宇陀・沢城(うだ・さわじょう)
●所在地 奈良県宇陀市榛原区沢
●築城期 正平年間(1346~70)
●築城者 沢氏
●城主 沢氏・高山飛騨守図書
●高さ 525m
●遺構 本丸・二の丸・三の丸・出の丸、土塁・堀切等
●廃城年 天正年間(1573~92)
●登城日 2012年4月17日
◆解説(参考文献「日本の歴史⑩ 戦国の群像」池上裕子著 集英社版」等)
宇陀沢城は、前月紹介した宇陀松山城から、北東方向へ直線距離で約4キロほど隔てた所に築かれた標高500m余りの城山に築かれている。
築城者沢氏は、秋山氏と同じく北畠氏の家臣で「宇陀の三将」の一人といわれた。
【写真左】宇陀沢城遠望
現地の説明板より
“ 沢城跡
伊那佐山から南東に延びる標高525mの山頂に造られた山城です。城山(しろやま)と呼ばれている山上には本丸、二の丸、三の丸、出の丸などの跡があり、平坦面、土塁や堀割りなどの遺構が残っています。また、ふもとの沢地区内には、下城(しもんじょう)と呼ばれる館跡(下城・馬場遺跡)もあります。
この城は、正平頃(1346~1370)に「宇陀三将」のひとりである沢氏の本城として造られ、天正頃(1573~1592)に廃城となったようです。永禄3年(1560)から永禄10年(1567)まで、高山飛騨守図書(ずしょ)が城主となり、高山右近も幼い頃、ここで過ごしたようです。
ポルトガル人の宣教師ルイス=フロイスの『日本史』にも記されたこの城は、当時の遺構を残す貴重な中世(室町時代)城郭の一つです。
榛原町教育委員会”
【写真左】文祢麻呂の墓
登城ルートは2,3あるようだが、今回は南東部から向かった。
途中には写真にある文祢麻呂の墓がある。
現地の説明板より
“史跡 文祢麻呂(ふみのねまろ)墓
(昭和59年4月5日 史跡指定)
文祢麻呂は、『日本書紀』、『続日本紀』にも登場する人物で、壬申の乱(672年)では、大海人(おおあま)皇子(のちの天武天皇)の軍で活躍した将軍の一人である。
天保2年(1831)に偶然、墓誌が入った銅箱、金銅壺などが発見され、金銅壺の中には、火葬骨が入ったガラス製の壺(骨蔵器)が納められていた。墓誌には、「壬申年将軍左衛士府督正四位上文祢麻呂忌寸慶雲4年歳次丁未9月21日卆」と刻まれ、ここが慶雲4年(707年)に亡くなった文祢麻呂の墳墓であることが明らかとなった。
【写真左】文祢麻呂出土品等
昭和57年(1982)、発掘調査を行ったところ、一辺約2.5mの土壙(穴)と、これを埋めた粘土などが見つかった。その結果、墓は、堅炭の上に銅箱、金銅壺などを置き、この周辺を木炭、砂質土で埋め、最後は粘土で全体を覆う構造であったことがわかった。
文祢麻呂墓は、代表的な古代の墳墓であり、当時の上級官人の埋葬方法が明らかとなった数少ない例として、大変貴重な遺跡である。
文化庁
宇陀市教育委員会”
沢氏
宇陀松山城・その1(奈良県宇陀市大字宇陀区春日・拾生・岩清水) でも述べたように、沢氏も秋山氏と同じく、南北朝期に南朝方として活躍した北畠氏とのかかわりからその活動が見えていくる。
沢氏の系譜については、一部ながら伊予守泰廉から戦国末期に至るまでのものが残る。
【写真左】沢城と伊那佐山との分岐点
文祢麻呂からしばらく行くと、沢城へ短距離で向かう案内標識がある。このコースは尾根伝いに登っていくコースで短距離であるが、全体を見たかったこともあり、南側の斜面をトラバースするコースをとった。
しばらく歩くと、ご覧の分岐点に出てくる。沢城へ向かうコースでもあるが、伊那佐山登山としての道でもある。
沢城は、ここから反対の左側にコースをとる。
ところで、当地宇陀には「宇陀の三将」の外に、もう一つの一族小川氏もいた。以前にも紹介したように、これら宇陀の諸族は天文元年(1532)に、組織横断的な決まり事を結んでいる。一揆盟約といわれるもので、盟約の中に掲げた掟(おきて)を順守し、争いが起きた場合はこの掟に基づいて処理を行うというもので、平和的解決を図るというものである。
盟約を結んだ場所というのが、当地にある国宝の宇太水分(うだのみくまり)神社(莵田野町古市場)で、この神前で行ったという。
しかし、実際にはこの一揆盟約も順守されず、度々争いが起きている。
【写真左】沢城要図
この図には左下に「米山城」という城砦も記されているが、時間の関係上、ここは登城せず、沢城のみの登城とした。
最初に「出の丸」というのが出てくるが、整備されているのはこの箇所のみで、本丸・二の丸・三の丸は全く整備されていない。
なお、この図は下方向が北を示す。
さて、沢氏は東隣の伊勢国と接していたこともあり、南北朝後期から室町初期にかけて当地支配が進んだ。当然ながら北畠氏による所領宛行がその背景にある。
高山右近
宇陀沢城の麓には、高山右近の石碑が祀られている。
【写真左】高山右近の碑
碑文
“有名なキリシタン大名であり、利休七哲の一人に数えられた高山右近が、永禄7年(1564)12才の頃、父ダリヨ飛騨守厨書の感化により「ジェスト」すなわち「正義」の教名をもって洗礼を受け、少年時代を過ごした大和沢城は、この碑の後方約1キロにそびえる沢山の頂にあったことが、当時西欧へ送られたイエズス会の宣教師たちの報告書により知られている。
城主たる右近の父は、まれに見る優雅にして慈悲深き名将といわれ、右近もまた正義のためには追害に屈せず身命を惜しまず、その生涯を堅忍不抜の精神をもって貫いた日本人の亀鑑と称し得よう。
右近は高槻、次いで明石の領主となり、慶長年間その堅信の故に、マニラに流され遂に彼の地で昇天するに至った。
ここに、高山右近とその父を讃え、郷土の異色ある文化史蹟として沢城址を顕彰する。
昭和45年春
榛原町 高山右近顕彰会”
●所在地 奈良県宇陀市榛原区沢
●築城期 正平年間(1346~70)
●築城者 沢氏
●城主 沢氏・高山飛騨守図書
●高さ 525m
●遺構 本丸・二の丸・三の丸・出の丸、土塁・堀切等
●廃城年 天正年間(1573~92)
●登城日 2012年4月17日
◆解説(参考文献「日本の歴史⑩ 戦国の群像」池上裕子著 集英社版」等)
宇陀沢城は、前月紹介した宇陀松山城から、北東方向へ直線距離で約4キロほど隔てた所に築かれた標高500m余りの城山に築かれている。
築城者沢氏は、秋山氏と同じく北畠氏の家臣で「宇陀の三将」の一人といわれた。
【写真左】宇陀沢城遠望
現地の説明板より
“ 沢城跡
伊那佐山から南東に延びる標高525mの山頂に造られた山城です。城山(しろやま)と呼ばれている山上には本丸、二の丸、三の丸、出の丸などの跡があり、平坦面、土塁や堀割りなどの遺構が残っています。また、ふもとの沢地区内には、下城(しもんじょう)と呼ばれる館跡(下城・馬場遺跡)もあります。
この城は、正平頃(1346~1370)に「宇陀三将」のひとりである沢氏の本城として造られ、天正頃(1573~1592)に廃城となったようです。永禄3年(1560)から永禄10年(1567)まで、高山飛騨守図書(ずしょ)が城主となり、高山右近も幼い頃、ここで過ごしたようです。
ポルトガル人の宣教師ルイス=フロイスの『日本史』にも記されたこの城は、当時の遺構を残す貴重な中世(室町時代)城郭の一つです。
榛原町教育委員会”
【写真左】文祢麻呂の墓
登城ルートは2,3あるようだが、今回は南東部から向かった。
途中には写真にある文祢麻呂の墓がある。
現地の説明板より
“史跡 文祢麻呂(ふみのねまろ)墓
(昭和59年4月5日 史跡指定)
文祢麻呂は、『日本書紀』、『続日本紀』にも登場する人物で、壬申の乱(672年)では、大海人(おおあま)皇子(のちの天武天皇)の軍で活躍した将軍の一人である。
天保2年(1831)に偶然、墓誌が入った銅箱、金銅壺などが発見され、金銅壺の中には、火葬骨が入ったガラス製の壺(骨蔵器)が納められていた。墓誌には、「壬申年将軍左衛士府督正四位上文祢麻呂忌寸慶雲4年歳次丁未9月21日卆」と刻まれ、ここが慶雲4年(707年)に亡くなった文祢麻呂の墳墓であることが明らかとなった。
【写真左】文祢麻呂出土品等
昭和57年(1982)、発掘調査を行ったところ、一辺約2.5mの土壙(穴)と、これを埋めた粘土などが見つかった。その結果、墓は、堅炭の上に銅箱、金銅壺などを置き、この周辺を木炭、砂質土で埋め、最後は粘土で全体を覆う構造であったことがわかった。
文祢麻呂墓は、代表的な古代の墳墓であり、当時の上級官人の埋葬方法が明らかとなった数少ない例として、大変貴重な遺跡である。
文化庁
宇陀市教育委員会”
沢氏
宇陀松山城・その1(奈良県宇陀市大字宇陀区春日・拾生・岩清水) でも述べたように、沢氏も秋山氏と同じく、南北朝期に南朝方として活躍した北畠氏とのかかわりからその活動が見えていくる。
沢氏の系譜については、一部ながら伊予守泰廉から戦国末期に至るまでのものが残る。
- 伊予守泰廉
- (檜牧)某
- 兵部大輔 方満
- 兵部大輔 親満(天文15年(1546)隠居)
- 源五郎(天文21年(1552)没)
- 兵部大輔 房満(天正9年(1581)までは生存確認)
【写真左】沢城と伊那佐山との分岐点
文祢麻呂からしばらく行くと、沢城へ短距離で向かう案内標識がある。このコースは尾根伝いに登っていくコースで短距離であるが、全体を見たかったこともあり、南側の斜面をトラバースするコースをとった。
しばらく歩くと、ご覧の分岐点に出てくる。沢城へ向かうコースでもあるが、伊那佐山登山としての道でもある。
沢城は、ここから反対の左側にコースをとる。
ところで、当地宇陀には「宇陀の三将」の外に、もう一つの一族小川氏もいた。以前にも紹介したように、これら宇陀の諸族は天文元年(1532)に、組織横断的な決まり事を結んでいる。一揆盟約といわれるもので、盟約の中に掲げた掟(おきて)を順守し、争いが起きた場合はこの掟に基づいて処理を行うというもので、平和的解決を図るというものである。
盟約を結んだ場所というのが、当地にある国宝の宇太水分(うだのみくまり)神社(莵田野町古市場)で、この神前で行ったという。
しかし、実際にはこの一揆盟約も順守されず、度々争いが起きている。
この図には左下に「米山城」という城砦も記されているが、時間の関係上、ここは登城せず、沢城のみの登城とした。
最初に「出の丸」というのが出てくるが、整備されているのはこの箇所のみで、本丸・二の丸・三の丸は全く整備されていない。
なお、この図は下方向が北を示す。
さて、沢氏は東隣の伊勢国と接していたこともあり、南北朝後期から室町初期にかけて当地支配が進んだ。当然ながら北畠氏による所領宛行がその背景にある。
- 飯高郡神戸六郷 松坂市
- 飯野郡西黒部 同上
- 同郡井口 同上
- 一志郡八知 美杉村
- 同郡河口 白山町
- 同郡小阿射賀三分一 松坂市
- 多気郡御糸 明和町
- 同郡前野 明和町
上記に掲げた場所は、それ以前はほとんど伊勢神宮領であったところである。当然ながら北畠氏による横領がその先駆けとなったと思われる。
【写真左】出の丸・その1
看板の位置から出の丸までは約4m前後の比高がある。
【写真左】出の丸・その2
出の丸は片側(右側)に土塁がめぐらし、中央部に平坦地が残る。
【写真左】出の丸・その3
要図でも示されているように、北から東側にかけては幅1m前後、高さ2m程度の土塁が囲んでいる。
【写真左】三の丸に向かう道
出の丸と本丸の間にある個所で、この位置から少し下がっていくと三の丸に繋がる。
ただ、ご覧の通り藪コギ状態のため、ここで断念し、左側の本丸に向かう。
【写真左】本丸・その1
全く手つかず状態のため、遺構は確認できない。
出の丸から本丸に向かう道も、登城した人によってさまざまな踏み跡があり、勘を頼りにとにかく進む。
【写真左】本丸・その2
本丸に至る手前に小規模な帯郭が取り巻き、その上に本丸があるが、ご覧の通りで見当がつかない。
なお、本丸と三の丸の間には、細長い二の丸が伸びているようだが、これ以上先には進めなかった。
出の丸と、本丸・二の丸・三の丸との維持状況がこれほど違うのはなぜだろうか。
看板の位置から出の丸までは約4m前後の比高がある。
【写真左】出の丸・その2
出の丸は片側(右側)に土塁がめぐらし、中央部に平坦地が残る。
【写真左】出の丸・その3
要図でも示されているように、北から東側にかけては幅1m前後、高さ2m程度の土塁が囲んでいる。
【写真左】三の丸に向かう道
出の丸と本丸の間にある個所で、この位置から少し下がっていくと三の丸に繋がる。
ただ、ご覧の通り藪コギ状態のため、ここで断念し、左側の本丸に向かう。
【写真左】本丸・その1
全く手つかず状態のため、遺構は確認できない。
出の丸から本丸に向かう道も、登城した人によってさまざまな踏み跡があり、勘を頼りにとにかく進む。
【写真左】本丸・その2
本丸に至る手前に小規模な帯郭が取り巻き、その上に本丸があるが、ご覧の通りで見当がつかない。
なお、本丸と三の丸の間には、細長い二の丸が伸びているようだが、これ以上先には進めなかった。
出の丸と、本丸・二の丸・三の丸との維持状況がこれほど違うのはなぜだろうか。
宇陀沢城の麓には、高山右近の石碑が祀られている。
【写真左】高山右近の碑
碑文
“有名なキリシタン大名であり、利休七哲の一人に数えられた高山右近が、永禄7年(1564)12才の頃、父ダリヨ飛騨守厨書の感化により「ジェスト」すなわち「正義」の教名をもって洗礼を受け、少年時代を過ごした大和沢城は、この碑の後方約1キロにそびえる沢山の頂にあったことが、当時西欧へ送られたイエズス会の宣教師たちの報告書により知られている。
城主たる右近の父は、まれに見る優雅にして慈悲深き名将といわれ、右近もまた正義のためには追害に屈せず身命を惜しまず、その生涯を堅忍不抜の精神をもって貫いた日本人の亀鑑と称し得よう。
右近は高槻、次いで明石の領主となり、慶長年間その堅信の故に、マニラに流され遂に彼の地で昇天するに至った。
ここに、高山右近とその父を讃え、郷土の異色ある文化史蹟として沢城址を顕彰する。
昭和45年春
榛原町 高山右近顕彰会”
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