生野城(いくのじょう)
●所在地 兵庫県朝来市生野町口銀谷字古城山
●別名 生野古城、古城山、御主殿
●高さ 601m(比高290m)
●築城期 応永年間(1394~1428)
●築城者 山名時熈
●城主 山名氏、太田垣朝延等
●遺構 石垣、土塁、郭、堀
●登城日 2017年5月4日
●築城期 応永年間(1394~1428)
●築城者 山名時熈
●城主 山名氏、太田垣朝延等
●遺構 石垣、土塁、郭、堀
●登城日 2017年5月4日
◆解説
兵庫県のほぼ中央部を南北に走るのが、古代から使われてきた但馬街道(但馬道)である。播磨灘に注ぐ市川河口の飾磨(しかま)から市川沿いに北上し、神崎郡を抜け、生野峠を越えて但馬に入り、和田山から八鹿までは部分的に山陰道と重なるが、八鹿から北上し城崎に至る。この部分は豊岡街道とも呼ばれた。城崎に至ると円山川河口となり、ここから日本海に繋がる。
生野城はこの但馬街道沿いにある生野の街並みから北東に聳える御立山に築かれた城郭である。
【写真左】生野城 登城途中の別郭付近から生野の街並みを俯瞰する。
現地の説明板より その1
”生野城古城山
この後の山は、御立山(みたてやま)といいます。応永34年(1427)播磨の守護職であった赤松満祐が将軍足利義持に反抗して兵を挙げた際、将軍は、その討伐を但馬の守護職である山名時熈(ときひろ)に命じました。
時熈は兵を率いて生野に来て、この御立山の山頂に城を築き、満祐討伐に備えました。
その後、満祐が将軍に謝罪し、赦されて討伐は行われず、時熈は兵を収めて出石に帰りました。
山頂にはその当時の城址があり、これを「生野古城」山「古城山(こじょうさん)」又は「御主殿(ごしゅでん)」と呼んでおります。
平成4年3月
生野町教育委員会”
生野の町から遠望した写真で、右の谷を行くと市川本流と並走する国道429号線に繋がり、青垣峠を越えて丹波に繋がる。
左側が但馬街道(国道312号線)になる。
山名時熈(ときひろ)
生野城は応永34年(1427)、山名時熈が築城したといわれる。このころの室町幕府将軍は、足利義満の子・第4代足利義持である。赤松満祐については置塩城の稿でも紹介しているように、時熈が生野城を築いてから14年後の嘉吉元年(1441)、満祐は6代将軍・義教を謀殺している(「嘉吉の変」)。
【左図】生野城縄張図 現地に設置されていたものだが、だいぶ劣化し不鮮明になっていたので管理人によって修正を加えている。
主だった遺構としては、東側に主郭を置き、西方にニの郭(曲輪)、三の郭を並列させ、南側の東西にそれぞれ別郭と主郭規模の郭を置いている。また、北側にはそれぞれ東西に延びる尾根筋に犬走を介して細長い郭が数段設けられている。
時熈の祖父は山名時氏(山名寺・山名時氏の墓参照)である。
時氏の代に幕府の侍所頭人となってから以来、伯耆・出雲・隠岐・因幡・若狭・丹波・丹後・美作・紀伊・和泉・備後など多くの守護職を獲得、隆盛を極めた。
時氏の子には師義、義理、氏冬、氏清、義継、時義、時治など12人前後いたが、このうち美作・伯耆・但馬国などの守護職を受け継いだのが時義の子時熈である。
そして、時熈の子として最も有名なのが、後の応仁の乱において西軍を率いることになる山名持豊、すなわち山名宗全である。
【写真左】登城口付近 登城口は生野城の南西麓にある琵琶の丸公園駐車場側にある。琵琶の丸は下段で紹介している最初の郭だが、この付近も生野城時代の平時の住まいなどがあった場所と思われる。
なお、この近くに公園造成中に発見されたという間歩(坑道入口)がある。
生野銀山
生野銀山の歴史をたどると、大同2年(807)に銀が出たとされている。大同2年ごろといえば、ちょうど奈良時代から平安時代に移行する時期で、宗教の世界では唐から帰朝した最澄が天台宗を、また空海が真言宗をそれぞれ広めていく時期と重なる。おそらく、生野銀山で銀が出たというのも、こうした平安仏教(天台宗と真言宗)による需要(仏像・仏具・建物など)が起因しているのかもしれない。
奥には本丸が見える。
生野銀山が本格的に鉱山として稼働し始めたのは、戦国期の天文11年(1542)からで、城山の南表で掘り出されたという。
因みにこれより遡る記録では、石見銀山(矢滝城(島根県大田市温泉津町湯里)参照)が採掘されたのが大永6年(1526)で、博多の豪商・神谷寿貞が出雲の銅山師・三島清右衛門の協力を得て銀を博多に持ち帰っている。後に、石見銀山は大内・尼子・毛利の三氏によって激しい争奪戦が繰り広げられる。
さて、生野銀山を最初に支配したのは、当時の但馬守護山名祐豊(此隅山城・参照)で、鉱山操業と併せて、生野城の大規模な改修も始めている。
【写真左】間歩か 登城途中に見えたもので、井戸跡にも見えるが、横穴形態なので間歩だったのかもしれない。
生野城
山名祐豊が当城の城主にあったのは、天文11年から弘治2年(1556)までの14年間で、その後但馬の竹田城主・太田垣朝延が祐豊から銀山の領有権を奪取、生野城主として新たに入城した。因みに、竹田城から生野城までは、但馬街道を使っておよそ20キロ余りの距離になる。
南東の立雲狭から遠望したもの。
撮影日 2019年4月5日
太田垣朝延は竹田城の第5代城主だが、元々太田垣氏は山名氏の家臣で、山名四天王の一人であったが、途中から他の但馬衆らとともに山名氏から離れていった。
途中で小さな郭などがあるが、この辺りでやっと視界が開け明るくなる。
その後羽柴秀吉が織田信長の命により但馬に侵攻、生野城の守備をしていた太田垣方は抗戦を諦め、本城の竹田城に退散した。しかし、竹田城での防戦もむなしく、太田垣朝延は秀吉の軍門に降り、竹田城も落城した。
この結果生野城は廃城となったが、秀吉は生野銀山を直轄地として代官を置き、鉱山経営に当たらせた。その後関ヶ原の戦い後、徳川幕府が生野を天領として支配、以後260年にわたって生野銀山は幕府の重要な財源となった。
右側の登城道を進んでいくと、次第に左側の切岸が険しくなってくる。
この辺りですでに最南端の「別郭」「三の郭」の横を通過しているはずだが、切岸のために直接向かうことはできない。この写真では「三の郭」から「二の郭」辺りとなる。
遺構
生野城の遺構の概要については、上述した縄張図、及び下記の現地の説面板で紹介しておきたい。
現地の説明板より、その2
遺構について
応永34年(1427)但馬の守護職・山名時熈(宗全の父)は、四代将軍・足利義持の命により、幕府の守護職・赤松満祐を討伐することになり、兵を率いて生野に出陣し、播但の国境であるこの山の頂上に城を築いて攻撃の拠点にしたのが生野山城であります。
険しい切岸の側面に設けらた道を登ると三の郭にたどり着く。
標高601mの山頂には、36m四方の主郭(本丸)を中心に、西方の但馬街道に向けて、大規模なニの曲輪、三の曲輪がつづき、尾根の要所には、多数の別郭や堀切を構築して、赤松軍の攻撃に備えており、中世山城の典型的な遺構を見ることができます。
570年余年を経た山容は今も峻険、深い谷間の雑木林の中にも、土塁に囲まれた曲輪群や、堀切がよく残り、戦国時代の城塞跡として、非常に貴重な存在といえます。また、城跡からの眺めはすばらしく、南の方向には、赤松氏の拠点であった播州平野も遠望され、攻撃に備えての万全の構えを示していたことがよくわかります。”
【写真左】三の郭西端部 丁寧な普請だ。
【写真左】三の郭から下方に別郭を見る。 三の郭から切岸を介して下方に別郭が突き出している。
【写真左】ニの郭の石積 三の郭側からニの郭を見ると、側面に石積跡が残る。
西端部を北側から見たもの。
【写真左】ニの郭から三の郭及び別郭を見る。 二の郭から一番下の別郭までの比高は50m前後はあるだろう。
【写真左】ニの郭から主郭(本丸)を見る。 奥に主郭が見えているが、主郭との比高差は5m前後はあるだろう。
南端部付近で、この下には中規模の郭があるが、かなりの距離を降りて行かなければならないので、踏査していない。
配置構造からいえば腰郭ともいえるが、あまりにも距離が離れているので、南東部方面を防御する単独の郭だったと思われる。
写真の奥に見えるのは生野の街並み。
主郭には御覧のような大きな石が残る。
主郭の北側から切岸を設けて尾根が続くがこの下にも郭があるのでそちらに向かう。
【写真左】大岩 左側の切岸の下にも郭が見える。
【写真左】北の郭の土塁 時間があまりなかったため踏査していないが、下の郭には井戸、櫓台、門跡、さらに一段下がった位置には最北端の郭がある。
この位置では植林などもあって確認できない。
このあと、最初にみえた別郭へ向かう。
この郭は下から直接向かうことができないため、三の郭からすべるように降りて行く。
【写真左】別郭先端部から生野の町を俯瞰する。 左奥に向かうと姫路方面、右に向かうと但馬竹田城に繋がる。