登城日 2009年2月1日(日)曇り
所在地 出雲市 多伎町 小田 菅沢
時代 中世
遺跡種別 城館跡
遺跡の現状 山林
土地保有 民有地
指定 未指定
標高 148 m
備考 遺構一部破損
遺構概要 郭 帯郭 腰郭 土塁 堀切 虎口 櫓台
(参考:島根県遺跡データベースより)
◆近くに住んでいながら、全く知らなかった山城である。これも最近「城郭放浪記」さんの更新記録から知った次第。 (ありがとうございます)
【写真右】左から2番目の山が、富士ヶ城
もともと左の山とその右にある富士ヶ城は尾根でつながっていたとのこと。採石の結果ほとんど別れた山になった。
◆解説(①麓交差点にある説明板より)
“小田富士ヶ城について
小田富士ヶ城は、室町時代応永年間(1394~1428)に尼子清定(経久の父)の臣下・小田常陸守(おだひたちのかみ)によって築かれた山城である。その形が富士山に似ていることから富士ヶ城と呼称された。
当時の城は「山城」の部類にはいるもので、後世の立派な天守閣のあるような平城ではなく、見張りの為の館を備えた陣地楼(じんちろう)というべきものであった。これより東方10キロにある神西城の防衛ラインの一拠点として、石見方諸候及び山陽方諸候の安全守備を担っていた出城であったろう。
現在小田土居屋の墓地にある宝篋印塔の碑台に「元亀2年(1571)未(ひつじ)春」とあるのは、城主・小田常陸守が戦死したと思われる文明2年(1470)から100年後に当たるもので、その追善供養塔と思われる。
平成9年3月 出雲観光協会“
◆現地の説明板の内容について
説明板に
「小田富士ヶ城は、室町時代応永年間(1394~1428)に尼子清定(経久の父)の臣下・小田常陸守(おだひたちのかみ)によって築かれた山城である。」とあるが、応永年間には尼子清定はまだ登場していない。 応永2年(1395)3月に、足利義満が、佐々木(京極)高詮に、山名満幸討伐の功績により、出雲国・隠岐国守護職と闕(けつ)所分を宛がっている。そして4年後の応永6年11月に正式に、義満が佐々木高詮に出雲国守護職に任じた。
応永8年(1401)9月に高詮が亡くなり、翌応永9年に初めて尼子持久が、野崎武右衛門に従って富田城に入城する。このころ守護は高詮の子・佐々木高光で、応永20年(1413)に高光が没すると、足利義持は、高光の子(童子丸・持光)に父の所領を安堵し、出雲・隠岐・飛騨の三カ国の守護職に補任する。
その後守護職としての京極持光の名は直接には出てこらず、「守護・京極氏」という名で、このころ杵築大社三月会や、日御碕倹校職の相続について、仲裁や調停などに追われている。
持光の名があまり出ていない一つの原因として、応永27年(1420)の5月、幕府が、守護である持光の家臣が、東福寺領の出雲国末次荘(現在の松江市役所付近)を濫妨していることを注意されているので、このころから守護京極氏としての統制が不安定なものになってきていることを思わせる。
さて、尼子清定であるが、彼が歴史上にはっきりと出てくるのは、応仁の乱のころ、すなわち応仁元年(1467)である。この年、11月に東軍方・細川勝元が、清定に対し、出雲での戦功を賞している。応仁の乱の状況は山陰でも同じように東軍・西軍と分かれており、特に出雲部は京極氏が、西軍方の伯耆・山名氏と争い、さらに長門方面は同じく大内氏などがいたので、挟み撃ち状態である。しかも京極氏・尼子氏の足元では松田氏などと激しい戦いをしている。
そうしたことから、尼子清定を優先した記録ならば、「応永年間」ではなく、「応仁年間(1467~1468」の間違いではないだろうか。
【写真右】登城口付近
最初の案内板は、この写真手前にあり、そのままこの道を上がっていった。ところが、これがとんでもない勘違いで、実はこの写真のちょうど歩いている位置から左に脇道があり、それが登城道だった。
城格放浪記さんが探訪した折は、その案内板はしっかりと設置してあったのだが、ちょうど真正面の部分が伐採作業の際、看板まではずしてあり、しかも地面に置いてあった看板が裏返しのままだった。
【写真左】登城途中の案内板
上記の案内板がこのように最初から設置してあれば、迷うこともなかった。
【写真左】本丸跡
この山自体がそんなに大きくはないため、当然本丸も小ぶりで、南側から北に向かって台形状に細くなり、先端部で切崖状態になっている。
現地には富士ヶ城の由来などを記した説明板がひとつあるだけで、ほかは何もない。ちなみにこの説明板の内容と、道路端に設置してあった案内板は、ほぼ同じ内容だが、こちらの方が古く、合併前の「多伎町教育委員会」となっていた。
【写真左】本丸北端部から見た多伎町の町並みと日本海
この写真の左側には、法蔵寺という寺があり、小田常陸守が鎌倉から勧請した「如意輪観世音菩薩坐像」という町の指定有形文化財が所蔵されているとのこと。
【写真左】同じく本丸北端部から見た日御碕(大社)方面
説明板では、この城が東方にある神西城との関係を伝えている。ただ、神西城の防衛もあったかもしれないが、それ以上に思えるのは、この小田川上流部にある佐田町の「伊秩城」や「吉栗山城」との関係を重視した城だと思える。
いまでこそ、南側は笹竹や雑木で南東部は見にくいが、小田川の支流・宇杉川沿いの佐田小田停車場線は昔からの街道であり、特に吉栗山城は鎌倉期からの山城として使われていたとの記録がある(詳細な調査記録はないが…)。
所在地 出雲市 多伎町 小田 菅沢
時代 中世
遺跡種別 城館跡
遺跡の現状 山林
土地保有 民有地
指定 未指定
標高 148 m
備考 遺構一部破損
遺構概要 郭 帯郭 腰郭 土塁 堀切 虎口 櫓台
(参考:島根県遺跡データベースより)
◆近くに住んでいながら、全く知らなかった山城である。これも最近「城郭放浪記」さんの更新記録から知った次第。 (ありがとうございます)
【写真右】左から2番目の山が、富士ヶ城
もともと左の山とその右にある富士ヶ城は尾根でつながっていたとのこと。採石の結果ほとんど別れた山になった。
◆解説(①麓交差点にある説明板より)
“小田富士ヶ城について
小田富士ヶ城は、室町時代応永年間(1394~1428)に尼子清定(経久の父)の臣下・小田常陸守(おだひたちのかみ)によって築かれた山城である。その形が富士山に似ていることから富士ヶ城と呼称された。
当時の城は「山城」の部類にはいるもので、後世の立派な天守閣のあるような平城ではなく、見張りの為の館を備えた陣地楼(じんちろう)というべきものであった。これより東方10キロにある神西城の防衛ラインの一拠点として、石見方諸候及び山陽方諸候の安全守備を担っていた出城であったろう。
現在小田土居屋の墓地にある宝篋印塔の碑台に「元亀2年(1571)未(ひつじ)春」とあるのは、城主・小田常陸守が戦死したと思われる文明2年(1470)から100年後に当たるもので、その追善供養塔と思われる。
平成9年3月 出雲観光協会“
◆現地の説明板の内容について
説明板に
「小田富士ヶ城は、室町時代応永年間(1394~1428)に尼子清定(経久の父)の臣下・小田常陸守(おだひたちのかみ)によって築かれた山城である。」とあるが、応永年間には尼子清定はまだ登場していない。 応永2年(1395)3月に、足利義満が、佐々木(京極)高詮に、山名満幸討伐の功績により、出雲国・隠岐国守護職と闕(けつ)所分を宛がっている。そして4年後の応永6年11月に正式に、義満が佐々木高詮に出雲国守護職に任じた。
応永8年(1401)9月に高詮が亡くなり、翌応永9年に初めて尼子持久が、野崎武右衛門に従って富田城に入城する。このころ守護は高詮の子・佐々木高光で、応永20年(1413)に高光が没すると、足利義持は、高光の子(童子丸・持光)に父の所領を安堵し、出雲・隠岐・飛騨の三カ国の守護職に補任する。
その後守護職としての京極持光の名は直接には出てこらず、「守護・京極氏」という名で、このころ杵築大社三月会や、日御碕倹校職の相続について、仲裁や調停などに追われている。
持光の名があまり出ていない一つの原因として、応永27年(1420)の5月、幕府が、守護である持光の家臣が、東福寺領の出雲国末次荘(現在の松江市役所付近)を濫妨していることを注意されているので、このころから守護京極氏としての統制が不安定なものになってきていることを思わせる。
さて、尼子清定であるが、彼が歴史上にはっきりと出てくるのは、応仁の乱のころ、すなわち応仁元年(1467)である。この年、11月に東軍方・細川勝元が、清定に対し、出雲での戦功を賞している。応仁の乱の状況は山陰でも同じように東軍・西軍と分かれており、特に出雲部は京極氏が、西軍方の伯耆・山名氏と争い、さらに長門方面は同じく大内氏などがいたので、挟み撃ち状態である。しかも京極氏・尼子氏の足元では松田氏などと激しい戦いをしている。
そうしたことから、尼子清定を優先した記録ならば、「応永年間」ではなく、「応仁年間(1467~1468」の間違いではないだろうか。
【写真右】登城口付近
最初の案内板は、この写真手前にあり、そのままこの道を上がっていった。ところが、これがとんでもない勘違いで、実はこの写真のちょうど歩いている位置から左に脇道があり、それが登城道だった。
城格放浪記さんが探訪した折は、その案内板はしっかりと設置してあったのだが、ちょうど真正面の部分が伐採作業の際、看板まではずしてあり、しかも地面に置いてあった看板が裏返しのままだった。
【写真左】登城途中の案内板
上記の案内板がこのように最初から設置してあれば、迷うこともなかった。
【写真左】本丸跡
この山自体がそんなに大きくはないため、当然本丸も小ぶりで、南側から北に向かって台形状に細くなり、先端部で切崖状態になっている。
現地には富士ヶ城の由来などを記した説明板がひとつあるだけで、ほかは何もない。ちなみにこの説明板の内容と、道路端に設置してあった案内板は、ほぼ同じ内容だが、こちらの方が古く、合併前の「多伎町教育委員会」となっていた。
【写真左】本丸北端部から見た多伎町の町並みと日本海
この写真の左側には、法蔵寺という寺があり、小田常陸守が鎌倉から勧請した「如意輪観世音菩薩坐像」という町の指定有形文化財が所蔵されているとのこと。
【写真左】同じく本丸北端部から見た日御碕(大社)方面
説明板では、この城が東方にある神西城との関係を伝えている。ただ、神西城の防衛もあったかもしれないが、それ以上に思えるのは、この小田川上流部にある佐田町の「伊秩城」や「吉栗山城」との関係を重視した城だと思える。
いまでこそ、南側は笹竹や雑木で南東部は見にくいが、小田川の支流・宇杉川沿いの佐田小田停車場線は昔からの街道であり、特に吉栗山城は鎌倉期からの山城として使われていたとの記録がある(詳細な調査記録はないが…)。
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