佐井田城(さいたじょう)
●所在地 岡山県真庭市下中津井
●別名 斉田城、才田城
●高さ 332m(比高120m)
●指定 真庭市指定史跡
●築城期 鎌倉時代又は戦国時代
●築城者 山田重英、又は植木秀長
●城主 山田氏・植木氏・三村氏など
●遺構 郭・堀切・石垣等
●登城日 2014年5月18日
◆解説(参考文献 『日本城郭体系第13巻』等)
佐井田城は備中国の中間部の北方にある山頂に築かれた城砦で、特に北の伯耆国とを結ぶ現在の国道313号線を東麓に臨む位置に所在する。ちなみに、この313号線は、南は広島県福山市から北上し、備中を経由し、鳥取県東伯郡北栄町に至るルートで、佐井田城は、いわゆる要所の位置であった。
【写真上】佐井田城の鳥瞰図
当城要図を参考に描写してみた。
山城の詳細な遺構を表現するには縄張図がもっとも相応しいが、とても測量などするような技術がないため、踏査したときの記憶を頼りに描いてみたものである。
典型的な連郭式山城で、東に伸びる尾根伝い先端部に出丸を設け、そこから上に向かって五ノ壇から二ノ壇まで連続の郭段を配し、本丸(二ノ壇)の向背に一ノ壇を接続させ、奥の尾根には二条の堀切を設けている。
【写真左】佐井田城遠望
北側から見たもの。
この谷筋が大手になる。
現地の説明板より
“佐井田城跡
標高332mの山上にある山城跡です。鎌倉時代初期の築城で文治2年(1186)山田駿河守重英の居城であったといわれています。
その後戦国時代に庄氏の一族植木秀長、孫下総守秀資へと受け継がれました。戦乱の続く中、備中北部攻防の中心城で、津々の加葉山城と連携し、要害堅固な備中三名城のひとつと称えられました。
町指定史跡”
【写真左】願成寺
北東麓には願成寺という寺院がある。山号は佐井田山となっているので、当城もしくは城主・植木氏と何らかの関係のある寺院だろう。
築城期と築城者
現地の説明板では鎌倉時代初期の築城とされ、山田駿河守の居城とされているが、『日本城郭体系第13巻』では、断定する根拠に乏しいとしている。ただ、山田駿河守が源平合戦の軍功によって当地・上房郡北房町中津井郷に入部したことは事実としている。
【写真左】佐井田城登り口の石碑
願成寺の脇道を少し進むと、途中で左側に向かう道があり、その分岐点には石碑が建立されている。
佐井田城と備中国の戦い
当城を取り巻く戦国期の動きについては、『日本城郭体系第13巻』で詳細が述べられているが、極めて波乱と変化にとんだ戦いが記録されている。
なぜなら、当時佐井田城の四周には、西に毛利、北西に尼子、東に宇喜多・浦上、南に三好一族といった強豪がひしめき、城主であった植木氏(庄氏)らは、止む無く彼らの力関係に頼らざるを得なかった背景があったからである。
【写真左】登城口
先ほどの道を進むと、途中で奥に鳥居が見えるが、ここから登城道となる。
5月だったこともあり、このあたりは雑草が繁茂しているが、次第に歩きやすくなる。
なお、この鳥居の脇に「佐井田城跡 山田方谷先生ゆかりの地」とかかれた標柱が建ててある。
山田方谷は、江戸末期から明治にかけて活躍した儒家・陽明学者で、備中聖人と呼ばれた人物で、現在の佐井田城のある真庭市の西隣・高梁市中居町西方で生まれている。
第1期 不明~永正14年(1517) 佐井田城の築城
『上房郡史』によれば、「秀長初め植木の城主たり」と記されているが、この植木氏は当初平城であった「植木城」に拠っていたとされる。植木城とは呰部(あざえ)(現・備中川)川左岸の河岸丘陵上にあったとされ、永正14年(1517)に、植木秀長が畿内の戦いで軍功を挙げ、植木城から才田に移り、佐井田城を築城したとされる。
【写真左】城山稲荷の鳥居
後段で紹介するように、佐井田城本丸跡には城山稲荷神社社殿が祀られている。
登城道はこのあたりから、尾根の背面を九十九折するようになっている。
第2期 永禄11年~12年(1568~69) 佐井田城の兵糧攻め
永禄11年8月、備前宇喜多直家(天神山城(岡山県和気郡和気町田土)参照)は、弟忠家に命じて佐井田城を攻撃、秀長らは毛利氏に援軍を要請するも、当時毛利氏は九州の大友氏と交戦中で、その結果佐井田城は宇喜多氏の軍門に降った。翌12年、毛利元清(備中・猿掛城・その1(岡山県小田郡矢掛町横谷)参照)は三村元親・穂田実親らを従え、後月・小田両郡を押さえ、佐井田城を包囲した。
●所在地 岡山県真庭市下中津井
●別名 斉田城、才田城
●高さ 332m(比高120m)
●指定 真庭市指定史跡
●築城期 鎌倉時代又は戦国時代
●築城者 山田重英、又は植木秀長
●城主 山田氏・植木氏・三村氏など
●遺構 郭・堀切・石垣等
●登城日 2014年5月18日
◆解説(参考文献 『日本城郭体系第13巻』等)
佐井田城は備中国の中間部の北方にある山頂に築かれた城砦で、特に北の伯耆国とを結ぶ現在の国道313号線を東麓に臨む位置に所在する。ちなみに、この313号線は、南は広島県福山市から北上し、備中を経由し、鳥取県東伯郡北栄町に至るルートで、佐井田城は、いわゆる要所の位置であった。
当城要図を参考に描写してみた。
山城の詳細な遺構を表現するには縄張図がもっとも相応しいが、とても測量などするような技術がないため、踏査したときの記憶を頼りに描いてみたものである。
典型的な連郭式山城で、東に伸びる尾根伝い先端部に出丸を設け、そこから上に向かって五ノ壇から二ノ壇まで連続の郭段を配し、本丸(二ノ壇)の向背に一ノ壇を接続させ、奥の尾根には二条の堀切を設けている。
【写真左】佐井田城遠望
北側から見たもの。
この谷筋が大手になる。
現地の説明板より
“佐井田城跡
標高332mの山上にある山城跡です。鎌倉時代初期の築城で文治2年(1186)山田駿河守重英の居城であったといわれています。
その後戦国時代に庄氏の一族植木秀長、孫下総守秀資へと受け継がれました。戦乱の続く中、備中北部攻防の中心城で、津々の加葉山城と連携し、要害堅固な備中三名城のひとつと称えられました。
町指定史跡”
【写真左】願成寺
北東麓には願成寺という寺院がある。山号は佐井田山となっているので、当城もしくは城主・植木氏と何らかの関係のある寺院だろう。
築城期と築城者
現地の説明板では鎌倉時代初期の築城とされ、山田駿河守の居城とされているが、『日本城郭体系第13巻』では、断定する根拠に乏しいとしている。ただ、山田駿河守が源平合戦の軍功によって当地・上房郡北房町中津井郷に入部したことは事実としている。
【写真左】佐井田城登り口の石碑
願成寺の脇道を少し進むと、途中で左側に向かう道があり、その分岐点には石碑が建立されている。
佐井田城と備中国の戦い
当城を取り巻く戦国期の動きについては、『日本城郭体系第13巻』で詳細が述べられているが、極めて波乱と変化にとんだ戦いが記録されている。
なぜなら、当時佐井田城の四周には、西に毛利、北西に尼子、東に宇喜多・浦上、南に三好一族といった強豪がひしめき、城主であった植木氏(庄氏)らは、止む無く彼らの力関係に頼らざるを得なかった背景があったからである。
【写真左】登城口
先ほどの道を進むと、途中で奥に鳥居が見えるが、ここから登城道となる。
5月だったこともあり、このあたりは雑草が繁茂しているが、次第に歩きやすくなる。
なお、この鳥居の脇に「佐井田城跡 山田方谷先生ゆかりの地」とかかれた標柱が建ててある。
山田方谷は、江戸末期から明治にかけて活躍した儒家・陽明学者で、備中聖人と呼ばれた人物で、現在の佐井田城のある真庭市の西隣・高梁市中居町西方で生まれている。
第1期 不明~永正14年(1517) 佐井田城の築城
『上房郡史』によれば、「秀長初め植木の城主たり」と記されているが、この植木氏は当初平城であった「植木城」に拠っていたとされる。植木城とは呰部(あざえ)(現・備中川)川左岸の河岸丘陵上にあったとされ、永正14年(1517)に、植木秀長が畿内の戦いで軍功を挙げ、植木城から才田に移り、佐井田城を築城したとされる。
【写真左】城山稲荷の鳥居
後段で紹介するように、佐井田城本丸跡には城山稲荷神社社殿が祀られている。
登城道はこのあたりから、尾根の背面を九十九折するようになっている。
第2期 永禄11年~12年(1568~69) 佐井田城の兵糧攻め
永禄11年8月、備前宇喜多直家(天神山城(岡山県和気郡和気町田土)参照)は、弟忠家に命じて佐井田城を攻撃、秀長らは毛利氏に援軍を要請するも、当時毛利氏は九州の大友氏と交戦中で、その結果佐井田城は宇喜多氏の軍門に降った。翌12年、毛利元清(備中・猿掛城・その1(岡山県小田郡矢掛町横谷)参照)は三村元親・穂田実親らを従え、後月・小田両郡を押さえ、佐井田城を包囲した。
これに対し、宇喜多氏の麾下となっていた植木氏(秀長ら)は防戦に努め、その間、宇喜多直家は峰本与一兵衛の報告を受けて、後詰として水田荘に着陣、この結果、毛利軍を撤退させた。これは後に「佐井田城の兵糧攻め」と呼ばれた。
【写真左】石垣
暫く進むと、次第に岩塊の多い箇所が増えてくるが、その一角にはご覧の石垣が見える。
保存状態は良好である。
第3期 元亀元年~翌2年(1570~71) 尼子再興軍の南下政策
第2期で記したように、永禄年間植木氏は宇喜多氏の支援を受けていたが、元亀年間になると、植木氏は宇喜多氏と袂を分かつことになる。
ところで、元亀元年から始まる山中鹿助や尼子勝久ら尼子再興軍の主力部隊は、この時期、主な舞台を備中に移している(経山城(岡山県総社市黒尾)参照)。
備中攻めで最初に盟約を結んだ相手が、宇喜多直家である。直家もまた備前から備中へ版図を広げようと画策していたため、両者の思惑が一致した。
【写真左】尾根先端部に近づく。
途中からほぼ一直線に尾根東端部に向かって道が進み、尾根の先端部に繋がる。
直家は尼子氏の支援を受けながら、先ず幸山城(岡山県総社市清音三因)の石川氏を落としたのを皮切りに、石蟹山城の石蟹氏、甲籠城の伊達氏を落とし、彼らを案内人にたて、佐井田城を攻めた。
これに対し、城主植木秀資はよく防戦し、猿掛城主庄元祐も二千余騎の兵を率いて救援に向かった。しかし、庄元祐が討死すると衆寡敵せず、ついに秀資は尼子・宇喜多両氏の軍門に降った。
【写真左】下段の出丸
上掲した鳥瞰図でいえば登城道を挟んで上下に配置された出丸のうち、下段のもの。
半楕円形のもので、奥行は10m前後か。
その後、佐井田城には、尼子方の大賀駿河守(経山城(岡山県総社市黒尾)参照)以下一千余騎を駐屯させ、残りの尼子軍は地元出雲における戦いのため帰還した。
なお、この他尼子氏(宇喜多氏)らが同国諸城を陥れたものとしては、備中松山城(岡山県高梁市内山下)の庄高資をはじめとし、その子勝資・同右京進・植木秀資・津々加賀守・福井孫六左衛門らが、鴨方の細川氏(鴨山城(岡山県浅口市鴨方町鴨方)参照)などを破った。一時期とはいえ、尼子再興軍の戦果は著しいものがあったといえよう。
【写真左】上段の出丸
登城道から見上げたもので、比高8m前後か。
このあと登城道は尾根の南側に回り込み、上部郭段の左側に取り付いていく。
第4期 元亀2年~天正3年(1571~74) 毛利氏の反撃
尼子再興軍が備中国を押さえて間もない翌年の元亀2年、毛利氏は再度備中国の奪取に動いた。先鋒を努めたのは毛利元清である。
このころ、備前の浦上宗景と宇喜多直家が讃岐の三好衆と与同し、南から備中国の侵攻を企てていた。毛利の小早川隆景はこれに対し、清水宗治(備中・高松城(岡山県岡山市北区高松)参照)に命じて当地に赴かせた。そして、宗治による南方の阻止を維持しながら、元清は三村元親らと佐井田城に籠る植木秀資を包囲した。
【写真左】五ノ壇
本丸(二ノ壇)以外の郭はご覧の通りの状態で、整備されてはいないが、地面の状況はほぼ確認できる。
不定型な細長い郭で、長軸はおよそ20m、面積は220㎡の規模を持つ。
この戦いは一進一退を繰り返していたが、毛利氏の包囲網が整備されてくると、宇喜多直家は備前に帰還、城主・秀資や庄勝資らは出雲に退いた。何故、秀資や勝資が出雲に退いたのか詳細は不明だが、佐井田城には植木資富が守城することになった。
【写真左】四ノ壇
四ノ壇は比較的なだらかな状態となっている。
17m×11.3mの規模を持つ。
ところで、佐井田城を預かった資富の系譜ははっきりしないが、おそらく名前から考えて秀資および勝資と同族(植木氏・庄氏)の者だろう。
その後、備中国が殆ど毛利氏の手によって掌中されたころ、毛利元清から資富に対し、招待状が届いた。佐井田城内では当然ながらこれは毛利氏の謀略であり、元清が在陣する猿掛城に行くべきでないとの声があがったが、城主資富はこれを聞き入れず、元清と直接会って結着をつけたいとして猿掛城に向かった。
果たせるかな資富は猿掛城に入城した直後、斬殺されてしまった。このため、佐井田城の城主には三村兵衛尉が務めることになった。
【写真左】三ノ壇
奥に見える鳥居の手前までが三ノ壇にあたる。17.8m×21mの規模を持つ。
第5期 天正2年~13年(1574~85) 植木氏の佐井田城回復
この時期は毛利氏が完全に備中国を支配したころであるが、それに併せて、三村氏が没落していった時期でもある。
また、出雲に逃れていた庄勝資や植木秀資らは、その後尼子再興軍が播磨上月城にて誅滅されたこともあって、毛利氏に属した。庄勝資はその後戦死するものの、植木秀資は再び佐井田城主として返り咲いた。その時期は天正8年(1580)とされている。
そして、関ヶ原の戦いのあと、西軍(毛利氏)の敗戦によって、当城は廃城になった。
【写真左】本丸(二ノ壇)を下から見上げる。
奥には城山稲荷神社が見える。
【写真左】本丸南の武者走り
城郭体系では「武者走り」と命名しているが、最大幅6mもあり、三ノ壇と連絡しているので、帯郭といえるだろう。
このあと本丸に上がる。
【写真左】本丸北側
本丸の規模は、不整六角形で、面積は350㎡。
写真の北端部は切崖となっている。
【写真左】本丸の狐像と灯篭
昭和46年に寄贈された人の石碑が残る。
【写真左】本丸裏の祠
社殿の裏(西側)には、祠と石碑が祀られている。
ここからさらに西の一ノ壇に向かう。
【写真左】一ノ壇
長さ37.5m×幅14~19mの規模。西方に向かうにつれて細くなっていく。また、東西中央部の南側一角には、さきほどの武者ばしり(帯郭)と連絡する箇所がある。
写真は北側の一部で、この付近だけ縁部が盛り上がっていたので、おそらく土塁を構築していたのだろう。
このあとさらに西に向かう。
【写真左】最初の堀切・その1
佐井田城には一ノ壇西端部に二条の堀切が残る。
【写真左】最初の堀切・その2
横から見たもの。
【写真左】二条目の堀切
西に続く尾根との間に明瞭に残っているが、この辺りは尾根幅が細くなっているので、堀切を構築した際、尾根幅も削ったように思われる。
【写真左】石垣
暫く進むと、次第に岩塊の多い箇所が増えてくるが、その一角にはご覧の石垣が見える。
保存状態は良好である。
第3期 元亀元年~翌2年(1570~71) 尼子再興軍の南下政策
第2期で記したように、永禄年間植木氏は宇喜多氏の支援を受けていたが、元亀年間になると、植木氏は宇喜多氏と袂を分かつことになる。
ところで、元亀元年から始まる山中鹿助や尼子勝久ら尼子再興軍の主力部隊は、この時期、主な舞台を備中に移している(経山城(岡山県総社市黒尾)参照)。
備中攻めで最初に盟約を結んだ相手が、宇喜多直家である。直家もまた備前から備中へ版図を広げようと画策していたため、両者の思惑が一致した。
【写真左】尾根先端部に近づく。
途中からほぼ一直線に尾根東端部に向かって道が進み、尾根の先端部に繋がる。
直家は尼子氏の支援を受けながら、先ず幸山城(岡山県総社市清音三因)の石川氏を落としたのを皮切りに、石蟹山城の石蟹氏、甲籠城の伊達氏を落とし、彼らを案内人にたて、佐井田城を攻めた。
これに対し、城主植木秀資はよく防戦し、猿掛城主庄元祐も二千余騎の兵を率いて救援に向かった。しかし、庄元祐が討死すると衆寡敵せず、ついに秀資は尼子・宇喜多両氏の軍門に降った。
【写真左】下段の出丸
上掲した鳥瞰図でいえば登城道を挟んで上下に配置された出丸のうち、下段のもの。
半楕円形のもので、奥行は10m前後か。
その後、佐井田城には、尼子方の大賀駿河守(経山城(岡山県総社市黒尾)参照)以下一千余騎を駐屯させ、残りの尼子軍は地元出雲における戦いのため帰還した。
なお、この他尼子氏(宇喜多氏)らが同国諸城を陥れたものとしては、備中松山城(岡山県高梁市内山下)の庄高資をはじめとし、その子勝資・同右京進・植木秀資・津々加賀守・福井孫六左衛門らが、鴨方の細川氏(鴨山城(岡山県浅口市鴨方町鴨方)参照)などを破った。一時期とはいえ、尼子再興軍の戦果は著しいものがあったといえよう。
【写真左】上段の出丸
登城道から見上げたもので、比高8m前後か。
このあと登城道は尾根の南側に回り込み、上部郭段の左側に取り付いていく。
第4期 元亀2年~天正3年(1571~74) 毛利氏の反撃
尼子再興軍が備中国を押さえて間もない翌年の元亀2年、毛利氏は再度備中国の奪取に動いた。先鋒を努めたのは毛利元清である。
このころ、備前の浦上宗景と宇喜多直家が讃岐の三好衆と与同し、南から備中国の侵攻を企てていた。毛利の小早川隆景はこれに対し、清水宗治(備中・高松城(岡山県岡山市北区高松)参照)に命じて当地に赴かせた。そして、宗治による南方の阻止を維持しながら、元清は三村元親らと佐井田城に籠る植木秀資を包囲した。
【写真左】五ノ壇
本丸(二ノ壇)以外の郭はご覧の通りの状態で、整備されてはいないが、地面の状況はほぼ確認できる。
不定型な細長い郭で、長軸はおよそ20m、面積は220㎡の規模を持つ。
この戦いは一進一退を繰り返していたが、毛利氏の包囲網が整備されてくると、宇喜多直家は備前に帰還、城主・秀資や庄勝資らは出雲に退いた。何故、秀資や勝資が出雲に退いたのか詳細は不明だが、佐井田城には植木資富が守城することになった。
【写真左】四ノ壇
四ノ壇は比較的なだらかな状態となっている。
17m×11.3mの規模を持つ。
ところで、佐井田城を預かった資富の系譜ははっきりしないが、おそらく名前から考えて秀資および勝資と同族(植木氏・庄氏)の者だろう。
その後、備中国が殆ど毛利氏の手によって掌中されたころ、毛利元清から資富に対し、招待状が届いた。佐井田城内では当然ながらこれは毛利氏の謀略であり、元清が在陣する猿掛城に行くべきでないとの声があがったが、城主資富はこれを聞き入れず、元清と直接会って結着をつけたいとして猿掛城に向かった。
果たせるかな資富は猿掛城に入城した直後、斬殺されてしまった。このため、佐井田城の城主には三村兵衛尉が務めることになった。
奥に見える鳥居の手前までが三ノ壇にあたる。17.8m×21mの規模を持つ。
第5期 天正2年~13年(1574~85) 植木氏の佐井田城回復
この時期は毛利氏が完全に備中国を支配したころであるが、それに併せて、三村氏が没落していった時期でもある。
また、出雲に逃れていた庄勝資や植木秀資らは、その後尼子再興軍が播磨上月城にて誅滅されたこともあって、毛利氏に属した。庄勝資はその後戦死するものの、植木秀資は再び佐井田城主として返り咲いた。その時期は天正8年(1580)とされている。
そして、関ヶ原の戦いのあと、西軍(毛利氏)の敗戦によって、当城は廃城になった。
【写真左】本丸(二ノ壇)を下から見上げる。
奥には城山稲荷神社が見える。
【写真左】本丸南の武者走り
城郭体系では「武者走り」と命名しているが、最大幅6mもあり、三ノ壇と連絡しているので、帯郭といえるだろう。
このあと本丸に上がる。
【写真左】本丸北側
本丸の規模は、不整六角形で、面積は350㎡。
写真の北端部は切崖となっている。
【写真左】本丸の狐像と灯篭
昭和46年に寄贈された人の石碑が残る。
【写真左】本丸裏の祠
社殿の裏(西側)には、祠と石碑が祀られている。
ここからさらに西の一ノ壇に向かう。
【写真左】一ノ壇
長さ37.5m×幅14~19mの規模。西方に向かうにつれて細くなっていく。また、東西中央部の南側一角には、さきほどの武者ばしり(帯郭)と連絡する箇所がある。
写真は北側の一部で、この付近だけ縁部が盛り上がっていたので、おそらく土塁を構築していたのだろう。
このあとさらに西に向かう。
【写真左】最初の堀切・その1
佐井田城には一ノ壇西端部に二条の堀切が残る。
【写真左】最初の堀切・その2
横から見たもの。
【写真左】二条目の堀切
西に続く尾根との間に明瞭に残っているが、この辺りは尾根幅が細くなっているので、堀切を構築した際、尾根幅も削ったように思われる。