馬谷高嶽城(うまのたにたかだけじょう)
●所在地 益田市馬谷町
●築城期 建久4年(1193)
●別名 大屋形城・高嶽城
●遺構 郭、腰郭、土塁、石垣、堀切、井戸
●登城日 2010年2月7日、及び12月20日
◆解説(参考文献「益田市誌・上巻」「日本城郭大系第14巻」等)
馬谷高嶽城は、本年9月13日投稿「上久々茂土居跡」や、同じく9月9日投稿「大谷城」でも少し紹介しているように、上久々茂土居跡をさらにさかのぼった益田川支流馬谷川と、大谷土居跡の脇を流れる大谷本溢川の源流の間に挟まれた標高460mの山城である。
【写真左】馬谷高嶽城遠望
東麓から見たもの。
現地の説明板より
“寿永4年(1185)、源平合戦で壇ノ浦に敗れた平家の将・平 宗盛(清盛の三男)平宗範は、源義経の幕下で参戦した御神本兼高(後に益田と改姓)に捕らえられたが、素直に帰順したので、馬谷に住むことを許されたので、この地に築城を命ぜられたものと思われる。
馬谷城は、別名高嶽城とも謂われ、馬谷・大谷形・岩倉の三村に跨る標高460mの山嶽の中央にある。
140年後の文和2年(1353)、足利直冬が探題として入城、中国地方に号令することとなった。
しかし、当時の政変からここに住んだのは僅か数ヶ月にすぎなかったのではなかろうか。
【写真左】登城口付近
登城口は2,3カ所あるようだが、この場所は本丸より北に伸びた稜線の東麓部になる。
なお、麓に行くまでのルートとしては、以前取り上げた益田川が大きく蛇行する位置の「上久々茂土居跡」付近で南(右)に枝分かれする道(途中まで道が広くなっている)に入り、東の谷になる馬谷に向かうと、正面に当山の姿が見える。
第3次城主杉森氏久も、毛利・益田の領主に反逆謀叛を起こして死亡してしまった。
以来、城山と呼ばれて親しまれてきたこの山も、歴史の変遷と年月の隔たりよりさだかでないが、本丸・神社跡オバンバの石・物見櫓など伝説を頼れば、峻険な馬谷側よりも大屋形側が登山口として浮かび上がってくるのである。
益田兼高は、建久4年益田七尾城に城を築いて、ここを主城とし高嶽城などを支城として補築したものと思われる。
神秘に包まれた山岳は、滅多に人を寄せつけず今も眠り続けているのである。
平成9年5月 文 熊谷政雄
真砂地区活性化対策協議会”
【写真左】前半の登城路
前半は細い尾根を登って行くことになる。途中でピークがあり、そこを左に回り、再び大小の尾根を進む。
大要は上記説明板のとおりであるが、平宗範は益田兼高に降伏した後、名を兼高の兼を戴いて宗兼と称しているようだ。
建保元年(1213)、彼は馬谷に佐比売山厳島神社を建立、多紀都比売命を祀り、鎮守の社とした。
以前取り上げた兼高の居城・七尾城の築城期を明記せず、「鎌倉期」としていたが、具体的には、おそらく、この黒谷高嶽城という支城を築城した時期と同じ、建久4年(1193)と思われる。説明板にもあるように、命じたのは益田兼高で、築城の実行者は平宗兼である。
宗兼の家臣・滝口半田時員(はんでんときかず)は、宗兼没後、彼の冥福を祈って、東麓に高嶽山宗兼(見)院を菩提寺として建立した。
【写真左】井戸跡
ピークを過ぎて南方面に向かう尾根道の途中に井戸跡がある。
当城の上部は岩盤のような地質であるため、水の出る場所としては、このあたりしか出なかっただろう。
直径は約4mぐらいか。
南北朝期
説明板にもあるように、この時期当城には、一時足利直冬が在城している。その時期は、文和2年(1353)の2月頃と思われるが、数か月もしくは、間を開けて数回在陣している節がある。
【写真左】石塁か
登城路中間点当たりにあったもので、加工跡がありそうな大きな石が、散在していた。
最初に訪れたのは、前記のように2月ごろで、同月28日付で、直冬から益田兼見に宛ての感状が届けられている(益田家什書)。
このとき、益田兼見が招いたものだが、当時馬谷高嶽城と併せて、下種の平家ヶ嶽(北方13キロ烏帽子山南麓)を支城としたという。
また、同年(文和2年)6月23日付で、直冬は南朝の命により、足利義詮追討への参陣を益田彦三郎に促している(萩閥3)。
ところで、北側の山麓大屋形村には、直冬の住む大館があったという。直冬の晩年は以前にも紹介したように、最期は都治(江津市)の高畑城(慈恩寺)で隠遁した。
【写真左】倒木
こうした倒木が途中で2,3カ所あったが、迂回したり、跨いだりして向かう。
戦国期
馬谷高嶽城より、北へ約6キロ向かうと、益田川本流の北麓に以前紹介した四ツ山城(島根県益田市美都町朝倉・小原 滝山)がある。
この城は、最後に益田氏が領有し、城番としていた田川源八が、馬谷高嶽城主であった杉森氏久の攻撃にあって討死している。
馬谷高嶽城主・杉森氏が四ツ山城を攻撃した時期は不明だが、益田氏が領有する前の三隅一族の一人であった須懸忠高が益田氏に攻められ、城中で自害したのが、元亀元年(1570)8月29日であるので、それ以降となる。
【写真左】次第に傾斜がきつくなる。
途中から、本丸まで何メートルという表示が出てくる。400m手前あたりから傾斜がきつくなり、階段が設置してあるが、ほとんど朽ち果てていて、あまり信用できない。そうした個所にはロープが設置してある。
この杉森氏久については、その出自などは不明だが、毛利・益田氏に対して最期まで徹底して抗戦している。
「益田市誌・上巻」によれば、彼の縁戚関係であった因幡国倉掛城主・杉森下総守が毛利・益田氏に滅ぼされた遺恨からであるという。
残念ながら、この因幡国倉掛城という城砦については、手持ちの史料などを見る限り詳細が不明だ。「石陽軍見聞記」という史料には詳細が記されているという。
【写真左】最初にみえた堀切
堀切という名称を付けた標識があるのは、この写真の個所と、すぐ先のものと、合計2カ所である。
ただ、この位置に来るまでに、当時は堀切だったのではないかと思われる個所が2カ所程度あったが、大分埋まっていた。
その後、杉森氏は元亀年間(1570~72)に、毛利方の瀬戸内海水軍領主・児玉小次郎及び同平太、そして地元国人領主領家氏によって討たれたという。
児玉氏はこのころ毛利方にあって、その水軍力をいかんなく発揮し、石見・出雲の日本海を文字通り東奔西走している。
主だったこのころの記録を拾ってみると、次のようなものがある。
時期はいずれも元亀元年(1570)のものである。
●所在地 益田市馬谷町
●築城期 建久4年(1193)
●築城者 平宗範(宗兼)
●城主 益田兼高、足利直冬、杉森氏久
●標高 460m●別名 大屋形城・高嶽城
●遺構 郭、腰郭、土塁、石垣、堀切、井戸
●登城日 2010年2月7日、及び12月20日
◆解説(参考文献「益田市誌・上巻」「日本城郭大系第14巻」等)
馬谷高嶽城は、本年9月13日投稿「上久々茂土居跡」や、同じく9月9日投稿「大谷城」でも少し紹介しているように、上久々茂土居跡をさらにさかのぼった益田川支流馬谷川と、大谷土居跡の脇を流れる大谷本溢川の源流の間に挟まれた標高460mの山城である。
【写真左】馬谷高嶽城遠望
東麓から見たもの。
現地の説明板より
“寿永4年(1185)、源平合戦で壇ノ浦に敗れた平家の将・平 宗盛(清盛の三男)平宗範は、源義経の幕下で参戦した御神本兼高(後に益田と改姓)に捕らえられたが、素直に帰順したので、馬谷に住むことを許されたので、この地に築城を命ぜられたものと思われる。
馬谷城は、別名高嶽城とも謂われ、馬谷・大谷形・岩倉の三村に跨る標高460mの山嶽の中央にある。
140年後の文和2年(1353)、足利直冬が探題として入城、中国地方に号令することとなった。
しかし、当時の政変からここに住んだのは僅か数ヶ月にすぎなかったのではなかろうか。
【写真左】登城口付近
登城口は2,3カ所あるようだが、この場所は本丸より北に伸びた稜線の東麓部になる。
なお、麓に行くまでのルートとしては、以前取り上げた益田川が大きく蛇行する位置の「上久々茂土居跡」付近で南(右)に枝分かれする道(途中まで道が広くなっている)に入り、東の谷になる馬谷に向かうと、正面に当山の姿が見える。
第3次城主杉森氏久も、毛利・益田の領主に反逆謀叛を起こして死亡してしまった。
以来、城山と呼ばれて親しまれてきたこの山も、歴史の変遷と年月の隔たりよりさだかでないが、本丸・神社跡オバンバの石・物見櫓など伝説を頼れば、峻険な馬谷側よりも大屋形側が登山口として浮かび上がってくるのである。
益田兼高は、建久4年益田七尾城に城を築いて、ここを主城とし高嶽城などを支城として補築したものと思われる。
神秘に包まれた山岳は、滅多に人を寄せつけず今も眠り続けているのである。
平成9年5月 文 熊谷政雄
真砂地区活性化対策協議会”
【写真左】前半の登城路
前半は細い尾根を登って行くことになる。途中でピークがあり、そこを左に回り、再び大小の尾根を進む。
大要は上記説明板のとおりであるが、平宗範は益田兼高に降伏した後、名を兼高の兼を戴いて宗兼と称しているようだ。
建保元年(1213)、彼は馬谷に佐比売山厳島神社を建立、多紀都比売命を祀り、鎮守の社とした。
以前取り上げた兼高の居城・七尾城の築城期を明記せず、「鎌倉期」としていたが、具体的には、おそらく、この黒谷高嶽城という支城を築城した時期と同じ、建久4年(1193)と思われる。説明板にもあるように、命じたのは益田兼高で、築城の実行者は平宗兼である。
宗兼の家臣・滝口半田時員(はんでんときかず)は、宗兼没後、彼の冥福を祈って、東麓に高嶽山宗兼(見)院を菩提寺として建立した。
【写真左】井戸跡
ピークを過ぎて南方面に向かう尾根道の途中に井戸跡がある。
当城の上部は岩盤のような地質であるため、水の出る場所としては、このあたりしか出なかっただろう。
直径は約4mぐらいか。
南北朝期
説明板にもあるように、この時期当城には、一時足利直冬が在城している。その時期は、文和2年(1353)の2月頃と思われるが、数か月もしくは、間を開けて数回在陣している節がある。
【写真左】石塁か
登城路中間点当たりにあったもので、加工跡がありそうな大きな石が、散在していた。
最初に訪れたのは、前記のように2月ごろで、同月28日付で、直冬から益田兼見に宛ての感状が届けられている(益田家什書)。
このとき、益田兼見が招いたものだが、当時馬谷高嶽城と併せて、下種の平家ヶ嶽(北方13キロ烏帽子山南麓)を支城としたという。
また、同年(文和2年)6月23日付で、直冬は南朝の命により、足利義詮追討への参陣を益田彦三郎に促している(萩閥3)。
ところで、北側の山麓大屋形村には、直冬の住む大館があったという。直冬の晩年は以前にも紹介したように、最期は都治(江津市)の高畑城(慈恩寺)で隠遁した。
【写真左】倒木
こうした倒木が途中で2,3カ所あったが、迂回したり、跨いだりして向かう。
戦国期
馬谷高嶽城より、北へ約6キロ向かうと、益田川本流の北麓に以前紹介した四ツ山城(島根県益田市美都町朝倉・小原 滝山)がある。
この城は、最後に益田氏が領有し、城番としていた田川源八が、馬谷高嶽城主であった杉森氏久の攻撃にあって討死している。
馬谷高嶽城主・杉森氏が四ツ山城を攻撃した時期は不明だが、益田氏が領有する前の三隅一族の一人であった須懸忠高が益田氏に攻められ、城中で自害したのが、元亀元年(1570)8月29日であるので、それ以降となる。
【写真左】次第に傾斜がきつくなる。
途中から、本丸まで何メートルという表示が出てくる。400m手前あたりから傾斜がきつくなり、階段が設置してあるが、ほとんど朽ち果てていて、あまり信用できない。そうした個所にはロープが設置してある。
この杉森氏久については、その出自などは不明だが、毛利・益田氏に対して最期まで徹底して抗戦している。
「益田市誌・上巻」によれば、彼の縁戚関係であった因幡国倉掛城主・杉森下総守が毛利・益田氏に滅ぼされた遺恨からであるという。
残念ながら、この因幡国倉掛城という城砦については、手持ちの史料などを見る限り詳細が不明だ。「石陽軍見聞記」という史料には詳細が記されているという。
【写真左】最初にみえた堀切
堀切という名称を付けた標識があるのは、この写真の個所と、すぐ先のものと、合計2カ所である。
ただ、この位置に来るまでに、当時は堀切だったのではないかと思われる個所が2カ所程度あったが、大分埋まっていた。
その後、杉森氏は元亀年間(1570~72)に、毛利方の瀬戸内海水軍領主・児玉小次郎及び同平太、そして地元国人領主領家氏によって討たれたという。
児玉氏はこのころ毛利方にあって、その水軍力をいかんなく発揮し、石見・出雲の日本海を文字通り東奔西走している。
主だったこのころの記録を拾ってみると、次のようなものがある。
時期はいずれも元亀元年(1570)のものである。
【写真左】いよいよ急こう配の登り坂
2番目の堀切と抜けると、途端にきつくなる。御覧のように岩だらけの登坂路になるので、雨の日は無理だろう。
このあたりから呼吸が乱れ、何度も休憩をとった。
- 4月9日 毛利輝元より井上・児玉・武安・林氏に対し、安来から温泉津への兵糧輸送船は、温泉津から回航するよう命じる(萩閥101)。
- 10月6日 毛利元就、児玉就英に対し、船を準備し早々に神西湊へ赴くよう命じる(萩閥101)。
- 10月17日 毛利元就、児玉就英に対し、温泉津で準備した船に8日に乗船したとの報告を受けたこと、水・米の補給や水夫の徴発を命じていることなどを伝える。
- 10月19日 児玉就英、去る16日に宇龍(大社)より加賀浦(松江)に水軍を移動させる。
- 10月28日 毛利元就・輝元、児玉就英に対し、24日に加賀浦で尼子方の船を攻撃し兵糧等を焼き捨てたことを賞する(萩閥100)。
- 11月2日 毛利元就・輝元、児玉就英に対し、25日に森山(美保関)で新山城の兵糧船を捕らえ兵糧等を焼き捨てたことを賞する(萩閥100)。
急こう配の登坂路を過ぎると、今度は勾配はないものの、極端な細尾根道(土橋か)があり、そのあと、かなり手が加えられたこの郭段が控える。
この外にも、元亀2年(1571 )3月19日、出雲の高瀬城(斐川町)が落城し、城主米原綱寛が新山城(松江市)に奔った際にも、児玉水軍は多大な功績を挙げている。
こうしたことから、馬谷高嶽城の城主杉森氏が討たれたのは、おそらく新山城が落城した元亀2年(1571)8月21日以降と思われる。
なお、杉森氏を討った児玉小次郎・平太は、これより先の永禄年間、それまでの戦功によって久代三百原に、城を築いた。この場所は現在の益田市下本郷のJR山陰線の東(平原上組付近)にあるが、遺構は残っていない。
【写真左】頂部の帯郭
上記の郭を過ぎると、再びあえぎながら登る急坂が待っている。距離が短かったので助かったが、体力のない者には相当こたえる。
そうした修羅場を抜けると、嘘のような平坦地が現れる。本丸北に導くU字型の帯郭だ。
笹竹が繁茂している。当時もあったとすれば、「竹矢」として相当使われたのだろう。
これら左右の竹をかき分け両端部に立つと、どの個所も第一級の切崖である。
帯郭の一部、右側(西~南にかけて)には50cm高の土塁跡が見える。
【写真左】本丸直前に建つ「山口神社跡」
史料がないため、山口神社の詳細は不明だ。
戦国期のものとすれば、杉森氏もしくは、杉森氏を討った児玉一族に関わるものだろうか。
【写真左】山口神社跡から本丸を見る。
南端部の帯郭から凡そ100m程度歩くと、当該神社の奥に高さ2m程度の本丸の姿が見える。
【写真左】本丸跡に建つ「高嶽城」の縄張図
この図でいえば、登ってきたのは右上の「至大屋形」からで、右側が北を示す。
なお、この図の左側に大型の腰郭・帯郭などが図示されているが、現状は整備されておらず、この日は踏破していない。
山城ファンとしては、この個所が見ごたえがあると思われるが、間に厳しい切崖があり、さらに笹竹・雑木などが大規模に繁茂しているため、おそらくそこまで整備できなかったのだろう。
【写真左】本丸跡に設置された登山者記録所
中に記帳ファイルがあり、記入されていたが、主に地元益田市民が多い。意外と子どもたちも登っているようだ。
ただ、現在は記帳が満杯で、書く所がなく、余白に記帳しておいた。
【写真左】主郭から北に伸びる郭1段目
北に伸びる郭は3段に構成さている。
【写真左】同上の3段目の郭
この郭下は整備されていないが、1~3段目の高低差は平均して4m程度ある。
【写真左】北東麓に宗兼院を見る。
上段で紹介した平宗兼の家臣・滝口半田時員が建立したといわれる「高嶽山宗兼院」が見える。
【写真左】本丸から東に伸びる郭と土塁
長さは約20m程度で、主として南面に土塁を残している。
【写真左】本丸より北方を見る。
この方向には、四ツ山城が控える。
【写真左】本丸から東方を見る。
写真中央の山は飯盛山(477m)で、これを越えると以前紹介した丸茂城(島根県益田市美都町丸茂)などがある。
なお、現在本丸から俯瞰できる方向は、北と東方面が主である。
史料がないため、山口神社の詳細は不明だ。
戦国期のものとすれば、杉森氏もしくは、杉森氏を討った児玉一族に関わるものだろうか。
【写真左】山口神社跡から本丸を見る。
南端部の帯郭から凡そ100m程度歩くと、当該神社の奥に高さ2m程度の本丸の姿が見える。
この図でいえば、登ってきたのは右上の「至大屋形」からで、右側が北を示す。
なお、この図の左側に大型の腰郭・帯郭などが図示されているが、現状は整備されておらず、この日は踏破していない。
山城ファンとしては、この個所が見ごたえがあると思われるが、間に厳しい切崖があり、さらに笹竹・雑木などが大規模に繁茂しているため、おそらくそこまで整備できなかったのだろう。
【写真左】本丸跡に設置された登山者記録所
中に記帳ファイルがあり、記入されていたが、主に地元益田市民が多い。意外と子どもたちも登っているようだ。
ただ、現在は記帳が満杯で、書く所がなく、余白に記帳しておいた。
【写真左】主郭から北に伸びる郭1段目
北に伸びる郭は3段に構成さている。
【写真左】同上の3段目の郭
この郭下は整備されていないが、1~3段目の高低差は平均して4m程度ある。
【写真左】北東麓に宗兼院を見る。
上段で紹介した平宗兼の家臣・滝口半田時員が建立したといわれる「高嶽山宗兼院」が見える。
【写真左】本丸から東に伸びる郭と土塁
長さは約20m程度で、主として南面に土塁を残している。
【写真左】本丸より北方を見る。
この方向には、四ツ山城が控える。
【写真左】本丸から東方を見る。
写真中央の山は飯盛山(477m)で、これを越えると以前紹介した丸茂城(島根県益田市美都町丸茂)などがある。
なお、現在本丸から俯瞰できる方向は、北と東方面が主である。
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