2018年1月25日木曜日

近江・蓮華寺(滋賀県米原市番場511)

近江・蓮華寺(おうみ・れんげじ)

●所在地 滋賀県米原市番場511
●山号 八葉山
●宗旨 浄土宗
●寺格 本山
●本尊 釈迦如来・阿弥陀如来
●開山 一向俊聖(中興)・弘安7年(1284)
●開基 伝・聖徳太子
●文化財 紙本墨書陸波羅南北過去帳、梵鐘
●参拝日 2015年10月24日

◆解説
 現在の滋賀県米原市は、古代・中世には東山道と呼ばれた街道が走り、江戸時代に至ると、この区間は中山道(中仙道)という呼称に代わり、東隣の美濃国(岐阜県)との往来の出入口ともなった。
 因みに、美濃から近江に入って最初の宿場となるのが、60番目となる柏原宿で、そのあとに豊富な湧き水で有名な「居醒泉」の醒井宿が続き、62番目の宿場となるのが今稿で取り上げる「蓮華寺」が所在する番場宿である。
【写真左】六波羅探題北条仲時以下430余が自害し、後に祀られた墓石群
 蓮華寺境内奥にあり、整然と並んでいる。






現地の説明板より

“中山道「番場宿」、南北朝の古戦場

 蓮華寺(れんげじ)
◇山号 八葉山 ◇宗派 浄土宗 ◇本尊 阿弥陀如来像 市指定文化財、釈迦如来像 市指定文化財

 聖徳太子によって開かれた寺と伝えられ、当初は寺号を法隆寺と称していました。歴代天皇の信仰も厚く、花園天皇(1308~18)寺紋として菊の紋を下されました。
 昭和17年に浄土宗鎮西西派に帰属して、浄土宗本山として現在に至ります。書院の東南に広がる庭園は、釈迦嶽の山裾にあたる池庭で、背景に山が迫り、谷が深く幽遠です。コウヤマキの巨樹や、山腹にはミツバツツジが群生して春の色どりは格別です。
【写真左】蓮華寺山門
 中仙道沿いにあり、現在は街道から奥に続く参道途中の頭上を名神高速道路が横断している。防音壁があるものの、周囲の山に反射するのか、なんとも騒々しく、落ち着かない。

 写真は内側から見たもので、奥に青と白に塗られた名神高速道の防音壁が見える。


 元弘3年(1333)、京都の合戦に敗れた六波羅探題北条仲時は、この地で京極道誉南朝軍の包囲に遭い、本堂前庭で仲時以下430余名が自刃しました。仲時一行の供養の墓碑が境内にあります。また、斉藤茂吉は、恩師佐原窿応が当寺49世住職になったことから、参詣して短歌を残しています。

◇銅鐘 重要文化財
◇紙本墨書陸波羅南北過去帳 重要文化財
◇絹本著色一向上人像 県指定文化財
◇石造宝篋印塔 市指定文化財”
【写真左】境内と本堂
 入山料を払い、境内を散策する。なお、この日かなり大勢の方々が庫裡の方へ向かわれたが、どうやら研修かなにかあったようだ。



足利高氏(尊氏)反旗

 上記の説明板にもあるように、元弘3年(1333)、この番場の蓮華寺において、六波羅探題の北条仲時ら主従430名余りが自刃した。

 ところで、足利尊氏が倒幕の旗幟を鮮明にしたのは、元弘3年・正慶2年(1333)の5月ごろとされている。
 きっかけとなったのは後醍醐天皇が隠岐を脱出後、名和長年一族を頼り伯耆船上山に立て籠り(名和長年(1)船上山参照)、地元守護佐々木清高を討ち勝利を収め、そののち、各地の武士団が続々と後醍醐天皇のも途に馳せ参じたことも理由の一つであるが、直接的には播磨の赤松一族が摂津付近まで進出し、六波羅を打ち破ったため、同年4月1日、幕府が名越高家と高氏(尊氏)を討手の大将として京都への進軍を命じたことが転機となった。
【写真左】仲時以下随士430余名の墓案内板
 境内の右側を進んで行くと、ごらんの案内板があり、ここから向かう。






 当然ながらこの段階では幕府は、尊氏らがこの命に従ってくれるものと思っていた。事実、足利と名越両軍併せて1万余りの大軍が京に到着した段階で、幕府軍の士気は大いに上がった。
 さっそく軍議を開き、尊氏は山陰道から、名越高家は山陽道からそれぞれ伯耆国へと向かった。4月27日のことである。
 山陽道を進み始めた名越軍は、しかし、いきなり鳥羽(京都)で、赤松軍と激突、高家は赤松軍の流れ矢にあたり、あえなく戦死、名越軍は総退却した。
【写真左】階段を登っていく。
 仲時以下の墓石群はこの階段を上がっていった左側に建立されている。
 右側は歴代住職の墓のようだ。



 高家戦死の訃報を知った尊氏であったが、そのまま進軍し当時自領であった丹波国篠村に入った。ここで、尊氏は信濃の小笠原貞宗、北関東の結城宗広、そして南九州の島津貞兼らに密使を遣わし、後醍醐天皇の命を伝えた。それは、尊氏が幕府討幕という反旗を敢然と翻した瞬間であった。
【写真左】篠村八幡宮
 所在地 京都府亀岡市篠町篠
主祭神 誉田別命(応神天皇)。創建 延久3年(1071)後三条天皇勅宣により河内国誉田八幡宮から勧請。
 写真:境内にある「足利尊氏旗あげの地」の石碑。
参拝日 2018年3月28日


 因みに、現在の京都府亀岡市にある篠村八幡宮は、尊氏倒幕挙兵地として知られ、その後後醍醐天皇と決別したとき、再びこの地で再起を図った場所でもある。
 尊氏の反旗は瞬く間に全国の武士に知れ渡り、多くの者が彼の下に馳せ参じた。
【写真左】北条仲時以下430余の墓石群
 430余名という数の多さもあって、ご覧のように3~4段に分けて建立されている。





六波羅滅ぶ

 幕府から後醍醐追討の命を受け伯耆に向かっていた尊氏本人が、その後逆に倒幕という反旗を掲げたことに六波羅は驚愕した。
 5月7日早朝、亀岡から転じて京に向かっていた尊氏らは嵯峨野から内野まで来ていた。一方一足先に入京していた赤松軍は東寺周辺で、六波羅軍と対峙していた。辰の刻になると、両軍は一気に六波羅軍を攻めたてた。こののち、千種忠顕軍も参陣し、六波羅軍は総退却していった。

 六波羅探題北方大将・北条仲時ならびに、南方大将北条時益は、この一方的な大敗を目の当たりにし、もはや京を脱出し、光厳天皇、後伏見・花園両上皇を奉じて、関東(鎌倉)へ遁走する術しかなかった。
【写真左】中央部
 細部まで見ていないので分からないが、おそらく右側の大きな五輪塔が北條仲時で、左側が時益のものと思われる。





 しかし、落ち行く先々で野武士が待ち受けていた。京を出て間もなく、北條時益は四宮河原(現:山科区)で野武士によって絶命、また逢坂山では光厳天皇の左肘に流れ矢があたり流血、このあたりから当初つき従っていた軍勢は死者や脱落逃亡などがあり、700余りとなっていた。

 それでも何とか、佐々木(六角)時信の居城・観音寺城(滋賀県近江八幡市安土町)までたどり着いた。ここで一泊し、あくる日近江を抜け美濃を目指すため、番場峠まできた。すると、その前に立ちはだかっていたのが、地元近江をはじめ、美濃・伊勢・伊賀の野武士や悪党ども5,000ほどの軍勢である。おそらくこれらは尊氏の命を受けた佐々木道誉が手筈したものだろう。
【写真左】「北条仲時及び従兵四百餘人 記念碑」と刻銘された石碑
 傍らにはいつごろ設置されたのか分からないが、ご覧の石碑も建立されている。






 仲時ら六波羅軍は勝算のない戦となることを敢えて承知の上だったのだろう、それでも数刻激しく戦った。しかし、多勢に無勢である、仲時はもはやこれまでと、蓮華寺の庭に鎧を脱ぎ、満身創痍の身体で腹部に刀を突き刺した。

 仲時自刃のあと、従者たちも次々と殉死していった。このとき自害した主従は総勢430名余と伝えられ、のちに『太平記』にその凄まじさが描かれることになる。

 仲時らの死後、時の蓮華寺住職・同阿は、これら430名余の霊を供養するため、その姓名を記録(過去帳)に記し、48日間にわたって常行三昧の念仏を修したとされる。このときの過去帳が、重要文化財となっている「紙本墨書陸波羅南北過去帳」である。 
【写真左】一向上人の廟
 墓地の奥には当院開山といわれる一向上人の廟が祀られている。
 一向上人は、浄土宗第三祖良忠上人の弟子で、教えを説き人を導くため、北は奥州から南は九州までの各地を遊行し、この番場で一生を終えた高僧。



殉死者達

 因みに、仲時のあとを追った殉死者達として、これまで紹介したのは次の武将達である。
なお、この自刃の際、殉死せず逃亡した武将もいた。その一人が、安芸小早川家から参陣していた小早川貞平である(米山寺・小早川隆景墓(広島県三原市沼田東町納所)参照)。
 貞平に限らず、他にも多くのものが離脱したものと思われるが、貞平の場合も、彼が本国安芸に帰還しなかったら、その後の小早川氏も違った歴史を歩んだかもしれない。
【写真左】歴代住職の墓
 少し下がったところには、歴代住職の墓が祀られている。おそらくこの中に、同阿のものもあると思われる。





佐々木道誉動向

 ところで、この蓮華寺における戦いでは、具体的な佐々木道誉の動きについて記したものは今のところない。彼については、勝楽寺・勝楽寺城(滋賀県犬上郡甲良町正楽寺4)の稿でも述べたように、番場で尊氏が道誉の饗応を受けていたことを考慮すると、彼がこの戦い(蓮華寺)で倒幕方を主導していた可能性が高い。
 因みに、蓮華寺から東方10キロ余り向かった清滝には、のちに道誉が深くかかわることになる清瀧寺徳源院・柏原城(滋賀県米原市清滝)があり、当初から道誉は北条仲時の敗走ルートを知っていたのではないかとも思われ、うがった見方をすれば、仲時らを一泊させた観音寺城の六角時信とも密議を交わしていたのではないかとも思えたりする。

伝・土肥元頼墓

 ところで、蓮華寺境内には北条仲時らの墓とは別に、蓮華寺から南に1キロほど向かったところにある鎌刃城(かまばじょう)の城主・土肥三郎元頼の墓と伝えられている墓もある。
【写真左】伝・土肥元頼墓
 鎌刃城については、以前この近くにある太尾山城・その2でも少し紹介しているが、最近では築城者が土肥氏であったという伝承はあるものの、定かでなく、文明4年(1472)に坂田郡の今井秀遠(ひでとみ)が、堀次郎左衛門の籠る鎌刃城を攻めたという記録が最古とされるため、この宝篋印塔も土肥氏であるかどうか、なお検討の余地があるようだ。


現地の説明板より

“ 伝 土肥元頼墓(市指定石造宝篋印塔)
 鎌刃城主・土肥三郎元頼の墓と伝えられています。元頼は、正応元年(1288)9月18日逝去して、蓮華寺の墳墓に葬られました。宝篋印塔には銘文等が確認できず、塔の様式からし元頼の年代とくらべて新しいものである可能性もあります。蓮華寺は、聖徳太子が創建し法隆寺と称していましたが、建治2年(1276)落雷により焼失。その後、弘安7年(1284)の夏に、一向上人が諸国を巡る旅の杖を留めて、この地で念仏を広く唱えて民衆を教え導かれました。この地の領主であった元頼も深くその教えに従い、焼失した堂塔を再興して、「八葉山蓮華寺」と改称し、一向上人を開山上人に迎えました。
    米原市教育委員会”


番場忠太郎地蔵尊
 
 江戸幕末期・嘉永年間を時代設定とし、劇作家・長谷川伸が創作した『瞼の母』などをメインに、シナリオライター三村伸太郎が脚本、中川信夫が監督した映画『番場の忠太郎』が1955年に公開された。
 いわゆる「股旅物」の映画だが、「両の瞼を閉じれば、懐かしいおっ母あの顔が浮かんでくらー…」というセリフは当時大いにはやった。
 この作品では直接忠太郎の出身地である番場は特に出てこないが、地元の蓮華寺境内には彼を祀って地蔵尊が建立されている。

【写真左】忠太郎地蔵尊

 現地説明板より

“忠太郎地蔵尊の由来
 昭和33年8月3日 文壇の雄長谷川伸先生が南無帰命頂禮 親をたづぬる子には親を 子をたづねる親には子を めぐり合わせ給えと悲願をこめて建立された地蔵尊である。
 このお地蔵さまを拝めて親子の縁はもとより あらゆる縁が完全に結ばれて家庭円満の楽しみを受けることができる それにはお互いが をがみ合うすなをな心が大切である それをこのお地蔵さまは 合掌せよとお示めしになっている
  番場史蹟顕彰会”

2018年1月14日日曜日

竹生島・宝厳寺(滋賀県長浜市早崎町)

竹生島・宝巌寺(ちくぶしま・ほうごんじ)

●所在地 滋賀県長浜市早崎町
●面積 0.14㎢
●最高所 197.3m
●所在海域 琵琶湖
●寺社 宝厳寺・都久夫須麻神社等
●創建 伝・神亀元年(724)
●開基 伝・行基、聖武天皇(勅願)
●参拝日 2015年10月24日

◆解説(参考資料 宍道町史、HP『江のふるさと滋賀』等)
 竹生島は琵琶湖の北に浮かぶ神秘の島として知られ、今風にいえばパワースポットとして多くの参拝者で賑わう。

 2015年10月24日、玄蕃尾城(福井県敦賀市刀根)の登城を終え、南下し昼食は長浜港近くのホテルで湖北の名物「サバそうめん」を食べた。何度か北近江は探訪しているが、いつも山城登城を優先していたため、琵琶湖の湖岸道路を走るたびに、竹生島の姿が車中から見えていたものの探訪を保留していた。今回時間が取れたので、竹生島クルーズの一つ長浜航路(長浜港⇔竹生島往復)で向かうことにした。
【写真左】竹生島遠望
 フェリーの桟橋から見たもの。
面積は僅か0.14㎢で、琵琶湖の中では沖島についで2番目に大きい島。この付近では水深70m前後と深い。恐らく湖底から見ると切り立った山に見えるだろう。


現地の説明板より

“宝厳寺弁才天堂  昭和17年建築

 竹生島宝巌寺の本尊は「弁才天」。寺伝によると神亀元年(724)、聖武天皇が天照皇大神の神託により僧行基に勅命し弁才天を祀ったのが始まりと言います。本尊の弁才天像は、江戸時代まで島の東側の弁財天社(現、都久夫須麻神社本殿)に安置されていました。

 しかし、明治時代の神仏分離によって弁財天社は都久夫須麻神社本殿と定められたため、明治4年(1871)、やむなく弁才天像は塔頭妙覚院(たっちゅうみょうかくいん)の仮堂に仮安置されました。以来66年間、弁才天堂の造営は未着手のまま時が流れましたが、昭和12年(1937)6月、ようやく起工式を執り行うまでに至りました。
【写真左】山本山城を遠望する。
 フェリーの船上から撮ったもので、客室内部からガラス越しに撮ったため、反射して分かりずらいが、山本山城の姿が見えた。
 山本山城の向背には浅井氏居城の小谷城が控える。
【写真左】小谷城から竹生島を遠望する。
 2014年に登城した近江・小谷城から見たもので、竹生島を挟んで、東岸には山本山城、中島城、丁野山城などが配置する。




 しかし、翌月には盧溝橋事件が発生。日中戦争が勃発し半ば事業も中止状態になってしまいます。この事態を憂慮した東京在住の事業家滝富太郎は、自ら再建局長の任に着き、広く篤志を募る一方、巨万の私財を投じ遂に昭和17年(1942)10月、太平洋戦争中にも拘わらず完成させたのが現在の弁才天堂です。なお、設計・監督は文部省の乾兼松。堂内の壁には、法隆寺金堂壁画模写事業の主任画家を務めた荒井寛方筆の飛天が描かれています。”
【写真左】竹生島が見えてきた。
 この日利用した長浜航路(長浜港⇔竹生島港)では、乗船時間は30分程かかる。






出雲尼子氏竹生島造営奉加帳

 竹生島・宝厳寺の由来などは上掲した説明板にある通りであるが、戦国期には小谷城主・浅井長政の父・久政が、長政の家督相続をめぐって家臣団に一時幽閉されている。また、その後浅井氏を倒した織田信長が参詣したり、豊臣秀吉が亡くなったあと、秀頼が秀吉の霊廟の門を竹生島に寄進などしている。
【写真左】宝厳寺本堂に向かう。
 竹生島にある主だった史跡としては、宝厳寺本堂(弁才天堂)・三重塔・宝物殿・観音堂・唐門・船廊下・都久夫須麻神社本殿、そしてかわらけ投げで有名な龍神拝所などがある。
 狭い島の一角に集中して建てられているため、急勾配の階段が多い。


 ところで、これらの出来事に先立つ天文年間、出雲の尼子氏が竹生島の社殿造営に関わり奉加していることが知られる。
【写真左】尼子氏の居城・月山富田城
南側から見たもの。







 天文9年(1540)、竹生島の自尊上人は出雲の尼子氏のもとに向かった。目的は、勧進を依頼する、即ち寺院の改築費用を依頼するためであった。竹生島はこのころ浅井長政の祖父・亮政(小谷城・その1(滋賀県長浜市湖北町伊部)参照)が庇護につとめていた。おそらく、自尊上人は亮政に最初に相談に行き、亮政から勧進者の一人として、出雲尼子氏の名を挙げられたのだろう。
【写真左】浅井氏三代の墓
所在地 長浜市平方町872(徳勝寺境内)

参拝日 2016年6月29日

写真左から、長政、亮政、久政

 浅井氏三代の墓が祀られている徳勝寺は、元は「医王寺」と号して東浅井郡湖北町上山田にあった。その後、永正15年(1518)、小谷城主浅井亮政が城下の清水谷に移して同家の菩提寺とした。

 しかし、姉川の合戦で小谷城が落城し、豊臣秀吉が居城を長浜に移した際、文禄4年当院も長浜城内に移築、亮政の法号に因んで「徳勝寺」と改称。
 慶長11年(1606)、内藤信成が長浜城主となったとき、一時田町(現朝日町)に移築、さらに寛文12年(1672)彦根藩主井伊直孝によって現在の地に移され今日に至っている。


 亮政が出雲尼子氏の名を挙げた理由は、その4年前のことからも推察できる。すなわち、天文5年(1536)12月26日、尼子経久は備中・美作の戦況を近江の浅井亮政に報告(『江北記』)している。

 以前にも述べたが、元々出雲尼子氏の主君は京極氏である。しかし、その後京極氏の没落と浅井氏の台頭によって、事実上出雲国の守護職は京極氏から浅井氏に代わっていた時期と考えられ、守護代であった尼子氏も守護職を浅井氏と位置付けていたものと思われる。
 
 京極氏館跡(滋賀県米原市弥高・藤川・上平寺)の稿でも紹介したように、出雲尼子氏と京極氏の繋がりは極めて強く、尼子経久が当時又四郎と名乗っていた少年期、同氏館周辺の北近江や京での生活が約5年間続いた。
 この時期、京極氏の譜代家臣だったのが浅井氏である。又四郎(経久)が、同族(佐々木京極氏)であった主君京極氏や、同氏譜代家臣であった浅井氏と改めて強い絆を育んだことは想像に難くない。
【写真左】宝厳寺・本堂
 二つの長い急傾斜の階段を登りきると、宝厳寺・本堂が現れる。
 西国三十三所観音霊場・第三十番札所で、本尊は日本三弁才天の一つである弁才天(大弁才天)と千手観音。


 さて、竹生島自尊上人の出雲尼子氏による勧進は、自尊の思惑通りにはいかなかった。
 このため、尼子経久の孫・晴久は、天文11年閏3月29日付書状で、勧進の協力がうまくいかないことを詫びている。

 これと併せて新宮党頭首尼子国久も、上人の長期逗留並びに帰国延引きを浅井氏に詫びている。結局、上人は天文9年の出雲入国から天文11年まで当地に留まっている。
【写真左】石造五重塔
 宝厳寺の傍らには、鎌倉時代のものといわれる五重塔が建立されている。
 五重塔で重要文化財の指定を受けているのは全国で7基しかなく、そのうちの一つで、材料となった石材は比叡山中から採石された小松石という。


 この理由は、勧進の遅延もあっただろうが、尼子経久が天文10年(1541)11月3日に亡くなっているので、上人としても経久の葬儀や菩提を弔うなど予想外の出来事が生じたこともその一因かもしれない。

 しかし、結果として尼子氏は一族・家臣ら併せて121名(又は117名)による奉加を竹生島へ納めている。因みに、日付は天文9年(1540)8月19日となっているが、前述したような経緯があったので、竹生島宝厳寺・社殿造営の行事日程を遵守するため、記録上はこの日とし、実際に金品が奉加されたのは、上人が竹生島に戻った天文11年のはじめごろではないかと考えられる。
【写真左】三重塔
 建立されたのは1484年といわれるから、室町期の文明16年である。ただ、江戸時代初期に落雷で焼失したため、2000年に地元郷土史料「浅井郡誌」に基づき再建された。
【写真左】宝厳寺側から竹生島フェリー乗り場を見る。
 ご覧の通り急傾斜の階段である。
【写真左】唐門・観音堂
 国宝となっている唐門や、観音堂は残念ながらこの日探訪したときは改修工事で内部の一部は見えたが、全体は見ることは出来なかった。
【写真左】船廊下の懸造り
 観音堂と都久夫須麻神社を結ぶ廊下で、写真はその下にある懸造り(崖造り)。
【写真左】桟橋から見る。
 奥の最高所に三重塔や宝物殿が見え、その下に改修中の唐門・観音堂などの建物が見える。
【写真左】龍神拝所先端部
 かわらけ投げの尖端部にあたるが、写真左上隅に拝所が見え、その右下に的となる鳥居が見える。

2018年1月11日木曜日

敦賀城(福井県敦賀市結城町)

敦賀城(つるがじょう)

●所在地 福井県敦賀市結城町
●形態 平城
●築城期 天正11年(1582)
●築城者 蜂屋頼隆
●城主 蜂屋頼隆、大谷吉継、結城氏
●遺構 ほとんど消滅
●登城日 2015年10月24日

◆解説(参考資料 HP『城郭放浪記』等)
 敦賀城は、現在の敦賀市結城町を中心とした位置に築かれたという。築城者は当時羽柴秀吉の家臣だった蜂屋頼隆が天正11年(1583)に築いたといわれている。
【写真左】敦賀城・その1
 下段でも述べているように、敦賀城跡としての遺構は殆ど残っていない。

 写真は城域の北西部に建立されている真願寺付近。



蜂屋頼隆

 蜂屋頼隆はもともと織田信長に仕えており、天正8年(1580)3月、10年にも及ぶ大坂石山本願寺合戦が和睦したあと、翌9年には和泉国領地のため、織田信張と共に岸和田城に入城している。
【写真左】真願寺入口
 HP『城郭放浪記』氏が2006年10月に訪れた写真では、この門の両側には塀があり、その右側には、「大谷吉継 敦賀城跡」と筆耕された石碑が建立されていたが、管理人が今回(2015年10月24日)訪れたときには、既に塀は取り壊され、石碑もなくなっていた。




 その後、本能寺の変により秀吉に属した頼隆は、秀吉の命により敦賀の花城山城に入城したという。

 この花城山城というのは、敦賀市の西方を流れる井ノ口川の西岸にある通称鉢山(高さ100m弱)に築かれていた山城で、もともとこの城は、天正3年織田信長によって敦賀郡を与えられた武藤舜秀がこの城に拠っていた。

 そしてその後、岸和田から移った蜂屋頼隆が敦賀城を築いたとされる。その後、頼隆は九州征伐などに従軍しているが、天正17年(1589)9月25日病没した。
【写真左】真願寺墓地
 西側から見たもので、墓地が並ぶ。











大谷吉継

 蜂屋頼隆が死去してから3か月後の同年(天正17年)12月、新たな敦賀城主として入城したのは大谷吉継である。

 ただ、吉継が敦賀城に在城したのは極めて短い期間で、この年の11月にはすでに秀吉が、北条氏討伐のため諸大名に出陣の命を出し、秀吉自身も翌年(天正18年)3月には出立していることから、入城してから実質2か月程度ではなかったかと考えられる。

 しかし、吉継の敦賀城時代に残る史料を整理してみると、山論の裁許や、年貢の収納、都市計画(下町整備)など具体的な民政に関わったことが判明している。おそらく、これらの事績は吉継在城時はもちろんのこと、その後留守にしていた時でも、地元敦賀に残っていた家臣達に適切な指示を出していたことからだろう。
【写真左】北側を流れる川・その1
 おそらく当時の濠跡だったと思われ、この川(赤川)は手前に流れて、東側の敦賀港に食い込んだ船着場に繋がる。







敦賀城

 敦賀城の遺構は残念ながら殆ど残っていない。位置的には、北側の敦賀港に極めて近い場所にあり、また伝承によれば、現在の結城町を中心として南北500m、東西300mの範囲にあったということから、いわゆる海城または水軍城としての形態をもったものだったと考えられる。

 敦賀城の城主であった大谷吉継が関ヶ原の戦いで破れ自刃したあと、城将として留守を預かっていた蜂屋将監によって、東軍方に城は引き渡され、徳川家康の次男であった結城秀康によって代官が派遣されていたが、元和2年(1616)一国一城令によって城は破却された。

 敦賀城の所在地の一つである現在の結城町という町名も、この結城秀康の姓から命名されたものである。
【写真左】北側を流れる川・その2
 左側が真願寺。なお、この写真の奥に向かうと、西側を流れる黒河川に至る。


 帰宅してから分かったのだが、敦賀城跡を示すものは、真願寺から南東に向かった現在の敦賀西小学校の東側の通りに石碑があり、また、真願寺の西方にある来迎寺の表門は、敦賀城の中門であったという。


◎関連投稿
 大谷吉継の墓・陣跡(岐阜県不破郡関ヶ原町山中32)

2018年1月5日金曜日

玄蕃尾城(福井県敦賀市刀根)

玄蕃尾城(げんばおじょう)

●所在地 福井県敦賀市刀根・滋賀県伊香郡余呉町大字柳ケ瀬字北尾
●別名 内中尾山城
●指定 国指定史跡
●高さ 439m
●遺構 土塁・空堀・郭等
●築城期 不明(天正11年(1582)か)
●築城者 柴田勝家
●城主 柴田勝家
●登城日 2015年10月24日

◆解説(参考文献「近江の山城 ベスト50を歩く」中井均編等)
  玄蕃尾城については賤ヶ岳城(滋賀県長浜市木之本町大音・飯浦)の稿で直接その名を示していないが、天正11年(1583)における賤ヶ岳の戦いで、柴田勝家が越前北ノ庄を出立したあと、最初に陣を構えた場所である。
 当城は福井県敦賀市と滋賀県長浜市との県境にある標高439mの柳ケ瀬山に築かれている。
【写真左】空堀
 南側が大手になるが、最初の郭の西側にやや屈曲させながら伸びる空堀。







現地の説明板より

“国指定史跡
  玄蕃尾(内中尾山)城跡   文部省
 指定年月日 平成11年7月13日
 所在地及び地域
   福井県敦賀市刀根60号字外ヶ谷5番の1
        〃     69号字小唐子6番
   滋賀県伊香郡余呉町大字柳ケ瀬字北尾624番の1・636番
        〃              字内谷773番
        〃              字坂手819番・820番
 指定面積  158.772平方メートル(台帳面積)

【写真左】登城口付近
 福井県側の柳ケ瀬街道を東進し、滋賀県と境をなす柳ケ瀬トンネルに入る直前に、柳ケ瀬山(中尾山)西麓を南に向かう谷筋を道なりに進むと、数台駐車できるスペースがある。
 ここに車を停め、登城開始する。この位置から玄蕃尾城までは凡そ700m前後となる。


指定理由(説明)
 玄蕃尾(内中尾山)城跡は、滋賀県と福井県の柳ケ瀬山(内中尾山)山上にある。かつて、この城には賤ヶ岳の合戦(天正11年・1583)の際、戦国時代の武将である柴田勝家の本陣が置かれたところである。本遺構は、極めて限定された時期の城郭の遺構であることから、中世城郭から近世城郭への過渡期にあたる城郭編年の漂式遺跡として重要であること、遺構が良好に遺存していることなどから、史跡に指定して保存を図るものである。

  平成11年11月1日  敦賀市教育委員会
               余呉町教育委員会”

【写真左】玄蕃尾城方面と、行市山砦方面との分岐点
 暫くすると尾根ピークにたどり着くが、この位置が久々坂峠(刀根越え)といわれる箇所で、左側に向かうと玄蕃尾城へ(残り500m)。

 右側の尾根筋を南に3.5キロほど向かうと、行市山砦(ぎょういちやまとりで)にたどり着く。
 行市山砦は、東野行一(行市)が砦を築いたといわれているが、賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家方の佐久間盛政が城将を務めた。



柴田勝豊

 本能寺の変後、羽柴秀吉は山崎の戦いにおいて明智光秀を降し、主君信長亡き後、尾張清洲において、信長の嗣子を決め、さらに重臣たちによる遺領処分を協議するという、いわゆる清州会議が行われた。天正10年(1582)6月27日のことである。

 このとき、この会議の出席者の一人であった柴田勝家は、その2年前に一向一揆を平定した加賀国及び越前国と併せ、この会議において長浜を含む北近江3郡を領した。そして、これらの領地を治めるために、勝家は北近江の押さえとして長浜城に甥の柴田勝豊を守将として入れた。

【写真左】城域手前付近
 先ほどの尾根分岐点から傾斜がきつくなり、九十九折れしながら高度を上げていく。途中でけたたましい鳴き声がし出した。
 上を見ると木の枝に猿の群れが見える。大分興奮しているようで、あわただしく動き回っている。驚いたのは猿の方ではなく、我々二人なのだが、しばらくすると谷底の方へ移動していった。
 城域はもう少し先になるが、この付近から綺麗に整備されている。



 柴田勝豊は、越前・丸岡城(福井県坂井市丸岡町霞町1)でも述べたように、天正4年(1576)に越前に丸岡城を築いている。彼は勝家の姉の子といわれ、後に勝家の養子となっている。

 勝家についてはこれまでのところ、後に信長の妹・お市と結ばれるまで独身であったということになっているが、詳細は不明である。どちらにしても、実子がなく、自らの後継ぎを養子として迎えたことはごく自然な流れである。
 しかし養子として迎えたのは勝豊だけではななかった。勝家にはもう一人の姉(妹とも)がおり、彼女は佐久間盛次の妻となり、勝政を生んだ。この勝政も同じく勝家の養子となっている。二人とも血のつながった甥であったが、理由は不明だが勝家は勝政を優遇し、勝豊には冷淡であったという。

【写真左】玄蕃尾城の概要図
 現地に設置されているもので、長径(南北)に凡そ300m、短径(東西)150mの規模を持つ。

 城域の入口は南側にあり、大手口となり、尾根筋に沿って北に伸びていくが、中央にほぼ方形の主郭を置き、南北に大小の郭を連郭状に配置している。
 また主だった郭には二つ以上の虎口を有し、城内を連絡している。




 天正10年12月、すなわち賤ヶ岳の戦いが始まる4ヶ月前の前哨戦となるが、秀吉はこの勝豊が拠る長浜城を攻めた。勝豊はこの戦いで大谷吉継の調略もあり、殆ど防戦することなく城を明け渡し、秀吉に寝返った。この行動に至った背景には、それまでの勝家に対する恨みも根底にあったのかもしれない。


幾何学的縄張築城期

 さて、玄蕃尾城は現地に設置してある概要図を見ても分かるように、各郭や土塁・空堀などが直線的な構図で構成されていることである。特に主郭や北側の郭などは二辺は直線で構築され、郭群の配置構成もバランスがとれ、俯瞰しても幾何学的縄張で一種の造形美さえも醸し出している。

 さらに特筆されるのは、主郭の北東隅には天守台の痕跡があることである。この箇所は約11m四方あり、主郭より1.5m高く、その下には礎石が検出されていることから2,3階の天守があったと推測されている。
【写真左】南虎口 大手口
 南側の入口付近で、左側には空堀が奥まで続き、右側には西側と東側に腰郭が付随している。




 ところで、当城は「極めて限定された時期の城郭」とされている。この限定の意味するところは、その使用期間が賤ヶ岳の戦いが行われた天正11年の一時期ということからだと思われるが、件の「天守台」の存在や、精緻な縄張を見る限り、築城時期はもう少し遡る必要があるように思える。といのも、これだけの普請をするためには、とても1年程度では竣工できないのではないかと考えられるからである。
写真左】虎口郭の土塁
 現地名「虎口郭」と呼称されている郭で、南北に長く三角形の形状をしている。周囲はなだらかな傾斜となった土塁が囲繞している。



 また、玄蕃尾城の位置は南方の久々坂峠及び、北方の椿坂峠を結ぶ尾根上の中間点に当たり、築城期についても、賤ヶ岳の戦い直前とは別に、室町期に地元の柳ケ瀬秀行が築城、又は越前朝倉氏の家臣で前稿の越前・疋壇城(福井県敦賀市疋田)城主・疋壇久保が築城した等々諸説があるため、なお一考を要するのではないかと思われる。
【写真左】東虎口付近
 最初の虎口郭の中を北に進むと、次の虎口郭があるが、ここで一旦左に折れ、そのあと右に進む。
 
【写真左】虎口郭・攻撃用大手郭
 この箇所の虎口郭は幅は10mにも満たないが、長さは30m前後ある。
 現地には攻撃用大手郭(出撃拠点)と表示されている。
 ここで陣を何列かに編隊し向かう場所としたのだろう。
【写真左】主郭の方へ向かう。
 上記の郭から北に向かうと、右に折れるが、その右側には「馬出郭」と呼ばれる小さな郭が土塁で囲まれている(下段の写真参照)。
【写真左】馬出
 主郭の南虎口部分に接している箇所で、規模は大きなものでないので、主郭に陣を張った城将など限られた者たちの馬が置かれていたのだろう。
【写真左】主郭南の馬出との連絡路
 左側がさきほどの馬出部分で、ここから右に向かうと主郭に繋がる。
 奥の堀は主郭の西南角から始まる長大な空堀。
【写真左】主郭・その1
 南側虎口から北方向を見たもので、ほぼ方形の形態となっている。
 左側の開口部はその奥にあるもう1つの馬出郭への入口で、そこからさらに左に向かうと、後段で紹介する搦手郭・兵站基地(虎口郭)に繋がる。


【写真左】主郭・その2
 西側から東方向を見たもので、奥に土塁が見え、その右側に虎口が覗く。
 また左側にある樹木の向背に櫓台(天守台)が見える。
【写真左】櫓台(天守台)
 およそ11m四方の規模。
主郭の北東隅に設けられているもので、既述したように天守台があったとされている。


【写真左】礎石
 櫓台の天端にはご覧の様な礎石が残る。この日踏査した限りでは、このほかに長方形のものがあり、天守台を設けていたとすれば、最低でも4ヵ所あるはずだが、他の2か所は確認できなかった。
【写真左】北側の馬出
 先ほどの櫓台から東に土塁・空堀を直接越えて、東側に下りると、南端部にある張出郭(見張台)から伸びた通路に出る。ここから再び主郭の北側にあたる細い郭(通路)を進むと、前述した馬出郭がある。
【写真左】馬出から主郭を見る。
 主郭の北西隅にある虎口で、この位置から見ると、主郭から2m以上の高低差がある。
【写真左】搦手郭・虎口部
 馬出から西に狭い虎口を通り抜けると、当城最大の郭である搦手郭がある。
【写真左】搦手郭
 ほぼ長方形だが、北西隅はやや曲線となっており、西から北にかけて土塁が囲繞し、北東端で虎口を設け、東側に再び土塁がほぼ直線で構成されている。
【写真左】空堀・その1
 搦手郭側のものだが、玄蕃尾城の主だった郭はほとんどこのような精度の高い空堀で構成されている。
空堀・その2


【写真左】玄蕃尾城から東麓を走る国道365号線を俯瞰する。
 玄蕃尾城からの眺望は、残念ながら周辺の樹木が生い茂っているためよくないが、一部東側に東麓を走る国道365号線、即ち北国街道が見える。
 左に行くと、椿坂峠へ繋がり、さらに北上すると栃ノ木峠で越前国(福井県)に至る。また、右に行くと木之本に至る。


その他の遺構
 
 このほか、東側にある張出郭(見張台)、外周部の腰郭群なども紹介したいところだが、割愛させていただく。
 どちらにしても、陣城としては他に類をみない見事なもので、しかも定期的に管理清掃が行き届いていることから、山城ファンとしては必見の城郭である。