2012年12月11日火曜日

鉄師杠家屋敷跡(島根県仁多郡奥出雲町馬木堅田付近)

鉄師杠家屋敷跡(てつし ゆずりはけ やしきあと)

●所在地 島根県仁多郡奥出雲町堅田(馬木)
●時代 不明
●種別 館跡

◆解説(参考文献『横田町誌』『島根県遺跡データベース』等)
 夕景城の北東麓に堅田、宮という地区がある。金言寺から北の馬木小学校へ下る県道25号線(玉造吾妻山線)のほぼ中間点に当たり、またこの近くには夕景城への登山口として古い標識が建っている。
 その箇所には写真にあるように「鉄師杠家屋敷跡」という標識が建っている。
【写真左】鉄師杠家屋敷跡・その1












『島根県遺跡データベース』では「堅田窯跡」及び「堅田鈩跡」という遺跡名称が登録されており、いずれも所在地が同じ堅田とされている。このうち前者のものについては、近現代のものとされ、後者は時代不明とされている。種別はいずれも生産遺跡とされ、屋敷跡としての登録はないが、今稿の屋敷跡とほぼ同じ位置のものと思われる。
【写真左】鉄師杠家屋敷跡・その2
 現在は畑となっているようだが、手前の石積みはかなり古いように見えるので、当時の屋敷跡のものだろう。




現地の説明板より

“鉄師杠家屋敷跡
 
 文明年間備中より落城の落人として来住後土着し、雲州(洲)の鈩師の開祖といわれる各地に、其の鈩跡を残し幕末の世迄繁栄した附近一帯に屋敷跡及び菩提寺累代の墓地等散在している。”
【写真左】鉄師杠家屋敷跡・その3
 現在残っている石積みは南北約20m前後だが、周辺にある住宅部全体が屋敷跡だったと考えられる。





杠氏(ゆずりはし)

 杠氏、又は楪氏とも書く。非常にめずらしいこの苗字の同氏については、以前楪城(岡山県新見市上市)でも紹介したように、始祖は相模国の三浦党・三浦六郎重行が摂津国杠峯に来住して、杠氏を名乗ったことによる。

 源平合戦の功によって、備中新見に入り、文明4年(1472)、15代惟久のとき、備中松山城主上野広長によって滅ぼされたとされる。
【写真左】杠(楪)城
 鎌倉期(正応元年~永仁元年:1288~93)頃、新見氏によって築城されたといわれる。















 上記の説明板には「文明年間備中より落城の落人…云々」と書かれている。この文明年間に落城したとあるのは、このことである。

 城主惟久は討死するも、長男勝久は逃れて将軍家に仕えたという。勝久の下には弟常久がいた。この常久が後に奥出雲馬木郷との接点を持つことになる。

 彼は、楪城落城の時、深手を負い辛うじて家臣の助けにより落ち延びた。しかしこの深手がもとで不具となり武道立たず、出雲に流浪し、馬来郷にたどりつき、当時の城主馬来上野介行綱を頼った。その後、馬来氏の家臣馬来蔵之助の婿養子となり、向原に住み、軍学兵道に励み大永2年(1522)没した。

 常久の子には二人の男子がいた。長男で2代となる侶久は生まれつき体が弱く、百姓となり、次男通久(千之助)は、のちに尼子経久に仕えたが、永正5年(1508)の阿用城(島根県雲南市大東町東阿用宮内)攻めにおいて討死した。なお、同じ阿用城攻めの永正10年(1513)では、尼子経久の長男・政久も戦死している。
【写真左】阿用城遠望
 雲南市大東町にある城砦で、永正年間桜井宗的が拠った。








 3代則久(太郎左衛門)に至ると、武士を捨て農業の傍ら大峠(夕景城南麓)で、市兵衛・足立四郎左衛門らと鑪(たたら)操業を開始した。天文5年(1536)のことである。その後大峠に近い山本に移った。

 この頃横田の岩屋寺の仁王堂などが建立されていたので、そのための鉄等が大いに使用されたものと思われる。則久は後に日蓮宗に帰依し、八巻庵を建てた。

 杠則久のあと、4代重久も跡を継ぐが、彼は大峠とは反対の東方の小峠で鑪を吹いた。弟源八郎は日蓮宗に帰依し、のち日恩上人となった。江戸期に入ると、5代保久は父の跡を継いだが、松江藩の命によって、鉄穴流しを停止され百姓と鍛冶屋を営んだ。

 以下、6代・国久、7代久正と続き、8代は早逝したのか記録がなく、9代久次、10代正辰と続く。正辰の代になると、事業を拡大して八川村三森原鑪でも操業を開始したが、失敗し莫大な借財を負った。その跡を継いだ11代安清は一時繁昌し父の借財を返還したが、新しい鉄山(丸淵)で思ったほどの鉱脈がなかったのか、この地で失敗し、かれもまた美保関に追放された(後に許されて郷里に戻った)。そして12代貞勝も鉄山を開始したとある。
【写真左】矢筈山夕景城跡(入口)と書かれた案内板
 杠家屋敷跡の近くにあり、道路脇に設置されているが、地図のようなものはない。
 この場所から小さな谷があったので、念のため向かってみた。




 鉄山事業というのは、このように成功すれば巨万の富を得るが、「山」の鉄資源は無限ではない。当時のことであるから、新しい山での採掘は博奕に近いものがある。

 さらに足かせとなったのは、江戸期に入って、斐伊川上流部での鉄穴流しが下流部における砂の堆積を生み、度々洪水に見舞われ、松江藩は上流部での鉄穴流し操業を制限させたことも大きな大きな痛手となった。
【写真左】夕景城に向かう道
 写真前方に夕景城が見える。

ただこの先は段々と狭い道で、しかも雪交じりの天気となったので、下段の写真の位置までしか向かっていない。
【写真左】砂防ダムを過ぎた地点
 この先にも道があるが、左右の雑草が繁茂し車でこれ以上先には進めそうにない。
 この左側には砂防ダムがある。

 おそらく案内板を設置したころはそれなりに道も整備されたのだろうが、最近は登山者もほとんどいないようだ。
【写真左】夕景城遠望
 本丸は右側の峰にあると思われるが、左側にも史料によっては遺構があるとされている。

 金言寺を訪れた時、最近(1,2年前か)地元の人たちで登城したとの情報を知った。そのときのコースがこの場所かわからないが、どちらにしても相当な体力と、事前の下調べが必要だろう。(時間は2時間近くかかるらしい)

 標高1,000m近い山で、しかも熊も出没するということを考えると、よほどいい条件のときでないと無理かもしれない。

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