2014年7月23日水曜日

宇龍城(島根県出雲市大社町宇龍)

宇龍城(うりゅうじょう)

●所在地 島根県出雲市大社町宇龍
●形態 海城
●高さ 35.7m(比高34m)
●築城期 不明(戦国時代か)
●築城者 不明(尼子氏又は毛利氏)
●城主 不明(尼子氏又は毛利氏)
●遺構 郭・土塁・堀切等
●登城日 2014年1月17日

◆解説(参考文献『出雲の山城』編者高屋茂男等)
 出雲杵築大社は、昨年(2013年)の大遷宮で一気に観光客が増えたが、ここからさらに島根半島の海岸線を北に向かって進むと、日御碕神社や東洋一高いといわれた日御碕灯台がある。そして、この灯台の近くにはリアス式海岸を巧みに利用した宇龍の港がある。宇龍城はこの港を見下ろす小丘に築かれた海城である。
【写真左】宇龍城遠望
 北東部から見たもので、城域はこの写真の中にすっぽりと収まる小規模な城砦である。





書籍 『出雲の山城』

ところで、旧聞になるが、昨年(2013年)の秋、管理人の住む地元島根県では、旧出雲国内に所在した代表的な山城50か所を厳選し紹介した『出雲の山城』という本が出版された。

 編者は地元松江市にある八雲風土記の丘学芸員の高屋茂男氏で、執筆者には島根県では長年城郭関係の研究に携わってこられた山根正明氏をはじめ、滋賀県立大学の中井均氏など錚々たるメンバーが参画されている。
【写真左】書籍「出雲の山城」
 2013年9月20日初版発行
 編者 高屋茂男
 発行 ハーベスト出版
 定価 本体1,800円+税








 発刊に併せ八雲風土記の丘で、山城のパネル展示会が行われていたので来館した際、編者の高屋氏にお目にかかった。このとき、まだ本は出来ていなかったが、高屋氏からわざわざ同書のゲラ刷りまで見せていただき、充実した内容であることが確認できた。

 特筆されるのは、すべての山城に縄張図が添付され、しかもその作図は執筆者自身によるものである。図面に表現できない現地の特徴などは、実際に踏査した人でないと分からない。そんな一つ一つの山城が担当執筆者により、精緻な調査・考察を経て報告されている。山城ファンの方々に是非お勧めしたい本である。
【写真左】宇龍城配置図
 麓の港側には、「出雲風土記登場地」の一つ「宇禮保浦」の石碑があり、この上段部に付いている地図。
 少しピンボケした写真だが、宇龍城は左側の赤字で示された「現在地」附近にある。

 なお、出雲風土記の時代の宇禮保浦のころは、12隻の船が停泊できる港だったとされている。


宇龍城

 さて、その『出雲の山城』に紹介されている一つが今稿の宇龍城である。しばしば参考にしている「島根県遺跡データベース」には登録されておらず、他の文献でも余り見かけないので、近年発見された城郭と思われる。

 本書では山根氏が調査・執筆されているが、当城の麓にある宇龍湊は、戦国時代に尼子晴久によって直轄地とし、併せて出雲で産出される鉄の積み出しは、この湊に限定していたという。
 当然、ここから日本海を使って北陸・因幡・伯耆方面などから鉄を求めてやってくる多くの船で賑わった。
【写真左】麓の駐車場付近
 この写真の右側にある岩塊が宇龍城になる。護岸工事などが施された関係で麓の状況は変わっているかもしれないが、変化にとんだ中小の小島が点在していたと思われる。
 登城道はこの写真の奥にあるため、ここに駐車して歩いて向かう。



 写真にでも分かるように、宇龍港を見下ろす位置にある海城で、当時湊の防衛・監視を目的とした城砦であったと思われる。尼子氏が滅んだあと、宇龍城及び宇龍湊は毛利氏の管轄下に入ったといわれている。
【写真左】登城道
 宇龍城は南側からのびた丘陵の北端部にあたるが、その途中の尾根筋には数軒の民家が立っている。
 この住宅地に向かう道が東麓側から階段で繋がれていて、一旦そこまで向かい、ここから北に鋭角に旋回するような道が北に向かっている。

 写真奥に見えるのは、林神社という社だがこの辺りも元は郭などがあったところだろう。主郭はこの写真の左側にあるため、参拝後尾根筋の分岐点に戻り、上を目指す。
【写真左】主郭・その1
 主郭跡にはご覧の建物が建っているが、これは立虫神社という。
 ちなみに、宇龍城跡には、この他に麓には荒魂神社がある。


 こうした裏付けを示すものとしては、平田城・その2(島根県出雲市平田町)でも述べたように、尼子・毛利の最後の戦いとなった時、尼子義久が日御碕神社に宇龍浦を安堵し、船役を定め(「日御碕神社文書」)また、元亀年間に至ると、毛利氏が尼子再興軍に対処するため、馬谷高嶽城(島根県益田市馬谷)の稿で紹介したように、同元年(1570)10月19日、児玉水軍の将・就英が、宇龍より加賀浦に水軍を移動させた等の記録が残る。
【写真左】主郭・その2
 神社を右側(南東部)から見たもので、立ち位置から下方には林神社がある。雑草などがあって分かりずらいが、主郭全体を土塁が囲繞している。
 このあと、北東部に進む。
【写真左】腰郭
 約1.5m程下がった位置に配置されているもので、東西に細長い。
 ここからさらに北の方へ進む。
【写真左】溜池
 宇龍城全体が岩塊の山といった感じだが、この場所に溜池があるとは驚きだった。

 この池の北側堰堤は北側の断崖まで余裕がない。それでもほとんど漏水もなく、この地質地形で水を蓄えていた。

 『出雲の山城』でも、以下のように考察されている。

…山城にとって水源を確保することが重要課題であることは言うまでもない。海城の場合はなおさらである。当城では、堅い地山を利用して天水溜りを造ることでこれに対応しようとしていたことが判明した。今後の同様な遺構の調査に当たって、一つの重要な観点を示唆してくれた資料というべきであろう。


杵築相物親方・坪内氏

 注目されるのは、この水運流通の対応の際、尼子氏支配から毛利氏支配に代わる間、常に当時杵築の商人を統轄していた杵築相物親方(きづきあいものおやかた)であった坪内氏が関わっていたことである。

 具体的には尼子方には、坪内孫次郎とその父・次郎右衛門、毛利方には、孫次郎の弟・彦兵衛が杵築相物親方に任命されている。このことは坪内氏にとって、一方のみに肩入れするリスクを避けたい思惑があったと推察される。
【写真左】北西側に伸びる郭
 主郭の西側には土塁を介して3段の腰郭が連続しているが、この写真はその中の2段目のもの。

 主郭側の保存度に比べると、こちらの方が遺構としては分かりやすい。
 このあと、さらに先端部まで進む。


 戦の際、大軍を移動することは多くの労力と物資が必要になる。まして安芸からやってきた毛利方にとって長期にわたる遠征ともなると、戦場地域での軍備はもちろんのこと、食糧・資材などはできるだけ地元調達できることが必須条件である。
 戦のための戦略は勿論重要であることは論を待たないが、食糧・資材及びそれらを移送する手段も同時に確保する必要があった。

 毛利方による杵築商人との折衝においては、元就側近といわれた小倉元悦(もとよし)や、井上就重(なりしげ)などが担当したという。
【写真左】土塁
 西側に伸びる郭は3段だが、厳密にはこの土塁下に小規模な削平地がある。ただ、段々と崩落してきているようだ。

 この土塁は高さ1m弱のもので、石積の痕跡も認められ、当城の中ではもっとも明瞭に残る。
【写真左】土塁側から日本海を望む
 宇龍城の北側直下は現在冒頭で示した駐車場になっているが、これは近年護岸工事で造成したもので、駐車場を挟んで北側にある岩山は当時島嶼となっていたと考えられる。

 従って、この位置に船を着けても(波が打ち寄せるので着けることも困難)、天険の要害となる急崖で、ここから攻めることは先ず不可能であったと思われる(下段の写真参照)。
【写真左】西側の海岸部から見たもの。
 写真中央が宇龍城で、現在当城の廻りにはコンクリート舗装の歩道が設置されているが、当時はこうしたものはなく、波が激しく打ち寄せていたと思われる。


和布刈神事

 ところで、地元出雲地方では毎年2月初旬になると、きまって地元放送局が放映するのが、宇龍湊に浮かぶ権現島の和布刈神事(めかりしんじ)である。
 和布刈神事で最も有名なのは、北九州市門司にあるものだが、出雲の神事も古い歴史を持つ。
【写真左】宇龍城と和布刈神事が行われる権現島
 権現島には熊野神社が祀られている。宇龍城側は本土側になり、対岸の権現島までは20~30mほどで指呼の間である。


 成務天皇6年(143年)、正月5日朝、一羽のウミネコが海から加えてきたワカメを日御碕神社の欄干に何度もかけたので、神主がこれを神前に供えたという。
 その由来にちなみ、毎年旧暦1月5日になると、宇龍城の対岸にある権現島で「和布刈神事」が行われる。真冬の中、屈強な男性が数人、権現島から本土側に向かって泳ぐのだが、この時期の日本海の冷たさは半端でない。
【写真左】宇龍港
 写真左に見える鳥居が権現島の熊野神社参道入り口となる。
 神事の後半は権現島から手前の埠頭まで褌男達が泳いで渡る。

2014年7月19日土曜日

幡立山城(広島県府中市本山町)

幡立山城(はただてやまじょう)

●所在地 広島県府中市本山町
●別名 旗立山城
●指定 府中市指定史跡
●高さ 標高485m(比高280m)
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 不明
●遺構 郭等
●登城日 2013年10月26日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 幡立山城は、広島県府中市に築かれた城砦である。当城の近くには以前取り上げた亀寿山城(広島県福山市新市町大字新市)をはじめとし、桜山城(広島県福山市新市町大字宮内)相方城(広島県福山市新市町大字相方)などがある。
【写真左】幡立山城遠望
 南東麓の工業団地側から見たもの。

 







説明板より

幡立山(はただてやま)城跡(旗立山城跡)

“ 山頂部に幅3~5m、長さ約30mの1郭を置き、ここから南側に郭が展開する。1郭の南西部に巨石があり、南端のものには径約20cmの穴が開いている。ここに旗を立てたという旗立岩の伝承が残っており、これが城跡の名称にもなっている。1郭より1~3m低く帯郭が巡っており、中央やや西よりに南西下の郭に向けて虎口が開く。”
【写真左】七ツ池自然公園の地図
 七ツ池を中心に、東西の山並みを含めたこの地域は自然公園として整備されている。
 幡立山城は、この図の最下段に図示されている。


 幡立山城に登城したのは昨年の10月である。このため、大分記憶が薄らいでおり、当城に向かう明確な動機があったとは思うが、それがなんであったか、今ではトンと思い出せない。


 当城の由来などについては、残念ながら詳細な記録が残っていない。ただ、この城砦の南方には別名「備後国府城」といわれ、室町期守護職であった山名氏の居城とされる八ツ尾城(広島県府中市出口町)が控え、さらに北方には、古代山城として伝えられている「常城(つねき)」が控えている。

 所在地である府中という地名からも推察されるように、この地は奈良時代から平安時代にかけて全国におかれた国府があったところとされているが、残念ながらそれを裏付ける役所であった国庁の建物としての遺構はまだ見つかっていない。しかし、これまで当地域内で発掘された多くの出土品及び、二か所の遺跡(ツジ遺跡・元町東遺跡)の調査から比定地がほぼ確定しているようだ。
【写真左】登城開始
 幡立山城の登城口は上掲した案内図にある「現在地」まで車でたどり着けるため、主郭まで近い。

 この写真の位置から200mと標記されていたので、久しぶりにすでに卒寿を迎えている愛犬(チャチャ)も同伴させる。


七ツ池

 幡立山城の東麓から北にかけて長く伸びる谷がある。ここには7か所の池が南北に点在し七ツ池とよばれ、大蛇にまつわる伝説が残るという。

 一番下段にある平岩池から最上段にある口の池まではおよそ1キロあるが、最下段の平岩池の堰堤下と落差はあるものの、思ったほどの比高差はない。むしろ、西麓に聳える幡立山城の東に伸びる尾根がこの谷間を塞ぐような地勢を形づくり、このため七ツ池はまるで湿地帯の中の湖沼にも見える。

 また、七ツ池の東側に聳える亀ヶ岳周辺は、古代山城「常城(つねき)」があったところともいわれているが、その頃これらの池は水の手として利用されたのかもしれない。
【写真左】大岩
 少し歩いていくと、ご覧の大岩が現れる。
写真では分かりづらいが、中央に直径15cm程度の円形の窪みが見える。
 人の手が加わったものだろう。
【写真左】竪堀か
 深い窪みではないが、途中に堀切もしくは竪堀と思わせる箇所がある。
【写真左】主郭・その1
 主郭の手前は切崖状の遺構が残り、そこを過ぎると、ご覧の岩が出迎えてくるれる。
 これが幡立岩である。
【写真左】主郭・その2
 中央の岩が幡立岩

 手前の岩付近には、1996年広島で行われた国民体育大会の際、この場所で炬火を採火したとされる石碑が建立されている。


【写真左】幡立岩
 この岩の上に登り幡立の穴を見ようとしたが、以外と高さがある。
 登ろうとしたら、即座に連れ合いから怪我するからやめてほしいと懇願され、結局しぶしぶ従った。

 そんな悶着をしていたら、下の方から地元の中年の男性が登ってこられた。なんでも山菜をとりにきたという。
 出雲からこの山城を探訪してきたと話をしたら、この山もいいが、山城だったら、「八ツ尾城」の方が見どころが多いだろうと勧めていただいた。
【写真左】八ツ尾城眺望
 地元の方から教えていただいた八ツ尾城が下の方に見える。
 標高346mなので、140m前後程こちらの幡立山城が高い。


【写真左】茶臼城遠望
 下に見える街並みは府中市街で、手前を流れる芦田川の南岸にある独立丘陵(H:163m)の山城である。
【写真左】主郭・その3
 説明板にもあるように、主郭は南北に長さ約30mを持つが、幅は最大で5m前後と狭い。
 写真は北側から見たもの。

 このあと、虎口らしき箇所から北西部に降り、七ツ池方面に向かう。
【写真左】主郭の西面
 この辺りは切崖状の箇所も見られるが、全体になだらかになっている。
【写真左】下新池
 七ツ池の一つで、最下段の平岩池の上にあるもの。
 池の北側には、「いこいの谷」及び「せせらぎ水路」といった公園化された箇所があり、それを超えると上新池などがあるが、この日はこの池のみ探訪した。
【写真左】下新池北側から幡立山城を遠望する。
 北側にあるせせらぎ水路附近から見たもので、中央の山が幡立山。

2014年7月13日日曜日

荒滝山城(山口県宇部市大字東吉部字荒滝)

荒滝山城(あらたきやまじょう)

●所在地 山口県宇部市大字東吉部字荒滝
●高さ 459m(比高350m)
●築城期 室町時代
●築城者 内藤隆春
●城主 内藤氏
●指定 山口県指定史跡
●遺構 郭・堀切・土塁・石垣等
●登城日 2014年1月6日

◆解説(参考『日本城郭体系第14巻』等)
 荒滝山城は、山口県の西部を流れる厚東川(ことうがわ)の西方に聳える荒滝山に築城された内藤氏の居城といわれている。

 ちなみに荒滝山城の東麓を流れる厚東川を20キロほど下ると、以前紹介した霜降城(山口県宇部市厚東末信)・その1が位置している。
【写真左】荒滝山城遠望
 南西麓の駐車場側から見たもので、頂部はなだらかな形に見える。

 駐車場に向かう道は、県道231号線から北に枝分かれした林道だが、分岐点にある標識は少し小さいので、見落とすかもしれない。



現地の説明板より

“荒滝山城跡
           山口県指定文化財(史跡)

 荒滝山城は、大内氏の重臣で長門国の守護代だった内藤隆春(1528~1600)の居城と伝えられています。県内でも最大級の規模を持つ、中世の山城跡です。平時は山麓の今小野の館で生活し、戦時にこの山城にたてこもったと考えられます。

 この城は、標高459mの荒滝山の山頂につくられた主郭を中心として、東側尾根の出丸、西側尾根の西郭の三つの大きな郭群によって構成する連郭式の山城です。
【写真左】説明板
 麓の駐車場周りにはご覧のようなカラフルな説明板が設置してある。
 ちなみに、この付近には文字通り「荒滝」という名瀑があり、耳観音という像も祀られている。
また、舗装された駐車場の他、トイレも整備されているのでうれしい。


 尾根を切断する堀切、斜面に竪堀を連続して掘った畝状空堀群、城の出入り口である虎口、石積などの山城の防御施設を、山頂一帯のいたる所で見ることができます。
 市教委が行った発掘調査では、土師器・瓦質土器・中国や朝鮮から輸入された陶磁器など、主に16世紀中頃から後半にかけての、飲食や調理に使われた土器が出土しました。また、出土した遺物から、山口の大内氏との関係が伺われます。

 宇部市教育委員会”
【写真左】登城口付近
 麓には一軒の民家があり、その右側には石垣で積まれた棚田がある。西側から回り込みながら進む。







内藤氏

  荒滝山城の城主内藤隆春は、大内氏の重鎮として代々仕えた内藤一族の一人である。内藤氏が守護代として大内氏に仕え始めたのは、大内氏第11代当主・盛見(1377~1431)のころで、盛貞が最初といわれる。この頃大内氏は分郡守護体制をとっており、もう一人の守護代としては既に陶氏が任じている。
【写真左】分岐点・その1
 登り始めてから約20分ほど進むと、荒滝山城の北東に聳える「日ノ岳」に向かう道が出てくる。
 そのまま荒滝山側の道を少し進むと、今度は、南登山口側から伸びる道と合流する地点にでる。こちらの方はあまり使われていないようだ。
【写真左】分岐点・その2
 附近には休憩用の木製のベンチもおかれているが、劣化している。








 盛貞のあとを引き継いだのが、大内氏第13代教弘のときの盛世である。以下隆春に至るまでの流れを下段に示す。
  1. 盛世(盛貞) ~1468 主君・大内盛見 
  2. 盛武 ?~?
  3. 弘矩 1446~1495  主君・大内政弘⇒義興 
  4. 弘春 ? ~1502   主君・大内義興 弘春の兄・弘矩及びその子弘和、讒言によって大内義興に誅殺され、急遽家督を継ぐ。
  5. 興盛 1495~1554  主君・大内義興⇒義隆          弘春嫡男 妻 内藤弘矩娘
  6. 隆春 1528~1600  主君・大内義隆⇒毛利元就⇒輝元  興盛嫡男 妻 吉見隆頼娘
大内氏における内藤氏の世襲は概ね上記の通りで、守護代としてその地位にあったが、弘矩の代のとき、上掲したように主君義興は讒言によって弘矩を誅殺している。このため、弘春が跡を継いでいる。
【写真左】祠と鳥居
 本丸手前350m地点にあるもので、この付近から屹立した巨岩が現れる。










内藤隆春

 内藤隆春については、これまで石見の益田藤兼の墓(島根県益田市七尾町桜谷)でも少し触れているが、隆春の娘は益田藤兼の二番目の側室として七尾城に入っている。

 上掲したように、代々受け継いできた大内氏の重臣(守護代)ではあったが、天文20年(1551)、義隆が大寧寺の変(大内義隆墓地・大寧寺(山口県長門市深川湯本)参照)に巻き込まれた際、隆春は主君である義隆を守ろうとはしなかった。
【写真左】石積付近
 本丸南東部に当たる個所で、左側の斜面は草に覆われているが、平成13年度発掘調査で石積と石段が確認された。

 山頂の郭へ通じる南斜面通路の壁面はこうした石積が築かれているという。


 その背景には、このころ大内氏を支えてきた陶晴賢が事実上の実力者となっており、しかも晴賢と義兄弟であった甥の内藤隆世が、この時期形式上内藤氏の当主であり、その彼が晴賢に属したことなどがあり、隆春及び父・興盛らは静観の態度をとっていた。
【写真上】全体図
 荒滝山城は大きく分けて、主郭・西郭・出丸(千畳敷)の3か所で構成されている。

 この図は、縄張図の形式ではないが、これによると、遺構の数は凡そ次のようになっている。
 堀切×5~8ヵ所、畝状空堀群×20数ヵ所、虎口×6か所、石積×6カ所(いずれも概算値)。


 その後陶晴賢が厳島で毛利氏と戦う段になると、隆春は毛利氏に属した。晴賢が厳島に敗れたあと大内義長は、その2年後の弘治3年(1557)長門長福寺で自害するが、このとき甥の隆世も後を追った。この結果、隆春は改めて内藤氏当主として、また長門国守護代として元就に認知されることになる。

 荒滝山城の築城開始時期は、冒頭で示した大内氏第11代当主・盛見(1377~1431)、すなわち長門国守護代として始めて任に就いた盛貞の時と思われるが、本格的な整備を行ったのは、おそらくこの時期、すなわち永禄1~2年(1558~59)ごろと思われる。
【写真左】東に連続する郭段
 本丸から東にかけて約6段の郭が続く。3段目の郭はもっとも幅があり、その下には畝状の竪堀群(空堀群)が4条連なっているが、現地は雑木の覆われて明瞭でない。


 ところで、隆春の実姉・尾崎局は、元就の長男・隆元の正室である。つまり隆元は隆春の義兄となるが、隆元が不慮の死を遂げ、さらに元就が元亀2年(1571)に亡くなると、毛利家中で隆春を支援するものが少なくなり、さらには讒言が輝元の耳に入り、改めて輝元に対し忠誠を誓う起請文を提出させられている。

 隆春には男子がいたがいずれも早逝したため、養子として宍戸元秀(毛利氏側)の次男・元盛を迎えた。
【写真左】3段目の郭から主郭を見る。
【写真左】主郭
 主郭の一角には明治天皇の銅像が建立されている。
【写真左】北方に秋吉台を見る。
 荒滝山城からほぼ真北にはカルスト台地で有名な秋吉台が見える。
 向背の山を越えると、日本海側の長門・萩に至る。


【写真左】南方に霜降城を遠望する。
 おそらく⇓マークの山が南北朝期戦いの繰り広げられた霜降城霜降城(山口県宇部市厚東末信)・その1参照)と思われる。

 視界が良いと周防灘も俯瞰できるだろう。
【写真左】主郭北東部附近
 この辺りから右にかけて畝状空堀群が配されているが、現地は雑木や雑草で覆われて明瞭でない(下の写真参照)。
【写真左】竪堀
 標識はあるものの、倒木などで踏み込めない。
 ここからさらに東方の出丸側に向かう。
【写真左】堀切
 主郭側から出丸に向かう途中にあるもので、予想以上に規模が大きく、両端までの長さは100m前後ある。
【写真左】出丸縄張図
 主郭から出丸までの距離は、図面で見る以上に距離があり、独立した城砦として機能していたようにも思える。
【写真左】出丸の石積
 出丸は東西にそれぞれ長さ50m×幅20~30mの郭を2段構成し、境目の中央南に虎口を2か所置いている。そして、その東端部に降る尾根には5段の郭を配している。
 また北側には畝状竪堀を中小10数ヵ所配置している。
 写真は、西側郭の南面に残る石積みで、高さ約1mほどのもの。

 このあと、再び本丸側に引き返し、西郭に向かう。
【写真左】堀切
 主郭から西郭に至る個所のもので、特徴的なのは、この堀切の西側にもう一条が走り、北側でさらに西側から伸びた堀切と合流していることである(下の写真参照)。
【写真左】堀切配置図
 左図の右側が主郭で、西郭との間には計4本の堀切が配置されている。

 すべての堀切を越えていよいよ西郭に入る。
【写真左】西郭手前の犬走り
 西郭の概要は下段の図の通り、南側に大きな郭を配し、さらに北側に向かって小郭が配されている。
 この写真は手前の大きな郭の東側から北に向けて伸びる犬走り。
【写真左】西郭概要図
 中央の大きな郭は特記すべきものはなかったので、そのまま「現在地」と書かれたところに向かう。
【写真左】西郭・その1
 手前の郭から傾斜を持たせて、下に下がり、先端部周囲には土塁が残る。
 ここからさらに左側にある虎口を使って、西側に下りていく。
【写真左】堀切と塹壕の組合せ
 西郭の特徴はこの下段に取り巻く遺構で、北側には畝状竪堀群を配し、上部の先端郭を囲繞するように、空堀が配されている。
【写真左】空堀側面の石積
 囲繞する空堀の位置にあるもので、大分崩れているが、当時は屹立するような施工だったものと思われる。
【写真左】畝状竪堀
 当城の中では「西郭」区域に残る遺構が最も明瞭で、しかも見ごたえがある。
 この竪堀などはその典型だろう。
【写真左】竪堀下段から上を見上げる。
 上から見た時は緩い傾斜だと思ったが、下に降りて見上げると、かなり急傾斜に感ずる。