徳永城跡(とくながじょうあと)
●所在地 島根県鹿足郡津和野町中曽野中組
●築城期 弘安5年(1282)
●築城者 吉見氏
●城主 岡氏
●標高 327m
●比高 60m
●遺構 郭 等
●備考
●探訪日 2010年7月21日
◆解説(参考文献「日本城郭大系14巻」等)
前稿「吉見氏館跡」で触れた冨永八幡宮の東隣りに徳永城がある。
訪れたこの日(2010年7月21日)は、吉見氏館跡が目的であったことや、時間があまりなかったこともあり、当城については登城していない。
【写真左】徳永城遠望
本丸は右側の山になるが、左側の峰も城砦の遺構があると思われる。
現地の簡単な説明板によると、築城期は吉見氏館が創建された時期と同じく、弘安5年(1282)となっている。築城者は吉見氏としているが、当初から吉見氏の一族であった岡氏が拠っていたのではないかと思われる。
位置的に考えると、吉見氏館のある木園地区に入る手前の場所で、同館を守る番所的位置づけだったと思われる。
また、もうひとつの役目は当城より北方にある「御嶽城」(同町中山奥ヶ野に所在する標高504mの山城)の支城・砦の役目もあったという。こうしたことから、小規模ながら重要な城砦であった。
【写真左】登城口付近
整備されている風に見えたが、訪れたのが7月で、夏の真っ最中である。おそらく草丈が伸びて遺構の確認も困難だったと思われる。
登城しなかったもう一つの理由は、今夏のクマの出没頻度が余りに多いため、断念したからである。
ところで、この稿では番外編として、この地域に残るもう一つの近世史跡を紹介しておく。
岡 熊臣旧宅
●所在地 同町大字山下字清水前327番地
●指定 津和野町指定文化財
【写真左】岡熊臣旧宅
◆解説
岡 熊臣(おかくまおみ)は、幕末に活躍した日本の国学者で、この地で生まれている。
前稿「吉見氏館跡」で紹介した「冨長八幡宮」の神官・岡忠秀の子として生まれている。今稿「徳永城」と、冨永八幡宮とはわずか400mほどしか離れていない。
徳永城の城主岡氏の一族が、富長八幡宮の神官も当時から務めていたと思われ、近世国学者の岡熊臣もその末孫であったと思われる。
現地の説明板より
“津和野町指定文化財 史跡「岡熊臣 旧宅」
指定年月日 平成8年12月10日
【建物概要】
現在の建物は、築後180年、宮大工によるものとされ、各所に特徴のある意匠が見られる。
「我が住む草の庵を桜のやどりとしもいう由は、今は昔おのがよつぎの親なりし治秀真人と聞こえしは、情けある人にて家の巡りに、名だたる桜木ども数多く求め植えられけり…」のとおり、当時は周囲に多くの桜の木が植えられ、文化12年から自宅で開いた塾も「桜陰館」と呼ばれていた。
建物は、平成7年、岡氏より町へ寄贈され、平成8年12月、町文化財に指定、建物の修復整備が行われ現在に至っている。
【写真左】「桜陰館」の表札
【岡 熊臣 業績】
岡 熊臣は、天明3年(1783)3月9日、鹿足郡山下村(現津和野町大字山下)で冨永八幡宮の宮司岡忠秀の長男として生まれた。はじめ忠栄、のち熊臣と称し、字は一朗、号には東嶺、桜廼舎などがある。
本居宣長を師と仰ぎ、宣長の門人千家俊信、村田春門などに師事して国学を学んだ。
熊臣が生涯に残した著作は、大著『日本書紀私伝』などを含め500巻以上、和歌も数千種に及び、今なお研究者に高く評価されている。また、教育に果たした役割も大きく、多くの先哲を輩出した藩校養老館の初代国学教授として迎えられ、国学を教育の基本に掲げ、学則を制定した。この養老館学則は、館教育の基本方針に留まらず、藩全体の精神的支柱になった。
嘉永4年(1851)8月6日、津和野町官丁の官邸で68歳の生涯をとじた。
津和野町教育委員会”
●所在地 島根県鹿足郡津和野町中曽野中組
●築城期 弘安5年(1282)
●築城者 吉見氏
●城主 岡氏
●標高 327m
●比高 60m
●遺構 郭 等
●備考
●探訪日 2010年7月21日
◆解説(参考文献「日本城郭大系14巻」等)
前稿「吉見氏館跡」で触れた冨永八幡宮の東隣りに徳永城がある。
訪れたこの日(2010年7月21日)は、吉見氏館跡が目的であったことや、時間があまりなかったこともあり、当城については登城していない。
【写真左】徳永城遠望
本丸は右側の山になるが、左側の峰も城砦の遺構があると思われる。
現地の簡単な説明板によると、築城期は吉見氏館が創建された時期と同じく、弘安5年(1282)となっている。築城者は吉見氏としているが、当初から吉見氏の一族であった岡氏が拠っていたのではないかと思われる。
位置的に考えると、吉見氏館のある木園地区に入る手前の場所で、同館を守る番所的位置づけだったと思われる。
また、もうひとつの役目は当城より北方にある「御嶽城」(同町中山奥ヶ野に所在する標高504mの山城)の支城・砦の役目もあったという。こうしたことから、小規模ながら重要な城砦であった。
【写真左】登城口付近
整備されている風に見えたが、訪れたのが7月で、夏の真っ最中である。おそらく草丈が伸びて遺構の確認も困難だったと思われる。
登城しなかったもう一つの理由は、今夏のクマの出没頻度が余りに多いため、断念したからである。
ところで、この稿では番外編として、この地域に残るもう一つの近世史跡を紹介しておく。
岡 熊臣旧宅
●所在地 同町大字山下字清水前327番地
●指定 津和野町指定文化財
【写真左】岡熊臣旧宅
◆解説
岡 熊臣(おかくまおみ)は、幕末に活躍した日本の国学者で、この地で生まれている。
前稿「吉見氏館跡」で紹介した「冨長八幡宮」の神官・岡忠秀の子として生まれている。今稿「徳永城」と、冨永八幡宮とはわずか400mほどしか離れていない。
徳永城の城主岡氏の一族が、富長八幡宮の神官も当時から務めていたと思われ、近世国学者の岡熊臣もその末孫であったと思われる。
現地の説明板より
“津和野町指定文化財 史跡「岡熊臣 旧宅」
指定年月日 平成8年12月10日
【建物概要】
現在の建物は、築後180年、宮大工によるものとされ、各所に特徴のある意匠が見られる。
「我が住む草の庵を桜のやどりとしもいう由は、今は昔おのがよつぎの親なりし治秀真人と聞こえしは、情けある人にて家の巡りに、名だたる桜木ども数多く求め植えられけり…」のとおり、当時は周囲に多くの桜の木が植えられ、文化12年から自宅で開いた塾も「桜陰館」と呼ばれていた。
建物は、平成7年、岡氏より町へ寄贈され、平成8年12月、町文化財に指定、建物の修復整備が行われ現在に至っている。
【写真左】「桜陰館」の表札
【岡 熊臣 業績】
岡 熊臣は、天明3年(1783)3月9日、鹿足郡山下村(現津和野町大字山下)で冨永八幡宮の宮司岡忠秀の長男として生まれた。はじめ忠栄、のち熊臣と称し、字は一朗、号には東嶺、桜廼舎などがある。
本居宣長を師と仰ぎ、宣長の門人千家俊信、村田春門などに師事して国学を学んだ。
熊臣が生涯に残した著作は、大著『日本書紀私伝』などを含め500巻以上、和歌も数千種に及び、今なお研究者に高く評価されている。また、教育に果たした役割も大きく、多くの先哲を輩出した藩校養老館の初代国学教授として迎えられ、国学を教育の基本に掲げ、学則を制定した。この養老館学則は、館教育の基本方針に留まらず、藩全体の精神的支柱になった。
嘉永4年(1851)8月6日、津和野町官丁の官邸で68歳の生涯をとじた。
津和野町教育委員会”
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