2015年1月28日水曜日

二曲城(石川県白山市出合町)

二曲城(ふとげじょう)

●所在地 石川県白山市出合町
●高さ 268m(比高120m)
●築城期 不明
●築城者 二曲右京進・鈴木出羽守
●城主 同上
●遺構 郭・掘立柱建物・土塁など
●指定 国指定史跡
●登城日 2014年6月18日

◆解説(参考文献『加賀一向一揆 ~最後の砦、鳥越城と共に終焉~』西田谷功著等)
 前稿鳥越城と同じく一揆衆が拠ったといわれる城砦が二曲城である。場所は鳥越城を南西約1キロ隔てた位置にある。
【写真左】二曲城鳥瞰図
 現地登城口に配置図などが掲示されていたが、大分劣化しほとんど読めなかったので、新たに管理人によって作図した鳥瞰図。

 2010年から復元整備事業が開始されているが、まだ完了していないようなので、いずれ鳥越城のような整備された案内板などが更新されるだろう。


 現地には登城口から主郭までは約20分余りでたどり着けると書かれていたが、この日は帰途に着く予定で時間もあまりなく、また鳥越城下山後着替えしたことや、かなり蒸し暑かったこともあり、麓までしかいっていない。
【写真左】二曲城遠望
 鳥越城からみたもので、麓には「一向一揆歴史館」や道の駅「一向一揆の里」がある。
【写真左】二曲城の看板
 麓の「一向一揆歴史館付近には、鳥越城と併せて、二曲城の案内標識が建っている。







現地の説明板より

"国指定史跡 二曲城跡

 当城跡は、鳥越城跡とともに織田信長の攻勢に最後まで抵抗した、白山麓の一向一揆の拠点となった城跡である。
 二曲の地は、白山麓門徒の指導者であった鈴木(二曲)氏の本拠で、本来、この城跡は、山麓の通称「殿様屋敷」の館に居住した同氏の砦であった。
【写真左】登城口付近・その1













 城跡は鳥越城から大日川の対岸に相対する標高268mの独立峰上に築かれており、山頂は平坦に削平されていて、屋根上に腰郭と空堀の遺構が確認できる。

 天正8年(1580)11月、鳥越城とともに落城するが、山内衆の抵抗はこれをもって終わらなかった。『信長公記』によれば、翌天正9年(1581)2月、加州一揆が蜂起して「ふとうげ」に入置かれた柴田勝家の人数300人を悉く討ち果たしたとある。

 しかし、これも織田方の佐久間盛政によって鎮圧された。翌天正10年、一揆衆は再度鳥越・二曲両城を奪還するが、同年3月、生捕者300余人の磔(はりつけ)により終焉する。
 二曲城跡は、鳥越城とともに加賀一向一揆の最後の砦となった歴史の舞台としての意義をもつことから、史跡に指定され保存が図られている。
   昭和63年11月設置  鳥越村教育委員会”
【写真左】登城口付近・その2
 梅雨時の登城は辛い上に、藪蚊が多い。










鈴木出羽守・二曲氏

 蓮如(吉崎御坊(福井県あわら市吉崎)参照)が加賀国に入って浄土真宗を広めたのは、文明3年(1471)といわれている。真宗の布教活動は親鸞が最初とされているが、もともと加賀・越前には往古より白山信仰が根付いていた。

 養老元年(717)泰澄(たいちょう)が当山を開山したといわれ、神仏習合の教えが広まり、それぞれの拠点は、加賀では白山本宮、越前は白山神社(平泉寺)(下段写真参照)、また東麓美濃国においては長滝白山神社とされた。
【写真左】白山神社・平泉寺
所在地:福井県勝山市平泉寺町平泉寺56河上
 白山信仰越前川の禅定道の拠点として、最盛期には、48社36堂千坊、僧兵8千人の強大な寺社都市を誇った。

参拝日:2014年6月17日


 鈴木出羽守の出自については諸説あり、その一つが、熊野信仰が全国に伝播すると、阿弥陀仏を共通とする熊野神主の一族・鈴木氏が当地・加賀二曲地域に土着し、二曲氏を名乗り、室町・戦国時代に至って、浄土真宗に帰依し、いわゆる「門徒武士」になったのが同氏一族の始まりといわれているもの。
【写真左】登城口付近・その3
 少し登ってみたが、再び汗が出始め、もう着替えがないため断念。








 もう一つは、元亀元年(1570)織田信長と本願寺の戦いが始まった際、石山本願寺に拠った顕如が、当時紀伊雑賀門徒であった鈴木出羽守に、加賀山内一揆の大将として派遣を命じ、当地に赴いたというものである。

 紀伊国における雑賀衆とは、加賀国などと同じように、一揆集団であって、特に鉄砲を主力兵器として武装していた軍事集団である。そのリーダー格とされていたのが、雑賀党鈴木氏などである。従って、鳥越城・二曲城の鈴木出羽守は、元々この雑賀党鈴木氏の一族ではなかったかと考えられる。
【写真左】説明板
 大分劣化していて読めない。











鳥越城と二曲城

 蓮如が加賀を退去した後、門徒内部における抗争や、加賀・越前守護らとの対立が度々起こるが、加賀一向一揆の本拠地として平野部で確立したのは、戦国期となる天文15年(1546)の金沢御堂建立のころとされている。同堂は後に信長らによって陥落されるが、その後佐久間盛政や前田利家によって金沢城へと姿を変えることになる。
【写真左】二曲城全体図
 紙を貼った形式のものはどうしても劣化が早い。









 さて、前稿鳥越城や二曲城の築城期は不明だが両城とも同じころ築かれたと考えられ、特に本願寺顕如が織田信長と戦いを始めた石山合戦の元亀元年(1570)ごろ、二曲城は砦形式の城砦から本格的な山城へと拡幅・改修されたとされる。
【写真左】加賀の傑僧「任誓」与三郎の碑
 登城口付近には、戦国期に一向一揆は掃討されたが、江戸時代の貞享・元禄のころ、当地近郷の人々を教化し、尊信された傑僧・任誓の碑が祀られている。

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