宇龍城(うりゅうじょう)
●所在地 島根県出雲市大社町宇龍●形態 海城
●高さ 35.7m(比高34m)
●築城期 不明(戦国時代か)
●築城者 不明(尼子氏又は毛利氏)
●城主 不明(尼子氏又は毛利氏)
●遺構 郭・土塁・堀切等
●登城日 2014年1月17日
◆解説(参考文献『出雲の山城』編者高屋茂男等)
出雲杵築大社は、昨年(2013年)の大遷宮で一気に観光客が増えたが、ここからさらに島根半島の海岸線を北に向かって進むと、日御碕神社や東洋一高いといわれた日御碕灯台がある。そして、この灯台の近くにはリアス式海岸を巧みに利用した宇龍の港がある。宇龍城はこの港を見下ろす小丘に築かれた海城である。
【写真左】宇龍城遠望
北東部から見たもので、城域はこの写真の中にすっぽりと収まる小規模な城砦である。
書籍 『出雲の山城』
ところで、旧聞になるが、昨年(2013年)の秋、管理人の住む地元島根県では、旧出雲国内に所在した代表的な山城50か所を厳選し紹介した『出雲の山城』という本が出版された。編者は地元松江市にある八雲風土記の丘学芸員の高屋茂男氏で、執筆者には島根県では長年城郭関係の研究に携わってこられた山根正明氏をはじめ、滋賀県立大学の中井均氏など錚々たるメンバーが参画されている。
【写真左】書籍「出雲の山城」
2013年9月20日初版発行
編者 高屋茂男
発行 ハーベスト出版
定価 本体1,800円+税
発刊に併せ八雲風土記の丘で、山城のパネル展示会が行われていたので来館した際、編者の高屋氏にお目にかかった。このとき、まだ本は出来ていなかったが、高屋氏からわざわざ同書のゲラ刷りまで見せていただき、充実した内容であることが確認できた。
特筆されるのは、すべての山城に縄張図が添付され、しかもその作図は執筆者自身によるものである。図面に表現できない現地の特徴などは、実際に踏査した人でないと分からない。そんな一つ一つの山城が担当執筆者により、精緻な調査・考察を経て報告されている。山城ファンの方々に是非お勧めしたい本である。
【写真左】宇龍城配置図
麓の港側には、「出雲風土記登場地」の一つ「宇禮保浦」の石碑があり、この上段部に付いている地図。
少しピンボケした写真だが、宇龍城は左側の赤字で示された「現在地」附近にある。
なお、出雲風土記の時代の宇禮保浦のころは、12隻の船が停泊できる港だったとされている。
宇龍城
さて、その『出雲の山城』に紹介されている一つが今稿の宇龍城である。しばしば参考にしている「島根県遺跡データベース」には登録されておらず、他の文献でも余り見かけないので、近年発見された城郭と思われる。
本書では山根氏が調査・執筆されているが、当城の麓にある宇龍湊は、戦国時代に尼子晴久によって直轄地とし、併せて出雲で産出される鉄の積み出しは、この湊に限定していたという。
当然、ここから日本海を使って北陸・因幡・伯耆方面などから鉄を求めてやってくる多くの船で賑わった。
【写真左】麓の駐車場付近
この写真の右側にある岩塊が宇龍城になる。護岸工事などが施された関係で麓の状況は変わっているかもしれないが、変化にとんだ中小の小島が点在していたと思われる。
登城道はこの写真の奥にあるため、ここに駐車して歩いて向かう。
写真にでも分かるように、宇龍港を見下ろす位置にある海城で、当時湊の防衛・監視を目的とした城砦であったと思われる。尼子氏が滅んだあと、宇龍城及び宇龍湊は毛利氏の管轄下に入ったといわれている。
【写真左】登城道
宇龍城は南側からのびた丘陵の北端部にあたるが、その途中の尾根筋には数軒の民家が立っている。
この住宅地に向かう道が東麓側から階段で繋がれていて、一旦そこまで向かい、ここから北に鋭角に旋回するような道が北に向かっている。
写真奥に見えるのは、林神社という社だがこの辺りも元は郭などがあったところだろう。主郭はこの写真の左側にあるため、参拝後尾根筋の分岐点に戻り、上を目指す。
【写真左】主郭・その1
主郭跡にはご覧の建物が建っているが、これは立虫神社という。
ちなみに、宇龍城跡には、この他に麓には荒魂神社がある。
こうした裏付けを示すものとしては、平田城・その2(島根県出雲市平田町)でも述べたように、尼子・毛利の最後の戦いとなった時、尼子義久が日御碕神社に宇龍浦を安堵し、船役を定め(「日御碕神社文書」)また、元亀年間に至ると、毛利氏が尼子再興軍に対処するため、馬谷高嶽城(島根県益田市馬谷)の稿で紹介したように、同元年(1570)10月19日、児玉水軍の将・就英が、宇龍より加賀浦に水軍を移動させた等の記録が残る。
【写真左】主郭・その2
神社を右側(南東部)から見たもので、立ち位置から下方には林神社がある。雑草などがあって分かりずらいが、主郭全体を土塁が囲繞している。
このあと、北東部に進む。
【写真左】腰郭
約1.5m程下がった位置に配置されているもので、東西に細長い。
ここからさらに北の方へ進む。
【写真左】溜池
宇龍城全体が岩塊の山といった感じだが、この場所に溜池があるとは驚きだった。
この池の北側堰堤は北側の断崖まで余裕がない。それでもほとんど漏水もなく、この地質地形で水を蓄えていた。
『出雲の山城』でも、以下のように考察されている。
…山城にとって水源を確保することが重要課題であることは言うまでもない。海城の場合はなおさらである。当城では、堅い地山を利用して天水溜りを造ることでこれに対応しようとしていたことが判明した。今後の同様な遺構の調査に当たって、一つの重要な観点を示唆してくれた資料というべきであろう。
杵築相物親方・坪内氏
注目されるのは、この水運流通の対応の際、尼子氏支配から毛利氏支配に代わる間、常に当時杵築の商人を統轄していた杵築相物親方(きづきあいものおやかた)であった坪内氏が関わっていたことである。
具体的には尼子方には、坪内孫次郎とその父・次郎右衛門、毛利方には、孫次郎の弟・彦兵衛が杵築相物親方に任命されている。このことは坪内氏にとって、一方のみに肩入れするリスクを避けたい思惑があったと推察される。
【写真左】北西側に伸びる郭
主郭の西側には土塁を介して3段の腰郭が連続しているが、この写真はその中の2段目のもの。
主郭側の保存度に比べると、こちらの方が遺構としては分かりやすい。
このあと、さらに先端部まで進む。
戦の際、大軍を移動することは多くの労力と物資が必要になる。まして安芸からやってきた毛利方にとって長期にわたる遠征ともなると、戦場地域での軍備はもちろんのこと、食糧・資材などはできるだけ地元調達できることが必須条件である。
戦のための戦略は勿論重要であることは論を待たないが、食糧・資材及びそれらを移送する手段も同時に確保する必要があった。
毛利方による杵築商人との折衝においては、元就側近といわれた小倉元悦(もとよし)や、井上就重(なりしげ)などが担当したという。
【写真左】土塁
西側に伸びる郭は3段だが、厳密にはこの土塁下に小規模な削平地がある。ただ、段々と崩落してきているようだ。
この土塁は高さ1m弱のもので、石積の痕跡も認められ、当城の中ではもっとも明瞭に残る。
【写真左】土塁側から日本海を望む
宇龍城の北側直下は現在冒頭で示した駐車場になっているが、これは近年護岸工事で造成したもので、駐車場を挟んで北側にある岩山は当時島嶼となっていたと考えられる。
従って、この位置に船を着けても(波が打ち寄せるので着けることも困難)、天険の要害となる急崖で、ここから攻めることは先ず不可能であったと思われる(下段の写真参照)。
【写真左】西側の海岸部から見たもの。
写真中央が宇龍城で、現在当城の廻りにはコンクリート舗装の歩道が設置されているが、当時はこうしたものはなく、波が激しく打ち寄せていたと思われる。
和布刈神事
ところで、地元出雲地方では毎年2月初旬になると、きまって地元放送局が放映するのが、宇龍湊に浮かぶ権現島の和布刈神事(めかりしんじ)である。
和布刈神事で最も有名なのは、北九州市門司にあるものだが、出雲の神事も古い歴史を持つ。
【写真左】宇龍城と和布刈神事が行われる権現島
権現島には熊野神社が祀られている。宇龍城側は本土側になり、対岸の権現島までは20~30mほどで指呼の間である。
成務天皇6年(143年)、正月5日朝、一羽のウミネコが海から加えてきたワカメを日御碕神社の欄干に何度もかけたので、神主がこれを神前に供えたという。
その由来にちなみ、毎年旧暦1月5日になると、宇龍城の対岸にある権現島で「和布刈神事」が行われる。真冬の中、屈強な男性が数人、権現島から本土側に向かって泳ぐのだが、この時期の日本海の冷たさは半端でない。
【写真左】宇龍港
写真左に見える鳥居が権現島の熊野神社参道入り口となる。
神事の後半は権現島から手前の埠頭まで褌男達が泳いで渡る。