越前・藤島城・超勝寺
(えちぜん・ふじしまじょう・ちょうしょうじ)
藤島城
●所在地 福井県福井市藤島町
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 不明
●城主 平泉寺門徒
●備考1 足羽七城
●遺構 土塁
超勝寺(西超勝寺)
●創建 応永年間(1394~1428)
●開山 綽如(本願寺5世)
●登城・参拝日 2014年6月17日
◆解説(参考文献 サイト「足羽七城の戦いとその跡を訪ねて」等)
越前・藤島城は現在の超勝寺があったところとされている。所在地は、福井市藤島町にあって、「えちぜん鉄道・勝山永平寺線」の東藤島駅からおよそ600m程北に向かったところにある。
【写真左】「藤島城跡」と記された石碑
現在の西超勝寺の山門脇に建立されているが、この辺り一帯には当院の他、南200mの地点に、のちに分かれた東超勝寺を含め、厳浄寺・大光寺・偏超寺など多くの寺が集まっている。
いずれも藤島城が築かれていたときの城域(城館)敷地だったといわれている。
足羽七城
藤島城については、金ヶ崎城(福井県敦賀市金ヶ崎町)で少し紹介しているが、南北朝期南軍方の新田義貞が、金ケ崎城陥落後北に奔り、態勢を立て直し、北軍方の斯波高経らが守備する城砦を攻撃した際、あえなく敗死するきっかけとなった城砦である。
【写真左】超勝寺南側
「藤島御坊 別格別院 超勝寺」と記された石碑が建つ。
なお、この写真の手前を更に南に降ると、もう一つの超勝寺がある。
義貞が金ケ崎城陥落後、最初に身を寄せたのが南越前町阿久和の杣山城(そまやまじょう)である。杣山城麓には元々北軍方斯波高経に従っていた瓜生一族がいたが、義貞が根気よく瓜生氏に南軍支持を要請した結果、瓜生氏が雌伏し、ここを作戦本部基地とし、越前国内の諸勢力への工作を始めた。この結果、3千の兵を得ることができた。
【写真左】山門
右側に「綽如上人開基」と記され、左側には「◇如上人留錫、霊場」とあるが、巧如ではないようだ。
こうした動きを知った越前守護斯波高経は、金ケ崎城落城後上洛していたが、すぐさま越前に下向、府中(武生)に在陣、杣山城攻略へと動いた。しかし、杣山城は難攻不落の要害の地で、長期戦の様相を呈してきた。
杣山城でのこう着状態が続く中、新田軍の畑時能は隣国加賀に入り、在地国人領主らを誘い越前への侵入を図った。このため斯波高経は次第に新田軍の勢力が拡大するのを防ぐため、府中の拠点新善光寺城の防備を強化し、さらには加賀勢力の侵入に備え、北ノ庄および九頭竜川周辺の要所に多くの城砦を築いた。これがのちに足羽七城といわれるものである。
【写真左】本堂
雪深い地方なのだろうか、前面ガラス張りとなっている。
足羽七城は、その名称から、7つの城という意味にとれるが、実際は10数ヵ所に築いた城砦の総称で、代表的な城として現在次のような城砦が記録されている。
さて、今稿の藤島城はこの足羽七城の一つとされているが、上掲した各城のうち、№9の林城は藤島城の南方にあるが、近接しているので、いわゆる一城別郭の形態であったともされる。
【写真左】藤島城跡土塁遺構・その1
本殿の裏側にまわると遺構として土塁の一部が確認できる。
現在はご覧のような1m程度の高さの土塁だが、当時は最低でも2m位はあったものと思われる。
というのも、この辺りは海抜があまりなく低地であり、藤島城そのものはいわゆる平城形式の城館であったと考えられるからである。このため、土塁などは相当高くしないと防御性が確保できなかったと考えられる。
新田義貞の敗死
義貞が無念の自害をすることになるこの藤島城での戦いについては、別稿「新田塚」で紹介する予定だが、当時越前で勢威を取り戻した新田軍(南軍)は、ほぼ同国において斯波高経らを撃退することは間違いない状況であった。
【写真左】藤島城跡土塁遺構・その2
藤島城陥落のあと、この城域一帯が整地され、土塁など多くの遺構が取りこわされ、新たに超勝寺を含めた多くの寺院が建てられたものと思われる。
特に藤島城に拠った面々は、平泉寺の衆徒など寄集め軍団のため、義貞にも油断があったのだろう。
義貞が想定していた藤島城をはじめ、近くの林城、波羅密城も落城は時間の問題だと考えていた。
しかし、これら諸城に拠った斯波方の兵は少数精鋭ながら果敢に抵抗をつづけたため、遅々として落城したという報は義貞のもとに届かなかった。このため、しびれをきらした義貞は、自ら50余騎という少ない随従者を率い、偵察と督戦を目的に陣所であった燈明寺城を出立した。
【写真左】築山
土塁遺構の近くのもので、同じく北側に東西に延びる形で築かれた庭園用の築山だが、場合によっては、この築山も元は土塁の一部だったかもしれない。
このあと、超勝寺の外回りを一周してみる。
義貞は各所で行われていた激戦地を避けながら、大回りするコースをとったが、これが逆に斯波方の重臣細川出羽守らの救援部隊300余騎と遭遇する羽目になった。たちまち義貞らは囲まれ、矢を射られ義貞も眉間に矢を受け、あえなくその場で自害した。建武5年(1338)閏7月2日のことである。
【写真左】白山神社
超勝寺の北側にはご覧のように、十九社 白山神社が祀られている。
余談だが、越前・加賀国を探訪するとこの「白山神社」が至る所に祀られている。
この地に当社が祀られているのは、前述したように、南北朝期、斯波高経方として、当城(藤島城)に拠った平泉寺衆徒が活躍したこともその理由の一つだろう。
超勝寺(西)
超勝寺は応永年間(1394~1428)、本願寺5世綽如(しゃくにょ)の創建といわれている。藤島城陥落からおよそ50年余りの後、当地に創建されたことになる。綽如が同寺5世になったのは40歳ごろで、すぐに第2子であった6世巧如(ぎょうにょ)に権限(寺務)を移譲し、本人は越中国杉谷に草庵を求め居所とした。そして、巧如が綽如から継承を受けた直後、彼は弟であった屯円にこの超勝寺を任せている。このため、事実上超勝寺初期の運営に携わったのは、この屯円と考えられる。
【写真左】超勝寺の北側
ご覧のように周囲は田圃や住宅が立ち並んでいる。
田面と超勝寺(藤島城)との比高差もほとんどなく、平城というより沼城に近い形態のものだったかもしれない。
蓮如が没したのち、永正年間に至ると、越前・加賀は真宗門徒を中心とする土豪連合組織が次第に強大なものとなり、いわゆる一向一揆が確立した。
当時本願寺9代法主であった実如は、越前の雄・朝倉氏との対決のため、彼ら一揆衆に挙兵を命じた。しかし、その目論みは脆くも崩れ、朝倉氏に一方的に撃退され、越前国内にあった本願寺系寺院である吉崎御坊・超勝寺・本覚寺・興行寺などは破却され、残った門徒衆らは白山麓に逃げ込んだ。永正3年(1506)8月6日のことである。
大永元年~2年(1521~22)、加賀国では蓮如の子(三男・蓮綱、四男・顕誓、七男・蓮悟)が本願寺教団を維持し、事実上守護富樫氏の動きを封じていた。特に河北郡二俣・若松本泉寺の七男・蓮悟は、その中心的人物で、越後の上杉氏、能登の畠山氏などとも激しい戦いを繰り広げていた。
【写真左】福井市都市景観重要建築物指定の看板
当院は、平成13年9月3日に、同市重要建築物等の指定を受けている。
享禄4年(1531)、越前国・加賀国を挟んで本願寺・一揆衆の主導権争いが勃発した。これは蓮如三男・蓮綱の松岡寺を含む加賀4郡に置かれた4ヶ寺と、そのころ越前から亡命していた超勝寺との争論が元である。
4ヶ寺は加賀武士と与同して超勝寺を成敗しようとするものであった。これに対し、超勝寺は本覚寺と組み、さらには山科本願寺が味方した。当時本願寺10代であった証如は、蓮如の曾孫で超勝寺とは親戚関係にあった。
戦いは加賀4ヶ寺が優勢であったが、その後、本願寺(証如)は、三河国の門徒衆に支援を要請したため、形勢は逆転、4ヶ寺が敗北した。この結果、松岡寺の蓮綱、蓮慶らは生捕となり、9人が生害した。
ところで前稿・二曲城(石川県白山市出合町)で紹介した二曲右京進が当城を整備していた天文6年ごろ、加賀国の真宗支配の中核となったのは、北加賀が本覚寺で、南加賀がこの超勝寺であったことが知られている。
(えちぜん・ふじしまじょう・ちょうしょうじ)
藤島城
●所在地 福井県福井市藤島町
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 不明
●城主 平泉寺門徒
●備考1 足羽七城
●遺構 土塁
超勝寺(西超勝寺)
●創建 応永年間(1394~1428)
●開山 綽如(本願寺5世)
●登城・参拝日 2014年6月17日
◆解説(参考文献 サイト「足羽七城の戦いとその跡を訪ねて」等)
越前・藤島城は現在の超勝寺があったところとされている。所在地は、福井市藤島町にあって、「えちぜん鉄道・勝山永平寺線」の東藤島駅からおよそ600m程北に向かったところにある。
【写真左】「藤島城跡」と記された石碑
現在の西超勝寺の山門脇に建立されているが、この辺り一帯には当院の他、南200mの地点に、のちに分かれた東超勝寺を含め、厳浄寺・大光寺・偏超寺など多くの寺が集まっている。
いずれも藤島城が築かれていたときの城域(城館)敷地だったといわれている。
足羽七城
藤島城については、金ヶ崎城(福井県敦賀市金ヶ崎町)で少し紹介しているが、南北朝期南軍方の新田義貞が、金ケ崎城陥落後北に奔り、態勢を立て直し、北軍方の斯波高経らが守備する城砦を攻撃した際、あえなく敗死するきっかけとなった城砦である。
【写真左】超勝寺南側
「藤島御坊 別格別院 超勝寺」と記された石碑が建つ。
なお、この写真の手前を更に南に降ると、もう一つの超勝寺がある。
義貞が金ケ崎城陥落後、最初に身を寄せたのが南越前町阿久和の杣山城(そまやまじょう)である。杣山城麓には元々北軍方斯波高経に従っていた瓜生一族がいたが、義貞が根気よく瓜生氏に南軍支持を要請した結果、瓜生氏が雌伏し、ここを作戦本部基地とし、越前国内の諸勢力への工作を始めた。この結果、3千の兵を得ることができた。
【写真左】山門
右側に「綽如上人開基」と記され、左側には「◇如上人留錫、霊場」とあるが、巧如ではないようだ。
こうした動きを知った越前守護斯波高経は、金ケ崎城落城後上洛していたが、すぐさま越前に下向、府中(武生)に在陣、杣山城攻略へと動いた。しかし、杣山城は難攻不落の要害の地で、長期戦の様相を呈してきた。
杣山城でのこう着状態が続く中、新田軍の畑時能は隣国加賀に入り、在地国人領主らを誘い越前への侵入を図った。このため斯波高経は次第に新田軍の勢力が拡大するのを防ぐため、府中の拠点新善光寺城の防備を強化し、さらには加賀勢力の侵入に備え、北ノ庄および九頭竜川周辺の要所に多くの城砦を築いた。これがのちに足羽七城といわれるものである。
【写真左】本堂
雪深い地方なのだろうか、前面ガラス張りとなっている。
足羽七城は、その名称から、7つの城という意味にとれるが、実際は10数ヵ所に築いた城砦の総称で、代表的な城として現在次のような城砦が記録されている。
- 勝虎城(船橋町)
- 高木城(別名構ヶ城)(高木町)
- 安居城(金屋町)
- 和田城(和田東町)
- 江守城(南江守町)
- 深町城(深見町)
- 足羽城(足羽上町)
- 藤島城(藤島町)
- 林城(林町)
- 波羅密城(原目町)
さて、今稿の藤島城はこの足羽七城の一つとされているが、上掲した各城のうち、№9の林城は藤島城の南方にあるが、近接しているので、いわゆる一城別郭の形態であったともされる。
【写真左】藤島城跡土塁遺構・その1
本殿の裏側にまわると遺構として土塁の一部が確認できる。
現在はご覧のような1m程度の高さの土塁だが、当時は最低でも2m位はあったものと思われる。
というのも、この辺りは海抜があまりなく低地であり、藤島城そのものはいわゆる平城形式の城館であったと考えられるからである。このため、土塁などは相当高くしないと防御性が確保できなかったと考えられる。
新田義貞の敗死
義貞が無念の自害をすることになるこの藤島城での戦いについては、別稿「新田塚」で紹介する予定だが、当時越前で勢威を取り戻した新田軍(南軍)は、ほぼ同国において斯波高経らを撃退することは間違いない状況であった。
【写真左】藤島城跡土塁遺構・その2
藤島城陥落のあと、この城域一帯が整地され、土塁など多くの遺構が取りこわされ、新たに超勝寺を含めた多くの寺院が建てられたものと思われる。
特に藤島城に拠った面々は、平泉寺の衆徒など寄集め軍団のため、義貞にも油断があったのだろう。
義貞が想定していた藤島城をはじめ、近くの林城、波羅密城も落城は時間の問題だと考えていた。
しかし、これら諸城に拠った斯波方の兵は少数精鋭ながら果敢に抵抗をつづけたため、遅々として落城したという報は義貞のもとに届かなかった。このため、しびれをきらした義貞は、自ら50余騎という少ない随従者を率い、偵察と督戦を目的に陣所であった燈明寺城を出立した。
【写真左】築山
土塁遺構の近くのもので、同じく北側に東西に延びる形で築かれた庭園用の築山だが、場合によっては、この築山も元は土塁の一部だったかもしれない。
このあと、超勝寺の外回りを一周してみる。
義貞は各所で行われていた激戦地を避けながら、大回りするコースをとったが、これが逆に斯波方の重臣細川出羽守らの救援部隊300余騎と遭遇する羽目になった。たちまち義貞らは囲まれ、矢を射られ義貞も眉間に矢を受け、あえなくその場で自害した。建武5年(1338)閏7月2日のことである。
【写真左】白山神社
超勝寺の北側にはご覧のように、十九社 白山神社が祀られている。
余談だが、越前・加賀国を探訪するとこの「白山神社」が至る所に祀られている。
この地に当社が祀られているのは、前述したように、南北朝期、斯波高経方として、当城(藤島城)に拠った平泉寺衆徒が活躍したこともその理由の一つだろう。
超勝寺(西)
超勝寺は応永年間(1394~1428)、本願寺5世綽如(しゃくにょ)の創建といわれている。藤島城陥落からおよそ50年余りの後、当地に創建されたことになる。綽如が同寺5世になったのは40歳ごろで、すぐに第2子であった6世巧如(ぎょうにょ)に権限(寺務)を移譲し、本人は越中国杉谷に草庵を求め居所とした。そして、巧如が綽如から継承を受けた直後、彼は弟であった屯円にこの超勝寺を任せている。このため、事実上超勝寺初期の運営に携わったのは、この屯円と考えられる。
【写真左】超勝寺の北側
ご覧のように周囲は田圃や住宅が立ち並んでいる。
田面と超勝寺(藤島城)との比高差もほとんどなく、平城というより沼城に近い形態のものだったかもしれない。
蓮如が没したのち、永正年間に至ると、越前・加賀は真宗門徒を中心とする土豪連合組織が次第に強大なものとなり、いわゆる一向一揆が確立した。
当時本願寺9代法主であった実如は、越前の雄・朝倉氏との対決のため、彼ら一揆衆に挙兵を命じた。しかし、その目論みは脆くも崩れ、朝倉氏に一方的に撃退され、越前国内にあった本願寺系寺院である吉崎御坊・超勝寺・本覚寺・興行寺などは破却され、残った門徒衆らは白山麓に逃げ込んだ。永正3年(1506)8月6日のことである。
大永元年~2年(1521~22)、加賀国では蓮如の子(三男・蓮綱、四男・顕誓、七男・蓮悟)が本願寺教団を維持し、事実上守護富樫氏の動きを封じていた。特に河北郡二俣・若松本泉寺の七男・蓮悟は、その中心的人物で、越後の上杉氏、能登の畠山氏などとも激しい戦いを繰り広げていた。
【写真左】福井市都市景観重要建築物指定の看板
当院は、平成13年9月3日に、同市重要建築物等の指定を受けている。
享禄4年(1531)、越前国・加賀国を挟んで本願寺・一揆衆の主導権争いが勃発した。これは蓮如三男・蓮綱の松岡寺を含む加賀4郡に置かれた4ヶ寺と、そのころ越前から亡命していた超勝寺との争論が元である。
4ヶ寺は加賀武士と与同して超勝寺を成敗しようとするものであった。これに対し、超勝寺は本覚寺と組み、さらには山科本願寺が味方した。当時本願寺10代であった証如は、蓮如の曾孫で超勝寺とは親戚関係にあった。
戦いは加賀4ヶ寺が優勢であったが、その後、本願寺(証如)は、三河国の門徒衆に支援を要請したため、形勢は逆転、4ヶ寺が敗北した。この結果、松岡寺の蓮綱、蓮慶らは生捕となり、9人が生害した。
ところで前稿・二曲城(石川県白山市出合町)で紹介した二曲右京進が当城を整備していた天文6年ごろ、加賀国の真宗支配の中核となったのは、北加賀が本覚寺で、南加賀がこの超勝寺であったことが知られている。