吉田郡山城・その2
●所在地 広島県安芸高田市吉田町吉田
●登城日 2012年3月10日
◆解説
今稿では前稿の続きとして、釜屋の檀の西隣にある姫丸の檀から紹介していきたいと思う。
【写真左】釜屋の檀から姫丸の檀に向かう連絡路
前稿でも紹介したように、本丸を中心に凡そ6本の尾根に構成された曲輪群が放射状に交わり、各曲輪群もそれぞれ尾根下で連絡路が設置されている。
【写真左】姫の丸檀配置図
現地の説明板より
“姫の丸檀跡
本丸の北にのびる峰にあり、基部の段は通路で、西は釣井の檀へ、東は釜屋の檀へつながる。
ここから北への3段もほとんど比高差を持たず連なり、さらに北へ3段あるが、主要には基部の3段が機能していたとおもわれる。
【写真左】姫の丸檀
基部の両側には一部に石垣も残っている。
この檀に基礎を置いた本丸の石垣中に、元就築城のとき「百万一心」の礎石を埋めたとの伝説があり、文化13年(1816)夏長州藩士武田泰信がこの石を見て、拓本にとり持ち帰ったと伝えている。”
【写真左】釣井の檀・その1
釣井の檀は姫の丸檀の西隣に設置された曲輪群で、全長75m×幅15mの規模。
ほとんど1段の構成となっており、かなりの広さを感じる場所である。
【写真左】釣井の檀・その2
写真にはとっていないが、この檀には石垣が残る。
【写真左】井戸跡
釣井の檀基部付近に残るもので、直径2.5m。
本丸に近いこともあって、最も重要な水源だったと思われる。
【写真左】配置図
上記の釣井の檀の隣にあるのが、勢溜の檀だが、ここで先に二の丸・本丸に向かう。
【写真左】二の丸跡
現地の説明板より
“二の丸跡
二の丸は本丸の南につながり、約2m低く北西にある石列で画した通路でつながっている。
東西30m、南北20mの広さであるが、周囲を高さ0.5m、幅1mの石塁や石垣で27mと15mの方形に区画しており、実用面積は約400㎡と本丸より一回り小さい。
また、この石塁の外側には、幅0.5mから1mの平坦面もみられる。
この二の丸の南側には、高さ約3mの石垣が残るが、この石垣は明治初年に行われた毛利元就墓所改修の際、ここから石を運んだという記録があるので、石垣は曲輪の東西両側にもあった可能性が高い。
南にある三の丸へは、幅1.5mの通路があり、礎石も残ることから、小形の枡形をした門、あるいは塀があったものと思われる。”
【写真左】二の丸から本丸方面を見る。
二の丸と本丸下段との比高差は約2mある。
【写真左】本丸・その1
現地の説明板より
“郡山城本丸跡
郡山城の本丸は、郡山の山頂に位置し、一辺約35mの方形の曲輪でなっている。
その北端は一段高くなった櫓台がある。
櫓台は長さ23m、幅10mの広さで現状は破損が著しい。
この地点が一番高く、標高389.7m、比高約200mになる。
【写真左】本丸・その2
手前が櫓台
城の遺構は、山頂本丸曲輪群を中心に放射状にのびる6本の尾根、さらにそれからのびる6本の支尾根、あわせて12本の尾根と、それらに挟まれた12本の谷を曲輪や道で有機的に結合させ、まとまりをもたせた複雑な構造をなしている。
【写真左】本丸・その3
櫓台
曲輪も大小合わせて270断以上みられる。
大永3年(1523)に毛利元就が郡山城の宗家を相続し、郡山の南東にあった旧本城を、郡山全山に城郭を拡大していった。
元就はここを本拠城として、幾多の合戦を経て中国地方の統一を成し就げた。
平成3年3月 吉田町教育委員会”
【写真左】本丸・その4
櫓台の北端部から見下ろした切崖
この写真の下が、前述した「姫の丸檀」の基部になると思われるが、見ごたえのある要害堅固な切崖である。
【写真左】勢溜の檀
先ほどの本丸を降り、残った尾根曲輪群の一つ、北西方向にある勢溜(せだまり)の檀に向かう。
現地の説明板より
“勢溜の檀跡
勢溜の檀は、本丸の峰から南西へ長く伸びる尾根を、御蔵屋敷の下段を堀切で区切って独立させ、10段の大型の曲輪からなる檀で、尾根沿いに比高差約1mで、面積約500㎡から700㎡の広さの曲輪を4段連ね、その先にこれらを取り巻く帯曲輪を3段、さらにその先端には付曲輪を加えている。
この曲輪群では、特に東南方の大手、尾崎丸方向への防禦は厳重で、たとえ、この方面を破っても、この三重の帯曲輪で防ぐことができ、現在の登山道が当時のものとすれば、さらにこの上の勢溜の檀の曲輪群から攻撃できる構造になっている。
ここには本丸守護の兵が滞在していたことがうかがえる。”
【写真左】勢溜の檀
勢溜の檀は説明板にもあるように、非常に長い曲輪群である。
なお、説明板の文中下線を引いた箇所については、勢溜の檀とは別に、「矢倉の檀」という名称で記されているものもある。
この「矢倉の檀」までは400m弱の距離があり、そこまで行って、再び上がるのも難儀だったため、向かっていない。
このあと、勢溜の檀の東谷に降り、満願寺跡に向かう。
【写真左】勢溜の檀の東面から満願寺跡に向かう道
満願寺跡との比高差は約20m程度あるため、かなり下の方に降りる雰囲気がある。
写真下段の道で左に向かうと満願寺にたどり着く。
【写真左】満願寺跡・その1
現地の説明板より
“満願寺跡
満願寺跡は、郡山城跡の三の丸の西南で御蔵屋敷の南、難波谷を登りつめたところに位置する。現在でも境内の北側に、東西に二つの蓮池が残っている。
毛利氏が入城する以前のかなり古くからあったと伝えられ、寺伝によると、天平12年(740)に行基菩薩が当地こられ、可愛川釜ヶ淵で、小さな観音を得られ、自ら大きな千手観音木像を彫刻し、満願寺を建て、これを安置したということに始まる。
大永3年(1523)元就の本家相続が決定し、郡山に入城するにあたって、この満願寺法師栄秀の説により入城の日(8月10日の申酉の刻)が決められたことや、永禄10年(1567)には、越前の幸若大夫が満願寺に滞在し幸若舞を舞ったこと、同11年(1568)には、観世大夫宗節一座の能狂言が行われたこと、さらに、元亀3年(1571)には、法華経読誦千部会が行われたことなど記録にある。
この寺は、毛利氏の移城に伴い、広島に移り、さらに萩城内に移っていたが、現在は防府市にある。”
※関連投稿
満願寺城(島根県松江市西浜佐陀町)・その1
【写真左】妙寿寺跡付近
満願寺跡をそのまま東に向かうと、この箇所がある。ここも湿地帯のような痕跡となっており、池や庭園などがあったものと思われる。
妙寿寺は、毛利家の祈祷所並びに、毛利煕元(ひろもと)の菩提所、また毛利隆元夫人の菩提寺であったと伝えれれている。
江戸末期の文久年間には、浅野支藩の火薬庫が設けられていたという。
【写真左】妙寿寺曲輪群
現地の説明板より
“妙寿寺曲輪群
妙寿寺曲輪群は、長さ41m、幅24m、面積約1,000㎡で、周囲を石垣や石塁で画した方形の曲輪を中心に、それから東西にのびる幅10mから15mの帯曲輪状の曲輪、およびそれらに伴う小曲輪群からなる。
この小曲輪群は、南を守るための通路として利用されたものらしく、特にこの西側の曲輪群は、満願寺からの道を正面で壁として防ぐ、枡形を意図したものと考えられる。(以下略)”
【写真左】尾崎丸・その1 堀切その1
尾崎丸の見どころは何といってもこの3条の堀切である。
現地の説明板より
“尾崎丸跡
尾崎丸は、満願寺仁王門のあった峰の中腹を堀切で隔て、その先端も本城との間の鞍部を利用した3条の堀切で隔てた独立的な曲輪群である。
【写真左】尾崎丸・その2 堀切その2
中心の尾崎丸は、長さ42m、幅20mと、この曲輪群中最大の曲輪で、北側は堀切と土塁で画し、土塁上段に一段、下段に約3mの高さをもつ2段の小曲輪を配置し、さらにその下には約2mの差をもって、小さな付曲輪と長大な帯曲輪を配置し、守りを固めている。
なお、尾崎とは毛利隆元が尾崎勢と称されていることから、隆元の居所と考えられる。”
【写真左】尾崎丸・その3
この辺りが隆元の居所と思われる。
【写真左】旧本城へ向かう
尾崎丸を過ぎ、「⇒旧本城」という案内標識を見つけ、その方向に向かったが、途中で倒木や道が崩落していて断念した。
途中で道を間違えたのかもしれない。
【写真左】鍛冶炉跡(西谷地点)
旧本城を諦め、南麓側にある整備された道路に出て、出発点の駐車場方面を進むと、ご覧のような崖を修復した箇所が見える。
この崖の下に鍛冶跡があったようだ。
【写真左】常栄寺跡
上記鍛冶跡を過ぎると、道路の南側に削平地が現れる。常栄寺跡という。
現地の説明板より
“常栄寺(じょうえいじ)跡
常栄寺は、毛利隆元の菩提寺である。
永禄元年(1563)隆元の没後、元就は隆元の尊師山口の国清寺(こくしょうじ)の僧、竺雲恵心を招き、開山とした。
寺は翌永禄7年(1564)扶桑十刹に列し、勅願道場とせられ、正親町天皇の「常栄広刹禅師」の勅願を受けた。
天正19年(1591)の分限帳によると、1,480石5斗余を領している。
寺跡は、2段の曲輪からなり、上の段は60m×25m、下の段は40m×10mでかなりの広さを持つが、建物の配置は明らかでない。
毛利氏の防長移封後、山口に移った。現在の常栄寺は雪舟庭としても有名である。”
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藤掛城・その2(島根県邑智郡邑南町木須田)
【写真左】毛利隆元の墓
常栄寺跡を過ぎ、道路右の階段を上った所に隆元の墓がある。
現地の説明板より
“毛利隆元墓所
隆元は、毛利元就の長男として大永3年(1523)多治比猿掛城内で生まれた。吉川元春(二男)小早川隆景(三男)の兄にあたる。
幼名を少輔太郎といい、天文6年(1537)人質として山口の大内氏に送られ、その年の元服には大内義隆の加冠で隆元と称した。以後、天文10年(1541)19歳で帰還するまで大内氏に優遇を受けた。
天文15年(1546)24歳で家督を相続した。3年後には内藤興盛の娘(義隆の養女)を夫人とし、天文22年(1553)に長男幸鶴丸(輝元)の誕生をみた。
永禄期、九州の大友氏と交戦していたが、講和が成立するやいなや、尼子氏攻略のため、元就がいる出雲に応援のため多治比に一時帰還した。
【写真左】高宮町にある隆元逝去の地
郡山城には入らず、出雲に出発、途中安芸佐々部(高田郡高宮町)で、和智誠春の饗応を受けたが、まもなく発病、翌朝未明に41歳、永禄6年(1563)急逝した。菩提寺は常栄寺である。”
●所在地 広島県安芸高田市吉田町吉田
●登城日 2012年3月10日
◆解説
今稿では前稿の続きとして、釜屋の檀の西隣にある姫丸の檀から紹介していきたいと思う。
【写真左】釜屋の檀から姫丸の檀に向かう連絡路
前稿でも紹介したように、本丸を中心に凡そ6本の尾根に構成された曲輪群が放射状に交わり、各曲輪群もそれぞれ尾根下で連絡路が設置されている。
【写真左】姫の丸檀配置図
現地の説明板より
“姫の丸檀跡
本丸の北にのびる峰にあり、基部の段は通路で、西は釣井の檀へ、東は釜屋の檀へつながる。
ここから北への3段もほとんど比高差を持たず連なり、さらに北へ3段あるが、主要には基部の3段が機能していたとおもわれる。
【写真左】姫の丸檀
基部の両側には一部に石垣も残っている。
この檀に基礎を置いた本丸の石垣中に、元就築城のとき「百万一心」の礎石を埋めたとの伝説があり、文化13年(1816)夏長州藩士武田泰信がこの石を見て、拓本にとり持ち帰ったと伝えている。”
【写真左】釣井の檀・その1
釣井の檀は姫の丸檀の西隣に設置された曲輪群で、全長75m×幅15mの規模。
ほとんど1段の構成となっており、かなりの広さを感じる場所である。
【写真左】釣井の檀・その2
写真にはとっていないが、この檀には石垣が残る。
【写真左】井戸跡
釣井の檀基部付近に残るもので、直径2.5m。
本丸に近いこともあって、最も重要な水源だったと思われる。
【写真左】配置図
上記の釣井の檀の隣にあるのが、勢溜の檀だが、ここで先に二の丸・本丸に向かう。
【写真左】二の丸跡
現地の説明板より
“二の丸跡
二の丸は本丸の南につながり、約2m低く北西にある石列で画した通路でつながっている。
東西30m、南北20mの広さであるが、周囲を高さ0.5m、幅1mの石塁や石垣で27mと15mの方形に区画しており、実用面積は約400㎡と本丸より一回り小さい。
また、この石塁の外側には、幅0.5mから1mの平坦面もみられる。
この二の丸の南側には、高さ約3mの石垣が残るが、この石垣は明治初年に行われた毛利元就墓所改修の際、ここから石を運んだという記録があるので、石垣は曲輪の東西両側にもあった可能性が高い。
南にある三の丸へは、幅1.5mの通路があり、礎石も残ることから、小形の枡形をした門、あるいは塀があったものと思われる。”
【写真左】二の丸から本丸方面を見る。
二の丸と本丸下段との比高差は約2mある。
【写真左】本丸・その1
現地の説明板より
“郡山城本丸跡
郡山城の本丸は、郡山の山頂に位置し、一辺約35mの方形の曲輪でなっている。
その北端は一段高くなった櫓台がある。
櫓台は長さ23m、幅10mの広さで現状は破損が著しい。
この地点が一番高く、標高389.7m、比高約200mになる。
【写真左】本丸・その2
手前が櫓台
城の遺構は、山頂本丸曲輪群を中心に放射状にのびる6本の尾根、さらにそれからのびる6本の支尾根、あわせて12本の尾根と、それらに挟まれた12本の谷を曲輪や道で有機的に結合させ、まとまりをもたせた複雑な構造をなしている。
【写真左】本丸・その3
櫓台
曲輪も大小合わせて270断以上みられる。
大永3年(1523)に毛利元就が郡山城の宗家を相続し、郡山の南東にあった旧本城を、郡山全山に城郭を拡大していった。
元就はここを本拠城として、幾多の合戦を経て中国地方の統一を成し就げた。
平成3年3月 吉田町教育委員会”
【写真左】本丸・その4
櫓台の北端部から見下ろした切崖
この写真の下が、前述した「姫の丸檀」の基部になると思われるが、見ごたえのある要害堅固な切崖である。
【写真左】勢溜の檀
先ほどの本丸を降り、残った尾根曲輪群の一つ、北西方向にある勢溜(せだまり)の檀に向かう。
現地の説明板より
“勢溜の檀跡
勢溜の檀は、本丸の峰から南西へ長く伸びる尾根を、御蔵屋敷の下段を堀切で区切って独立させ、10段の大型の曲輪からなる檀で、尾根沿いに比高差約1mで、面積約500㎡から700㎡の広さの曲輪を4段連ね、その先にこれらを取り巻く帯曲輪を3段、さらにその先端には付曲輪を加えている。
この曲輪群では、特に東南方の大手、尾崎丸方向への防禦は厳重で、たとえ、この方面を破っても、この三重の帯曲輪で防ぐことができ、現在の登山道が当時のものとすれば、さらにこの上の勢溜の檀の曲輪群から攻撃できる構造になっている。
ここには本丸守護の兵が滞在していたことがうかがえる。”
【写真左】勢溜の檀
勢溜の檀は説明板にもあるように、非常に長い曲輪群である。
なお、説明板の文中下線を引いた箇所については、勢溜の檀とは別に、「矢倉の檀」という名称で記されているものもある。
この「矢倉の檀」までは400m弱の距離があり、そこまで行って、再び上がるのも難儀だったため、向かっていない。
このあと、勢溜の檀の東谷に降り、満願寺跡に向かう。
満願寺跡との比高差は約20m程度あるため、かなり下の方に降りる雰囲気がある。
写真下段の道で左に向かうと満願寺にたどり着く。
【写真左】満願寺跡・その1
現地の説明板より
“満願寺跡
満願寺跡は、郡山城跡の三の丸の西南で御蔵屋敷の南、難波谷を登りつめたところに位置する。現在でも境内の北側に、東西に二つの蓮池が残っている。
毛利氏が入城する以前のかなり古くからあったと伝えられ、寺伝によると、天平12年(740)に行基菩薩が当地こられ、可愛川釜ヶ淵で、小さな観音を得られ、自ら大きな千手観音木像を彫刻し、満願寺を建て、これを安置したということに始まる。
【写真左】満願寺跡・その2
蓮池跡
現在は池の体をなしておらず、湿地帯のような状況となっている。
このあと、東隣に隣接する妙寿寺跡及び、同名の曲輪群に向かう。
大永3年(1523)元就の本家相続が決定し、郡山に入城するにあたって、この満願寺法師栄秀の説により入城の日(8月10日の申酉の刻)が決められたことや、永禄10年(1567)には、越前の幸若大夫が満願寺に滞在し幸若舞を舞ったこと、同11年(1568)には、観世大夫宗節一座の能狂言が行われたこと、さらに、元亀3年(1571)には、法華経読誦千部会が行われたことなど記録にある。
この寺は、毛利氏の移城に伴い、広島に移り、さらに萩城内に移っていたが、現在は防府市にある。”
※関連投稿
満願寺城(島根県松江市西浜佐陀町)・その1
【写真左】妙寿寺跡付近
満願寺跡をそのまま東に向かうと、この箇所がある。ここも湿地帯のような痕跡となっており、池や庭園などがあったものと思われる。
妙寿寺は、毛利家の祈祷所並びに、毛利煕元(ひろもと)の菩提所、また毛利隆元夫人の菩提寺であったと伝えれれている。
江戸末期の文久年間には、浅野支藩の火薬庫が設けられていたという。
【写真左】妙寿寺曲輪群
現地の説明板より
“妙寿寺曲輪群
妙寿寺曲輪群は、長さ41m、幅24m、面積約1,000㎡で、周囲を石垣や石塁で画した方形の曲輪を中心に、それから東西にのびる幅10mから15mの帯曲輪状の曲輪、およびそれらに伴う小曲輪群からなる。
この小曲輪群は、南を守るための通路として利用されたものらしく、特にこの西側の曲輪群は、満願寺からの道を正面で壁として防ぐ、枡形を意図したものと考えられる。(以下略)”
【写真左】尾崎丸・その1 堀切その1
尾崎丸の見どころは何といってもこの3条の堀切である。
現地の説明板より
“尾崎丸跡
尾崎丸は、満願寺仁王門のあった峰の中腹を堀切で隔て、その先端も本城との間の鞍部を利用した3条の堀切で隔てた独立的な曲輪群である。
【写真左】尾崎丸・その2 堀切その2
中心の尾崎丸は、長さ42m、幅20mと、この曲輪群中最大の曲輪で、北側は堀切と土塁で画し、土塁上段に一段、下段に約3mの高さをもつ2段の小曲輪を配置し、さらにその下には約2mの差をもって、小さな付曲輪と長大な帯曲輪を配置し、守りを固めている。
なお、尾崎とは毛利隆元が尾崎勢と称されていることから、隆元の居所と考えられる。”
【写真左】尾崎丸・その3
この辺りが隆元の居所と思われる。
【写真左】旧本城へ向かう
尾崎丸を過ぎ、「⇒旧本城」という案内標識を見つけ、その方向に向かったが、途中で倒木や道が崩落していて断念した。
途中で道を間違えたのかもしれない。
【写真左】鍛冶炉跡(西谷地点)
旧本城を諦め、南麓側にある整備された道路に出て、出発点の駐車場方面を進むと、ご覧のような崖を修復した箇所が見える。
この崖の下に鍛冶跡があったようだ。
【写真左】常栄寺跡
上記鍛冶跡を過ぎると、道路の南側に削平地が現れる。常栄寺跡という。
現地の説明板より
“常栄寺(じょうえいじ)跡
常栄寺は、毛利隆元の菩提寺である。
永禄元年(1563)隆元の没後、元就は隆元の尊師山口の国清寺(こくしょうじ)の僧、竺雲恵心を招き、開山とした。
寺は翌永禄7年(1564)扶桑十刹に列し、勅願道場とせられ、正親町天皇の「常栄広刹禅師」の勅願を受けた。
天正19年(1591)の分限帳によると、1,480石5斗余を領している。
寺跡は、2段の曲輪からなり、上の段は60m×25m、下の段は40m×10mでかなりの広さを持つが、建物の配置は明らかでない。
毛利氏の防長移封後、山口に移った。現在の常栄寺は雪舟庭としても有名である。”
※関連投稿
藤掛城・その2(島根県邑智郡邑南町木須田)
【写真左】毛利隆元の墓
常栄寺跡を過ぎ、道路右の階段を上った所に隆元の墓がある。
現地の説明板より
“毛利隆元墓所
隆元は、毛利元就の長男として大永3年(1523)多治比猿掛城内で生まれた。吉川元春(二男)小早川隆景(三男)の兄にあたる。
幼名を少輔太郎といい、天文6年(1537)人質として山口の大内氏に送られ、その年の元服には大内義隆の加冠で隆元と称した。以後、天文10年(1541)19歳で帰還するまで大内氏に優遇を受けた。
天文15年(1546)24歳で家督を相続した。3年後には内藤興盛の娘(義隆の養女)を夫人とし、天文22年(1553)に長男幸鶴丸(輝元)の誕生をみた。
永禄期、九州の大友氏と交戦していたが、講和が成立するやいなや、尼子氏攻略のため、元就がいる出雲に応援のため多治比に一時帰還した。
【写真左】高宮町にある隆元逝去の地
郡山城には入らず、出雲に出発、途中安芸佐々部(高田郡高宮町)で、和智誠春の饗応を受けたが、まもなく発病、翌朝未明に41歳、永禄6年(1563)急逝した。菩提寺は常栄寺である。”