2009年2月26日木曜日

葛西氏・城平山城(その2)

城の形状

 今回の登城で現地を確認した限りでは、雰囲気が播磨の感状山城のようなつくりで、さほど石垣を駆使した形跡がなく、かぎりなく自然の形状を要害化したような造りである。
 南西の位置にある城平山が本丸で、北にある郭頂部はそれを補完するような感じだが、二の丸的な役目もあったかもしれない。空から見るとL字を左右反対にしたレイアウトになるが、敵の来襲を北西に見定めているような配置である。

光明寺との関係

 繰り返すが、城下の光明寺は地元では相当有名だが、残念ながら、これまで何度も寺が焼失にあっているため、寺の具体的な史料がないようだ。このため、寺の上に聳えている城平山城とのかかわりも記録にない。

 しかし、当城と光明寺の位置関係を考えると、寺は城の真下になり、直線距離では南西の本丸と思われるところから300メートル程度しか離れていない。

 光明寺の創建時期がおそらく城よりも大分古いと思われるので、城ができていた時は当然この寺が存在していたことになる。どのような関わりがあったのかは不明だが、相互の関連性は十分に想像できる。

【写真上】城平山城の郭付近


【写真左】斐伊川南岸の上之郷城麓(上島町)から見た城平山城遠望
 この角度から見ると、富士山の小型版にも見える。
【写真左】城平山城の麓・中腹にある「光明寺の朝鮮鐘」
 この鐘は、西日本でも数少ないもので、朝鮮から持ち込まれたものという。30年ぐらい前に、作家の司馬遼太郎がこの寺院を訪れ、「街道をゆく」シリーズで取り上げている。


追加資料
 2008年6月8日(日曜日)に、斐伊川を挟んで南にある出雲市上島町の上之郷城を訪れた際、帰りに延命寺に立ち寄った。
【写真左】延命寺門前
 本堂や境内が想像以上に小規模だった。すぐ東に大きな寺があったので、そちらが延命寺かと思ったが、全く別の寺だった(確か全昌寺とかいう名前だったと思う)。
【写真左】境内にあった縁起
 これを読むと、開山は正中元年(1324)とあることから、正中の変が起きた年である。即ち、9月、京都の六波羅探題が後醍醐天皇の討幕計画を察知して、関係者を処罰する正中の変が起こる。


 また、「当山は阿宮城(葛西城主?□□)の祈願所として、又、松江城主・松平直政公の命により…」とある。

 この寺について、「島根の寺院第2巻」によると次の通り。

花高山 延命寺
 縁起 当寺は斐川町阿宮にあり、真言宗総本山醍醐寺(京都市伏見区)に属す三宝院末の古刹である。


 開創年月は定かでないが、正中元年(1324)造営の棟札があり、金光山長福寺と号し、本尊薬師如来(脇侍に阿弥陀如来、観音大師)を安置する。

 中興の祖快弁法印が祐教坊と称し、正中元年に盛んに真言修験の法灯を広めたので、やがて仏陀感応の勝区となった。同5年には仁王護国般若の秘法を修し、爾来天長地久福徳円満の咒(じゅ)願(がん)を怠らなかった。

 応安7年(1374)中興二代・快完和尚の代、出雲郡阿宮城主(別名葛西城、又は城平山城)・葛西多門は、当寺を祈願所と定めひたすら戦勝を祈り、陣貝(ホラ貝)一具を寄進したと伝えられている(現物あり)。

 長享年間(1487)、当山八世・快猛和尚代、葛西兵部兼冬もまた深く帰心し、太刀一口(家次作)を寄進した(この太刀は昭和20年、戦時に際し刀剣所持の法に触れ、惜しくも国に供出した)。
 永禄年中(1558)第11世・快宝代葛西兼繁(兼冬の子)鏡一面を寄進した。

 元亀年間、葛西城落城に伴い、当山も一時衰運に傾いていたが、松平直政松江就封入国の寛永年中、当山を出雲郡の鎮護道場と定め、寺領二石二斗が付され、郡内各戸に祈祷札を配った。(以下省略)
 
◆上記の中に、戦国時代すなわち、元亀年間に落城云々とある。元亀年間といえば、すぐ北の米原氏居城・高瀬城が、1571年3月に毛利方(吉川元春)によって落城している。

 となると、そのころは尼子方に与していたことになる。陰徳太平記・雲陽軍実記などには「葛西氏」の名が全く見えないが、戦力的には小規模なものだったかもしれない。

◎関連投稿
霧山城・その3 伊勢北畠氏と出雲葛西氏(三重県津市美杉町下多気字上村)

葛西氏・城平山城(島根県斐川町上阿宮)その1

城平山城(じょうへいざんじょう)

●所在地 島根県出雲市斐川町上阿宮
●別名 葛西城(かさいじょう)
●築城期 南北朝期
●築城者 葛西氏
●高さ 316m
●遺構 郭、堀切等
【写真左】城平山城遠望
 南東部・雲南市加茂町の「高麻城」麓から見たもの











【写真左】城平山城
 同じく南東山麓斐伊川支流の赤川南堤防からみた写真の左側高い方が本丸跡で、北の方は二の丸跡。中腹に白いものが見えるのは、「光明寺」。
【写真左】光明寺山門















【写真左】城平山城登山口に安置されている五輪塔












【写真左】光明寺境内

 葛西氏は18代続いたとあるが、この墓の数は12,3基しか見えなかった。

 ちなみに、この写真の右上を登っていくが、道らしい状態でなく、しかも地盤の緩い地層で、傾斜はきつく相当苦労する。当時はこの道ではなく、東側にあったらしいが、現在はジャングル状態で侵入はできない。





【写真左】北側の郭から、北部にある米原氏居城・高瀬城を見る。









【写真左】郭


























【写真左】切崖














 この山城と葛西氏については不明な点が多く、史料としては昭和62年に発行された地元郷土史家・池田敏雄氏の著書「出雲の現郷『斐川の地名散歩』」に少し紹介してあるので以下に記す。


城平山(じょうひらやま)は葛西氏(かっさいし)の山城 より

 上阿宮の阿(あ)吾(ぐ)神社の上方に目を向けると、ひときわ高い台形の山が見えます。これが316メートルある「城平(じょうひらやま)」です。

 この山はその昔、葛西氏が山城(古い時代の城で天守閣がない)を築いたところであり、山の上が平らであることから、城平山とよばれるようになったといわれています。

 山上には長さ160メートル、幅約7mにおよぶ広場があり、そこには馬場という馬術の訓練をした跡が残っていて、つわものどのも夢のあとをしのばせてくれます。
 もと兵馬が登る道は東方の別所谷にあったそうですが、今は訪れる人もなく、草木によって閉ざされたままになっています。

 ふもとからこの山を見上げるとキリッとした姿で、その昔、敵を防ぎ、味方を守るのに最も相応しい山城であったにちがいありません。
 では、この城がいつごろ、誰によって築かれたか、ということですが、確かな記録が残されていませんので分りかねます。しかし、次に述べることがらによって、推定することができそうです。

 現在、この城の城主の末流といわれている葛西家(屋号:榎(えのき))があります。その家の系図や言い伝えによると、城を築いた人は、カッサイタケツネ(葛西武常)だといわれています。
 武常は、下総(千葉県)の国の葛西庄を治めていた人で、桓武天皇(782~823年)の子孫で平氏を名乗っていたそうですが、この阿宮の地に来て、それまでに治めていたところの地名をとって葛西氏を名乗ったそうです。

 この山の東方のすぐ下にあたる地には光明寺(加茂町大竹)があります。その寺の記録には、康安元年(1361年)、足利氏の家臣である葛西ヒゼンノカミタモン(肥前守多門)が、祈願所としてこの寺の造営にあたったことが記されています。また、このお寺には、武常から正富(まさとみ)までの18代にわたる墓が残っています。

 下阿宮の延命寺には、興安年間、肥前守の祈願所であったことの記録や、応安年間(1368~1374年)に肥前守が法螺貝(ほらがい)を寄贈したことが伝えられ、現存しています。

 以上のようなことから、城平山は南北朝時代(1331~1392年)のころには武常によって山城が築かれていた、それからあとは葛西氏代々の居城となっていた、ということになります。


葛西城余話
 昔からの言い伝えによると、葛西城はあまり険しいために、水の出るところがなくて大変困った、ということです。いつのころまでか、山上から少し降りたところに大きな井戸のあとがいくつかあった、ということですが、今はそのあとかたもありません。

 戦のないときは、すぐ下にある光明寺が食事のための煮炊きをする場所として使われていた、と伝えられていますが、代々の城主の舘はどこにあったか、多数の家来の住み家のありかは、など記録も言い伝えもありませんのでそれを知るすべがありません。

 そしてまた、残念なことには18代も続いたと思われる葛西城の代々の城主が、武将としてどのような活躍をしたかも記録されたものがなくてわからないことです。
 そこで、その末流といわれている葛西家をおたずねすることにしました。

 当家に伝わる先祖からの系統を書き記した系図を見ますと、南北朝時代は、足利氏や北畠氏に属しています。永享年間(1429~1440年)から戦国時代の末頃(1570年頃)の間は、阿宮の葛西城(城平山)主として居たことは記してありますが、その活躍と代々の城主名が記されてありません。
 おそらく戦国混乱の中であったことと、落城のために記録されなかったと思われます。

 落城後の葛西氏(兼正)は、かつて属していた伊勢国の北畠家を頼って家臣となりますが、五代後の兼延の時(江戸時代の初め頃)一族とともに幾代かの祖先が居た葛西城のふもとに帰ってきて、武士を捨てて百姓となり、代々の祖先の墓をつくった、と系図にあります。
 今、光明寺にある多くの五輪の墓はそれに当たると思われます。

 なお、当家には、系図の他に戦国時代に毛利輝元(元就の孫)から、よく戦ったと褒められた書状が残っています。お話しを伺うところによると、先々代ごろまでは、「かぶと、よろい」「刀、やり」「馬具」など、戦国時代のものが多く残っていたそうですが、故あって手放されてしまい、今はないそうです。"

◎築城主・葛西氏のこと
 以上が池田氏が調べた内容だが、これによると築城期が、南北朝時代(1331~1392)には築かれていた、ということになる。さらに上って、葛西武常が築いたとある。

 ただ葛西武常は、もともと下総葛飾郡葛西庄(今の千葉県と東京都の境付近)で、この当時は豊島氏を名乗っており、しかも武常の孫康家からその子・清光と移り、その子・清重が初めて葛西姓(葛西三郎)を名乗り、葛西氏の初代となっている。

 この清重は、源頼朝が石橋山合戦に敗れ、安房へ逃れた際、はじめて頼朝の家臣として活躍する。その後、清重は奥州国在住の御家人(奥州総奉行)や、検非違使などに任命されるなどおもに東国での活躍が記録されている。
 総じて、葛西氏は関東葛西氏と奥州葛西氏の二派に分かれていくことになる。こうしたことから、豊島氏を名乗っていた葛西武常が、なんの縁もない出雲の国へやってきたという説は、かなりの無理がある

◆前段で示した南北朝時代、何らかの理由で葛西氏の一族がこの出雲の地に来たということのほうが真実だろう。そこで考えられるのは、清重の子供達の動きである。

 清重にはかなりの子供が居たらしく、嫡男・清親は、関東地区を領有し、二男・朝清は奥州を引き継ぐ。このうち関東所領の清親は、そのあと清時・清経と続くが、鎌倉幕府も中期頃には執権・北条氏の力が強くなり、頼朝時代の御家人と北条氏側の家臣団との軋轢がだんだんと強くなっていく。

 そうした流れの中で、北条氏側と相いれなくなった家臣・一族が鎌倉を離れていった。その一族の中にこの関東葛西氏がいたらしく、出雲との接点はともかく、移住先にこの出雲の地を選んだのではないか、という説である。

◆もう一つの説として考えられるのは、少し時代が下って、後醍醐天皇が建武の新政をおこなったとき,奥州多賀国府に義良親王を奉じて北畠顕家が入ってくる。

 このとき奥州葛西氏はいち早く、国府に行き所領の安堵を得る。その後、「中先代の乱」の際、北畠顕家は奥州勢(葛西氏も従軍)を率いて西征の途につく。このときよく知られるように、足利尊氏は乱を鎮圧したのちも鎌倉から動かず、のちに後醍醐天皇に反旗をひるがえす。

 これにより顕家にも尊氏追討の命が下り、葛西清貞も高清もこれに加わっている。この段階で、葛西氏は京まで攻めのぼる。尊氏は九州へいったん逃れる。ただ、このころから葛西氏(高清)は南朝から北朝(尊氏派)に気持ちが移っていたようで、最終的には室町幕府が開かれるころには、足利氏についていたようである。

◆葛西氏の戦歴が華々しいものでなかったことと、戦国時代が終わってから、城平山城主・葛西兼正がいったん「かつて属していた伊勢国・北畠家を頼って家臣となるが、5代後の兼延の時、再び一族ともに出雲・城平山城の麓(阿宮地区)に戻ってきた」という記録があるため、もともとこの城平山城主・葛西氏も尊氏を九州へ追いやった際、出雲での見張り役を兼ねた一族だったかもしれない。

姉山城・朝山氏(島根県出雲市朝山)

姉山城跡 (あねやまじょうあと )

●登城日 2009年2月25日(水)午後、曇り
●所在地 出雲市 朝山町 上朝山
●時代 中世  遺跡種別 城館跡  遺跡の現状 山林  土地保有 民有地 
●指定 出雲市指定史跡
●標高 183 m
●遺構  郭 土塁
(参考:島根県遺跡データーベースより)

解説
 現地の説明板より

“姉山城と朝山氏
 姉山城主・朝山氏は、「朝山系図」によると、検非違使として、朝山郷に下向した大伴政持を祖としている。因みに政持が没したのは、嘉祥2年(849)2月7日である。
 地頭職であった朝山氏は、建久3年(1192)征夷大将軍・源頼朝が、出雲八幡宮八社を新造したとき、朝山郷一社の祠官兼帯を命じられている。



【写真上】数年前から行われている山陰自動車道の工事現場の脇に立つ「史跡姉山城」の木柱案内板
 この場所に建っているため、この付近が登城口だと勘違いして周辺をうろうろした。登城口はこの反対側にある西の園芸農場付近にある。








 当時の朝山八幡宮の社地がどこにあったかは不詳であるが、白枝町には元宮があったとして「朝山八幡宮旧蹟地」の石碑がある。

 「千家文書」によれば、朝山氏は、宝治2年(1248)出雲大社遷宮儀式次第に、国司から奉進された3頭の御神馬のうち、第一の馬を目代と並んで取る地位にあったことが記されている。


 文永8年の頃(1271)の朝山氏の所領は、神門郡から楯縫郡の西郷、東郷、御津荘におよび、167町5反を占め、守護識・佐々木塩冶氏に次ぐ大きな領地であった。

 姉山城は、これより(この場所より)約800メートル、標高182メートルの地にある。“


朝山氏

 朝山氏に関するその後の記録としては、以前塩冶高貞の稿でも触れたように、『太平記』によると、船上山合戦の直後、出雲国守護・塩冶高貞・富士名判官(雅清)をはじめ、浅山(朝山)二郎・金持一族・大山衆徒など、出雲・伯耆・因幡3国の武士がことごとく船上山に馳せ参じたという。

 また、石見からは沢(佐波)・三隅の一族、その他安芸・美作・備中・備前などの各地からも多数の武士が参上した、という記録が残っている。

 その後、南北朝期にはいると、杵築大社関係の社家奉行の記録(大社町史)では、「かつての社家奉行朝山・多禰両氏が相次いで社家奉行の地位を失い、ここに鎌倉期以来の伝統を誇る「国衙在庁官人」の社家奉行が姿を消したことである。

 朝山氏に関しては、正長2年(1429)9月日の朝山肥前守清綱申状(鈴鹿太郎氏所蔵文書)の中で、

 「朝山郷は朝山氏重代相伝の本領として、応永元年(1394)まで知行してきたが、召し放たれて幕府御料所になった、と述べられており、朝山氏はこれ以後、室町幕府将軍直属の奉公衆として、おもに京都に拠点を置いて活躍することとなった」

とある。

 本丸跡の説明板では、戦国期の朝山氏の動きは以下の通りとなっている。

“朝山氏は、主家・尼子氏のため、毛利氏と争うものの、永禄9年(1566)尼子富田本城落城により、毛利氏派遣の代官・大伴惟元によって、支配をうけることとなり、これより朝山氏は、朝山八幡宮の祠官専務となった。”
【写真左】登城口付近に立っている説明板と案内板のうち、案内板
 この図では、上が南方向、下が北方向になる。山陰道のトンネルはこの姉山城の真下をくりぬいて貫通している。

 このため、車は、184号線の東側にある、JA支店の駐車場に停めたが、慎重運転なら図にある寺田橋を通って、もちだ園芸農場の空き地に停めることができた。

 しかし、徒歩で姉山トンネルやその周辺を歩くのもハイキング気分で悪くない。ただ、工事車両が結構通るので気をつけないといけない。

【写真左】姉山トンネル
 寺田橋から少し歩くとこのトンネルに出くわす。

 入口と出口付近はコンクリートだが、中の方は耶馬渓並の「洞門」状態である。車の場合は、すれ違いができないので、どちらかが待機することになる。
【写真左】姉山トンネルと登城口までの中間地点から見た姉山城遠望
 位置的には当城の北西山麓付近になるが、本丸は左側の山になる。
【写真左】登城口付近
 結局、先月にもこの付近を通った際、地元のおばさんに教えてもらった「登城口が北側にある」というのは、だいぶ違っていて、完全な西側の端になる。










【写真左】姉山城の石碑
 左の石碑の裏に、平成16年建立とあるので、右の説明板もおそらく同じころ建てられたものだろう。

 なお、この右に山陰自動車城の姉山トンネルの出口があり、工事の真っ最中だった。
【写真左】登城口から本丸下近くまで続く木製の階段による登城道
 姉山山麓のやや北西部に谷があり、その谷を利用して登っていく道ができている。勾配はけっこうあるが、こうした木製の階段が設置してあるおかげで登りやすい。

 ただ、今冬の積雪でところどころ枝木が折れたまま道をふさいでいた。また、ほとんど日差しが入らず、風も吹かない場所なので、真夏に登城するのは避けた方がよさそうだ。

【写真左】途上途中に見つけた井戸跡らしきもの
 写真では分かりづらいが、直径3m前後のくぼみが確認できた。なお、井戸跡らしき箇所はこの他にもう少し上に行ったところにも見えた。

 全体に岩の塊のような山だが、以外と保水力がありそうな感じで、相当数の杉の植林がしてある。

【写真左】登り始めて最初に見えた尾根の合流点
 このあたりになると平坦地がかなり見えてくる。

 なんとなく館らしき建物が建っていたのではないかと思わせるような雰囲気がある。









【写真左】姉山城本丸へ200メートル地点 登り始め地点が南西位置で、この付近まで北東方向にほぼ直線のコース、この写真の地点で左にほぼ直角に曲がって、尾根伝いになる。

 この付近から人工的な地形(郭など)が見え始める。
 なお、右の方向はほとんど切崖状態である。




【写真左】途中で西北方向の視界が開ける位置から見た出雲市内
 左に白い屋根が見えるのは、出雲ドーム。前に見える川は、神戸川で、左が大社方面。

中央の丘陵上に見える左側が、塩冶氏の「半分城」で、奥に見える山が北山山系。



【写真右】本丸跡に設置された略図
 図にあるように、本丸主郭の大きさは、長径25m、短径12mの長円形状で、北東に廓4か所、南東に廓2か所、西に廓1と堀切りがある。

【写真左】本丸下にある東側の帯曲輪から見た本丸方向    
 段数は3段から4段程度あるが、遺構の保存度は良好である。

【写真左】本丸から東郭を見る
【写真右】本丸
 南西方向から見たもの。地面はきれいに管理されてあり、ベンチが一つと、説明板が設置されている。
【写真左】本丸跡から南の稗原方面を見る
 この位置からは稗原の「戸倉城」は見えない。


【写真左】姉山城遠望
 姉山城の南側に朝山神社がある。佐田方面に行く道の途中から左に別れた上り道があり、車で本殿付近まで行ける。

 神社付近は公園となっており、運動場のような設備もある。この神社の北の奥に展望台があり、出雲市の北側ほぼ180度の眺望が満喫できる。

 この展望台から姉山城を見たのが左の写真である。位置的には南西方向から見る角度になるが、写真では右側の高いところが、本丸跡になる。

 右の下の方に、山陰道の一部が見える。この道は完全に姉山城の真下を貫通していることになる。

【写真左】姉山城本丸近影
 ちょうど写真左から尾根伝いに歩いて、右の本丸まで行ったことになる。

【写真左】姉山城の西側付近
 山陰道の姉山トンネル西口付近から神戸川の橋がかけられ、再びトンネルになっている。山陰道の西端は、今のところこの先の知井宮ICまでの工事となっている。

 いずれは石見方面(江津道路)までつなげる計画だが、こういう時代なのでいつになるのかわからない。山城探訪者としては、できるだけ早くつけてもらいたいものだが…。

2009年2月17日火曜日

上郷氏・上之郷城(島根県出雲市上島町上之郷)

上郷氏・上之郷城(かんのごじょう)
















別名 鬼ヶ城、城ヶ谷城

◆登城日 2008年6月8日
◆所在地 出雲市 上島町 上之郷
◆時代 中世 明徳年間(1390~1394)
◆遺跡種別 城館跡 
◆築城主
 上郷三河守通清(みかわのかみみちきよ)(法名・道円)

 室町時代塩冶守護家の直領であったころ、明徳記にみえる塩冶判官高貞の一族で、上郷入道といわれる。
◆遺跡の現状 山林
◆土地保有 民有地 
◆指定 未指定
◆標高 117 m
◆備考 遺構一部破損
【写真上】上之郷城遠景

【写真左】上之郷城縄張り図














 城郭の規模としては小ぶりだが、主郭・1郭・3郭、堀切など遺構の保存状態がよい。左図の右側が北の方向で、上の方向は西を指す。
 東3郭と示された部分には、神西城のような照明設備が設置され、時節(夏季?)には点灯されるようだ。

 登城道はこの図でいえば、下の主郭から右(北)に向かって登るようになっており、最初は東3郭へたどりつく。そのあと東1郭⇒主郭となっているが、このあたりからは
ほとんど手入れされていないので、藪こぎを覚悟して主郭へ分け入る。

 この日はあまり時間もなかったので、主郭のやや南東部に祀られていた小さな祠を確認(写真参照)し、そのあと西(図では上)の方向へ降りたが、堀切りの保存度がよく、かなりの切崖・要害性がある。

 図でもわかるように、縄張の形状としては西の方向に並列して郭・壇を設けていることから、敵の襲来を西に想定していると思われる。
 東側には堀切のようなものを設けていないが、これは登城途中に認められた「屋敷跡」らしきものがあったため、このエリアは与方として担保されていたのかもしれない。

【写真左】登城口付近












 城下である上島町は、私の記憶が間違いでなければ、以前「上津(かみつ)」と言っていたところで、江戸期に盛んに使われた斐伊川水運の湊としても栄えたところである(他の湊としては、船津、大津や斐伊川と三刀屋川が合流する木次・三刀屋の湊などがある)。

 前回で取り上げた稗原の戸倉城から東へ行ったところで、一説には古志氏の関係した城とも言われている。

 特にこのあたりは、今は北に向かって斐伊川土手まで広い田んぼができているが、当時は上之郷城麓までが斐伊川の川幅で、中央部に中州ができていた。ちなみに当時の斐伊川中流の川幅では、この地点が最も広く、北岸の斐川町・阿宮の岸辺まで約800m近くあり、多くの船が停泊していた。
















 したがって、中世のころからすでにこの地域のおもな交通手段は川船で、江戸期初期(1630年代ごろ)までは、現在の斐伊川の河口は、現在の宍道湖でなく、当時「神門水海」といわれた「神西湖」に神戸川と同じく流れ込み、入江状の神門水海はそのまま日本海へつながっていた。

 そうした状況からも、この上之郷城の役割は、戦国期といえども単に戦のための要害施設を超えた、出雲部のいわば経済・交通の中枢的基地施設の役割をも担っていたと思われる。

  【写真上】上之郷城・東3郭から北東方向の斐伊川を見る
 写真中央部に見える富士山のような山は、斐川町にある葛西氏の居城・城平山城。
【写真左】登城途中の道
 傾斜はさほどきつくない。

 なお、この写真の右下に侍屋敷らしき平坦地が何段か認められる。現状は孟宗竹がぎっしりと生えているが…



解説 ①(現地登山途中案内より)

上之郷城跡などのご案内

上之郷城跡
 城跡は、上之郷神社の南方に続く馬蹄形の尾根上に所在し、廓
10、堀切3、土塁2、井戸1などの跡が残っている。

 眺望がよく、眼下に斐伊川が手に取るように見える。

 明徳年間(1390~1394)ころより元亀年間(1570~1573)ころまで、塩冶氏系の城主がいたと思われるが、塩冶の本城との関係は分からない。

 その後、尼子氏、続いて毛利氏の配下となり、毛利36城の一つになったといわれる。

吊井出(つりいで) 上之郷城の飲料水は、三田谷奥の滝を水源地として、廓まで約800mを吊井出を利用して確保した。
 現在、その遺構の一部を知ることができるが、城の北面にある井戸との関係は明らかでない。

馬頭観音像(ばとうかんのんぞう) ここの下のほうに、地元民によって供養されている馬頭観音像がある。安政5年(1858)4月建立とある。
 これは、上之郷城軍と毛利軍との戦いのおり、吊井出の飲料水を毛利軍によって断たれた上之郷城軍が、難渋を悟られまいとして、水に見せかけた白米で馬を洗ったという伝えに因んで建てられたものという。

大首(おおくび) 上ゲ町内の屋号「大首」付近は、上之郷城の一部として防衛上の重要拠点を形成していたため、その拠点を意味するこの名が屋号として残っていると考えられている。“


“「上之郷城」略記 上之郷城の歴史は定かでないが、初代の城主は、室町時代塩冶守護家の直領であったころ、徳記にみえる塩冶判官高貞の一族で、上郷入道といわれる上郷三河守通清(法名・道円)とみられる

 後世の城主としては、上郷兵庫助、上郷法師丸などの名が散見される。

  上之郷城は、標高117mの地にあった中世の城郭で、今は、馬蹄形の尾根上に郭10、堀切3、土塁2、井戸1、などの跡が残っている。

 鬼ヶ城とも呼ばれた上之郷城は、古志城、十蔵(とくら)城(戸倉城)、神西城等とともに、かなりの威力を持つ尼子方の一城として、戦略上の重要拠点をなしていたと考えられる。

 城は明徳年間(1390~1394)のころに構えられ、上郷入道のころから約100年後、出雲国守護となった尼子氏の支配下に入る。

 やがて永禄年間(1558~1570)及び元亀年間(1570~1573)に毛利氏が次第に尼子氏をしのぎ、上之郷城もその支配下にはいった。運陽大数誌によると、上之郷城はその後、毛利36城の一つとして、知行高三千石などという記録が見える。
②3の郭説明板より

【写真左】三田谷古戦場跡
(説明板より)
“このあたり一帯は、上之郷城尼子軍と毛利軍が激戦を交わした古戦場跡と伝えられており、何か兵どもの雄叫びが聞こえそうである。
 城跡に登るには、谷川沿いに道幅はやや狭いが、普通車の通行は可能な登山道があり、ここから約1㎞先の駐車場には、車が4台程度停められる





 (※「普通車」とのことだが、とても狭く、奥まで民家があり、対向車が来たらすれ違いは無理で、下手をすると東側の川に落ちてしまいます。安全のため、下の方にある集会所・公園のある空き地に停めて、そこから歩いた方が無難です。むしろ徒歩の方が途中の城下跡地の雰囲気を味わう点からもお勧めです。なお、この奥の方の民家にかなり大きな犬が飼われており、突然吠えられます。同行していた我家のトミー嬢は、そのドスの利いた声で、思わず失禁してしまいました。)


 その駐車場から頂上までは約200mあり、城跡には東屋もあって、眼下に斐伊川などが眺望できる。“
 
毛利の砦跡 (写真なし)(説明板より)

“戦国時代、現中央町内奥の標高190mの山上から、上之郷城が眼下に見渡されるので、毛利軍はここを格好の拠点として、尼子氏側に属していた上之郷城軍と対峙したといわれている。

 ここあたりで、両軍の激戦があったことを物語るかのように、地元ではこの地を「モウガジャ(毛利城)」と呼んでいる。“

2009年2月16日月曜日

戸倉城(出雲市稗原町)

戸倉城跡 (とくらじょうあと

登城日 2008年10月10日(金曜日)曇りのち雨
所在地 出雲市 稗原町 戸倉
時代 中世 
指定 未指定
標高 300 m
備考 要害山城跡。戦国時代、古志氏が築城。
構種別 溝 その他  郭 堀切
【写真左】戸倉城遠景・その1
 この山の隣にある「大袋山」という山の頂上には、昭和35年に出雲市指定史跡とされた「土椋烽(とくらのろし)跡」がある。
【写真左】その2
 北東側から見たもの

 出雲風土記に記録されている史跡で、天平5年(732)のころであるが、当時からこの付近は、出雲中央部の情報連絡基地的な役割を果たしてきた場所であるようだ。



【写真左】登城途中の堀切











【写真左】本丸跡その1
 南北にやや長くなった形で、特に西側突端部や、南側などには大きな岩が屹立し、先まで行くと、足がすくんでしまう。

 本丸北側にはベンチが設置され、北の方向に見える出雲平野、周辺の主だった山並の位置図が描かれているが、だいぶ古くなっていて一部読みづらい。

 この場所からは前記した「大袋山」がすぐ北西に見え、戸倉城の標高300mよりも高い。このため、西南方向からの敵陣を見るときには、おそらく大袋山に登ってみていたのではないかと思われる。





【写真左】本丸跡その2
 登城途中から本丸を見上げたもの











解説(現地の説明板より)

戸倉城跡由来

  ポツンと孤立した急峻なこの要害山は、標高300メートル。山麓(現在地)から約200メートルの山である。山頂と東下の尾根の平地が、古城の名残である。
【写真左】戸倉城主の石碑
 北東側を走る道路の脇に建立されている。


現地の説明板より


〝戸倉城主の石碑
 向いの山「要害山」には戦国時代尼子の武将古志氏の出城があり、元亀元年(1570)戸倉攻防戦で戸倉城主古志貞信氏の戦死の場所が、この付近(昔の地名・捲林)であったと言い伝えられ、石碑を建立して「要害山城主 古志六郎左衛門尉貞信」と刻してある。
 平成18年12月 稗原クラブ”




 この戸倉城は、古書に「十蔵城」「十倉城」とも書かれ、戦国の頃、かなり有力な城であった。

 いつ誰の築城か明らかでないが、初は尼子の武将・古志氏の出城であり、後は毛利氏の将が占拠したらしいが、城郭廃止の時も不明である。(稗原まちづくり事業推進協議会)“
【写真左】戸倉城本丸から城下の稗原地区を見る
【写真左】本丸跡から北西の方向を見る
 奥にかすんで見える山並には、斐川町にある城平山城・高瀬城などがある。














築城期

 前稿の栗栖山城の説明板に

  「…この山は南北朝の元弘・建武年間(1331~1335)に、古志氏が居城を浄土寺山から栗栖山・櫃森山に移し、12代城主・古志重信が元亀元年(1570~72)後、居城を稗原の要害山に移すまでの古志氏縁りの城山である。」


 「元亀元年(1570)12代・重信は、毛利の軍門に降り、稗原の土蔵(戸倉)に移城し、4,500人はいたと考えられる。家臣は離散し出雲古志氏の時代に終わりを告げた。」

 
と書かれている。


 築城期が不明なため、古志氏が最初からこの城の城主だったかははっきりしない。ただ、上記にあるように、古志氏の家臣が4,500人もいたということであれば、常識的には突然元亀元年に栗栖城から移ってきたとは考えにくい。

 
 ところで、戸倉城のある地域を元々治めていた一族に朝山氏がいる。
この一族は、鎌倉時代以来から「国衙在庁官人」として社家奉行だったが、南北朝期を境に、応永元年(1394)に召し放たれて「幕府御料所」となり、朝山氏自身は室町幕府将軍直属の奉公衆となって京都において活躍している。

 また、「大社町史」に室町期社家奉行一覧表(杵築大社)というのがある。
これによると、応永28年(1421)から応永33年(1426)まで、古志慶千代、古志代四郎の名が記録されており、これ以後古志氏の名が出てこない。そのあとは、奥出雲に拠点を置く三沢氏や、神西氏、牛尾氏などの名が見える。

◆以上のような記録をもとに考えられることは、古志氏は栗栖山城に移った元弘・建武年間(1331~35)後(朝山氏が京都に移った後)、幕府御料所となった朝山・稗原地域を実質上、知行(直接には古志氏の宗家である塩冶氏から)のような形で受け、特に戸倉城周辺もそのころから整備し始めたのではないか。

そして戦国期には居城を、栗栖山城から戸倉城に完全に移した、という流れではないかと思われるのだが。

◆なお、朝山氏の本城はまだ取り上げていないが、位置的には古志氏の栗栖山城と、稗原の戸倉城のほぼ中間地点にある「姉山城」という山城である。

古志氏の動きについては、このほかに「備後・古志氏」もあり、この「出雲・古志氏」との流れの中でどのような変遷をたどっていったのか、日を改めて整理してみたい。