荒隅城(あらわいじょう)
●所在地 島根県松江市国屋町南平
●築城期 永禄5年(1562)
●築城者 毛利元就
●高さ 50m
●遺構(消滅) 郭・帯郭・堀切・土塁・柱穴・加工段・溝・土器溜り・柵列・掘立柱建物
●遺物 土師器・陶磁器・石製品・金属製品
●廃城 永禄10年(1567)
●備考 洗合城・洗骸城
●登城日 2008年1月28日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』『新雲陽軍実記』等)
前稿まで紹介してきた「白鹿城」でも度々触れているように、永禄年間に毛利元就が「白鹿城」や「月山富田城」を攻め落とすため、宍道湖北岸の荒隅山に陣所として築いた平山城である。
【写真左】荒隅城跡遠望
宍道湖を挟んだ南岸の国道9号線側から見たもの。
現在その跡地には、天倫寺という寺院や、サウナの施設、南平台という団地などが建ち、往時の面影を残すものはほとんど残っていない。しかし、高台から南麓に宍道湖を眺めると、元就がこの場所で白鹿城・富田城攻めの軍議を重ね、またあるときは遊興にも耽ったというのも理解できそうである。
【写真左】天倫寺・その1
天倫寺の略歴は以下の通り。
荒隅城が廃城になったあと、江戸時代に入ると堀尾吉晴が入封し、この地に臨済宗の寺院・龍翔山瑞応寺を建てた。
そして堀尾氏改易になると、京極氏が入封し、この寺を宍道湖南岸に移し、円成寺とし、松平直政の代になって、この地に信州から僧東禺を招き、神護山・天倫寺を開山し今日に至っている。臨済宗妙心寺派。
この辺りは、荒隅城の東端部に当たるとされているが、この階段下付近がおそらく船着き場(軍港)だったのだろう。
現地の説明板より
“洗合城跡(あらわいじょうあと)
永禄5年(1562)中国平定をめざす毛利元就は、この辺りに山城を築き、富田城攻略の前線基地としました。
毛利元就がここに城を築いた理由は、前面に宍道湖を眺められるこの地が見通しがきき、兵員や物資の輸送に便利であること、中海と宍道湖を結ぶ水道をおさえることができること、また法吉(ほっき)の白鹿城―当時尼子氏の支城『出雲十旗(いずもじゅっき)』の筆頭の城―を攻めるのに絶好の地だったことなどが考えられます。
城の範囲は、東は天倫寺のある辺り、西は南平台住宅地全域、北は国屋(くや)地区の県道沿いまでであったようです。
過去2回の発掘調査で、郭・土塁・柵・堀切の遺構が発見されています。また、出土品として、灯明具(とうみょうぐ)、明時代の青磁片、小型和鏡、古銭等があります。
ここから毛利元就は、永禄6年(1563)白鹿城を攻撃して勝利し、永禄7年(1564)本陣を東出雲町京羅木山(きょうらぎさん)に移しました。”
【写真左】天倫寺・その2
写真の階段右側に上記説明板が設置されている。
荒隅城の規模
当時荒隅城は宍道湖岸に並行して伸びる丘陵上に築かれ、説明板に書かれている範囲から試算すると、東西約500m、南北最長400m程度となるが、『懐橘談』という史料によれば、次のように記されている。
“山の長さ20余町、其外谷々多し。山の頂平かなる所に乾堀を掘り、茂木を構え、60間四面に本陣を立てたり、諸士四方谷々に帷幕(いばく)を張り、外に町屋を立て商売を通ず”
と記されている。この記録をそのまま換算すると、山の長さは2,000m以上で、およそ100m四方の本陣が建ち、毛利方の各諸将の帷幕が谷々に張られ、外には町ができたということである。
【写真左】天倫寺・その3
本堂
本堂の西側には墓地が階段状に延びているが、おそらく当時この場所は郭段の形状をもったものだったのだろう。
曲直瀬(まなせ)道三
荒隅城に陣を構えていたころ、元就は齢65歳となっていた。天文年間に大内義隆に従って尼子氏の居城月山富田城を攻略していたときから、すでに20年の歳月が流れている。
老境に入った元就にとって、山陰の冬は本国・安芸に比べて、さすがに堪えたのだろう。
荒隅の陣所には、京から当時名医といわれた曲直瀬道三を呼び、治療をしながら指揮に当たった。
また、こうした長期遠征を覚悟していたこともあり、荒隅城(陣所)では戦の合間には慰労も兼ね、連歌師や猿楽の今春太夫も出入りしていたという。
荒隅城が使用されたのは、永禄5年から同10年までの約6年間であるが、既述したように毛利氏の遠征軍が2万から3万ともいわれているので、荒隅城周辺はおそらく一つの町を形成していたと思われ、発掘調査でも、夥しい遺物(土師器・陶磁器・石製品・金属製品等)が確認されている。
【写真左】天倫寺から南方に宍道湖を見る。
荒隅城跡は小丘ながら、南斜面は東西に険峻な崖となっている。
このため、天然の要害としても理想的なものだったのだろう。
陣所として東端部には多くの船を停泊できる湊を設置し、ここから東西に向けて多くの指令を発していったものと思われる。
【写真左】二基の宝篋印塔
当院の墓地は本堂後ろの北から西にかけて階段状に設置されているが、北側の一角にはご覧の宝篋印塔が二基建立されている。
現地に特記されたものはないため、詳細は不明だが、戦国期または江戸初期のものだろう。
【写真左】陣所跡か
荒隅城の遺構はほとんど消滅という記録だが、この写真にある個所は天倫寺墓地の西端部で、人工的に谷間を広く取り、囲繞された空間を残している。
毛利氏に従った多くの一族らは、谷間に帷幕を立て、陣所を設けたといわれるので、案外そうした箇所だったのかもしれない。
【写真左】高台の墓地から本堂を見る。
現在ある本堂から北西に向かった墓地は階段状に約200m程度伸びているが、その段も郭段だった可能性もある。
写真は北西側の墓地から南東方向を見たもので、当時宍道湖の湖面を行き交う軍船の様子が手に取るように分かったのだろう。
【写真左】西方の満願寺城から荒隅城を遠望する。
満願寺城(島根県松江市西浜佐陀町)は、湯原一族の海城で、大永元年(1521)尼子経久に属したが、永禄5年(1562)毛利元就が荒隅城に入ったとき、城主春綱は毛利氏に属している。
●所在地 島根県松江市国屋町南平
●築城期 永禄5年(1562)
●築城者 毛利元就
●高さ 50m
●遺構(消滅) 郭・帯郭・堀切・土塁・柱穴・加工段・溝・土器溜り・柵列・掘立柱建物
●遺物 土師器・陶磁器・石製品・金属製品
●廃城 永禄10年(1567)
●備考 洗合城・洗骸城
●登城日 2008年1月28日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』『新雲陽軍実記』等)
前稿まで紹介してきた「白鹿城」でも度々触れているように、永禄年間に毛利元就が「白鹿城」や「月山富田城」を攻め落とすため、宍道湖北岸の荒隅山に陣所として築いた平山城である。
宍道湖を挟んだ南岸の国道9号線側から見たもの。
現在その跡地には、天倫寺という寺院や、サウナの施設、南平台という団地などが建ち、往時の面影を残すものはほとんど残っていない。しかし、高台から南麓に宍道湖を眺めると、元就がこの場所で白鹿城・富田城攻めの軍議を重ね、またあるときは遊興にも耽ったというのも理解できそうである。
【写真左】天倫寺・その1
天倫寺の略歴は以下の通り。
荒隅城が廃城になったあと、江戸時代に入ると堀尾吉晴が入封し、この地に臨済宗の寺院・龍翔山瑞応寺を建てた。
そして堀尾氏改易になると、京極氏が入封し、この寺を宍道湖南岸に移し、円成寺とし、松平直政の代になって、この地に信州から僧東禺を招き、神護山・天倫寺を開山し今日に至っている。臨済宗妙心寺派。
この辺りは、荒隅城の東端部に当たるとされているが、この階段下付近がおそらく船着き場(軍港)だったのだろう。
現地の説明板より
“洗合城跡(あらわいじょうあと)
永禄5年(1562)中国平定をめざす毛利元就は、この辺りに山城を築き、富田城攻略の前線基地としました。
毛利元就がここに城を築いた理由は、前面に宍道湖を眺められるこの地が見通しがきき、兵員や物資の輸送に便利であること、中海と宍道湖を結ぶ水道をおさえることができること、また法吉(ほっき)の白鹿城―当時尼子氏の支城『出雲十旗(いずもじゅっき)』の筆頭の城―を攻めるのに絶好の地だったことなどが考えられます。
城の範囲は、東は天倫寺のある辺り、西は南平台住宅地全域、北は国屋(くや)地区の県道沿いまでであったようです。
過去2回の発掘調査で、郭・土塁・柵・堀切の遺構が発見されています。また、出土品として、灯明具(とうみょうぐ)、明時代の青磁片、小型和鏡、古銭等があります。
ここから毛利元就は、永禄6年(1563)白鹿城を攻撃して勝利し、永禄7年(1564)本陣を東出雲町京羅木山(きょうらぎさん)に移しました。”
【写真左】天倫寺・その2
写真の階段右側に上記説明板が設置されている。
荒隅城の規模
当時荒隅城は宍道湖岸に並行して伸びる丘陵上に築かれ、説明板に書かれている範囲から試算すると、東西約500m、南北最長400m程度となるが、『懐橘談』という史料によれば、次のように記されている。
“山の長さ20余町、其外谷々多し。山の頂平かなる所に乾堀を掘り、茂木を構え、60間四面に本陣を立てたり、諸士四方谷々に帷幕(いばく)を張り、外に町屋を立て商売を通ず”
と記されている。この記録をそのまま換算すると、山の長さは2,000m以上で、およそ100m四方の本陣が建ち、毛利方の各諸将の帷幕が谷々に張られ、外には町ができたということである。
【写真左】天倫寺・その3
本堂
本堂の西側には墓地が階段状に延びているが、おそらく当時この場所は郭段の形状をもったものだったのだろう。
曲直瀬(まなせ)道三
荒隅城に陣を構えていたころ、元就は齢65歳となっていた。天文年間に大内義隆に従って尼子氏の居城月山富田城を攻略していたときから、すでに20年の歳月が流れている。
老境に入った元就にとって、山陰の冬は本国・安芸に比べて、さすがに堪えたのだろう。
荒隅の陣所には、京から当時名医といわれた曲直瀬道三を呼び、治療をしながら指揮に当たった。
また、こうした長期遠征を覚悟していたこともあり、荒隅城(陣所)では戦の合間には慰労も兼ね、連歌師や猿楽の今春太夫も出入りしていたという。
荒隅城が使用されたのは、永禄5年から同10年までの約6年間であるが、既述したように毛利氏の遠征軍が2万から3万ともいわれているので、荒隅城周辺はおそらく一つの町を形成していたと思われ、発掘調査でも、夥しい遺物(土師器・陶磁器・石製品・金属製品等)が確認されている。
【写真左】天倫寺から南方に宍道湖を見る。
荒隅城跡は小丘ながら、南斜面は東西に険峻な崖となっている。
このため、天然の要害としても理想的なものだったのだろう。
陣所として東端部には多くの船を停泊できる湊を設置し、ここから東西に向けて多くの指令を発していったものと思われる。
【写真左】二基の宝篋印塔
当院の墓地は本堂後ろの北から西にかけて階段状に設置されているが、北側の一角にはご覧の宝篋印塔が二基建立されている。
現地に特記されたものはないため、詳細は不明だが、戦国期または江戸初期のものだろう。
【写真左】陣所跡か
荒隅城の遺構はほとんど消滅という記録だが、この写真にある個所は天倫寺墓地の西端部で、人工的に谷間を広く取り、囲繞された空間を残している。
毛利氏に従った多くの一族らは、谷間に帷幕を立て、陣所を設けたといわれるので、案外そうした箇所だったのかもしれない。
【写真左】高台の墓地から本堂を見る。
現在ある本堂から北西に向かった墓地は階段状に約200m程度伸びているが、その段も郭段だった可能性もある。
写真は北西側の墓地から南東方向を見たもので、当時宍道湖の湖面を行き交う軍船の様子が手に取るように分かったのだろう。
【写真左】西方の満願寺城から荒隅城を遠望する。
満願寺城(島根県松江市西浜佐陀町)は、湯原一族の海城で、大永元年(1521)尼子経久に属したが、永禄5年(1562)毛利元就が荒隅城に入ったとき、城主春綱は毛利氏に属している。