三宅御土居館跡(みやけおどい やかたあと)
●創建者 益田兼見
●指定 国指定
●標高 8m
◆解説(参考文献「益田市誌・上巻」、「日本城郭大系第14巻」等)
【写真上】左図:七尾城想像図、右図:三宅御土居想像図
写真がいびつだが、全体の構図は判断できると思われる。左図では三宅御土居は、上部の益田川を渡った位置に描かれている。
三宅御土居は、想像図にもあるように、全周囲に堀が巡らされ、東西には土塁が設けられていた。この土塁は下の写真にもあるように現在でも残っている。
三宅御土居の形状は、上掲したように東西に長い敷地となっている。また、この写真で見える右側の住宅地との段差でもわかるように、南側下段は帯郭の形式を持たせた構造になっている。
おそらくその郭のレベルが掘に接していることから、船着き場として兼用されていたのかもしれない。
●所在地 島根県益田市三宅町
●形式 居館跡
●築城期 平安時代末期~応安年間(1368~75)●創建者 益田兼見
●規模 192m×85m
●遺構 土塁、掘立柱建物、柱穴、堀、その他●指定 国指定
●標高 8m
●登城日 2010年9月12日
七尾城に拠った益田氏の居館跡とされているのが、当城より北西700m余りにあった三宅御土居である。
近年までその築城期が応安年間(1368~75)ごろ、益田兼見によって創建されたといわれてきたが、平成2年度から行われてきた益田市の発掘調査によって、その時期がさらにさかのぼった平安末期のころと訂正されている。
【写真左】三宅御土居跡
写真のように「おどい広場」と命名され、市民の憩いの場のような施設をつくりつつある。
現地にはこれまでの発掘調査で明らかになった詳細な内容を、大型のパネル型説明板を設置して紹介している。
また、益田氏の歴史を活かしたまちづくりをめざして、「七尾城通り」「おどい広場」といった愛称を命名している。
また、益田氏の歴史を活かしたまちづくりをめざして、「七尾城通り」「おどい広場」といった愛称を命名している。
これまで取り上げた「七尾城」と今稿「三宅御土居」、さらに紹介はしていないが、益田氏や雪舟と深いかかわりのある「医光寺」の3カ所をもって「トライアングルゾーン」と位置付けている。
なお、つい最近まで三宅御土居館跡には、益田氏とゆかりのある「泉光寺」という寺院が建っていたが、発掘調査のため移転している。
【写真上】左図:七尾城想像図、右図:三宅御土居想像図
写真がいびつだが、全体の構図は判断できると思われる。左図では三宅御土居は、上部の益田川を渡った位置に描かれている。
三宅御土居は、想像図にもあるように、全周囲に堀が巡らされ、東西には土塁が設けられていた。この土塁は下の写真にもあるように現在でも残っている。
【写真左】東側の土塁
最近まで寺院であったことからこの東西の土塁跡にも墓石が並んでいる。
【写真左】東側の土塁から西側の土塁を見る。
西側の土塁は高さは、東側のそれとほぼ同じだが、長さはやや短い。
中央部の青いビニールシートがある付近が元の寺院跡で、下段の写真のように数カ所にわたって発掘調査が行われている。
【写真左】発掘調査現況
シートに覆われていない個所には、元の寺院の礎石が残っている。
また、東側の広場としてすでに整備された位置には、井戸跡がのこっている。
【写真左】西側の土塁から東側の土塁方面を見る。三宅御土居の形状は、上掲したように東西に長い敷地となっている。また、この写真で見える右側の住宅地との段差でもわかるように、南側下段は帯郭の形式を持たせた構造になっている。
おそらくその郭のレベルが掘に接していることから、船着き場として兼用されていたのかもしれない。
【写真左】三宅御土居から南東方向に七尾城を見る。
【写真左】当時の堀の状況
下段が北になるが、上段(南)の堀の幅は広い所で40m前後あったという。搦手は北になる。
なお、これら外堀の水は益田川から大堰堤を設置し引き、外堀の西側に江湾水溝を伸ばし、益田川下流(当時は高津川との合流)に結んだ。
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