上郷氏・上之郷城(かんのごじょう)
別名 鬼ヶ城、城ヶ谷城
◆登城日 2008年6月8日
◆所在地 出雲市 上島町 上之郷
城郭の規模としては小ぶりだが、主郭・1郭・3郭、堀切など遺構の保存状態がよい。左図の右側が北の方向で、上の方向は西を指す。
したがって、中世のころからすでにこの地域のおもな交通手段は川船で、江戸期初期(1630年代ごろ)までは、現在の斐伊川の河口は、現在の宍道湖でなく、当時「神門水海」といわれた「神西湖」に神戸川と同じく流れ込み、入江状の神門水海はそのまま日本海へつながっていた。
そうした状況からも、この上之郷城の役割は、戦国期といえども単に戦のための要害施設を超えた、出雲部のいわば経済・交通の中枢的基地施設の役割をも担っていたと思われる。
別名 鬼ヶ城、城ヶ谷城
◆登城日 2008年6月8日
◆所在地 出雲市 上島町 上之郷
◆時代 中世 明徳年間(1390~1394)
◆遺跡種別 城館跡
◆築城主
◆遺跡種別 城館跡
◆築城主
上郷三河守通清(みかわのかみみちきよ)(法名・道円)
室町時代塩冶守護家の直領であったころ、明徳記にみえる塩冶判官高貞の一族で、上郷入道といわれる。
室町時代塩冶守護家の直領であったころ、明徳記にみえる塩冶判官高貞の一族で、上郷入道といわれる。
【写真上】上之郷城遠景
【写真左】上之郷城縄張り図
城郭の規模としては小ぶりだが、主郭・1郭・3郭、堀切など遺構の保存状態がよい。左図の右側が北の方向で、上の方向は西を指す。
東3郭と示された部分には、神西城のような照明設備が設置され、時節(夏季?)には点灯されるようだ。
登城道はこの図でいえば、下の主郭から右(北)に向かって登るようになっており、最初は東3郭へたどりつく。そのあと東1郭⇒主郭となっているが、このあたりからは
ほとんど手入れされていないので、藪こぎを覚悟して主郭へ分け入る。
登城道はこの図でいえば、下の主郭から右(北)に向かって登るようになっており、最初は東3郭へたどりつく。そのあと東1郭⇒主郭となっているが、このあたりからは
ほとんど手入れされていないので、藪こぎを覚悟して主郭へ分け入る。
この日はあまり時間もなかったので、主郭のやや南東部に祀られていた小さな祠を確認(写真参照)し、そのあと西(図では上)の方向へ降りたが、堀切りの保存度がよく、かなりの切崖・要害性がある。
図でもわかるように、縄張の形状としては西の方向に並列して郭・壇を設けていることから、敵の襲来を西に想定していると思われる。
東側には堀切のようなものを設けていないが、これは登城途中に認められた「屋敷跡」らしきものがあったため、このエリアは与方として担保されていたのかもしれない。
【写真左】登城口付近
城下である上島町は、私の記憶が間違いでなければ、以前「上津(かみつ)」と言っていたところで、江戸期に盛んに使われた斐伊川水運の湊としても栄えたところである(他の湊としては、船津、大津や斐伊川と三刀屋川が合流する木次・三刀屋の湊などがある)。
前回で取り上げた稗原の戸倉城から東へ行ったところで、一説には古志氏の関係した城とも言われている。
特にこのあたりは、今は北に向かって斐伊川土手まで広い田んぼができているが、当時は上之郷城麓までが斐伊川の川幅で、中央部に中州ができていた。ちなみに当時の斐伊川中流の川幅では、この地点が最も広く、北岸の斐川町・阿宮の岸辺まで約800m近くあり、多くの船が停泊していた。
したがって、中世のころからすでにこの地域のおもな交通手段は川船で、江戸期初期(1630年代ごろ)までは、現在の斐伊川の河口は、現在の宍道湖でなく、当時「神門水海」といわれた「神西湖」に神戸川と同じく流れ込み、入江状の神門水海はそのまま日本海へつながっていた。
そうした状況からも、この上之郷城の役割は、戦国期といえども単に戦のための要害施設を超えた、出雲部のいわば経済・交通の中枢的基地施設の役割をも担っていたと思われる。
【写真上】上之郷城・東3郭から北東方向の斐伊川を見る
写真中央部に見える富士山のような山は、斐川町にある葛西氏の居城・城平山城。
【写真左】登城途中の道
傾斜はさほどきつくない。
なお、この写真の右下に侍屋敷らしき平坦地が何段か認められる。現状は孟宗竹がぎっしりと生えているが…
◆解説 ①(現地登山途中案内より)
“上之郷城跡などのご案内
上之郷城跡
城跡は、上之郷神社の南方に続く馬蹄形の尾根上に所在し、廓10、堀切3、土塁2、井戸1などの跡が残っている。
眺望がよく、眼下に斐伊川が手に取るように見える。
明徳年間(1390~1394)ころより元亀年間(1570~1573)ころまで、塩冶氏系の城主がいたと思われるが、塩冶の本城との関係は分からない。
その後、尼子氏、続いて毛利氏の配下となり、毛利36城の一つになったといわれる。
吊井出(つりいで) 上之郷城の飲料水は、三田谷奥の滝を水源地として、廓まで約800mを吊井出を利用して確保した。
現在、その遺構の一部を知ることができるが、城の北面にある井戸との関係は明らかでない。
馬頭観音像(ばとうかんのんぞう) ここの下のほうに、地元民によって供養されている馬頭観音像がある。安政5年(1858)4月建立とある。
これは、上之郷城軍と毛利軍との戦いのおり、吊井出の飲料水を毛利軍によって断たれた上之郷城軍が、難渋を悟られまいとして、水に見せかけた白米で馬を洗ったという伝えに因んで建てられたものという。
大首(おおくび) 上ゲ町内の屋号「大首」付近は、上之郷城の一部として防衛上の重要拠点を形成していたため、その拠点を意味するこの名が屋号として残っていると考えられている。“
“「上之郷城」略記 上之郷城の歴史は定かでないが、初代の城主は、室町時代塩冶守護家の直領であったころ、明徳記にみえる塩冶判官高貞の一族で、上郷入道といわれる上郷三河守通清(法名・道円)とみられる。
後世の城主としては、上郷兵庫助、上郷法師丸などの名が散見される。
上之郷城は、標高117mの地にあった中世の城郭で、今は、馬蹄形の尾根上に郭10、堀切3、土塁2、井戸1、などの跡が残っている。
鬼ヶ城とも呼ばれた上之郷城は、古志城、十蔵(とくら)城(戸倉城)、神西城等とともに、かなりの威力を持つ尼子方の一城として、戦略上の重要拠点をなしていたと考えられる。
城は明徳年間(1390~1394)のころに構えられ、上郷入道のころから約100年後、出雲国守護となった尼子氏の支配下に入る。
やがて永禄年間(1558~1570)及び元亀年間(1570~1573)に毛利氏が次第に尼子氏をしのぎ、上之郷城もその支配下にはいった。運陽大数誌によると、上之郷城はその後、毛利36城の一つとして、知行高三千石などという記録が見える。②3の郭説明板より
“上之郷城跡などのご案内
上之郷城跡
城跡は、上之郷神社の南方に続く馬蹄形の尾根上に所在し、廓10、堀切3、土塁2、井戸1などの跡が残っている。
眺望がよく、眼下に斐伊川が手に取るように見える。
明徳年間(1390~1394)ころより元亀年間(1570~1573)ころまで、塩冶氏系の城主がいたと思われるが、塩冶の本城との関係は分からない。
その後、尼子氏、続いて毛利氏の配下となり、毛利36城の一つになったといわれる。
吊井出(つりいで) 上之郷城の飲料水は、三田谷奥の滝を水源地として、廓まで約800mを吊井出を利用して確保した。
現在、その遺構の一部を知ることができるが、城の北面にある井戸との関係は明らかでない。
馬頭観音像(ばとうかんのんぞう) ここの下のほうに、地元民によって供養されている馬頭観音像がある。安政5年(1858)4月建立とある。
これは、上之郷城軍と毛利軍との戦いのおり、吊井出の飲料水を毛利軍によって断たれた上之郷城軍が、難渋を悟られまいとして、水に見せかけた白米で馬を洗ったという伝えに因んで建てられたものという。
大首(おおくび) 上ゲ町内の屋号「大首」付近は、上之郷城の一部として防衛上の重要拠点を形成していたため、その拠点を意味するこの名が屋号として残っていると考えられている。“
“「上之郷城」略記 上之郷城の歴史は定かでないが、初代の城主は、室町時代塩冶守護家の直領であったころ、明徳記にみえる塩冶判官高貞の一族で、上郷入道といわれる上郷三河守通清(法名・道円)とみられる。
後世の城主としては、上郷兵庫助、上郷法師丸などの名が散見される。
上之郷城は、標高117mの地にあった中世の城郭で、今は、馬蹄形の尾根上に郭10、堀切3、土塁2、井戸1、などの跡が残っている。
鬼ヶ城とも呼ばれた上之郷城は、古志城、十蔵(とくら)城(戸倉城)、神西城等とともに、かなりの威力を持つ尼子方の一城として、戦略上の重要拠点をなしていたと考えられる。
城は明徳年間(1390~1394)のころに構えられ、上郷入道のころから約100年後、出雲国守護となった尼子氏の支配下に入る。
やがて永禄年間(1558~1570)及び元亀年間(1570~1573)に毛利氏が次第に尼子氏をしのぎ、上之郷城もその支配下にはいった。運陽大数誌によると、上之郷城はその後、毛利36城の一つとして、知行高三千石などという記録が見える。②3の郭説明板より
【写真左】三田谷古戦場跡
(説明板より)
“このあたり一帯は、上之郷城尼子軍と毛利軍が激戦を交わした古戦場跡と伝えられており、何か兵どもの雄叫びが聞こえそうである。
城跡に登るには、谷川沿いに道幅はやや狭いが、普通車の通行は可能な登山道があり、ここから約1㎞先の駐車場には、車が4台程度停められる。
(※「普通車」とのことだが、とても狭く、奥まで民家があり、対向車が来たらすれ違いは無理で、下手をすると東側の川に落ちてしまいます。安全のため、下の方にある集会所・公園のある空き地に停めて、そこから歩いた方が無難です。むしろ徒歩の方が途中の城下跡地の雰囲気を味わう点からもお勧めです。なお、この奥の方の民家にかなり大きな犬が飼われており、突然吠えられます。同行していた我家のトミー嬢は、そのドスの利いた声で、思わず失禁してしまいました。)
その駐車場から頂上までは約200mあり、城跡には東屋もあって、眼下に斐伊川などが眺望できる。“
(説明板より)
“このあたり一帯は、上之郷城尼子軍と毛利軍が激戦を交わした古戦場跡と伝えられており、何か兵どもの雄叫びが聞こえそうである。
城跡に登るには、谷川沿いに道幅はやや狭いが、普通車の通行は可能な登山道があり、ここから約1㎞先の駐車場には、車が4台程度停められる。
(※「普通車」とのことだが、とても狭く、奥まで民家があり、対向車が来たらすれ違いは無理で、下手をすると東側の川に落ちてしまいます。安全のため、下の方にある集会所・公園のある空き地に停めて、そこから歩いた方が無難です。むしろ徒歩の方が途中の城下跡地の雰囲気を味わう点からもお勧めです。なお、この奥の方の民家にかなり大きな犬が飼われており、突然吠えられます。同行していた我家のトミー嬢は、そのドスの利いた声で、思わず失禁してしまいました。)
その駐車場から頂上までは約200mあり、城跡には東屋もあって、眼下に斐伊川などが眺望できる。“
毛利の砦跡 (写真なし)(説明板より)
“戦国時代、現中央町内奥の標高190mの山上から、上之郷城が眼下に見渡されるので、毛利軍はここを格好の拠点として、尼子氏側に属していた上之郷城軍と対峙したといわれている。
ここあたりで、両軍の激戦があったことを物語るかのように、地元ではこの地を「モウガジャ(毛利城)」と呼んでいる。“
“戦国時代、現中央町内奥の標高190mの山上から、上之郷城が眼下に見渡されるので、毛利軍はここを格好の拠点として、尼子氏側に属していた上之郷城軍と対峙したといわれている。
ここあたりで、両軍の激戦があったことを物語るかのように、地元ではこの地を「モウガジャ(毛利城)」と呼んでいる。“
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