、全耶馬渓随一の大岩柱の剣ヶ岳、屏風岩。


現地の説明板より

“町指定史跡
龍王城(神楽岳城・臥牛城)跡

 正安年中(14世紀初頭)に宇佐大宮司安心院公泰により築城された連郭式山城です。
 中世には、豊前国と豊後国の境にあるためこの地域での中核的な城としての機能を果たし、地頭安心院氏を中心とした抱城でした。
 近世になると、細川氏が入部し龍王城を再普請し、準城下町に町並みも含め整備しています。その後、元和元年(1615)の一国一城令で破却され、寛永16年(1639)に城主松平重直が高田城に移り、廃城となりました。
 近世の普請による町並みは、今もその面影を残しています。

   安心院町教育委員会”
【写真左】龍王・海神社
 北側から車で向かう道があり、登城口付近には「海神社」という社が祀られている。この境内が駐車場を兼ねているようで、ここに停める。



安心院氏(あじむし)

 安心院と書いて「あじむ」と呼称する。現在当城が所在する地区は平成の合併により宇佐市に包含されたが、鎌倉期以前に16ヵ村を数えた安心院荘が記録されており、隣接する院内町なども元は荘園であった。そして、その荘園領主が宇佐神宮である。平安時代には九州最大の荘園領主にもなったことから、その経営防備などを担う神職家や坊官家などは武士となったものが多い。
【写真左】宇佐神宮
 所在地:宇佐市大字南宇佐2859
参拝日:2008年12月4日
【写真左】登城開始
 海神社側の階段とは反対の位置に登城口がある。九十九折のコースとなった道で、傾斜は多少あるものの歩きやすい。




 龍王城を築いた安心院公泰は、宇佐大宮司公康といわれている。文字通り宇佐神宮の宮司である。築城期は正安年間(1299~1302)といわれているので、丁度鎌倉幕府がこのころ鎮西評定衆を置いた時期と重なるので、それらと連動した関係もあったのかもしれない。

 伝承では、公泰が当地に入村し、姓を当地名から安心院と名乗り、拠点とする居城を宇佐宮に祈願したところ、安心院の山上と覚ゆるところに経津主神が現われ、神楽を奏した夢を見たのでこの山に城を築いて神楽岳城と名付けたという。
【写真左】登城道
 登るにつれて周囲には大きな岩が目立つようになる。石で造られた階段が所々あるが、大分劣化している。





南北朝期から戦国期
 
 その後城主安心院氏の動向は戦国期に至るまではっきりしないが、南北朝期の建武3年(延元元年・1336)豊前守護代であった宇都宮冬綱(月光山 天徳寺(福岡県築上町本庄361)参照)が、この城を借用しその子親綱に守城させ、龍王城と改称したという。このことから、おそらくこのころは城井氏の支配が豊後国境となるこの辺りまで拡大していたのだろう。

 ところで、龍王城と密接な関係を持っていたのが、当城から北へ凡そ8キロほど下った院内町香下の妙見嶽城である。築城期は天慶3年(940)藤原純友が築城したというから、大宰府政庁跡(福岡県太宰府市観世音寺4-6-1)の攻撃と絡んだものだろう。
【写真左】妙見嶽城遠望
 龍王城の本丸からは見えないが、登城口の海神社境内から北北西方向を俯瞰すると確認できる。
 標高444m、別名極楽寺城ともいう。当城の登城も試みたが、比高差(約400m)と険峻な山容に圧倒されて断念した。

 なお、当城についてはHP『城郭放浪記』さんが既にアップしておられるのでご覧いただきたい。なかなか見ごたえのある城郭のようだ。



  さて、戦国期の天文年間(1532~ )に至ると、山口の大内氏が豊前統治のため、豊前・松山城(福岡県京都郡苅田町松山)に守護代を置き、妙見嶽城にはその代将を置いた。当城(妙見嶽城)には大内氏の重臣杉氏が代々務めている。そして、龍王城には城井三郎兵衛尉を置いた。
【写真左】北東方向を俯瞰する。
 奥に見える山並み(鹿子岳など)を超えると、駅館川の支流津房川や佐田川などが流れ、その北岸には下段で紹介している佐田氏の居城・佐田城や、飯田(はんだ)氏の居城・飯田城などが所在する。


 しかし、この体制も弘治2年(1556)になると大きく変わることになる。この年大友義鎮(宗麟)は1万2千の大軍を率いて龍王城に攻め入った。

 この戦いで城将城井統房をはじめ宇佐郡の地頭たちは皆降伏し、大友氏の傘下となった。このころ安心院氏の立場ははっきりしないが、おそらく城井氏の麾下となっていたのだろう、安心院公正は宗麟に謁し、麟の一字を許され麟生と改称した。麟生はその後永禄年間(1558~70)には大友氏の配下として門司城で毛利氏と刃を交え軍功を立てた。
【写真左】尾根鞍部にたどり着く。
 登城途中倒木や竹に覆われた箇所もみえたが、道そのものは何とか歩ける。
 ここで左右に分かれるが、本丸は右側。


 臼杵城(大分県臼杵市大字臼杵)の稿でも述べたが、天正6年(1578)11月、大友氏が耳川の戦いで大敗し同氏の衰頽が始まった。すると最初に反大友の烽火を挙げたのが、豊前・長岩城の野仲重兼である。

 重兼は翌7年、坂手隅・末広の諸城を落とし、大畑城に迫ったが、田原紹忍の下知に従って参戦した安心院・香志田・深見・臼杵諸氏の軍によって野仲軍は退却した。しかし、その後の大友氏の頽勢を押し止めることは出来ず、天正10年ついに安心院麟生も反大友に回った。
【写真左】郭段
 遺構として標示されたものはほとんどないが、この付近は尾根筋に何段かの郭が構成されていたような痕跡がある。




 このため、妙見嶽城の田原氏は宇佐郡衆の兵を募って龍王城を囲んだ。安心院麟生は一族郎党と共にこの要害堅固な龍王城に拠って必死に防戦に努めた。
 龍王城は結局落城せず、最終的には田原氏配下の佐田弾正忠が和睦の交渉に入り、降伏すれば本領安堵という条件をもって翌11年の正月開城した。

 開城後、麟生一族の動向については諸説紛々ではっきりしないが、一説には麟生は佐田の追討軍に狙撃されたとか、佐田鎮綱に後事を託して切腹し、麟生の子・千代松丸は許されて居館に帰ったなどといわれている。
【写真左】本丸と反対側方向
 おそらくこの下の段にも中小の郭などがあったものと思われるが、藪化しているため踏査していない。
 このあと、振り返って本丸方向に進む。
【写真左】本丸に向かう。
 石積による階段が設置されているが、これは後世のものだろう。
 前方に明かりが見える。
【写真左】腰郭
 経年劣化で郭の平坦さは失われているが、登城階段の左右には腰郭らしき遺構が散見される。
 点在している石も当時は郭段を構成していた石垣の跡かもしれない。
【写真左】本丸・その1
 頂部(本丸)にたどり着くと、NHKなどの無線中継の設備が設置されている。
 また手前の石碑には「龍王城児童遊園」と刻銘されている。
 どうやら以前は公園となっていたようだ。
【写真左】藤掛城遠望・その1
 よく見ると雑草の間に区画用の石が並んでいるが、これも遊園(公園)地のときのものだろう。
 一角には欠損しているものの、「神楽城址」と筆耕された石碑が建立されている。
【写真左】藤掛城遠望・その3
 無線中継所などが設置されているため、当時の状況は分からないが、規模はおよそ長径40m×短径30mで、楕円の形状をしている。
【写真左】石垣か
 下山途中に見えたもので、北側の一画に残る。
【写真左】仙の岩
 東麓を走る県道50号線(安心院湯布院線)に向かうと、冒頭で紹介した「仙の岩」がある。
 往古山岳仏教の修行場であったといい、大厳寺岩窟などがある。

 この写真でいえば、尾根を右伝いにいくと龍王城に繋がる。




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