神尾山城(かんのおさんじょう)
●所在地 京都府亀岡市宮前町
●別名 本目城
●高さ 450m(比高240m)
●築城期 戦国時代後期
●築城者 不明
●城主 柳本賢治、細川晴元、明智光秀
●遺構 土塁・曲輪・堀切
●備考 金輪寺
●登城日 2017年3月20日
●高さ 450m(比高240m)
●築城期 戦国時代後期
●築城者 不明
●城主 柳本賢治、細川晴元、明智光秀
●遺構 土塁・曲輪・堀切
●備考 金輪寺
●登城日 2017年3月20日
◆解説(参考資料 「近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編」㈱吉川弘文館等)
デカンショ街道
丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)の北麓を東西に走るのが国道372号線である。「たんば三街道」の一つで、通称「デカンショ街道」と呼ばれる。これは京都府の亀岡市を起点とし、丹波篠山市を経由し兵庫県姫路市を終点とするルートである。
「♪ デカンショー、デカンショで半年暮らす… ♪」という歌を初めて知ったたのは管理人が高校生のときであるから50年以上も前のことである。学園祭などがあると、応援歌としてよく歌わされた。当初この「デカンショ」の意味も分からず、とにかく大声で歌えと応援団長から命令されていたのを覚えている。因みに、この歌は明治から大正期にかけて学生にはやったもので、花柳界にも流行した。
「デカンショ」そのものの意味は、哲学者「デカルト」「カント」「ショーペンハウエル」から来たという説と、「出稼ぎしよう」という語彙から来たものなど諸説ある。
【写真左】神尾山城の石垣 当城は下段でも述べているように尾根に沿って南北500mの長さを持つ。最高所と先端部との比高差はおよそ50mあり、城域に入るとさほどの傾斜は感じられない。
写真は途中で見えた石積(石垣)。
さて、このデカンショ街道は、既述したように国道372号線がほぼトレースしているが、途中で南丹市の園部町埴生付近で372号線から離れ、南側の山裾に沿っておよそ5キロほど東進しながら南下し、亀岡市の宮前(みやざき)町宮川の辺りで再び372号線と合流する。
この合流する手前の宮前から西方に聳えているのが神尾山城で、八上城からはおよそ30キロほどの距離になる。そして、神尾山城の南先端の尾根には古刹金輪寺が建立されている。
【写真左】金輪寺 麓から金輪寺に向かう道は急坂となっているが、整備されているので車で行ける。駐車場は金輪寺の参道(階段)下に設置されている。
金輪寺と明恵上人
そこで、最初にこの金輪寺と当寺を再興した明恵について触れておきたい。
現地の説明板より
“神尾山金輪寺
本山修験宗に属する金輪寺は、元天台宗として延暦2年(783)西願上人により創建されました。その後一時衰微しましたが、寛治年間(1087~93)に栂尾高山寺の明惠上人により再興され、宝蔵坊、極楽坊、一切経堂などの堂宇が建ち並び、隆盛を極めました。南北両谷の各所に残る坊舎の礎石などが、往時をしのばせます。
本尊の薬師如来像は、奈良時代の作といわれ、日本最初の医学書である『医心方』を著した丹波康頼の念持仏といわれています。本堂背後の山道を少し登ったところに、康頼の供養塔があります。
写真の右奥にみえる山が神尾山城の城域となる。
当寺には、南北朝時代の絹本著色仏涅槃図や、正応5年(1292)に建造された石造五重塔などの国の重要文化財のほか、正安3年(1301)に仏師定有らによって造像された金剛力士立像や、永徳2年(1382)の鰐口、天文3年(1534)の梵鐘など京都府や亀岡市指定の文化財が数多くあります。
(中略)
幕末に至り、同寺の住職であった大橋黙仙は、勤皇僧であり、当寺の庫裡に勤皇志士が集まり、密議を交わしたといわれます。そのような中、安政の大獄で処刑された頼山陽の三男頼三樹三郎と桜井新三郎頼直の遺髪を、黙仙和尚が持ち帰り、供養のために建てた碑が本堂裏に残されています。“
【写真左】本堂 本堂はさほど大きなものではないが、落ち着いた雰囲気がある。
説明板にもあるように、金輪寺(こんりんじ)は延暦2年(783)西願上人の創建後、寛治年間(1087~93)に栂尾高山寺の明惠(みょうえ)上人により再興されたとある。ただ、明恵上人は承安3年(1173)に生まれ、寛喜4年(貞永元年)(1232)に遷化しているので時期が合わない。
明恵の父は平重国で、治承4年(1180)平氏打倒を謀った源頼朝を討つべく東国に出陣したが、上総国で討死。孤児になった明恵は、京都高尾の神護寺に入り16歳で出家、その後仁和寺、東大寺などで真言密教や華厳宗などを学び、厳しい観行を経たのち、建永元年(1206)後鳥羽上皇から京都の栂尾を与えられ、神護寺の北方に高山寺を開山している。
従って、金輪寺の再建は高山寺創建後と思われる。
【写真左】金輪寺側から神尾山城を遠望・その2 西側から見たもので、庫裡の後背からほぼ城域となっている。
明恵は栄西(土佐・和田本城(高知県土佐郡土佐町和田字東古城)参照)などからも教えを受けたが、華厳宗を信仰し、建暦2年(1212)法然没後、『摧邪輪(ざいじゃりん)』を著し、法然の『選択本願念仏集』を激しく非難している。
因みに、その翌年5月、和田義盛が挙兵して北条泰時を攻めるが討死(和田合戦)し、和田氏に替わって北條義時が侍所別当を兼ねた。こうした流れの後、承久の乱(1221)が勃発するが、このとき明恵は上皇の恩義を重んじたのだろう、上皇方の兵を匿ったり、上皇を支援した公卿中御門宗行が惨殺された際、その妻のために山城に善妙寺という尼寺を建てたりしている。
【写真左】登城口 金輪寺の右側奥から御覧のような道がついている。
神尾山城
さて、冒頭でも述べたように神尾山城はこの金輪寺の背後にある尾根筋上に南北約500m、東西約200mの規模で築かれている。
現地の説明板より
”…戦国時代には寺の山続きに神尾山城(別名 本目城)があり、丹波平定を行った明智光秀の山城の一つとして数えられていました。
光秀の丹波平定に最も抵抗したのが波多野秀治兄弟でしたが、居城であった八上城(現 兵庫県篠山市)を兵糧攻めの末、人質(光秀の母)を差し出すことで和睦が成立し、波多野兄弟が連れてこられたのがここ本目城であったと伝えられています。”
登城口を登るとすぐに御覧のような墓石群が見える。
左側に8基の住職の墓があり、その右に2基の五輪塔がある。
この場所も削平された箇所で城域の最南端の一部だったかもしれない。
著書『近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編』㈱吉川弘文館)に縄張図が紹介されているが、これを見ると、南北に延びる尾根筋を無駄なく利用し、郭は大・中・小の規模でおよそ10か所配置され、階段状に連なっている。
このうち大型の郭は北側最高所の位置にある主郭と、中段の郭及び南端部のもので、長さはいずれ50m前後を測る。幅は尾根幅に制限があるので、最大で30m前後である。
【写真左】堀切 最初におよそ50m程の長さを持つ郭があり、そこを過ぎると3段ほどの小郭が階段状に連なるが、この写真はその小郭手前の堀切。
柳本賢治と細川高国
大永6年(1526)10月、管領に復帰した細川吉兆家当主・細川高国は、従弟の細川尹賢(ただかた)の讒言を信じ、香西元盛を殺害した。これは阿波を本拠とした細川澄元・晴元及びそれを支援していた三好元長らが政権の奪取を図っており、これに香西元盛が内通したという噂を尹賢が高国に伝えたためであった。
【写真左】さらに右の道から上がる。 左側に郭群が配置されている。
細川氏が不安定な継嗣となったのは、政元の代からといわれる。
修験道に凝ったり天狗の業に熱中し、「所詮京兆若衆好み」といわれ、男色だった。
当然実子がいなかったため、左図にもあるように無謀にも3人の養子をとった。これがのちの細川氏の内紛へと繋がる。
因みに彼ら三兄弟の父親は八上城であった波多野清秀で、彼はもともと石見国の吉見氏一族(黒谷横山城(島根県益田市柏原)参照)といわれ、18歳のとき上洛し細川勝元(船岡山城(京都府京都市北区紫野北舟岡町)参照)に仕えたとされている。
【写真左】切岸 小郭段を右手に見たもので、ここを直登。
史料によっては、手前までが第1郭群で、ここから先が当城の第2郭群としている。
元盛殺害をきっかけに、波多野元清・柳本賢治兄弟は高国と対立、京を離れ、本貫地丹波へ戻った。そして、この年(大永6年)11月、元清は八上城へ、賢治は当城・神尾山城にそれぞれ籠城した。これに対し、高国は尹賢をはじめとし、内藤・長塩・奈良・薬師寺・波々伯部(ははかべ)・荒木の諸氏に神尾山城へ向けて進発させた。
尹賢らは激しく神尾山城を攻め立てたが、賢治はこれをよく持ちこたえ、逆に敵の陣所に反撃を加えたりした。
【写真左】第2群の最大の郭 長径は30mほどだが、東西幅は20m前後あり、この郭の南端部には東に突き出した小郭が付随している。
またこの戦いでは丹波勢とは別に阿波からも援軍を差し向けている。それはのちの細川晴元となる細川六郎からも感状がこのとき発給されていることからもわかる。この戦いのあと柳本賢治ら丹波勢は阿波方と連合し京都進撃の体制を図ることになる。
この後の詳細な動きについては省略するが、享禄3年(1530)6月29日、柳本賢治は細川高国・浦上村宗(三石城(岡山県備前市三石)参照)らによって、播磨東条で暗殺される。
しかしその高国も翌4年6月4日、三好元長(岩倉城(徳島県美馬市脇町田上)参照)、赤松政村(鶴居城(兵庫県神崎郡市川町鶴居)参照)らによって天王寺で敗れ、4日後の8日、今度は村宗の裏切りに遭い高国は窮地に追い込まれ、大物(尼崎)の広徳寺で拘束され切腹した。
【写真左】第1群の郭 さきほどの郭を過ぎると、尾根幅が狭くなり、細長く北に延びていく。
明智光秀の丹波平定
柳本賢治、細川高国死去からおよそ40年後の天正7年(1579)、明智光秀は丹波・八上城を攻略、城主・波多野秀治・秀尚兄弟を捉え、信長の安土城へ送還した。同年6月8日、信長は二人を磔刑に処した。
光秀が信長から丹波攻略を命ぜられたのは天正3年(1575)といわれる。当時足利義昭が信長と対立し丹波には義昭に与する者が多くなっていた。丹波国では八上城主・波多野秀治が光秀に従っていたが、黒井城(兵庫県丹波市春日井春日町黒井)の赤井直正攻めを行うと、突然秀治は光秀を裏切った。この突然の出来事に光秀は奔走を余儀なくされた。その後光秀は信長の命を受け各地に転戦するが、過労で一旦治療を続ける。
【写真左】第1群の最高所に向かう。 このあたりから木立に遮られ、日差しが途切れる。
天正6年(1578)3月、赤井直正が病死すると再び丹波平定に向かった。その後も丹波勢との一進一退の戦いが繰り広げられたが、最終的には天正7年(1579)8月9日、黒井城攻略を以て丹波を平定している。おそらく神尾山城も金山城などと同じく、このころすでに光秀の拠城となっていたものと思われる。
【写真左】最高所の郭 主郭と思われる個所だが、木立に囲まれて明瞭でない。
【写真左】帯郭 最高所側の郭には西に小規模な竪堀、北東部には2段の小規模な帯郭などがある。
【写真左】大岩 東側に突き出した岩で、自然地形のものだが、切岸の役目をしている。
0 件のコメント:
コメントを投稿