和仁・田中城(わに・たなかじょう)
●所在地 熊本県玉名郡和水町和仁字古城
●指定 国指定史跡
●別名 田中城、和仁城、舞鶴城
●形態 平山城
●高さ 標高104m(比高50m)
●築城期 不明(南北朝以前)
●築城者 不明(古代豪族和邇氏末裔か)
●城主 和仁親実等
●遺構 郭・堀切・井戸等
●登城日 2015年2月25日
◆解説(参考文献『肥後国衆一揆』荒木栄司著等)
和仁・田中城は別名田中城(以下「田中城」とする)ともいい、熊本県の北西に位置する和水町(なごみまち)に所在する平山城である。築城期は不明だが、古代豪族であった和邇氏の末裔である和仁氏が築いたものとされている。
【写真左】田中城の空堀
当城の見どころの一つで、主郭を形成している丘陵周囲裾部に約300mにわたって巡らされている。
肥後国衆一揆
豊前の大平城(福岡県築上郡築上町大字寒田)の稿でも述べたように、当城では戦国期における「肥後国衆一揆」の代表的な戦いが繰り広げられた。この戦いの経過について、詳細な内容の説明板が現地に掲示してある。
【写真左】遠望
南側から見たもので、この写真では全体が入っていないが、中央部が本丸などに当たる。
なお、正面中央部が新城口といわれた箇所で、民家が建っている附近である。
現地説明板・その1
“国指定史跡
田中城跡(和仁城跡)
所在 三加和町大字和仁字古城
指定日 昭和61年4月15日(※国指定:2002年3月)
田中城は、廣瀬(ひろせ)文書の暦応3年(1340)の項に出てくる鰐(わに)城にあたると考えられているが、いつ築城されたかははっきりせず、落城する天正15年(1587)まで250年以上は続いたと思われる和仁一族の居城である。
天正15年、九州征伐を終えた豊臣秀吉は、肥後国主として佐々成政を任命したが、この成政に対してそれまで肥後の国を分割統治していた国衆が反旗をひるがえし、いわゆる肥後の国衆一揆がおこった。
和仁氏もこの一揆に加わり、姉婿の辺春(へばる)親行(坂本城主:上十町)とともに、田中城に籠城した。この模様を描いたのが、山口県立文書館保存の『辺春・和仁仕寄(しより)陣取図』である。
【写真左】和仁軍の守備配置図
この図は、当城北西端麓にある田中城の磨崖仏付近に設置してある絵図だが、大分劣化し、色が不鮮明になったものを管理人によって少し修正加筆した。
左方向が北を示す。
絵図によると、田中城の周りに二重の柵列を設け、その外側に小早川秀包(ひでかね)・安国寺恵瓊など毛利氏関係のほか、鍋島直茂・立花宗茂・筑紫広門など九州の諸将が陣を張っている様子がわかる。その数約1万ともいわれ、およそ40日後の12月5日、内部の裏切りでついに落城した。
城の規模は、総面積約8万㎡で、主郭は約1,700㎡である。現在までに判明している遺構としては、主郭から14棟の掘立柱建物跡、主郭をグルリと巡る空堀跡、捨て曲輪跡などがある。さらに、絵図発見後の調査で、主郭の西裾から連棟式建物跡群が見つかり、また、主郭の南側に空堀をはさんで伸びる尾根筋に描かれている「やぐら」と思われる遺構も確認された。この他、地元で弾正屋敷跡といわれていたところからは、建物跡と井戸跡が見つかっている。
遺物の主たるものとしては、中国の明時代の染付碗のほか、青磁・白磁などの輸入磁器、火鉢・すり鉢・土師器皿などの生活用具、兜の前立・小札(こざね)などの武具などがあり、また、この戦いで使用されたと思われる鉄砲の玉が現在までに45個出土している。
平成12年 3月
和水町 教育委員会”
現地説明板・その2
“日本最古の城攻め絵図
『辺春和仁仕寄陣取図(へばる わに しより じんどりず)』
(中略)
…絵図の中央には、柵や深い堀をめぐらした上に、やぐらを立てた防備厳重な田中城の姿が、西側から見たように描かれ、和仁氏・辺春氏の陣も区別されている。周囲には、二重の柵が立てまわされ、四方の丘の上などに陣を取った攻撃軍の諸将の名と、城からの距離も記入されている。小早川秀包(毛利元就の末子で、小早川隆景の養子)、安国寺恵瓊・鍋島直茂・立花宗茂などの秀吉側の大名の名がわかる。
【写真左】辺春和仁仕寄陣取図
少しぼやけた線や文字もあるが、かなり詳細な陣取図である。
肥後国衆一揆の際、当時秀吉から国主として任命されていた佐々成政の名がこの中に見出されないが、田中城落城時、成政は八代に居たことが恵瓊との書簡で分かっている。
ただ、このころから成政の失態が秀吉の耳に伝わっていて、当城の攻撃側総大将は、名目上小早川秀包だったと考えられる。
また図には2か所の『仕寄』(攻め口)が描かれ、攻撃の主方向が示されている。秀吉得意の兵糧攻めと直接攻撃を併用する作戦と見える。
この絵図には、さらに『軍中法度(ぐんちゅうはっと)』(作戦の間、陣中で守るべき禁令)などが書き込まれており、この種の絵図としては日本最古というべきまことに貴重な史料である。今もよく残る田中城の跡とくらべてみるとき、興趣はいよいよ深まることであろう。
平成5年3月吉日
東京大学名誉教授
石井 進”
【写真左】空堀に向かう
冒頭で紹介している空堀で、本丸の西隣にある二の丸を過ぎてさらに西の方へ数段の郭を降りていくと、ご覧の堀切を介して奥には「付け曲輪」が見える。
【写真左】堀切底部中央をさらに抉った箇所
上掲した「和仁軍の守備配置図」にも示しているが、この箇所だけ更に深く抉られており、珍しい遺構である。
敵の侵入を妨げる目的もあったのかもしれないが、排水機能を持たせた可能性もある。
そして、絵図にもあるように、「南」に「立花左近」、「西」に「安国寺」「秀包」、「北」に「鍋島」の文字が書かれ、
一、諸陣大廻(しょじんおおまわり)五十町
一、城ト陣トノ間三、四、五町
一、仕寄四口 芸州衆一口 肥前衆一口 立花一口 筑紫一口
と陣形を示し、軍中法度は次のように記されている。
軍中法度
一、喧嘩停止之事
一、押買(おしがい)停止之事
一、懸引者安国寺秀包可被任申分事
付普請同前之事
以上”
【写真左】「西捨て曲輪」から二の丸・本丸を見る。
「捨て曲輪」というのは、攻め手の眼を欺くために設けられた陣地のようなもの、と説明されている。
田中城の本丸の外周部にはこの郭のように、小規模な独立した高台が北・南にも設けられている。地元では以前から「物見やぐら跡」としていたが、平成2年度の発掘調査によって、この郭が物見やぐらを想定させるような遺構がなかった。
和仁・田中城の落城
ところで、説明板・その1の下線にもあるように、当城が落城した原因は内部の裏切りによるものとしている。
当時田中城には、以下の面々が籠城していたとされる。
〔総大将〕 和仁勘解由親実
●所在地 熊本県玉名郡和水町和仁字古城
●指定 国指定史跡
●別名 田中城、和仁城、舞鶴城
●形態 平山城
●高さ 標高104m(比高50m)
●築城期 不明(南北朝以前)
●築城者 不明(古代豪族和邇氏末裔か)
●城主 和仁親実等
●遺構 郭・堀切・井戸等
●登城日 2015年2月25日
◆解説(参考文献『肥後国衆一揆』荒木栄司著等)
和仁・田中城は別名田中城(以下「田中城」とする)ともいい、熊本県の北西に位置する和水町(なごみまち)に所在する平山城である。築城期は不明だが、古代豪族であった和邇氏の末裔である和仁氏が築いたものとされている。
【写真左】田中城の空堀
当城の見どころの一つで、主郭を形成している丘陵周囲裾部に約300mにわたって巡らされている。
肥後国衆一揆
豊前の大平城(福岡県築上郡築上町大字寒田)の稿でも述べたように、当城では戦国期における「肥後国衆一揆」の代表的な戦いが繰り広げられた。この戦いの経過について、詳細な内容の説明板が現地に掲示してある。
【写真左】遠望
南側から見たもので、この写真では全体が入っていないが、中央部が本丸などに当たる。
なお、正面中央部が新城口といわれた箇所で、民家が建っている附近である。
現地説明板・その1
“国指定史跡
田中城跡(和仁城跡)
所在 三加和町大字和仁字古城
指定日 昭和61年4月15日(※国指定:2002年3月)
田中城は、廣瀬(ひろせ)文書の暦応3年(1340)の項に出てくる鰐(わに)城にあたると考えられているが、いつ築城されたかははっきりせず、落城する天正15年(1587)まで250年以上は続いたと思われる和仁一族の居城である。
天正15年、九州征伐を終えた豊臣秀吉は、肥後国主として佐々成政を任命したが、この成政に対してそれまで肥後の国を分割統治していた国衆が反旗をひるがえし、いわゆる肥後の国衆一揆がおこった。
和仁氏もこの一揆に加わり、姉婿の辺春(へばる)親行(坂本城主:上十町)とともに、田中城に籠城した。この模様を描いたのが、山口県立文書館保存の『辺春・和仁仕寄(しより)陣取図』である。
この図は、当城北西端麓にある田中城の磨崖仏付近に設置してある絵図だが、大分劣化し、色が不鮮明になったものを管理人によって少し修正加筆した。
左方向が北を示す。
絵図によると、田中城の周りに二重の柵列を設け、その外側に小早川秀包(ひでかね)・安国寺恵瓊など毛利氏関係のほか、鍋島直茂・立花宗茂・筑紫広門など九州の諸将が陣を張っている様子がわかる。その数約1万ともいわれ、およそ40日後の12月5日、内部の裏切りでついに落城した。
城の規模は、総面積約8万㎡で、主郭は約1,700㎡である。現在までに判明している遺構としては、主郭から14棟の掘立柱建物跡、主郭をグルリと巡る空堀跡、捨て曲輪跡などがある。さらに、絵図発見後の調査で、主郭の西裾から連棟式建物跡群が見つかり、また、主郭の南側に空堀をはさんで伸びる尾根筋に描かれている「やぐら」と思われる遺構も確認された。この他、地元で弾正屋敷跡といわれていたところからは、建物跡と井戸跡が見つかっている。
遺物の主たるものとしては、中国の明時代の染付碗のほか、青磁・白磁などの輸入磁器、火鉢・すり鉢・土師器皿などの生活用具、兜の前立・小札(こざね)などの武具などがあり、また、この戦いで使用されたと思われる鉄砲の玉が現在までに45個出土している。
平成12年 3月
和水町 教育委員会”
(※下線、管理人による。)
【写真左】城門と柵
本丸入り口付近に復元されたもので、発掘調査によって城門と柵の柱穴が発見された。
本丸付近はご覧のように大変綺麗に整備され公園のような姿になっている。
“日本最古の城攻め絵図
『辺春和仁仕寄陣取図(へばる わに しより じんどりず)』
(中略)
…絵図の中央には、柵や深い堀をめぐらした上に、やぐらを立てた防備厳重な田中城の姿が、西側から見たように描かれ、和仁氏・辺春氏の陣も区別されている。周囲には、二重の柵が立てまわされ、四方の丘の上などに陣を取った攻撃軍の諸将の名と、城からの距離も記入されている。小早川秀包(毛利元就の末子で、小早川隆景の養子)、安国寺恵瓊・鍋島直茂・立花宗茂などの秀吉側の大名の名がわかる。
【写真左】辺春和仁仕寄陣取図
少しぼやけた線や文字もあるが、かなり詳細な陣取図である。
肥後国衆一揆の際、当時秀吉から国主として任命されていた佐々成政の名がこの中に見出されないが、田中城落城時、成政は八代に居たことが恵瓊との書簡で分かっている。
ただ、このころから成政の失態が秀吉の耳に伝わっていて、当城の攻撃側総大将は、名目上小早川秀包だったと考えられる。
また図には2か所の『仕寄』(攻め口)が描かれ、攻撃の主方向が示されている。秀吉得意の兵糧攻めと直接攻撃を併用する作戦と見える。
この絵図には、さらに『軍中法度(ぐんちゅうはっと)』(作戦の間、陣中で守るべき禁令)などが書き込まれており、この種の絵図としては日本最古というべきまことに貴重な史料である。今もよく残る田中城の跡とくらべてみるとき、興趣はいよいよ深まることであろう。
平成5年3月吉日
東京大学名誉教授
石井 進”
【写真左】空堀に向かう
冒頭で紹介している空堀で、本丸の西隣にある二の丸を過ぎてさらに西の方へ数段の郭を降りていくと、ご覧の堀切を介して奥には「付け曲輪」が見える。
【写真左】堀切底部中央をさらに抉った箇所
上掲した「和仁軍の守備配置図」にも示しているが、この箇所だけ更に深く抉られており、珍しい遺構である。
敵の侵入を妨げる目的もあったのかもしれないが、排水機能を持たせた可能性もある。
そして、絵図にもあるように、「南」に「立花左近」、「西」に「安国寺」「秀包」、「北」に「鍋島」の文字が書かれ、
一、諸陣大廻(しょじんおおまわり)五十町
一、城ト陣トノ間三、四、五町
一、仕寄四口 芸州衆一口 肥前衆一口 立花一口 筑紫一口
と陣形を示し、軍中法度は次のように記されている。
軍中法度
一、喧嘩停止之事
一、押買(おしがい)停止之事
一、懸引者安国寺秀包可被任申分事
付普請同前之事
以上”
【写真左】「西捨て曲輪」から二の丸・本丸を見る。
「捨て曲輪」というのは、攻め手の眼を欺くために設けられた陣地のようなもの、と説明されている。
田中城の本丸の外周部にはこの郭のように、小規模な独立した高台が北・南にも設けられている。地元では以前から「物見やぐら跡」としていたが、平成2年度の発掘調査によって、この郭が物見やぐらを想定させるような遺構がなかった。
和仁・田中城の落城
ところで、説明板・その1の下線にもあるように、当城が落城した原因は内部の裏切りによるものとしている。
当時田中城には、以下の面々が籠城していたとされる。
〔総大将〕 和仁勘解由親実
- 大手 和仁弾正親範・松尾日向以下150人、鉄砲30挺、弓20張
- 宮嶽(北の堅め) 和仁入鬼親宗・松尾市正以下100余人、鉄砲20挺、弓20張、槍20
- 新城口 中村治部少輔以下150人、鉄砲、弓、槍20
- 本丸 辺春親行勢300人、鉄砲100挺、弓80張、槍50
- 二の丸 和仁勘解親実以下100余人、鉄砲30挺、弓20張、槍30
- その他 浮武者頭・草野隼人ら100余人、鉄砲20挺、弓30張、槍30
この他、芋生摂津守・石原刑部ら武士は総勢800余人あり、更には当城に多数の農民が入城していたとされる。
【写真左】「西捨て曲輪」からさらに西に伸びる郭段
捨て曲輪から西に向かうと、細長い舌陵状の形で伸びる郭段がある。
田中城の外周部は全体にこうした幅の狭い段を設けた箇所が多く、施工が精緻である。
田中城における総大将は、城主和仁親実で、父は親続といわれている。親実は長男だが、次男は小野久右衛門統実で、後に立花宗成の家臣となっているので、この段階で和仁氏から離れていたものと思われる。そして、三男が親範であるが、四男・親宗は異母兄弟である。親宗については、後段で改めて述べたい。
【写真左】南西麓を俯瞰する。
西捨て曲輪付近から見たもので、東西に走る195号線沿いには、下段で紹介している「和仁三兄弟」の銅像が建立されている。
そして、辺春親行は親実の姉婿に当たり、義弟・親実に対し、いわば義理を立てる意味で当城に籠っていた。
『和仁軍談』という軍記物によれば、これを知った安国寺恵瓊(新日山安国寺 不動院(広島市東区牛田新町)参照)は、親行に内応をしかけ、内部離反を誘ったという。そして、親実の家来で「鷽(うそ)の蔵人」という日頃親実から重用されないのを不満に思っていた人物を抱き込み、蔵人は二の丸にあった親実を夜半の寝床に襲い、首級をとった。
【写真左】本丸東側の郭
本丸(主郭)周辺部のうち、北側から東側にかけてかなり規模の大きな郭が接続している。大型の帯郭といえる。
このあと、南側に向かい、一旦新城口方面に向かう。
その報告を聞いた親行は、本丸に火を放ち、田中城はパニックに陥り、多くの者は城外へ脱出した。それでも、残った弟の弾正親範らは最後の戦いを挑んだが、討死したとされる。
なお、恵瓊の誘いに乗って和仁氏を裏切った辺春親行は、落城のあと生存した記録がないことから、結局和仁三兄弟と同じく殺害されたのではないかとされている。
【写真左】本丸南端部の切崖先端から三の丸方向を見下ろす。
本丸・二の丸の周囲は険しい切崖をなしているが、特にこの付近は顕著となっている。
人鬼親宗
ところで、和仁氏は南北朝時代すでにこの地にあったことが記録されているが、戦国時代には当初大友氏(臼杵城(大分県臼杵市大字臼杵)参照)に属し、その後龍造寺氏、そして秀吉の九州征伐直前には島津氏に属している。
【写真左】和仁三兄弟の銅像
南麓に設置されているもので、中央が親実、右が親範、そして左が親宗。
後方に田中城が見える。
大友氏時代かなり多くの南蛮人が来国しているが、和仁氏が大友氏傘下にあったとき、親続に妾として南蛮人の女性が宛がわれたのではないかという逸話が残っている。そして、その子が親宗といわれ、彼は手足は熊のようで、大力の大男であったため、「人鬼親宗」と呼ばれていた。従って、今で言う「ハーフ」ではなかったかとされている。
【写真左】三の丸西端部
本丸の東側の急峻な切崖を降りると、東に三の丸の先端部が見える。
【写真左】本丸と三の丸
右側が本丸で、道を挟んで左に三の丸が見える。
【写真左】三の丸西側
左側が三ノ丸になるが、この西面も見事な切崖といえる。
【写真左】三の丸最高所
三の丸は細長い郭で、次第に先端部につれて下がっていく形だが、凡そ150m前後の長さを持つ。
写真は先端部から南方向をみたもの。
【写真左】三の丸から北に本丸方面を見る。
奥にある樹木がなければ、本丸・二の丸がよく見えると思われるが、全体に郭を構成している切崖が険しいため、伐採すると崩落する箇所もでるかもしれない。
【写真左】「西捨て曲輪」からさらに西に伸びる郭段
捨て曲輪から西に向かうと、細長い舌陵状の形で伸びる郭段がある。
田中城の外周部は全体にこうした幅の狭い段を設けた箇所が多く、施工が精緻である。
田中城における総大将は、城主和仁親実で、父は親続といわれている。親実は長男だが、次男は小野久右衛門統実で、後に立花宗成の家臣となっているので、この段階で和仁氏から離れていたものと思われる。そして、三男が親範であるが、四男・親宗は異母兄弟である。親宗については、後段で改めて述べたい。
【写真左】南西麓を俯瞰する。
西捨て曲輪付近から見たもので、東西に走る195号線沿いには、下段で紹介している「和仁三兄弟」の銅像が建立されている。
そして、辺春親行は親実の姉婿に当たり、義弟・親実に対し、いわば義理を立てる意味で当城に籠っていた。
『和仁軍談』という軍記物によれば、これを知った安国寺恵瓊(新日山安国寺 不動院(広島市東区牛田新町)参照)は、親行に内応をしかけ、内部離反を誘ったという。そして、親実の家来で「鷽(うそ)の蔵人」という日頃親実から重用されないのを不満に思っていた人物を抱き込み、蔵人は二の丸にあった親実を夜半の寝床に襲い、首級をとった。
【写真左】本丸東側の郭
本丸(主郭)周辺部のうち、北側から東側にかけてかなり規模の大きな郭が接続している。大型の帯郭といえる。
このあと、南側に向かい、一旦新城口方面に向かう。
その報告を聞いた親行は、本丸に火を放ち、田中城はパニックに陥り、多くの者は城外へ脱出した。それでも、残った弟の弾正親範らは最後の戦いを挑んだが、討死したとされる。
なお、恵瓊の誘いに乗って和仁氏を裏切った辺春親行は、落城のあと生存した記録がないことから、結局和仁三兄弟と同じく殺害されたのではないかとされている。
【写真左】本丸南端部の切崖先端から三の丸方向を見下ろす。
本丸・二の丸の周囲は険しい切崖をなしているが、特にこの付近は顕著となっている。
人鬼親宗
ところで、和仁氏は南北朝時代すでにこの地にあったことが記録されているが、戦国時代には当初大友氏(臼杵城(大分県臼杵市大字臼杵)参照)に属し、その後龍造寺氏、そして秀吉の九州征伐直前には島津氏に属している。
【写真左】和仁三兄弟の銅像
南麓に設置されているもので、中央が親実、右が親範、そして左が親宗。
後方に田中城が見える。
大友氏時代かなり多くの南蛮人が来国しているが、和仁氏が大友氏傘下にあったとき、親続に妾として南蛮人の女性が宛がわれたのではないかという逸話が残っている。そして、その子が親宗といわれ、彼は手足は熊のようで、大力の大男であったため、「人鬼親宗」と呼ばれていた。従って、今で言う「ハーフ」ではなかったかとされている。
【写真左】三の丸西端部
本丸の東側の急峻な切崖を降りると、東に三の丸の先端部が見える。
【写真左】本丸と三の丸
右側が本丸で、道を挟んで左に三の丸が見える。
【写真左】三の丸西側
左側が三ノ丸になるが、この西面も見事な切崖といえる。
【写真左】三の丸最高所
三の丸は細長い郭で、次第に先端部につれて下がっていく形だが、凡そ150m前後の長さを持つ。
写真は先端部から南方向をみたもの。
【写真左】三の丸から北に本丸方面を見る。
奥にある樹木がなければ、本丸・二の丸がよく見えると思われるが、全体に郭を構成している切崖が険しいため、伐採すると崩落する箇所もでるかもしれない。
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