豊前・平田城(ぶぜん・ひらたじょう)
●所在地 大分県中津市耶馬渓町大字平田字町丈
●別名 白米城
●指定 中津市指定史跡
●高さ 118m(比高30m)
●形態 平山城
●築城期 建久年間
●築城者 野仲重房
●城主 野仲氏・栗山備後守利安
●遺構 郭・石垣等
●登城日 2015年10月11日
◆解説(参考資料 パンフ「平田城跡(白米城)」平田城址保存会発行等)
前稿豊前・長岩城(大分県中津市耶馬渓町大字河原口)から津民川を下り、本流山国川に合流しさらに3.5キロほど下ると、町丈という地区に入る。この付近は耶馬渓という独特の狭い谷間の多い流域のなかでも比較的開けた場所である。平田城はその丘陵地に築かれた平山城である。
【写真左】平田城遠望
東麓を走る国道212号線側から見たもので、城域の南端部に当たる南台(下図参照)を撮ったもの。
白米城(まつたけじょう)
平田城は別名・白米城と記され、これを「まつたけじょう」と読む。いわゆる「当て字」だが、その由来ははっきりしないものの、所在する地区名が「町丈」であること、また田圃が広く米の生産に恵まれていたことからきたものだろうといわれている。現在の「平田城」とされたのは近年らしい。
【写真左】平田城要図
上方が北を示す。城域は大きく分けて3区分になる。
赤字のラインで囲んだ区域が南台といわれ、戦国時代の遺構が多く残っていた箇所で、青字のものが北台といわれ、城主・重臣等の屋敷地として使用された。
また左側は特に名称はないが、西側を防御する区域となっている。
現地の説明板より
“平田城跡(中津市指定史跡)
平田城は別名白米城(まつたけじょう)ともいい、建久年間に長岩城主野仲重房が築城したと伝えられています。天正年間には平田掃部介が城番として居城していました。
天正15年(1587)、黒田官兵衛が豊前国6郡を拝領し入国すると、野仲鎮兼はこれに反攻し家臣とともに長岩城に籠りました。黒田勢は長岩城を攻め落とし、官兵衛は戦功のあった栗山備後守利安に野仲氏の旧領6千石を与えました。
栗山備後は平田城主となり、城を改修、現在もこの時築かれた石垣の一部が残っています。「黒田騒動」で名高い栗山大膳(栗山備後の長子)は、この城で少年期を過ごしています。
中津市教育委員会”
【写真左】登城口付近
東側に城跡公園入口と表示された場所があり、その道(公園用舗装道路)を進んで行くと、柵が設置されているので、これを開けてはいる。
この写真では、左側が南台側で、右側が北台区域になる。
栗山備後守利安・大膳利章
平田城の築城者は、豊前・長岩城と同じく野仲鎮房といわれ、その後同氏一族が山国川流域の押さえとして担った。
豊前・長岩城の稿でも述べたが、天正16年(1588)における黒田長政らによる攻略において、平田城も同じく攻められたが、この時の戦いでは野仲氏一族は殆どが長岩城に終結していたこともあり、大きな戦とはならなかったといわれる。
【写真左】忠霊塔参拝道
入口を過ぎると、そのまま真っ直ぐ進む道と、左側に向かう道に分かれており、最初に左側に向かう。
現地では忠霊塔参拝道と名付けられているが、主郭の東側の段で、腰郭の遺構部。
左下に町丈の集落や田圃が控える。
長岩城での戦い後、武功を挙げた一人に栗山備後守利安がいる。彼は長政から当城(平田城)を与えられ居城とした。
栗山利安は2014年に放映された大河ドラマ『軍師官兵衛』で濱田岳さんが演じているので、御記憶の方もおられると思うが、黒田氏の筆頭家老で官兵衛の股肱の家臣である。
利安の子が利章で、利章は天正19年(1591)、この平田城で生まれている。そして慶長5年(1600)10歳のとき、黒田氏の国替により父・利安とともに福岡城に移った。後に「黒田騒動(別名『栗山大膳事件』)」といわれた福岡藩2代当主・黒田忠之との対立により、大膳利章は幕府裁決によって陸奥国の盛岡藩に預りの身となり、同国で没した。
【写真左】忠霊塔参拝道の階段部
元々郭段を構成していたものだろうが、昭和18年に忠霊塔を建設した際、この付近はこのように改変されている。
【写真左】忠霊塔
奥に忠霊塔が祀られている。改変されているため、当時の姿ははっきりしないが、外周部から考えて、長径40m×短径15~20m程度規模の中に、2段もしくは3段で郭が構成されていたものとされる。
【写真左】黒田氏時代の石垣・その1
当時の遺構としてもっとも残存度が高いのが石垣である。
写真は主郭を主とする南台の北側に残るものだが、これ以外にも北台に数か所点在している。形態は野面積みがほとんどだ。
【写真左】黒田氏時代の石垣・その2
横から見たもの。
【写真左】東端部から「立留(たちどま)りの景」を見る。
忠霊塔のある段の東端部には休憩小屋が建っているが、そこから東を見ると、山国川対岸にご覧の大岩が見える。
「今から200年前に一夜轟然と大音響を発して、巌腹崩落して今日の景をなしたというこの景は、道行く人々が、自然と立ち留まって眺めるので、この名がついたという」
と書かれている。
このことから黒田氏時代にはこのような景観ではなかったということになる。
【写真左】郭段
主郭(忠霊塔)の裏側(西側)を過ぎると、次第に下り坂となるが、その途中の南側には3段の郭が連続する。
現在はご覧の様な果樹園となっている。
このあと、このまま西側の道を下り、北台側に向かう。
【写真左】北台
公園用舗装道路を挟んで北側の丘陵地に当たるところで、東西に伸びる尾根筋には6段の郭を構成し、北、南、及び東側の中段にも細長い帯郭状の小郭が囲繞するように点在している。
現在はご覧の様な植林地やシイタケ栽培用のほだ木の育成地や墓地などとなっている。
写真は舗装道路がカーブして下り始めた地点から見たもので、おそらく西側から2番目の郭があった場所と思われる。
【写真左】石垣
整備された道はないが、急坂でもないため、適当に登っていくと、さっそく石垣が見えた。
【写真左】石垣で構成された土塁
記憶がはっきりしないが、西端部の郭にあったもので、土塁高さも3m近くあるだろう。
【写真左】横から見たもの。
大分崩れかけているが、植林された木の根によって保たれているようだ。
【写真左】西から3番目の郭
この郭の北端部には井戸跡があるらしいが、現状は地面に落ちた枝などが多いため、確認できなかった。
城主及び重臣たちの屋敷地といわれた箇所で、織豊期の城館遺構を色濃く残している。
【写真左】次の段
尾根筋に残る郭段の中でもっとも長いのが西から4番目のものだが、東に進むにつれ整備されていないのでこの辺りで断念した。
なお、この北台(群)の中で一番東の隅には、虎口跡と思われる箇所があり、当時は大手口のラインではなかったかとされるが、現状は藪コギ状態なので踏査していない。
この他、冒頭の要図でも描かれている西側の区域についても平田城の城域と考えられ、中小の郭(12~13個所)で構成されているが、未調査の部分が大分残されている。
【写真左】平田城遠望
南東麓側から遠望したもので、麓を横断している農道のような狭い道は、旧日田往還・中津街道である。
左側の少し高くなった箇所が主郭のあった南台で、その右側に北台がある。
●所在地 大分県中津市耶馬渓町大字平田字町丈
●別名 白米城
●指定 中津市指定史跡
●高さ 118m(比高30m)
●形態 平山城
●築城期 建久年間
●築城者 野仲重房
●城主 野仲氏・栗山備後守利安
●遺構 郭・石垣等
●登城日 2015年10月11日
◆解説(参考資料 パンフ「平田城跡(白米城)」平田城址保存会発行等)
前稿豊前・長岩城(大分県中津市耶馬渓町大字河原口)から津民川を下り、本流山国川に合流しさらに3.5キロほど下ると、町丈という地区に入る。この付近は耶馬渓という独特の狭い谷間の多い流域のなかでも比較的開けた場所である。平田城はその丘陵地に築かれた平山城である。
【写真左】平田城遠望
東麓を走る国道212号線側から見たもので、城域の南端部に当たる南台(下図参照)を撮ったもの。
白米城(まつたけじょう)
平田城は別名・白米城と記され、これを「まつたけじょう」と読む。いわゆる「当て字」だが、その由来ははっきりしないものの、所在する地区名が「町丈」であること、また田圃が広く米の生産に恵まれていたことからきたものだろうといわれている。現在の「平田城」とされたのは近年らしい。
【写真左】平田城要図
上方が北を示す。城域は大きく分けて3区分になる。
赤字のラインで囲んだ区域が南台といわれ、戦国時代の遺構が多く残っていた箇所で、青字のものが北台といわれ、城主・重臣等の屋敷地として使用された。
また左側は特に名称はないが、西側を防御する区域となっている。
現地の説明板より
“平田城跡(中津市指定史跡)
平田城は別名白米城(まつたけじょう)ともいい、建久年間に長岩城主野仲重房が築城したと伝えられています。天正年間には平田掃部介が城番として居城していました。
天正15年(1587)、黒田官兵衛が豊前国6郡を拝領し入国すると、野仲鎮兼はこれに反攻し家臣とともに長岩城に籠りました。黒田勢は長岩城を攻め落とし、官兵衛は戦功のあった栗山備後守利安に野仲氏の旧領6千石を与えました。
栗山備後は平田城主となり、城を改修、現在もこの時築かれた石垣の一部が残っています。「黒田騒動」で名高い栗山大膳(栗山備後の長子)は、この城で少年期を過ごしています。
中津市教育委員会”
【写真左】登城口付近
東側に城跡公園入口と表示された場所があり、その道(公園用舗装道路)を進んで行くと、柵が設置されているので、これを開けてはいる。
この写真では、左側が南台側で、右側が北台区域になる。
栗山備後守利安・大膳利章
平田城の築城者は、豊前・長岩城と同じく野仲鎮房といわれ、その後同氏一族が山国川流域の押さえとして担った。
豊前・長岩城の稿でも述べたが、天正16年(1588)における黒田長政らによる攻略において、平田城も同じく攻められたが、この時の戦いでは野仲氏一族は殆どが長岩城に終結していたこともあり、大きな戦とはならなかったといわれる。
【写真左】忠霊塔参拝道
入口を過ぎると、そのまま真っ直ぐ進む道と、左側に向かう道に分かれており、最初に左側に向かう。
現地では忠霊塔参拝道と名付けられているが、主郭の東側の段で、腰郭の遺構部。
左下に町丈の集落や田圃が控える。
長岩城での戦い後、武功を挙げた一人に栗山備後守利安がいる。彼は長政から当城(平田城)を与えられ居城とした。
栗山利安は2014年に放映された大河ドラマ『軍師官兵衛』で濱田岳さんが演じているので、御記憶の方もおられると思うが、黒田氏の筆頭家老で官兵衛の股肱の家臣である。
利安の子が利章で、利章は天正19年(1591)、この平田城で生まれている。そして慶長5年(1600)10歳のとき、黒田氏の国替により父・利安とともに福岡城に移った。後に「黒田騒動(別名『栗山大膳事件』)」といわれた福岡藩2代当主・黒田忠之との対立により、大膳利章は幕府裁決によって陸奥国の盛岡藩に預りの身となり、同国で没した。
【写真左】忠霊塔参拝道の階段部
元々郭段を構成していたものだろうが、昭和18年に忠霊塔を建設した際、この付近はこのように改変されている。
【写真左】忠霊塔
奥に忠霊塔が祀られている。改変されているため、当時の姿ははっきりしないが、外周部から考えて、長径40m×短径15~20m程度規模の中に、2段もしくは3段で郭が構成されていたものとされる。
当時の遺構としてもっとも残存度が高いのが石垣である。
写真は主郭を主とする南台の北側に残るものだが、これ以外にも北台に数か所点在している。形態は野面積みがほとんどだ。
横から見たもの。
忠霊塔のある段の東端部には休憩小屋が建っているが、そこから東を見ると、山国川対岸にご覧の大岩が見える。
「今から200年前に一夜轟然と大音響を発して、巌腹崩落して今日の景をなしたというこの景は、道行く人々が、自然と立ち留まって眺めるので、この名がついたという」
と書かれている。
このことから黒田氏時代にはこのような景観ではなかったということになる。
【写真左】郭段
主郭(忠霊塔)の裏側(西側)を過ぎると、次第に下り坂となるが、その途中の南側には3段の郭が連続する。
現在はご覧の様な果樹園となっている。
このあと、このまま西側の道を下り、北台側に向かう。
【写真左】北台
公園用舗装道路を挟んで北側の丘陵地に当たるところで、東西に伸びる尾根筋には6段の郭を構成し、北、南、及び東側の中段にも細長い帯郭状の小郭が囲繞するように点在している。
現在はご覧の様な植林地やシイタケ栽培用のほだ木の育成地や墓地などとなっている。
写真は舗装道路がカーブして下り始めた地点から見たもので、おそらく西側から2番目の郭があった場所と思われる。
【写真左】石垣
整備された道はないが、急坂でもないため、適当に登っていくと、さっそく石垣が見えた。
【写真左】石垣で構成された土塁
記憶がはっきりしないが、西端部の郭にあったもので、土塁高さも3m近くあるだろう。
【写真左】横から見たもの。
大分崩れかけているが、植林された木の根によって保たれているようだ。
【写真左】西から3番目の郭
この郭の北端部には井戸跡があるらしいが、現状は地面に落ちた枝などが多いため、確認できなかった。
城主及び重臣たちの屋敷地といわれた箇所で、織豊期の城館遺構を色濃く残している。
【写真左】次の段
尾根筋に残る郭段の中でもっとも長いのが西から4番目のものだが、東に進むにつれ整備されていないのでこの辺りで断念した。
なお、この北台(群)の中で一番東の隅には、虎口跡と思われる箇所があり、当時は大手口のラインではなかったかとされるが、現状は藪コギ状態なので踏査していない。
この他、冒頭の要図でも描かれている西側の区域についても平田城の城域と考えられ、中小の郭(12~13個所)で構成されているが、未調査の部分が大分残されている。
【写真左】平田城遠望
南東麓側から遠望したもので、麓を横断している農道のような狭い道は、旧日田往還・中津街道である。
左側の少し高くなった箇所が主郭のあった南台で、その右側に北台がある。