栗栖城跡(くりすじょうあと)
◆登城日 2009年2月7日(土)および過去2,3回
所在地 出雲市 上島町 新宮
時代 中世
遺跡種別 城館跡
遺跡の現状 山林
土地保有 民有地
指定 未指定
標高 285 m
(参考:島根県遺跡データベースより)
【写真左】北側から見た栗栖山城遠景
本丸跡はこの写真の中程のやや左側に当たる。
◆解説
(現地の説明板より)
“栗栖山城(放れ山の西)を築いてから約60年経った建武年間(1335)のころ、ここに移築したものである。
爾来古志氏が、約200年・12代にわたり城主となり、この地を治めた。
主郭部の東部分は、18m×9m、西部分は20m×11mで、その西側は「切崖」を施し、東側には郭が4つあり、北に廓が続いている。北、東、南は極めて峻険で、神戸川西岸の要衝である。
地元では、昔からこの山のことを要害山と呼んでいる。
籠城の時の用水は、南方、上新宮の「きりや峠(たわ)」に水源を求め、城まで井手を造り、本丸の「圓井」へ水を入れていた。 現在の久奈子神社のある場所は、籠城の時、城主の妻子等が仮住まいした館跡であると思われる。
元亀元年(1570)12代重信は、毛利の軍門に降り、稗原の土蔵(戸倉)に移城し、4,500人はいたと考えられる。家臣は離散し出雲古志氏の時代に終わりを告げた。平成元年10月吉日”
【写真左】栗栖城の簡単な縄張図
城郭の形状はいたってシンプルで、主郭から東の尾根下がりに、1,2,3,4郭を構成している。
現地はこのうち主郭と1郭程度までが歩ける程度になっており、それより東の方は雑林が残っている。
北の展望部分は近年重機でだいぶ改造されているので、当時の遺構の確認は困難である。ただ、展望台などを整備しているため、北端部からの眺望はよくなっている。
【写真左】登城口付近
登城口手前までは、久奈子神社(下段参照)本殿と境内が建立されている。その東を抜けると、写真のような上り坂の登城道が整備されている。
【写真左】堀切
遺構の中ではっきりとわかるのは、この堀切と本丸跡である。
ただ、この山城は東側と北側方向にはこうした城塞施設を明確に設けているが、西側の防御という面では遺構を見る限りあまり判然としない。
もっとも栗栖山城の西側に連続する山並がさらに高くなっていくので、それで十分だったかもしれない。
あるいは、後段に示す「旧備後街道」付近が、当時何らかの要害性を持たせた施設を部分的にもっていたのかもしれない。
【写真左】本丸跡
北側展望台より見る
【写真左】北側展望台より、栗栖山城へ移動する前の居城「浄土寺山城」を見る
写真の中央部やや右に見える山が、古志氏がその前に居城とした浄土寺山城である。二つの城の距離は、直線距離で2キロ弱である。
浄土寺山城の標高が50m弱であるので、時代がすすむにつれ、本丸の位置も高くなり、また規模も大きくなってくる。
ただ、島根県の遺跡データベースでは、この栗栖山城の標高が285mとなっているが、どうみてもそこまでの高さはないと思われる。よくて200m程度だと思うのだが…。
【写真左】栗栖山城から、東方に塩冶氏居城の「半分城」および、斐伊川⇔神戸川バイパス(運河)を見る
少しぼやけた写真だが、写真中央やや右の小山が塩冶氏の半分城である。
古志氏も塩冶氏も系譜は、佐々木源氏系であり、記録上古志氏と塩冶氏が争ったという史料は今のところないが、前記したように当城の要害性が北東部に集中していることを考えると、少し気になる。
もっともお互いの連絡手段である「狼煙」を確認する上では、この高くなった標高をもつ栗栖城の目的も理解できる。
【写真左】栗栖山城東山麓に鎮座する「櫃森神社」
現地の説明板より
“櫃森神社
祭神 保食(うけもち)命
例祭日 9月15日
享保2年(1717)の雲陽誌に載っている櫃森神社は櫃森山の麓に鎮座している。
この山は南北朝の元弘・建武年間(1331~1335)に、古志氏が居城を浄土寺山から栗栖山・櫃森山に移し、12代城主・古志重信が元亀元年(1570~72)後、居城を稗原の要害山に移すまでの古志氏縁りの城山である。
当社の創祀年代は詳らかでないが、中世のころ相次ぐ農業災害を防ぎ、作物の豊穣を祈念して祀った下新宮の部落神である。
昭和20年代の道路改良工事に際し、埋没した桜並木参道遺跡が発掘されている。明治7年、三武社・大歳社・八幡宮と共に久奈子神社に合祀されたが、社殿は今もなお山麓に鎮座し、地元民によって護持され、守護神として地区民崇敬の的となっている。
平成元年2月吉日
古志明るいまちづくり協議会
古志クラブ“
◆また、栗栖城登城口手前には、久奈子神社という神社が建っている(写真省略)。由緒は次の通り。
“久奈子神社
祭神 伊邪那美命(いざなみのみこと)
合祭 速(はや)玉男(たまお)命(久奈子社) 武(たけ)甕(みか)槌(づち)命(三武社)
事(こと)解男(さかお)命(久奈子社) 誉田(ほんだ)別(わけ)命(八幡宮)
建(たけ)御名方(みなかた)命(諏訪社)
例祭日 10月15日
出雲国風土記、延喜式神名帳に載っている久奈為社は、奈良朝以前久留須山に、久奈子二社は、上新宮に鎮座していた。
その後、年代は詳らかではないが、久奈子二社が現在地の久奈為社に移り、この三社が一つになり、久留須三社となった。
江戸時代になってからは、久留須権現、久留須三社明神とも称せられた。
明治5年神社制度改正に当たって、社号を久奈子神社と改称し、村社に列せられた。
続いて、明治7年には三武社・大年社・八幡宮・櫃森社が合祭、諏訪社が合殿奉祀され、爾来今日まで古志地区民の氏神として崇拝されている。
昭和63年2月吉日
古志明るいまちづくり推進協議会
古志クラブ“
◆久奈子神社及び栗栖城に向かう途中に「備後街道」の説明板があり、その位置から旧備後街道の古道が残っている。
説明板より
“備後街道
大社または今市の方から古志坂・芝生台を経て鍛冶屋谷を下り、乙立へ出て、須佐郷・波多を越え、赤穴峠から三次方面へ向かう道を古来「備後街道」と呼んだ。
出雲大社や一畑薬師へ参拝する人達や、いろいろの行商人(薬屋・小間物屋)・旅芸人或いは修験者などの往来も多く、山陰と山陽を結ぶ道筋であった。古志坂の上には、当時茶屋もあって通行人には懐かしい憩いの場であった。
また、この街道は物資の輸送路でもあり、主として駄馬と人の背によって、穀類や木炭が里へ搬出され、帰りには日用物資を運ぶルートであった。駄賃馬や叺(かます)を背負って、かや蓑をかけ、草鞋ばきの人の往来が、秋から冬にかけて特に賑やかであった。
明治45年に着工された現在の県道出雲三次線の開通後は、この街道も急にその任をうしなっていった。
現在、この街道は中国自然歩道の鰐淵寺、大社、立久恵コースとなり、かつての面影をしのばせてくれる。
平成6年 10月13日
古志クラブ“
【写真上中下】旧備後街道
状況はご覧のとおりだが、時々地元の人たちによって古道のハイキングイベントが行われているようだ。
なお、途中から西に向かって尾根伝いの道になるが、その周辺に上段で記された、「籠城」の際に施工された「井出」らしき細長いくぼみを確認している。
どの山城も籠城に備えて、水の確保は当然計画されているが、井戸による確保ができなければ、土水路のような形式で給水設備を設けなければならない。
山城の遺構によっては、設計した水路勾配がとれずに、工事を途中で断念したものもあるらしい。
◆登城日 2009年2月7日(土)および過去2,3回
所在地 出雲市 上島町 新宮
時代 中世
遺跡種別 城館跡
遺跡の現状 山林
土地保有 民有地
指定 未指定
標高 285 m
(参考:島根県遺跡データベースより)
【写真左】北側から見た栗栖山城遠景
本丸跡はこの写真の中程のやや左側に当たる。
◆解説
(現地の説明板より)
“栗栖山城(放れ山の西)を築いてから約60年経った建武年間(1335)のころ、ここに移築したものである。
爾来古志氏が、約200年・12代にわたり城主となり、この地を治めた。
主郭部の東部分は、18m×9m、西部分は20m×11mで、その西側は「切崖」を施し、東側には郭が4つあり、北に廓が続いている。北、東、南は極めて峻険で、神戸川西岸の要衝である。
地元では、昔からこの山のことを要害山と呼んでいる。
籠城の時の用水は、南方、上新宮の「きりや峠(たわ)」に水源を求め、城まで井手を造り、本丸の「圓井」へ水を入れていた。 現在の久奈子神社のある場所は、籠城の時、城主の妻子等が仮住まいした館跡であると思われる。
元亀元年(1570)12代重信は、毛利の軍門に降り、稗原の土蔵(戸倉)に移城し、4,500人はいたと考えられる。家臣は離散し出雲古志氏の時代に終わりを告げた。平成元年10月吉日”
【写真左】栗栖城の簡単な縄張図
城郭の形状はいたってシンプルで、主郭から東の尾根下がりに、1,2,3,4郭を構成している。
現地はこのうち主郭と1郭程度までが歩ける程度になっており、それより東の方は雑林が残っている。
北の展望部分は近年重機でだいぶ改造されているので、当時の遺構の確認は困難である。ただ、展望台などを整備しているため、北端部からの眺望はよくなっている。
【写真左】登城口付近
登城口手前までは、久奈子神社(下段参照)本殿と境内が建立されている。その東を抜けると、写真のような上り坂の登城道が整備されている。
【写真左】堀切
遺構の中ではっきりとわかるのは、この堀切と本丸跡である。
ただ、この山城は東側と北側方向にはこうした城塞施設を明確に設けているが、西側の防御という面では遺構を見る限りあまり判然としない。
もっとも栗栖山城の西側に連続する山並がさらに高くなっていくので、それで十分だったかもしれない。
あるいは、後段に示す「旧備後街道」付近が、当時何らかの要害性を持たせた施設を部分的にもっていたのかもしれない。
【写真左】本丸跡
北側展望台より見る
【写真左】北側展望台より、栗栖山城へ移動する前の居城「浄土寺山城」を見る
写真の中央部やや右に見える山が、古志氏がその前に居城とした浄土寺山城である。二つの城の距離は、直線距離で2キロ弱である。
浄土寺山城の標高が50m弱であるので、時代がすすむにつれ、本丸の位置も高くなり、また規模も大きくなってくる。
ただ、島根県の遺跡データベースでは、この栗栖山城の標高が285mとなっているが、どうみてもそこまでの高さはないと思われる。よくて200m程度だと思うのだが…。
【写真左】栗栖山城から、東方に塩冶氏居城の「半分城」および、斐伊川⇔神戸川バイパス(運河)を見る
少しぼやけた写真だが、写真中央やや右の小山が塩冶氏の半分城である。
古志氏も塩冶氏も系譜は、佐々木源氏系であり、記録上古志氏と塩冶氏が争ったという史料は今のところないが、前記したように当城の要害性が北東部に集中していることを考えると、少し気になる。
もっともお互いの連絡手段である「狼煙」を確認する上では、この高くなった標高をもつ栗栖城の目的も理解できる。
【写真左】栗栖山城東山麓に鎮座する「櫃森神社」
現地の説明板より
“櫃森神社
祭神 保食(うけもち)命
例祭日 9月15日
享保2年(1717)の雲陽誌に載っている櫃森神社は櫃森山の麓に鎮座している。
この山は南北朝の元弘・建武年間(1331~1335)に、古志氏が居城を浄土寺山から栗栖山・櫃森山に移し、12代城主・古志重信が元亀元年(1570~72)後、居城を稗原の要害山に移すまでの古志氏縁りの城山である。
当社の創祀年代は詳らかでないが、中世のころ相次ぐ農業災害を防ぎ、作物の豊穣を祈念して祀った下新宮の部落神である。
昭和20年代の道路改良工事に際し、埋没した桜並木参道遺跡が発掘されている。明治7年、三武社・大歳社・八幡宮と共に久奈子神社に合祀されたが、社殿は今もなお山麓に鎮座し、地元民によって護持され、守護神として地区民崇敬の的となっている。
平成元年2月吉日
古志明るいまちづくり協議会
古志クラブ“
◆また、栗栖城登城口手前には、久奈子神社という神社が建っている(写真省略)。由緒は次の通り。
“久奈子神社
祭神 伊邪那美命(いざなみのみこと)
合祭 速(はや)玉男(たまお)命(久奈子社) 武(たけ)甕(みか)槌(づち)命(三武社)
事(こと)解男(さかお)命(久奈子社) 誉田(ほんだ)別(わけ)命(八幡宮)
建(たけ)御名方(みなかた)命(諏訪社)
例祭日 10月15日
出雲国風土記、延喜式神名帳に載っている久奈為社は、奈良朝以前久留須山に、久奈子二社は、上新宮に鎮座していた。
その後、年代は詳らかではないが、久奈子二社が現在地の久奈為社に移り、この三社が一つになり、久留須三社となった。
江戸時代になってからは、久留須権現、久留須三社明神とも称せられた。
明治5年神社制度改正に当たって、社号を久奈子神社と改称し、村社に列せられた。
続いて、明治7年には三武社・大年社・八幡宮・櫃森社が合祭、諏訪社が合殿奉祀され、爾来今日まで古志地区民の氏神として崇拝されている。
昭和63年2月吉日
古志明るいまちづくり推進協議会
古志クラブ“
◆久奈子神社及び栗栖城に向かう途中に「備後街道」の説明板があり、その位置から旧備後街道の古道が残っている。
説明板より
“備後街道
大社または今市の方から古志坂・芝生台を経て鍛冶屋谷を下り、乙立へ出て、須佐郷・波多を越え、赤穴峠から三次方面へ向かう道を古来「備後街道」と呼んだ。
出雲大社や一畑薬師へ参拝する人達や、いろいろの行商人(薬屋・小間物屋)・旅芸人或いは修験者などの往来も多く、山陰と山陽を結ぶ道筋であった。古志坂の上には、当時茶屋もあって通行人には懐かしい憩いの場であった。
また、この街道は物資の輸送路でもあり、主として駄馬と人の背によって、穀類や木炭が里へ搬出され、帰りには日用物資を運ぶルートであった。駄賃馬や叺(かます)を背負って、かや蓑をかけ、草鞋ばきの人の往来が、秋から冬にかけて特に賑やかであった。
明治45年に着工された現在の県道出雲三次線の開通後は、この街道も急にその任をうしなっていった。
現在、この街道は中国自然歩道の鰐淵寺、大社、立久恵コースとなり、かつての面影をしのばせてくれる。
平成6年 10月13日
古志クラブ“
【写真上中下】旧備後街道
状況はご覧のとおりだが、時々地元の人たちによって古道のハイキングイベントが行われているようだ。
なお、途中から西に向かって尾根伝いの道になるが、その周辺に上段で記された、「籠城」の際に施工された「井出」らしき細長いくぼみを確認している。
どの山城も籠城に備えて、水の確保は当然計画されているが、井戸による確保ができなければ、土水路のような形式で給水設備を設けなければならない。
山城の遺構によっては、設計した水路勾配がとれずに、工事を途中で断念したものもあるらしい。
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