2010年12月24日金曜日

高嶽山宗兼院(島根県益田市馬谷町)

高嶽山宗兼院(たかだけやまそうけんいん)

●所在地 島根県益田市馬谷町
●創建年 鎌倉期
●開基 滝口半田時員
●山号 高嶽山
●宗派 曹洞宗
●探訪日 2010年9月12日

◆解説
 前稿馬谷高嶽城(島根県益田市馬谷)で取り上げた築城者・平宗兼を菩提する寺院である。
平宗兼の家臣・滝口半田時員(たきぐちはんでんときかず)が、宗兼没後、彼の冥福を祈って、馬谷高嶽城が見える東麓に建立したものである。
【写真左】高嶽山宗兼院入口













 宗兼は、建保元年(1213)には、当地に佐比売山厳島神社、多紀都比売命を祀り、鎮守の社とした。この場所は確認していないが、おそらく、当院の南西部に突き出した小規模な社があったので、この場所かもしれない。

 なお、宗兼の没した時期は分からないが、寿永4年(1185)の源平合戦・壇ノ浦で益田兼高に捉えられていることから、承久年間(1219~21)からさほど遠くないころに亡くなっていると思われる。

【写真左】山門
 現地には、当院の縁起など記したものはない。

【写真左】本堂
 なお、境内周辺を平宗兼や半田時員関係の墓石がないか歩いてみたが、特記すべきものは見いだせなかった。
【写真左】駐車場側から見る。

馬谷高嶽城(島根県益田市馬谷)

馬谷高嶽城(うまのたにたかだけじょう)

●所在地 益田市馬谷町
●築城期 建久4年(1193)
●築城者 平宗範(宗兼)
●城主 益田兼高、足利直冬、杉森氏久
●標高 460m
●別名 大屋形城・高嶽城
●遺構 郭、腰郭、土塁、石垣、堀切、井戸
●登城日 2010年2月7日、及び12月20日

◆解説(参考文献「益田市誌・上巻」「日本城郭大系第14巻」等)
 馬谷高嶽城は、本年9月13日投稿「上久々茂土居跡」や、同じく9月9日投稿「大谷城」でも少し紹介しているように、上久々茂土居跡をさらにさかのぼった益田川支流馬谷川と、大谷土居跡の脇を流れる大谷本溢川の源流の間に挟まれた標高460mの山城である。
【写真左】馬谷高嶽城遠望
  東麓から見たもの。











現地の説明板より

“寿永4年(1185)、源平合戦で壇ノ浦に敗れた平家の将・平 宗盛(清盛の三男)平宗範は、源義経の幕下で参戦した御神本兼高(後に益田と改姓)に捕らえられたが、素直に帰順したので、馬谷に住むことを許されたので、この地に築城を命ぜられたものと思われる。

 馬谷城は、別名高嶽城とも謂われ、馬谷・大谷形・岩倉の三村に跨る標高460mの山嶽の中央にある。
 140年後の文和2年(1353)、足利直冬が探題として入城、中国地方に号令することとなった。
 しかし、当時の政変からここに住んだのは僅か数ヶ月にすぎなかったのではなかろうか。
【写真左】登城口付近
 登城口は2,3カ所あるようだが、この場所は本丸より北に伸びた稜線の東麓部になる。

 なお、麓に行くまでのルートとしては、以前取り上げた益田川が大きく蛇行する位置の「上久々茂土居跡」付近で南(右)に枝分かれする道(途中まで道が広くなっている)に入り、東の谷になる馬谷に向かうと、正面に当山の姿が見える。
 

 第3次城主杉森氏久も、毛利・益田の領主に反逆謀叛を起こして死亡してしまった。
 以来、城山と呼ばれて親しまれてきたこの山も、歴史の変遷と年月の隔たりよりさだかでないが、本丸・神社跡オバンバの石・物見櫓など伝説を頼れば、峻険な馬谷側よりも大屋形側が登山口として浮かび上がってくるのである。

 益田兼高は、建久4年益田七尾城に城を築いて、ここを主城とし高嶽城などを支城として補築したものと思われる。
 神秘に包まれた山岳は、滅多に人を寄せつけず今も眠り続けているのである。
平成9年5月 文 熊谷政雄
真砂地区活性化対策協議会”
【写真左】前半の登城路
 前半は細い尾根を登って行くことになる。途中でピークがあり、そこを左に回り、再び大小の尾根を進む。




 大要は上記説明板のとおりであるが、平宗範は益田兼高に降伏した後、名を兼高の兼を戴いて宗兼と称しているようだ。

 建保元年(1213)、彼は馬谷に佐比売山厳島神社を建立、多紀都比売命を祀り、鎮守の社とした。
 以前取り上げた兼高の居城・七尾城の築城期を明記せず、「鎌倉期」としていたが、具体的には、おそらく、この黒谷高嶽城という支城を築城した時期と同じ、建久4年(1193)と思われる。説明板にもあるように、命じたのは益田兼高で、築城の実行者は平宗兼である。

 宗兼の家臣・滝口半田時員(はんでんときかず)は、宗兼没後、彼の冥福を祈って、東麓に高嶽山宗兼(見)院を菩提寺として建立した。
【写真左】井戸跡
 ピークを過ぎて南方面に向かう尾根道の途中に井戸跡がある。

 当城の上部は岩盤のような地質であるため、水の出る場所としては、このあたりしか出なかっただろう。
 直径は約4mぐらいか。


南北朝期

 説明板にもあるように、この時期当城には、一時足利直冬が在城している。その時期は、文和2年(1353)の2月頃と思われるが、数か月もしくは、間を開けて数回在陣している節がある。
【写真左】石塁か
 登城路中間点当たりにあったもので、加工跡がありそうな大きな石が、散在していた。






 最初に訪れたのは、前記のように2月ごろで、同月28日付で、直冬から益田兼見に宛ての感状が届けられている(益田家什書)。

 このとき、益田兼見が招いたものだが、当時馬谷高嶽城と併せて、下種の平家ヶ嶽(北方13キロ烏帽子山南麓)を支城としたという。

 また、同年(文和2年)6月23日付で、直冬は南朝の命により、足利義詮追討への参陣を益田彦三郎に促している(萩閥3)。

 ところで、北側の山麓大屋形村には、直冬の住む大館があったという。直冬の晩年は以前にも紹介したように、最期は都治(江津市)の高畑城(慈恩寺)で隠遁した。
【写真左】倒木
 こうした倒木が途中で2,3カ所あったが、迂回したり、跨いだりして向かう。







戦国期

 馬谷高嶽城より、北へ約6キロ向かうと、益田川本流の北麓に以前紹介した四ツ山城(島根県益田市美都町朝倉・小原 滝山)がある。

 この城は、最後に益田氏が領有し、城番としていた田川源八が、馬谷高嶽城主であった杉森氏久の攻撃にあって討死している。

 馬谷高嶽城主・杉森氏が四ツ山城を攻撃した時期は不明だが、益田氏が領有する前の三隅一族の一人であった須懸忠高が益田氏に攻められ、城中で自害したのが、元亀元年(1570)8月29日であるので、それ以降となる。
【写真左】次第に傾斜がきつくなる。
 途中から、本丸まで何メートルという表示が出てくる。400m手前あたりから傾斜がきつくなり、階段が設置してあるが、ほとんど朽ち果てていて、あまり信用できない。そうした個所にはロープが設置してある。



 この杉森氏久については、その出自などは不明だが、毛利・益田氏に対して最期まで徹底して抗戦している。
 「益田市誌・上巻」によれば、彼の縁戚関係であった因幡国倉掛城主・杉森下総守が毛利・益田氏に滅ぼされた遺恨からであるという。

 残念ながら、この因幡国倉掛城という城砦については、手持ちの史料などを見る限り詳細が不明だ。「石陽軍見聞記」という史料には詳細が記されているという。
【写真左】最初にみえた堀切
 堀切という名称を付けた標識があるのは、この写真の個所と、すぐ先のものと、合計2カ所である。
 ただ、この位置に来るまでに、当時は堀切だったのではないかと思われる個所が2カ所程度あったが、大分埋まっていた。



 その後、杉森氏は元亀年間(1570~72)に、毛利方の瀬戸内海水軍領主・児玉小次郎及び同平太、そして地元国人領主領家氏によって討たれたという。

 児玉氏はこのころ毛利方にあって、その水軍力をいかんなく発揮し、石見・出雲の日本海を文字通り東奔西走している。
 主だったこのころの記録を拾ってみると、次のようなものがある。
 時期はいずれも元亀元年(1570)のものである。
【写真左】いよいよ急こう配の登り坂
 2番目の堀切と抜けると、途端にきつくなる。御覧のように岩だらけの登坂路になるので、雨の日は無理だろう。
 このあたりから呼吸が乱れ、何度も休憩をとった。
  • 4月9日 毛利輝元より井上・児玉・武安・林氏に対し、安来から温泉津への兵糧輸送船は、温泉津から回航するよう命じる(萩閥101)。
  • 10月6日 毛利元就、児玉就英に対し、船を準備し早々に神西湊へ赴くよう命じる(萩閥101)。
  • 10月17日 毛利元就、児玉就英に対し、温泉津で準備した船に8日に乗船したとの報告を受けたこと、水・米の補給や水夫の徴発を命じていることなどを伝える。
  • 10月19日 児玉就英、去る16日に宇龍(大社)より加賀浦(松江)に水軍を移動させる。
  • 10月28日 毛利元就・輝元、児玉就英に対し、24日に加賀浦で尼子方の船を攻撃し兵糧等を焼き捨てたことを賞する(萩閥100)。
  • 11月2日 毛利元就・輝元、児玉就英に対し、25日に森山(美保関)で新山城の兵糧船を捕らえ兵糧等を焼き捨てたことを賞する(萩閥100)。
【写真左】郭段
 急こう配の登坂路を過ぎると、今度は勾配はないものの、極端な細尾根道(土橋か)があり、そのあと、かなり手が加えられたこの郭段が控える。



 この外にも、元亀2年(1571 )3月19日、出雲の高瀬城(斐川町)が落城し、城主米原綱寛が新山城(松江市)に奔った際にも、児玉水軍は多大な功績を挙げている。
 
 こうしたことから、馬谷高嶽城の城主杉森氏が討たれたのは、おそらく新山城が落城した元亀2年(1571)8月21日以降と思われる。
 なお、杉森氏を討った児玉小次郎・平太は、これより先の永禄年間、それまでの戦功によって久代三百原に、城を築いた。この場所は現在の益田市下本郷のJR山陰線の東(平原上組付近)にあるが、遺構は残っていない。
【写真左】頂部の帯郭
 上記の郭を過ぎると、再びあえぎながら登る急坂が待っている。距離が短かったので助かったが、体力のない者には相当こたえる。

 そうした修羅場を抜けると、嘘のような平坦地が現れる。本丸北に導くU字型の帯郭だ。
 笹竹が繁茂している。当時もあったとすれば、「竹矢」として相当使われたのだろう。
 これら左右の竹をかき分け両端部に立つと、どの個所も第一級の切崖である。
 帯郭の一部、右側(西~南にかけて)には50cm高の土塁跡が見える。

【写真左】本丸直前に建つ「山口神社跡」
 史料がないため、山口神社の詳細は不明だ。

 戦国期のものとすれば、杉森氏もしくは、杉森氏を討った児玉一族に関わるものだろうか。

【写真左】山口神社跡から本丸を見る。
 南端部の帯郭から凡そ100m程度歩くと、当該神社の奥に高さ2m程度の本丸の姿が見える。

【写真左】本丸跡に建つ「高嶽城」の縄張図
 この図でいえば、登ってきたのは右上の「至大屋形」からで、右側が北を示す。
 なお、この図の左側に大型の腰郭・帯郭などが図示されているが、現状は整備されておらず、この日は踏破していない。

 山城ファンとしては、この個所が見ごたえがあると思われるが、間に厳しい切崖があり、さらに笹竹・雑木などが大規模に繁茂しているため、おそらくそこまで整備できなかったのだろう。

【写真左】本丸跡に設置された登山者記録所
 中に記帳ファイルがあり、記入されていたが、主に地元益田市民が多い。意外と子どもたちも登っているようだ。

 ただ、現在は記帳が満杯で、書く所がなく、余白に記帳しておいた。

【写真左】主郭から北に伸びる郭1段目
 北に伸びる郭は3段に構成さている。

【写真左】同上の3段目の郭
 この郭下は整備されていないが、1~3段目の高低差は平均して4m程度ある。

【写真左】北東麓に宗兼院を見る。
 上段で紹介した平宗兼の家臣・滝口半田時員が建立したといわれる「高嶽山宗兼院」が見える。
【写真左】本丸から東に伸びる郭と土塁
 長さは約20m程度で、主として南面に土塁を残している。

【写真左】本丸より北方を見る。
 この方向には、四ツ山城が控える。

【写真左】本丸から東方を見る。
 写真中央の山は飯盛山(477m)で、これを越えると以前紹介した丸茂城(島根県益田市美都町丸茂)などがある。
 なお、現在本丸から俯瞰できる方向は、北と東方面が主である。

2010年12月22日水曜日

黒谷横山城(島根県益田市柏原)

黒谷・横山城(くろたに・よこやまじょう)

●所在地 島根県益田市柏原町
●築城期 鎌倉~南北朝期
●築城者 菖蒲五郎真盛(実盛)、波多野彦次郎、波多野彦三郎
●城主 波多野彦六郎等
●標高 350m
●比高 210m
●指定 益田市指定文化財
●登城日 2010年1月16日

◆解説(参考文献「益田市誌・上巻」「日本城郭大系第14巻」その他)
 前稿嘉年城(山口県山口市阿東町嘉年下)でも少し紹介したとおり、当城も特に南北朝期、激しい戦いが繰り広げられた山城である。横山城または、黒谷城と呼ぶ。
 所在地は現在の柏原町としているが、西側の桂平町、南の愛栄町に挟まれた東西に伸びる峰を利用した城砦である。
【写真左】黒谷横山城遠望
 北西麓の桂平小学校付近から見たもの。









 現地の説明板より

“益田市指定文化財
  史跡  横山城跡
          指定 昭和50年4月21日
 横山城は、標高350mの山頂に築かれた中世の山城です。本丸は全長67m、幅16mの平坦地で、本丸の東端には5段の空堀が残り、本丸の南斜面には全長67m、幅3~6mの帯状の二ノ丸があり、厩(うまや)の段と称されています。

 この城は、鎌倉時代に幕府から美濃地・黒谷地頭に任命され、関東から下ってきた菖蒲(しょうぶ)五郎真盛(実盛)が築城したと考えられていますが、定かではありません。
【写真左】登城口付近
 南側の道からあがった峠付近になる。
この位置に、「山頂まで233m」という案内が設置してある。

 この脇に車2台分程度の駐車スペースが確保されている。


 南北朝時代には、南朝方と北朝方の間で、またその後は、益田氏と津和野の吉見氏が美濃地・黒谷の領有をめぐって当城の争奪を繰り返しました。

 安土桃山時代には、完全に益田氏の支配下に置かれましたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに敗れた益田元祥が、須佐に移ると、時の城主喜島(きじま)備後守宗勝も、長門国市見に移り、横山城は廃城となりました。
  平成17年3月 益田市教育委員会”
【左図】黒谷横山城の図(「益田市誌・上巻」より転載)
 この図では、左が東で、右が西となる。
 現在、桂平町の南にある金ヶ峠より分岐し、北の野中地区に向かう途中の道から、黒谷城南麓を通り、東の大久保地区に向かう道が整備されている(ただし車1台分の幅員)。

 比高210mとしているが、これは北麓の桂平町からの登山道からの設定で、上記のルート(南麓)を使えば、比高は100m弱となる。


 当地・美濃地黒谷に地頭として入った菖蒲(波多野)氏については、貞応元年(1222)とされている(益田市誌上巻)ので、いわゆる承久の乱による論功行賞によるものだろう。

 萩閥益田家文書に下記のものが見える。

菖蒲五郎真盛自関東所給預也
   但於未知福地地頭職者、雖被載于御下文、先度他人給之事、可令存其旨之状如件。
貞応元年(1222)九月十八日
   武蔵守 平判(北条泰時)
   相模守 平判(北条時房)”
【写真左】登城路
 登城口から、東の方に向かって斜めに登るコースが造られている。ほとんど直線だが、傾斜はさほどなく、歩きやすい。


  ところで、この黒谷横山城から北へ約3キロ向かったところに、横尾という地区がある。この地区には横尾墓の台と呼ぶ田圃の中に、「横尾右衛門 法名黒谷院殿請求大居士の墓」というのがあり、彼をこの土地の開拓始祖とし、田中明神として尊崇しているという。

 「益田市誌・上巻」では、彼が没した時期が嘉暦元年(1225)であることから、菖蒲五郎真盛とは、この横尾右衛門のことではないかとしている。

 この墓は探訪していないが、黒谷横山城の北麓を流れる上黒谷川を挟んで、北方にある上黒谷や美濃地にかけては、この外に原城(黒周 原 H160m)、朝柄山城(有福城:黒周 H220m)、美濃地城(桜田城:美濃地 H145m)もあり、横尾右衛門が菖蒲五郎真盛でないとしても、これら三城の城主と関わりがあった武将と思われる。
【写真左】登城到達地点に見える堀切
 上掲した図で示された、本丸と二ノ丸の間にある堀切で、この写真では左側に本丸が造られている。

 さて、これまで石見における南北朝争乱については、度々関係した諸城でとりあげてきたが、大雑把な時系列でいえば、建武2年(1335)から康永2年(1343)の約9年間がもっとも激しい戦いのあった時期といえる。

黒谷・横山城の戦い

 「久利家文書」に、以下のような記録が見える。
  • 建武3年・延元元年(1336)5月12日付で、赤波朝房が石見国上黒谷城での軍忠状を上野頼兼に提出する。
同年(1336)5月10日、上野頼兼(武家方派遣将軍)侵略の報を知った宮方軍の高津長幸は、長州への進軍を計画、三隅兼連の嫡男・兼雄、波多野彦六郎、難波中務入道、周布兼茂、内田兼家らと呼応し、高津を出発、白上(高津川の支流白上川沿い)を経て黒谷に向かった。

 その日の10日から11日の2日間、頼兼の旗下にあった吉川経明らの軍と山の手において激戦に及んだ(吉川家什書)。
 「日本城郭大系第14巻」によれば、宮方であった城主・波多野彦六郎が敗れ、当城は北朝方(武家方)の将・石見守護上野頼兼の手におちたとある。宮方軍のうち、波多野彦六郎が先にこの黒谷城に拠っていたことになる。

 翌年の建武4年には、しかし宮方軍が一旦挽回するものの、その年の後半と思われるが、再び北朝軍が奪回している。
【写真左】本丸跡に建つ「喜島備後守追悼の碑」
 この脇に石塔があり、次のように記されている。
“記
 此の喜島備後守追悼之碑は、昭和17年5月10日、発起人大石要吉氏が建立経費三百二十円外諸経費一切を負担し建立した。
  昭和60年6月吉日  大石敏登、青木義友 之建”


室町期の黒谷

 その後、室町期に入ると次のような動きが記されているが、複数の史料で差異がみられる。
 「益田市誌・上巻」によると、黒谷の地に菖蒲氏が入部してから、180年後の応永9年(1402)、時の七尾城主・益田兼世が周防入道大内源征との契約によって、黒谷の地頭を兼ねた(益田兼明蔵「本宗益田家系図」)、とあるが、「益田家文書」では、時期がこれより下る。すなわち、
 応永12年(1405)1月5日付で、

“石見守護・山名氏利が、益田兼世に石見国長野荘内黒谷郷の地頭職を安堵する。”
とある。

 さらに、応永18年(1411)、黒谷は13代益田秀兼の弟・氏秀が所有した。氏秀は彦次郎氏兼と称し、波多野姓を名乗った、とあるが、これも、益田家文書では、その時期は逆にさかのぼった応永14年(1407)12月11日とし、

“石見国守護・山名氏利、益田兼家に石見国の所領を、波多野氏秀に長野荘内黒谷郷の地頭職を安堵し、兼家の公田に段銭を課すことを許可する。”
 とある。
【写真左】本丸北面
 本丸の西端部から、北東方面を望んだもので、中央奥に益田市街地、及び日本海が望める。

 なお、当城の本丸北面は全体に切崖になっており、吉見氏側が拠った場合には、北東から攻めてくる益田氏に対して有利になるが、益田氏が拠った場合には、南側は切崖が少ないので、不利になっただろうと思われる。

波多野氏

 ところで、黒谷城に関わってきた波多野氏については、敵味方にそれぞれ存在している。
 応永18年、益田秀兼の弟・氏秀がのちに波多野姓を名乗ったとあるが、益田氏や吉見氏のどちらかが、領有してきても、当城の城主は波多野氏となっているふしがある。

 このことから想像すると、断片的な記録しかないため、断言はできないが、黒谷横山城をめぐっては、相当早くから波多野氏一族内で、益田派と、吉見派に分裂していたのではないだろうか。そして、最後の応永18年には、同氏の嗣子が途絶えたか、あるいは、益田氏が半ば強制的に支配し、同氏へ養子として入ったのではないだろうか。
【写真左】本丸南下の郭
 整備されていないので、状況は分かりづらいが、幅5m、長径20m程度だろうか。本丸との高低差は5m程度だろう。

 なお、この日登城した登城路の途中にも、不揃いながら、郭が数カ所点在していたが、遺構としてまとまっているのは頂部である本丸・二ノ丸付近が多い。


 さて、このような状態で益田氏と吉見氏の抗争が続く。最終的に当城が益田氏の支配に落ち着いたのは、文明6年(1474)7月の足利義政の袖判御教による。その主な内容は、益田貞兼に石見国長野荘高津など七郷の地頭職等を安堵する(萩閥7)、というものである。
【写真左】本丸西端から本丸を見る
 石碑が建っている個所が主郭部分であるが、その位置から西端まではおよそ50m程度ある。その先端部は伐採されていないが、切崖状態に見えた。

 なお、石碑の先に登ってきた堀切が2段にくまれ、その先東方へ向かって長い二ノ丸が続く。


戦国期

 戦国期以降については、天正年間、益田元祥の命によって、下黒谷城(原城:黒谷城より北方3キロにあった山城)の城主藤原宗秀の孫・宗勝が城主となり、後に宗勝は喜島(きじま)氏を名乗っている。

 関ヶ原の戦いでは、益田元祥(毛利方)に従い、敗れた後、元祥に随従したまま当城を離れたため、廃城となった。

【写真左】本丸から南方に津和野方面を見る。
 眺望がこれだけ良好であることを考えると、いかに両者(益田氏・吉見氏)が当城を確保したかったか、よくわかる。

【写真左】本丸から北方を見る。
 北麓の上黒谷町となるが、中央部に先鋒した山が浄土寺山(250m)で、その手前の中腹部に先述した原城があり、右側峰奥には朝柄山城(220m)がある。
 なお、この写真の左側は山口県になる。

【写真左】馬場跡か
 本丸下の二段の堀切を抜けて東方に進んでいくと、二ノ丸になる。全体に痩せ尾根ながら、長さは数百メートルと長大だ。

 郭としては300m程度までだが、仏峠といわれる個所直前までの鞍部が城域として使用されたと考えられる。
 この写真は平坦面の精度がよい個所で、50m程度確保されていた。おそらく馬場跡だったのだろう。

【写真左】途中に見えた尖った岩
 二ノ丸は痩せ尾根個所が多く、南北にわたって切崖個所が長く伸びている。
 この写真は北側の個所だが、この上から落ちたらひとたまりもない。
 まさに天険の要害である。

 なお、二ノ丸をさらに東方に下って行くと、おそらく上図に示した北側からの登山口に向かうと思われる。


◎関連投稿

2010年12月17日金曜日

嘉年城(山口県山口市阿東町嘉年下)

嘉年城(かねじょう)

●所在地 山口県山口市(阿東町)嘉年下
●別名 賀年城、勝山城
●築城期 不明(鎌倉後期~南北朝期)
●城主 虫追政国(石見国美濃郡長野庄惣政所)、波多野彦六郎、波多野滋信その他
●標高 516m
●比高 100m
●遺構 堀切、郭
●登城日 2010年9月18日

◆解説(参考文献「益田市誌・上巻」「日本城郭大系第14巻」その他)
 前々稿で取り上げた吉見氏居館跡(島根県鹿足郡津和野町中曽野木曽野)から、南西方向である山口県側へ抜けると、途中に嘉年坂(かねさか)峠がある。これを越えると山口県に入るが、そこから少し下った嘉年下という地区に嘉年城がある。
【写真左】嘉年城遠望
 麓を走る道路は315号線











 当城は、津和野城の支城として主に使用された。築城期は不明だが南北朝期にはすでに存在していたといわれるので、本城である津和野城の築城期(正中元年:1325)とほぼ同時期と考えられる。

 最初に記録に出てくるのは、やはり石見南北朝のころである。以前にも石見南北朝の流れを三隅城などの稿で紹介してきたが、今稿の嘉年城もこのとき、重要な城となった。
【写真上】麓に設置された「嘉年故郷案内図」
 当地阿東町の支所のような施設に設置されたもので、嘉年城はこの図のほぼ中央に図示されている。

 この案内図はかなり詳しく地元の史跡関係が紹介がされているが、個別リストの項の文字が大分薄くなり、判読が困難になっている。

 戦国期関係で読み取れる事項としては、嘉年城(勝山の城址)の向背に「陶寄せ陣」というものが描かれているが、これは陶晴賢の軍のことである。
 また、315号線を挟んで東に小丘があるが、これを和田山城といい、陶方の三浦氏がここに陣をはったという(後段写真参照)。
 このほか、戦国関係の史跡としては、以下のものが記されている。
  • 大神宮 勝山城主波多野氏が1534年に伊勢から勧請した。
  • 波多野本家 勝山城主の館跡。堀があったが今は用水池となっている。
  • 若宮様 勝山城主波多野滋信公の御墓。1554年の合戦で戦死。
  • 龍昌寺 勝山城主波多野氏の菩提寺
  • 嘉年八幡宮 平安時代初期に宇佐から勧請。津和野より援軍に来た吉賀氏は、高佐で戦い、帰路追われてここで自害したという。
  • 茶臼山 合戦の時、陶方の弘中氏が陣を張り、津和野から勝山城への援軍を阻止した。
  • 物見ヶ岳 ここに狼煙場があり、勝山城と津和野三本松城との通信に使われた。
  • 姥ヶ迫 落城の時、若者を連れた乳母がここに逃れたが、味方を呼ぶために吹いたホラ貝を、敵に嗅ぎつけられたという伝説の地。


 建武4年(1337)4月、安芸の武田兵庫助信武は、吉川五郎次郎経盛、長門の厚東修理亮武実、そして石見の小笠原長氏らと連合し、三隅城(島根県浜田市三隅町三隅)に迫った。また、上野頼兼は、吉川実経代小林左衛門三郎を同じく三隅に向かわせた。

 これは北軍(尊氏)派の動きであるが、以前にも紹介したように、これに対する三隅兼連をはじめとする宮方軍は、逆に勢威を強め、5月になると、七尾城(島根県益田市七尾)を落とし、高津城(島根県益田市高津町上市)から黒谷横山城(島根県益田市柏原)(宮方軍居城)を進み、さらに北側から回って弥富・福田・生賀の諸城を焼き払い、ついに嘉年の西からこの嘉年城を攻め立てたという。

 嘉年城に拠った北軍の城主は、美濃郡(石見)長野庄惣政所の虫追(むそう)政国である。彼は、左膝に射傷を受け負傷したものの、そのまま大手門から打って出て、波多野六郎、難波中務入道の旗二旗を奪い取ったという(萩閥益田家文書)。

 このときの勝敗は宮方軍の勝利となったが、その後北軍は陣を立て直し、7月宮方軍の占拠する北方の黒谷横山城(島根県益田市柏原)に迫った。ここで数日間にわたる激戦が繰り広げられ、北軍として参戦した周防国仁保庄一分地頭・平子孫太郎親重は、上野頼兼から軍忠状を受けている(萩閥三浦家文書)。
【写真左】登城口
 登り始めたのが夕方近くだったが、ちょうどこのあたりで地元の方に登城路を確認し、向かった。
 なお、写真に見える位置は、市場という地区で、315号線の脇に車一台分のスペースがありそこに停めた。




 明けて暦応元年(延元3年:1338)3月、三星の城(益田市神田町:標高110m)の城主領家恒仲は、福屋・桜井氏と合力し、嘉年城攻めの宮方軍・三隅兼連・高津長幸らと呼応、石見に進出してきた安芸の北軍・武田氏を攻め、山県郡(広島県)の大朝・本庄に迫り、吉川辰熊丸を押し込み、14日には守護・武田信武を退けるなど、宮方軍の優位が続いた(那賀郡史など)。

 このころ中央では、5月22日、北畠顕家(北畠氏館跡・庭園(三重県津市美杉町下多気字上村)参照)が堺浦石津で高師直と戦い戦死。また閏7月2日には、新田義貞が斯波高経と戦って越前国藤島で敗死している。
 そして、翌月の11日、足利尊氏は征夷大将軍に任じられる。西国では今だ戦禍の絶えない状況下であるにもかかわらず、事実上室町幕府が始まることになる。その明くる年(暦応2年・延元4年:1339)8月16日、後醍醐天皇が没した。

【写真左】登り坂手前に設置された「勝山城(嘉年城)登山口」の標識
 最初の登山口から谷間を進み、ため池の手前から右に折れ、しばらく周回していくと、この場所に差し掛かる。

 ここからは、直坂登でほとんどつづら折りでないため、要所にはロープが設置されている。
 勝山城の特徴は、全周囲が急峻な山のため、「無類の天険」といわれている。

 地元の方によって、特にロープ等の整備がなされいるからなんとか登れるが、こうしたものがないと、登山に習熟した人でないと登れないだろう。設置整備された地元の方々に感謝したい。


 文明3年(1471)12月7日、陶弘護は、以下の報告を京都にあった大内氏に報告している(益田家文書)。
  • 吉見・三隅・周布・小笠原諸氏による嘉年城包囲
  • 益田貞兼の杉峠通路城・カケノ城・高津小城攻略
  • 自らの軍(弘護)による嘉年城を攻略
これは、応仁元年(1467)から始まった応仁の乱による石西・長門での戦いの記録である。
【写真左】急峻な登山道
 雨天時や積雪のあるときは、避けた方がいいだろう。ロープがあっても足元がすくわれる。先ず、無理である。
 また、複数で登るときは、上からの落石に注意した方がいい。
 
 先に登って行った連れ合いの真下から、何度も落石があり、「千早城の楠木正成ばりの攻撃?」を身内から受ける羽目になった。
 二人以上の場合は、十分に距離を保つことが必要だ。


 戦国期に入って当城での戦いがもっとも激しかったのは、天文22年(1553)から弘治3年(1557)ごろである。

 以前紹介した大内義隆墓地・大寧寺(山口県長門市深川湯本)で、義隆が自害すると、大内派だった吉見正頼は、天文22年10月、津和野城(三本松城)と、この嘉年城に拠って義兵を挙げた。

 同月12日、吉見正頼下瀬頼定(下瀬山城主)は、石見国池田において陶晴賢の兵を破る(下瀬文書)。緒戦は吉見氏が優勢だったが、次第に陶氏が大内義長を戴いて攻勢を強めた。

【写真左】登り切った場所の三の丸と二の丸の中間点
 右に三の丸が控え、左に行くと武者走りが斜面に構成され、二ノ丸・本丸方面に繋がる。






 嘉年城は、城将・波多野滋信が守城し、粘り強く防戦したが、11月13日になると、晴賢・義長が一斉に攻めよせ、翌年3月3日、城中にあった田中某の一党が敵方に内応したことにより、落城、滋信は討死した。

 その後、吉見氏側は嘉年城から本城・三本松城へ敗走するも、12月追走した大内義長・陶晴賢によって再び破られた。しかし、翌弘治元年(1555)10月、吉見氏を破った陶晴賢は、厳島の戦い宮尾城(広島県廿日市市宮島町)参照)で、毛利元就に敗れ自害した。
 残った大内義長は、大内義長墓地・功山寺(山口県下関市長府川端)で紹介したように、弘治3年(1557)4月2日、長福寺(功山寺)において自害する。

吉見正頼は、おそらく義長自刃後と思われるが、毛利元就の家臣となり、厚い信頼を受け元就死去後は、輝元の補佐役を務めていく。
【写真左】三の丸
 きぼはさほど大きくはないが、高低差は予想以上にある。
【写真左】二ノ丸
 二ノ丸と本丸は同じ頂部稜線上に造られている。
 二ノ丸の幅は6~7m、長さは40m程度と細長い。
 また両端部は険しい切崖を構成している。





【写真左】二ノ丸から本丸を見る。
 本丸に行くに従ってやや細くなる。写真の一番奥にみえるところが本丸になる。








【写真左】井戸跡か
 地形的にはこの場所で井戸を掘削しても水はでないような感じもするが、井戸跡であるとするなら、数十メートルは掘らないと水は出てこないだろう。






【写真左】三角点(本丸付近)
 標高516mとなる。
 本丸そのものは、4、5m四方の小規模なものである。









【写真左】本丸とその北に設置された郭
 写真の右側が本丸で、その左側に段差を持たせた郭が構成されている。規模は本丸より多少大きい。







【写真左】和田山城遠望
 前段で紹介した和田山城で、陶方の三浦氏が拠った。
 現在公園となって忠魂碑が建立されている。

 なお、和田山城はこの日登城していないが、サイト「城格放浪記」氏が紹介しているのでご覧いただきたい。


◎関連投稿