本明城(ほんみょうじょう)
●築城期 文暦元年(1234)又は、1264~1278年頃
●築城主 福屋兼広
●別名 乙明城又は福屋城
●標高 417m
●遺構 郭 帯郭 腰郭
●登城日 2008,1,15
◆解説
建久3年(1192)御神本兼高が、それまで浜田にあった居館を、益田に移し、このときより姓を御神本から益田に改め、益田兼高と名乗った。その兼高の三男・福屋兼弘が築城したのがこの本明(ほんみょう、又は、もとあけ)城である。別名、「乙明城」「福屋城」とも呼ばれている。
現地の説明板より
“江津市指定 史跡及び名勝
本明城跡
- この城跡は、江津市文化財保護条例第9条第1項の規定により昭和55年7月14日付けをもって江津市史跡及び名勝に指定されました。
- 尾根を境に南側は、那賀郡金城町乙明です。時代により福屋城・乙明(音明)城などの別称があります。
- 福屋氏の最後の居城の形態(縄張り)としての郭(平坦面)をよく残しています。
- 「東の丸」からは、炭化米や大豆が出土したことがあります。この山の北麓の福田の地には、福田八幡宮がありこの丘陵は、福屋氏の城館跡と考えられます。
- 福屋氏がこの地を離れた後は、毛利氏の支配に入りました。
- 主郭付近の標高400m上のヤマモモの木は、県内最高位の高さにあると思われます。
- 四季を通じて種々な趣の山中、頂上からは日本海や中国山地を望む風光明媚の地です。
規模 長軸 約1,000m
比高 長軸 約40m 短軸 約80m
江津市教育委員会
(平成7年9月設置)
注意 郭(平坦面)端などを崩さないこと。
樹木等を許可なく伐採しないこと。”
北側からみたもの。
手前の道路は途中まで整備された県道50号線。
南北朝時代は、この石見も激しく揺れ動いた地で、特に出雲の塩冶高貞が宍道町佐々布で割腹自殺した1341年(興国2年/暦応4年)の2月、有福五分一地頭・越生老氏と久利郷一部地頭・赤波公房が、上野頼兼(石見守護で足利尊氏派)に従って、当城が攻められている。
その後もいろいろな動きがあり、他の山城・一族と同様、戦国末期で一つの終焉を迎える。
手前の道路は途中まで整備された県道50号線。
南北朝時代は、この石見も激しく揺れ動いた地で、特に出雲の塩冶高貞が宍道町佐々布で割腹自殺した1341年(興国2年/暦応4年)の2月、有福五分一地頭・越生老氏と久利郷一部地頭・赤波公房が、上野頼兼(石見守護で足利尊氏派)に従って、当城が攻められている。
その後もいろいろな動きがあり、他の山城・一族と同様、戦国末期で一つの終焉を迎える。
【写真左】登山口に設置された案内板
非常にユニークな案内板である。
登城したこの日のルートは、この図でいえば、左下の「本明東コース」からで、県道50号線から分岐した位置が登城始点になる。
【写真左】登城開始
この日小雨混じりのあいにくの天気だったが、向かうことにした。
戦国期
永禄5年(1562)、ジワリジワリと石見から攻め落としてきた毛利元就は、この福屋氏のもう一つの出城・松山城(江津市松川町)を落とす。一族の城主・福屋隆任(たかやす)は討死し、当城は落城。
本明城の城主・隆兼(12代)は、松山城から長躯当城に戻り、再度防戦しようとしたが、すでに戦意喪失。
この城に火を放って、浜田の浜から日本海へ船で脱出し、出雲へ行ったん逃れ、最後は大和の松永弾正の元へ。その後は徳島の蜂須賀氏のところに身を寄せたとある。
330年の福屋氏の歴史がここに幕を下ろした。
【写真左】本明城略測図
「平成2年12月1日 作図 寺井 毅」とあり、「中国自動車道広島浜田建設予定地内埋蔵文化財発掘調査報告書Ⅲ」の「福屋氏の城郭」から転載された図のようだ。
平成7年9月に設置されている。
この図でいえば管理人が登城したルートは右上の方からで、細長い尾根上には、「馬の段」「東の丸」「主郭」「不動の滝」などが図示してある。
【写真左】登城途中にある鳥居
「平成2年12月1日 作図 寺井 毅」とあり、「中国自動車道広島浜田建設予定地内埋蔵文化財発掘調査報告書Ⅲ」の「福屋氏の城郭」から転載された図のようだ。
平成7年9月に設置されている。
この図でいえば管理人が登城したルートは右上の方からで、細長い尾根上には、「馬の段」「東の丸」「主郭」「不動の滝」などが図示してある。
【写真左】登城途中にある鳥居
本丸跡には金毘羅宮が祀られている。
【写真左】不動尊祠
島根名水百選の一つ。ここで休憩し名水を頂く。
【写真左】最初のピーク
東の丸付近で、この辺りから絶景が広がる。
【写真左】東の丸
この先にある本丸よりも整備された郭で、おそらく家臣の多くがこの場所に陣を構えたのだろう。
【写真左】中国山地・その1
【写真左】中国山地・その2
付近には本明城ほどの高さを持つ山がないこともあって、眺望はすこぶる良い。
【写真左】本丸・その1
本丸跡には金比羅神社の本殿が建っている。
【写真左】本丸・その2
全体にこの付近は岩塊が多く、尾根幅は狭いが、長軸がおよそ1キロもあることから、規模としては大きい方だろう。
【写真左】不動尊祠
島根名水百選の一つ。ここで休憩し名水を頂く。
【写真左】最初のピーク
東の丸付近で、この辺りから絶景が広がる。
【写真左】東の丸
この先にある本丸よりも整備された郭で、おそらく家臣の多くがこの場所に陣を構えたのだろう。
【写真左】中国山地・その1
【写真左】中国山地・その2
付近には本明城ほどの高さを持つ山がないこともあって、眺望はすこぶる良い。
【写真左】本丸・その1
本丸跡には金比羅神社の本殿が建っている。
【写真左】本丸・その2
全体にこの付近は岩塊が多く、尾根幅は狭いが、長軸がおよそ1キロもあることから、規模としては大きい方だろう。
県道50号線から登山口の案内は出ているものの、その先を案内するものがないため、大分迷った。
しかし、何とか登山口のあるところに着き、しかも専用の駐車場や案内板が出ていて大いに助かった。因みにこの場所は、隣が民家であり、たぶんこの家の方が土地を提供しているような感じだ。
【写真左】三角点
標高417.1mの地点。この位置からさらに尾根伝いに西におよそ300m向かうと、標高400mの頂部があり、この付近も本明城の城域とされている。
おばあさんが一人おられ、軽く会釈をしてから登った。
しかし、何とか登山口のあるところに着き、しかも専用の駐車場や案内板が出ていて大いに助かった。因みにこの場所は、隣が民家であり、たぶんこの家の方が土地を提供しているような感じだ。
【写真左】三角点
標高417.1mの地点。この位置からさらに尾根伝いに西におよそ300m向かうと、標高400mの頂部があり、この付近も本明城の城域とされている。
おばあさんが一人おられ、軽く会釈をしてから登った。
案内板には時間にして30分と書いてあったが、とても30分では無理で、おそらく倍の1時間はかかっていると思う。
登山道は傾斜がきついものの最初の半分は十分な道幅がとってあり、これまで登った山城の中でも親切な方だ。しかし、後半になると、かなり傾斜がきついため、相生の感状山城のような険しい道になった。途中で名水百選のところがあり、ここでのどを潤し、たどり着いた。
登山道は傾斜がきついものの最初の半分は十分な道幅がとってあり、これまで登った山城の中でも親切な方だ。しかし、後半になると、かなり傾斜がきついため、相生の感状山城のような険しい道になった。途中で名水百選のところがあり、ここでのどを潤し、たどり着いた。
【写真左】三瓶山か
東に目を向けると、一際屹立した山が見える。おそらく三瓶山だろう。
この日は、1月とは思えない温暖な日で、セーターを脱いでいたものの、大汗をかいた。
頂上は確かにすばらしい眺めで、ほぼ360度の絶景。特に日本海が見えたのは感動もの。また、頂上部は巨石で構成されていて、苗木城(なえぎじょう)跡・岐阜県中津川市苗木の小型版といったところか。
東に目を向けると、一際屹立した山が見える。おそらく三瓶山だろう。
この日は、1月とは思えない温暖な日で、セーターを脱いでいたものの、大汗をかいた。
頂上は確かにすばらしい眺めで、ほぼ360度の絶景。特に日本海が見えたのは感動もの。また、頂上部は巨石で構成されていて、苗木城(なえぎじょう)跡・岐阜県中津川市苗木の小型版といったところか。
城郭の形状は、東西に相当長いようで、時間があれば全体を見ようと思ったが、何しろ一旦下って、再び上がる元気もないため、本丸部分と、東丸といわれる部分のみ足を踏み入れ、下山した。このあと、南下し、数年ぶりに美又温泉へ行き、汗を流した。
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