又兵衛桜(またべいさくら)
●所在地 奈良県宇陀市大宇陀本郷
●別名 本郷の瀧桜
●樹齢 300年
●備考 後藤家屋敷跡(後藤又兵衛屋敷跡)
●規模 幹周3m、高さ13m
●探訪日 2012年4月17日
◆解説(参考文献「中世武士団」石井進著その他)
今稿は番外編として、宇陀市にある桜の名所として有名になった本郷の瀧桜、別名「又兵衛桜」を取り上げたい。
【写真左】又兵衛桜
後藤又兵衛基次
又兵衛とは、戦国末期から大坂の陣まで活躍した後藤又兵衛基次のことである。
彼の名が最も知られるようになったのは、敗戦直前の昭和19年から「朝日新聞」に連載された大仏次郎による『乞食大将』という小説がきっかけとなった。
この作品は、連載の終わった昭和20年(1945)、京都大映においてクランクインした。敗戦間もない時期に日本で映画製作が行われていたということは驚きだが、この作品に限らず他にもあるようだ。もっとも、時局がら、実際の配給はそれから7年後の昭和27年(1952)に封切りとなっている。
【写真左】又兵衛桜と宇陀松山城
このとき又兵衛役を演じたのは、市川右太衛門で、黒田長政役は月形龍之介、そして準主役としての宇都宮鎮房役は、当時チャンバラ映画専門役者として一世を風靡した羅門光三郎である。日本の時代劇映画黎明期といえよう。
その後、1964年には勝新太郎による又兵衛役の同名映画が製作されている。随分前から見たいと思っているが、残念ながら未だ二つの作品とも見る機会がない。
【写真左】又兵衛桜・その1
探訪したこの日は、多くの見物客が訪れていた。
満開時には臨時の有料駐車場が下流部に数か所設置され、そこから歩いていくが、又兵衛桜以外の他の桜も多くみられ、さながらこの谷全体が桜の名所でもあるようだ。
ところで1974年、歴史学者・石井進氏が小学館版「日本の歴史 第12巻」の中で、『中世武士団』を刊行、2011年には同タイトルで講談社が文庫本として発行しているが、同書の冒頭でこの『乞食大将』をとりあげている。
又兵衛の出自については諸説があり、はっきりしないが、播磨国別所氏の家臣小寺政職に仕えていた後藤新左衛門の次男とされている。
又兵衛の名が一般的に知られるようになるのは、天正14年(1586)の秀吉による九州征伐の頃からである。当初黒田孝高に仕え、その後仙石秀久に仕えた。長宗我部信親の墓・戸次河原合戦(大分県大分市中戸次) でも紹介したように、仙石秀久が無謀な戦をしたため、島津氏に大敗し、いったん讃岐国に戻っている。
その後、朝鮮出兵では武功を挙げ、関ヶ原の戦いでは東軍方に与し、九州黒田六端城の一つ、益富城(福岡県嘉麻市中益)の城主となった。
【写真左】本郷川砂溜工の図面
平成9~14年度にかけて、又兵衛桜の麓を流れる本郷川を中心に左図のような護岸工事が行われ、観光客のための施設が整えられている。
慶長9年(1604)黒田孝高(如水)が亡くなると、長子長政が跡を継ぐが、又兵衛は黒田家を出奔する。この理由とされているのが、冒頭で紹介した『乞食大将』に出てくる宇都宮鎮房(城井ノ上城(福岡県築上郡築上町大字寒田)参照)との関りである。
長政が宇都宮氏を落とす際、又兵衛にとっては承服しがたい長政の謀略計画があった。一本気な又兵衛としては、正々堂々と対決し雌雄を決するのが武士の務めであると考えていた。しかし、結果として宇都宮鎮房は、長政の計画にはまり、又兵衛は止む無く鎮房を打果した。
その後、又兵衛はこれ以上黒田家に留まることを潔しとせず、「最早、手前は御用のない者で御座れば…」といって、16,000石を捨て、流浪の旅に出ることになる。黒田家出奔後、一時的に他の大名に仕えるが、度々長政の干渉などがあり、慶長16年(1611)ごろには京都で浪人生活を送る。
【写真左】又兵衛桜・その2
又兵衛桜は棚田状の先端部に植えられているが、石垣が積まれ、平坦部が屋敷跡であったことが分かる。
それから3年後の慶長19年(1614)、大坂の陣が勃発すると、自主的に豊臣方の一員として活躍、夏の陣で討死した。
従って、大和の大宇陀本郷にあるこの「又兵衛桜」の地は、前記したように京都で浪人生活を始めてから、大阪の陣に赴くまでの3年の間に、彼が住まいをしていた場所と考えられる。
【写真左】又兵衛桜・その3
川岸のテラス護岸と周囲の桃の花とのコントラスも見事なものである。
【写真左】又兵衛桜・その4
【写真左】又兵衛桜・その5
【写真左】又兵衛桜・その6
◎関連投稿
南山田城(兵庫県姫路市山田町南山田)
●所在地 奈良県宇陀市大宇陀本郷
●別名 本郷の瀧桜
●樹齢 300年
●備考 後藤家屋敷跡(後藤又兵衛屋敷跡)
●規模 幹周3m、高さ13m
●探訪日 2012年4月17日
◆解説(参考文献「中世武士団」石井進著その他)
今稿は番外編として、宇陀市にある桜の名所として有名になった本郷の瀧桜、別名「又兵衛桜」を取り上げたい。
後藤又兵衛基次
又兵衛とは、戦国末期から大坂の陣まで活躍した後藤又兵衛基次のことである。
彼の名が最も知られるようになったのは、敗戦直前の昭和19年から「朝日新聞」に連載された大仏次郎による『乞食大将』という小説がきっかけとなった。
この作品は、連載の終わった昭和20年(1945)、京都大映においてクランクインした。敗戦間もない時期に日本で映画製作が行われていたということは驚きだが、この作品に限らず他にもあるようだ。もっとも、時局がら、実際の配給はそれから7年後の昭和27年(1952)に封切りとなっている。
【写真左】又兵衛桜と宇陀松山城
このとき又兵衛役を演じたのは、市川右太衛門で、黒田長政役は月形龍之介、そして準主役としての宇都宮鎮房役は、当時チャンバラ映画専門役者として一世を風靡した羅門光三郎である。日本の時代劇映画黎明期といえよう。
その後、1964年には勝新太郎による又兵衛役の同名映画が製作されている。随分前から見たいと思っているが、残念ながら未だ二つの作品とも見る機会がない。
【写真左】又兵衛桜・その1
探訪したこの日は、多くの見物客が訪れていた。
満開時には臨時の有料駐車場が下流部に数か所設置され、そこから歩いていくが、又兵衛桜以外の他の桜も多くみられ、さながらこの谷全体が桜の名所でもあるようだ。
ところで1974年、歴史学者・石井進氏が小学館版「日本の歴史 第12巻」の中で、『中世武士団』を刊行、2011年には同タイトルで講談社が文庫本として発行しているが、同書の冒頭でこの『乞食大将』をとりあげている。
又兵衛の出自については諸説があり、はっきりしないが、播磨国別所氏の家臣小寺政職に仕えていた後藤新左衛門の次男とされている。
又兵衛の名が一般的に知られるようになるのは、天正14年(1586)の秀吉による九州征伐の頃からである。当初黒田孝高に仕え、その後仙石秀久に仕えた。長宗我部信親の墓・戸次河原合戦(大分県大分市中戸次) でも紹介したように、仙石秀久が無謀な戦をしたため、島津氏に大敗し、いったん讃岐国に戻っている。
その後、朝鮮出兵では武功を挙げ、関ヶ原の戦いでは東軍方に与し、九州黒田六端城の一つ、益富城(福岡県嘉麻市中益)の城主となった。
【写真左】本郷川砂溜工の図面
平成9~14年度にかけて、又兵衛桜の麓を流れる本郷川を中心に左図のような護岸工事が行われ、観光客のための施設が整えられている。
慶長9年(1604)黒田孝高(如水)が亡くなると、長子長政が跡を継ぐが、又兵衛は黒田家を出奔する。この理由とされているのが、冒頭で紹介した『乞食大将』に出てくる宇都宮鎮房(城井ノ上城(福岡県築上郡築上町大字寒田)参照)との関りである。
長政が宇都宮氏を落とす際、又兵衛にとっては承服しがたい長政の謀略計画があった。一本気な又兵衛としては、正々堂々と対決し雌雄を決するのが武士の務めであると考えていた。しかし、結果として宇都宮鎮房は、長政の計画にはまり、又兵衛は止む無く鎮房を打果した。
その後、又兵衛はこれ以上黒田家に留まることを潔しとせず、「最早、手前は御用のない者で御座れば…」といって、16,000石を捨て、流浪の旅に出ることになる。黒田家出奔後、一時的に他の大名に仕えるが、度々長政の干渉などがあり、慶長16年(1611)ごろには京都で浪人生活を送る。
【写真左】又兵衛桜・その2
又兵衛桜は棚田状の先端部に植えられているが、石垣が積まれ、平坦部が屋敷跡であったことが分かる。
それから3年後の慶長19年(1614)、大坂の陣が勃発すると、自主的に豊臣方の一員として活躍、夏の陣で討死した。
従って、大和の大宇陀本郷にあるこの「又兵衛桜」の地は、前記したように京都で浪人生活を始めてから、大阪の陣に赴くまでの3年の間に、彼が住まいをしていた場所と考えられる。
【写真左】又兵衛桜・その3
川岸のテラス護岸と周囲の桃の花とのコントラスも見事なものである。
【写真左】又兵衛桜・その5
【写真左】又兵衛桜・その6
◎関連投稿
南山田城(兵庫県姫路市山田町南山田)
0 件のコメント:
コメントを投稿