近江・蓮華寺(おうみ・れんげじ)
●所在地 滋賀県米原市番場511
●山号 八葉山
●宗旨 浄土宗
●寺格 本山
●本尊 釈迦如来・阿弥陀如来
●開山 一向俊聖(中興)・弘安7年(1284)
●開基 伝・聖徳太子
●文化財 紙本墨書陸波羅南北過去帳、梵鐘
●参拝日 2015年10月24日
◆解説
現在の滋賀県米原市は、古代・中世には東山道と呼ばれた街道が走り、江戸時代に至ると、この区間は中山道(中仙道)という呼称に代わり、東隣の美濃国(岐阜県)との往来の出入口ともなった。
因みに、美濃から近江に入って最初の宿場となるのが、60番目となる柏原宿で、そのあとに豊富な湧き水で有名な「居醒泉」の醒井宿が続き、62番目の宿場となるのが今稿で取り上げる「蓮華寺」が所在する番場宿である。
【写真左】六波羅探題北条仲時以下430余が自害し、後に祀られた墓石群
蓮華寺境内奥にあり、整然と並んでいる。
現地の説明板より
“中山道「番場宿」、南北朝の古戦場
蓮華寺(れんげじ)
◇山号 八葉山 ◇宗派 浄土宗 ◇本尊 阿弥陀如来像 市指定文化財、釈迦如来像 市指定文化財
聖徳太子によって開かれた寺と伝えられ、当初は寺号を法隆寺と称していました。歴代天皇の信仰も厚く、花園天皇(1308~18)寺紋として菊の紋を下されました。
昭和17年に浄土宗鎮西西派に帰属して、浄土宗本山として現在に至ります。書院の東南に広がる庭園は、釈迦嶽の山裾にあたる池庭で、背景に山が迫り、谷が深く幽遠です。コウヤマキの巨樹や、山腹にはミツバツツジが群生して春の色どりは格別です。
【写真左】蓮華寺山門
中仙道沿いにあり、現在は街道から奥に続く参道途中の頭上を名神高速道路が横断している。防音壁があるものの、周囲の山に反射するのか、なんとも騒々しく、落ち着かない。
写真は内側から見たもので、奥に青と白に塗られた名神高速道の防音壁が見える。
元弘3年(1333)、京都の合戦に敗れた六波羅探題北条仲時は、この地で京極道誉南朝軍の包囲に遭い、本堂前庭で仲時以下430余名が自刃しました。仲時一行の供養の墓碑が境内にあります。また、斉藤茂吉は、恩師佐原窿応が当寺49世住職になったことから、参詣して短歌を残しています。
◇銅鐘 重要文化財
◇紙本墨書陸波羅南北過去帳 重要文化財
◇絹本著色一向上人像 県指定文化財
◇石造宝篋印塔 市指定文化財”
【写真左】境内と本堂
入山料を払い、境内を散策する。なお、この日かなり大勢の方々が庫裡の方へ向かわれたが、どうやら研修かなにかあったようだ。
足利高氏(尊氏)の反旗
上記の説明板にもあるように、元弘3年(1333)、この番場の蓮華寺において、六波羅探題の北条仲時ら主従430名余りが自刃した。
ところで、足利尊氏が倒幕の旗幟を鮮明にしたのは、元弘3年・正慶2年(1333)の5月ごろとされている。
きっかけとなったのは後醍醐天皇が隠岐を脱出後、名和長年一族を頼り伯耆船上山に立て籠り(名和長年(1)船上山参照)、地元守護佐々木清高を討ち勝利を収め、そののち、各地の武士団が続々と後醍醐天皇のも途に馳せ参じたことも理由の一つであるが、直接的には播磨の赤松一族が摂津付近まで進出し、六波羅を打ち破ったため、同年4月1日、幕府が名越高家と高氏(尊氏)を討手の大将として京都への進軍を命じたことが転機となった。
【写真左】仲時以下随士430余名の墓案内板
境内の右側を進んで行くと、ごらんの案内板があり、ここから向かう。
当然ながらこの段階では幕府は、尊氏らがこの命に従ってくれるものと思っていた。事実、足利と名越両軍併せて1万余りの大軍が京に到着した段階で、幕府軍の士気は大いに上がった。
さっそく軍議を開き、尊氏は山陰道から、名越高家は山陽道からそれぞれ伯耆国へと向かった。4月27日のことである。
山陽道を進み始めた名越軍は、しかし、いきなり鳥羽(京都)で、赤松軍と激突、高家は赤松軍の流れ矢にあたり、あえなく戦死、名越軍は総退却した。
【写真左】階段を登っていく。
仲時以下の墓石群はこの階段を上がっていった左側に建立されている。
右側は歴代住職の墓のようだ。
高家戦死の訃報を知った尊氏であったが、そのまま進軍し当時自領であった丹波国篠村に入った。ここで、尊氏は信濃の小笠原貞宗、北関東の結城宗広、そして南九州の島津貞兼らに密使を遣わし、後醍醐天皇の命を伝えた。それは、尊氏が幕府討幕という反旗を敢然と翻した瞬間であった。
【写真左】篠村八幡宮
所在地 京都府亀岡市篠町篠
主祭神 誉田別命(応神天皇)。創建 延久3年(1071)後三条天皇勅宣により河内国誉田八幡宮から勧請。
写真:境内にある「足利尊氏旗あげの地」の石碑。
参拝日 2018年3月28日
因みに、現在の京都府亀岡市にある篠村八幡宮は、尊氏倒幕挙兵地として知られ、その後後醍醐天皇と決別したとき、再びこの地で再起を図った場所でもある。
尊氏の反旗は瞬く間に全国の武士に知れ渡り、多くの者が彼の下に馳せ参じた。
【写真左】北条仲時以下430余の墓石群
430余名という数の多さもあって、ご覧のように3~4段に分けて建立されている。
六波羅滅ぶ
幕府から後醍醐追討の命を受け伯耆に向かっていた尊氏本人が、その後逆に倒幕という反旗を掲げたことに六波羅は驚愕した。
5月7日早朝、亀岡から転じて京に向かっていた尊氏らは嵯峨野から内野まで来ていた。一方一足先に入京していた赤松軍は東寺周辺で、六波羅軍と対峙していた。辰の刻になると、両軍は一気に六波羅軍を攻めたてた。こののち、千種忠顕軍も参陣し、六波羅軍は総退却していった。
六波羅探題北方大将・北条仲時ならびに、南方大将北条時益は、この一方的な大敗を目の当たりにし、もはや京を脱出し、光厳天皇、後伏見・花園両上皇を奉じて、関東(鎌倉)へ遁走する術しかなかった。
【写真左】中央部
細部まで見ていないので分からないが、おそらく右側の大きな五輪塔が北條仲時で、左側が時益のものと思われる。
しかし、落ち行く先々で野武士が待ち受けていた。京を出て間もなく、北條時益は四宮河原(現:山科区)で野武士によって絶命、また逢坂山では光厳天皇の左肘に流れ矢があたり流血、このあたりから当初つき従っていた軍勢は死者や脱落逃亡などがあり、700余りとなっていた。
それでも何とか、佐々木(六角)時信の居城・観音寺城(滋賀県近江八幡市安土町)までたどり着いた。ここで一泊し、あくる日近江を抜け美濃を目指すため、番場峠まできた。すると、その前に立ちはだかっていたのが、地元近江をはじめ、美濃・伊勢・伊賀の野武士や悪党ども5,000ほどの軍勢である。おそらくこれらは尊氏の命を受けた佐々木道誉が手筈したものだろう。
【写真左】「北条仲時及び従兵四百餘人 記念碑」と刻銘された石碑
傍らにはいつごろ設置されたのか分からないが、ご覧の石碑も建立されている。
仲時ら六波羅軍は勝算のない戦となることを敢えて承知の上だったのだろう、それでも数刻激しく戦った。しかし、多勢に無勢である、仲時はもはやこれまでと、蓮華寺の庭に鎧を脱ぎ、満身創痍の身体で腹部に刀を突き刺した。
仲時自刃のあと、従者たちも次々と殉死していった。このとき自害した主従は総勢430名余と伝えられ、のちに『太平記』にその凄まじさが描かれることになる。
仲時らの死後、時の蓮華寺住職・同阿は、これら430名余の霊を供養するため、その姓名を記録(過去帳)に記し、48日間にわたって常行三昧の念仏を修したとされる。このときの過去帳が、重要文化財となっている「紙本墨書陸波羅南北過去帳」である。
【写真左】一向上人の廟
墓地の奥には当院開山といわれる一向上人の廟が祀られている。
一向上人は、浄土宗第三祖良忠上人の弟子で、教えを説き人を導くため、北は奥州から南は九州までの各地を遊行し、この番場で一生を終えた高僧。
殉死者達
因みに、仲時のあとを追った殉死者達として、これまで紹介したのは次の武将達である。
●所在地 滋賀県米原市番場511
●山号 八葉山
●宗旨 浄土宗
●寺格 本山
●本尊 釈迦如来・阿弥陀如来
●開山 一向俊聖(中興)・弘安7年(1284)
●開基 伝・聖徳太子
●文化財 紙本墨書陸波羅南北過去帳、梵鐘
●参拝日 2015年10月24日
◆解説
現在の滋賀県米原市は、古代・中世には東山道と呼ばれた街道が走り、江戸時代に至ると、この区間は中山道(中仙道)という呼称に代わり、東隣の美濃国(岐阜県)との往来の出入口ともなった。
因みに、美濃から近江に入って最初の宿場となるのが、60番目となる柏原宿で、そのあとに豊富な湧き水で有名な「居醒泉」の醒井宿が続き、62番目の宿場となるのが今稿で取り上げる「蓮華寺」が所在する番場宿である。
【写真左】六波羅探題北条仲時以下430余が自害し、後に祀られた墓石群
蓮華寺境内奥にあり、整然と並んでいる。
現地の説明板より
“中山道「番場宿」、南北朝の古戦場
蓮華寺(れんげじ)
◇山号 八葉山 ◇宗派 浄土宗 ◇本尊 阿弥陀如来像 市指定文化財、釈迦如来像 市指定文化財
聖徳太子によって開かれた寺と伝えられ、当初は寺号を法隆寺と称していました。歴代天皇の信仰も厚く、花園天皇(1308~18)寺紋として菊の紋を下されました。
昭和17年に浄土宗鎮西西派に帰属して、浄土宗本山として現在に至ります。書院の東南に広がる庭園は、釈迦嶽の山裾にあたる池庭で、背景に山が迫り、谷が深く幽遠です。コウヤマキの巨樹や、山腹にはミツバツツジが群生して春の色どりは格別です。
中仙道沿いにあり、現在は街道から奥に続く参道途中の頭上を名神高速道路が横断している。防音壁があるものの、周囲の山に反射するのか、なんとも騒々しく、落ち着かない。
写真は内側から見たもので、奥に青と白に塗られた名神高速道の防音壁が見える。
元弘3年(1333)、京都の合戦に敗れた六波羅探題北条仲時は、この地で京極道誉南朝軍の包囲に遭い、本堂前庭で仲時以下430余名が自刃しました。仲時一行の供養の墓碑が境内にあります。また、斉藤茂吉は、恩師佐原窿応が当寺49世住職になったことから、参詣して短歌を残しています。
◇銅鐘 重要文化財
◇紙本墨書陸波羅南北過去帳 重要文化財
◇絹本著色一向上人像 県指定文化財
◇石造宝篋印塔 市指定文化財”
【写真左】境内と本堂
入山料を払い、境内を散策する。なお、この日かなり大勢の方々が庫裡の方へ向かわれたが、どうやら研修かなにかあったようだ。
足利高氏(尊氏)の反旗
上記の説明板にもあるように、元弘3年(1333)、この番場の蓮華寺において、六波羅探題の北条仲時ら主従430名余りが自刃した。
ところで、足利尊氏が倒幕の旗幟を鮮明にしたのは、元弘3年・正慶2年(1333)の5月ごろとされている。
きっかけとなったのは後醍醐天皇が隠岐を脱出後、名和長年一族を頼り伯耆船上山に立て籠り(名和長年(1)船上山参照)、地元守護佐々木清高を討ち勝利を収め、そののち、各地の武士団が続々と後醍醐天皇のも途に馳せ参じたことも理由の一つであるが、直接的には播磨の赤松一族が摂津付近まで進出し、六波羅を打ち破ったため、同年4月1日、幕府が名越高家と高氏(尊氏)を討手の大将として京都への進軍を命じたことが転機となった。
【写真左】仲時以下随士430余名の墓案内板
境内の右側を進んで行くと、ごらんの案内板があり、ここから向かう。
当然ながらこの段階では幕府は、尊氏らがこの命に従ってくれるものと思っていた。事実、足利と名越両軍併せて1万余りの大軍が京に到着した段階で、幕府軍の士気は大いに上がった。
さっそく軍議を開き、尊氏は山陰道から、名越高家は山陽道からそれぞれ伯耆国へと向かった。4月27日のことである。
山陽道を進み始めた名越軍は、しかし、いきなり鳥羽(京都)で、赤松軍と激突、高家は赤松軍の流れ矢にあたり、あえなく戦死、名越軍は総退却した。
【写真左】階段を登っていく。
仲時以下の墓石群はこの階段を上がっていった左側に建立されている。
右側は歴代住職の墓のようだ。
高家戦死の訃報を知った尊氏であったが、そのまま進軍し当時自領であった丹波国篠村に入った。ここで、尊氏は信濃の小笠原貞宗、北関東の結城宗広、そして南九州の島津貞兼らに密使を遣わし、後醍醐天皇の命を伝えた。それは、尊氏が幕府討幕という反旗を敢然と翻した瞬間であった。
【写真左】篠村八幡宮
所在地 京都府亀岡市篠町篠
主祭神 誉田別命(応神天皇)。創建 延久3年(1071)後三条天皇勅宣により河内国誉田八幡宮から勧請。
写真:境内にある「足利尊氏旗あげの地」の石碑。
参拝日 2018年3月28日
因みに、現在の京都府亀岡市にある篠村八幡宮は、尊氏倒幕挙兵地として知られ、その後後醍醐天皇と決別したとき、再びこの地で再起を図った場所でもある。
尊氏の反旗は瞬く間に全国の武士に知れ渡り、多くの者が彼の下に馳せ参じた。
【写真左】北条仲時以下430余の墓石群
430余名という数の多さもあって、ご覧のように3~4段に分けて建立されている。
六波羅滅ぶ
幕府から後醍醐追討の命を受け伯耆に向かっていた尊氏本人が、その後逆に倒幕という反旗を掲げたことに六波羅は驚愕した。
5月7日早朝、亀岡から転じて京に向かっていた尊氏らは嵯峨野から内野まで来ていた。一方一足先に入京していた赤松軍は東寺周辺で、六波羅軍と対峙していた。辰の刻になると、両軍は一気に六波羅軍を攻めたてた。こののち、千種忠顕軍も参陣し、六波羅軍は総退却していった。
六波羅探題北方大将・北条仲時ならびに、南方大将北条時益は、この一方的な大敗を目の当たりにし、もはや京を脱出し、光厳天皇、後伏見・花園両上皇を奉じて、関東(鎌倉)へ遁走する術しかなかった。
【写真左】中央部
細部まで見ていないので分からないが、おそらく右側の大きな五輪塔が北條仲時で、左側が時益のものと思われる。
しかし、落ち行く先々で野武士が待ち受けていた。京を出て間もなく、北條時益は四宮河原(現:山科区)で野武士によって絶命、また逢坂山では光厳天皇の左肘に流れ矢があたり流血、このあたりから当初つき従っていた軍勢は死者や脱落逃亡などがあり、700余りとなっていた。
それでも何とか、佐々木(六角)時信の居城・観音寺城(滋賀県近江八幡市安土町)までたどり着いた。ここで一泊し、あくる日近江を抜け美濃を目指すため、番場峠まできた。すると、その前に立ちはだかっていたのが、地元近江をはじめ、美濃・伊勢・伊賀の野武士や悪党ども5,000ほどの軍勢である。おそらくこれらは尊氏の命を受けた佐々木道誉が手筈したものだろう。
【写真左】「北条仲時及び従兵四百餘人 記念碑」と刻銘された石碑
傍らにはいつごろ設置されたのか分からないが、ご覧の石碑も建立されている。
仲時ら六波羅軍は勝算のない戦となることを敢えて承知の上だったのだろう、それでも数刻激しく戦った。しかし、多勢に無勢である、仲時はもはやこれまでと、蓮華寺の庭に鎧を脱ぎ、満身創痍の身体で腹部に刀を突き刺した。
仲時自刃のあと、従者たちも次々と殉死していった。このとき自害した主従は総勢430名余と伝えられ、のちに『太平記』にその凄まじさが描かれることになる。
仲時らの死後、時の蓮華寺住職・同阿は、これら430名余の霊を供養するため、その姓名を記録(過去帳)に記し、48日間にわたって常行三昧の念仏を修したとされる。このときの過去帳が、重要文化財となっている「紙本墨書陸波羅南北過去帳」である。
【写真左】一向上人の廟
墓地の奥には当院開山といわれる一向上人の廟が祀られている。
一向上人は、浄土宗第三祖良忠上人の弟子で、教えを説き人を導くため、北は奥州から南は九州までの各地を遊行し、この番場で一生を終えた高僧。
殉死者達
因みに、仲時のあとを追った殉死者達として、これまで紹介したのは次の武将達である。
- 高橋光国及び、その子・時任(ときとう) 備中松山城(岡山県高梁市内山下)・藤掛城・その1(島根県邑智郡邑南町木須田)参照
- 陶山二郎をはじめとする、小見山孫五郎ら陶山一族 匠ヶ城(岡山県井原市上稲木町)参照。
貞平に限らず、他にも多くのものが離脱したものと思われるが、貞平の場合も、彼が本国安芸に帰還しなかったら、その後の小早川氏も違った歴史を歩んだかもしれない。
【写真左】歴代住職の墓
少し下がったところには、歴代住職の墓が祀られている。おそらくこの中に、同阿のものもあると思われる。
佐々木道誉の動向
ところで、この蓮華寺における戦いでは、具体的な佐々木道誉の動きについて記したものは今のところない。彼については、勝楽寺・勝楽寺城(滋賀県犬上郡甲良町正楽寺4)の稿でも述べたように、番場で尊氏が道誉の饗応を受けていたことを考慮すると、彼がこの戦い(蓮華寺)で倒幕方を主導していた可能性が高い。
因みに、蓮華寺から東方10キロ余り向かった清滝には、のちに道誉が深くかかわることになる清瀧寺徳源院・柏原城(滋賀県米原市清滝)があり、当初から道誉は北条仲時の敗走ルートを知っていたのではないかとも思われ、うがった見方をすれば、仲時らを一泊させた観音寺城の六角時信とも密議を交わしていたのではないかとも思えたりする。
伝・土肥元頼墓
ところで、蓮華寺境内には北条仲時らの墓とは別に、蓮華寺から南に1キロほど向かったところにある鎌刃城(かまばじょう)の城主・土肥三郎元頼の墓と伝えられている墓もある。
【写真左】伝・土肥元頼墓
鎌刃城については、以前この近くにある太尾山城・その2でも少し紹介しているが、最近では築城者が土肥氏であったという伝承はあるものの、定かでなく、文明4年(1472)に坂田郡の今井秀遠(ひでとみ)が、堀次郎左衛門の籠る鎌刃城を攻めたという記録が最古とされるため、この宝篋印塔も土肥氏であるかどうか、なお検討の余地があるようだ。
現地の説明板より
“ 伝 土肥元頼墓(市指定石造宝篋印塔)
鎌刃城主・土肥三郎元頼の墓と伝えられています。元頼は、正応元年(1288)9月18日逝去して、蓮華寺の墳墓に葬られました。宝篋印塔には銘文等が確認できず、塔の様式からし元頼の年代とくらべて新しいものである可能性もあります。蓮華寺は、聖徳太子が創建し法隆寺と称していましたが、建治2年(1276)落雷により焼失。その後、弘安7年(1284)の夏に、一向上人が諸国を巡る旅の杖を留めて、この地で念仏を広く唱えて民衆を教え導かれました。この地の領主であった元頼も深くその教えに従い、焼失した堂塔を再興して、「八葉山蓮華寺」と改称し、一向上人を開山上人に迎えました。
米原市教育委員会”
番場の忠太郎地蔵尊
江戸幕末期・嘉永年間を時代設定とし、劇作家・長谷川伸が創作した『瞼の母』などをメインに、シナリオライター三村伸太郎が脚本、中川信夫が監督した映画『番場の忠太郎』が1955年に公開された。
いわゆる「股旅物」の映画だが、「両の瞼を閉じれば、懐かしいおっ母あの顔が浮かんでくらー…」というセリフは当時大いにはやった。
この作品では直接忠太郎の出身地である番場は特に出てこないが、地元の蓮華寺境内には彼を祀って地蔵尊が建立されている。
【写真左】忠太郎地蔵尊
現地説明板より
“忠太郎地蔵尊の由来
昭和33年8月3日 文壇の雄長谷川伸先生が南無帰命頂禮 親をたづぬる子には親を 子をたづねる親には子を めぐり合わせ給えと悲願をこめて建立された地蔵尊である。
このお地蔵さまを拝めて親子の縁はもとより あらゆる縁が完全に結ばれて家庭円満の楽しみを受けることができる それにはお互いが をがみ合うすなをな心が大切である それをこのお地蔵さまは 合掌せよとお示めしになっている
番場史蹟顕彰会”
【写真左】歴代住職の墓
少し下がったところには、歴代住職の墓が祀られている。おそらくこの中に、同阿のものもあると思われる。
佐々木道誉の動向
ところで、この蓮華寺における戦いでは、具体的な佐々木道誉の動きについて記したものは今のところない。彼については、勝楽寺・勝楽寺城(滋賀県犬上郡甲良町正楽寺4)の稿でも述べたように、番場で尊氏が道誉の饗応を受けていたことを考慮すると、彼がこの戦い(蓮華寺)で倒幕方を主導していた可能性が高い。
因みに、蓮華寺から東方10キロ余り向かった清滝には、のちに道誉が深くかかわることになる清瀧寺徳源院・柏原城(滋賀県米原市清滝)があり、当初から道誉は北条仲時の敗走ルートを知っていたのではないかとも思われ、うがった見方をすれば、仲時らを一泊させた観音寺城の六角時信とも密議を交わしていたのではないかとも思えたりする。
伝・土肥元頼墓
ところで、蓮華寺境内には北条仲時らの墓とは別に、蓮華寺から南に1キロほど向かったところにある鎌刃城(かまばじょう)の城主・土肥三郎元頼の墓と伝えられている墓もある。
【写真左】伝・土肥元頼墓
鎌刃城については、以前この近くにある太尾山城・その2でも少し紹介しているが、最近では築城者が土肥氏であったという伝承はあるものの、定かでなく、文明4年(1472)に坂田郡の今井秀遠(ひでとみ)が、堀次郎左衛門の籠る鎌刃城を攻めたという記録が最古とされるため、この宝篋印塔も土肥氏であるかどうか、なお検討の余地があるようだ。
現地の説明板より
“ 伝 土肥元頼墓(市指定石造宝篋印塔)
鎌刃城主・土肥三郎元頼の墓と伝えられています。元頼は、正応元年(1288)9月18日逝去して、蓮華寺の墳墓に葬られました。宝篋印塔には銘文等が確認できず、塔の様式からし元頼の年代とくらべて新しいものである可能性もあります。蓮華寺は、聖徳太子が創建し法隆寺と称していましたが、建治2年(1276)落雷により焼失。その後、弘安7年(1284)の夏に、一向上人が諸国を巡る旅の杖を留めて、この地で念仏を広く唱えて民衆を教え導かれました。この地の領主であった元頼も深くその教えに従い、焼失した堂塔を再興して、「八葉山蓮華寺」と改称し、一向上人を開山上人に迎えました。
米原市教育委員会”
番場の忠太郎地蔵尊
江戸幕末期・嘉永年間を時代設定とし、劇作家・長谷川伸が創作した『瞼の母』などをメインに、シナリオライター三村伸太郎が脚本、中川信夫が監督した映画『番場の忠太郎』が1955年に公開された。
いわゆる「股旅物」の映画だが、「両の瞼を閉じれば、懐かしいおっ母あの顔が浮かんでくらー…」というセリフは当時大いにはやった。
この作品では直接忠太郎の出身地である番場は特に出てこないが、地元の蓮華寺境内には彼を祀って地蔵尊が建立されている。
【写真左】忠太郎地蔵尊
現地説明板より
“忠太郎地蔵尊の由来
昭和33年8月3日 文壇の雄長谷川伸先生が南無帰命頂禮 親をたづぬる子には親を 子をたづねる親には子を めぐり合わせ給えと悲願をこめて建立された地蔵尊である。
このお地蔵さまを拝めて親子の縁はもとより あらゆる縁が完全に結ばれて家庭円満の楽しみを受けることができる それにはお互いが をがみ合うすなをな心が大切である それをこのお地蔵さまは 合掌せよとお示めしになっている
番場史蹟顕彰会”