近江・八幡山城(おうみ・はちまんやまじょう)
●所在地 滋賀県近江八幡市宮内
●別名 八幡城、近江八幡城
●高さ 283m(比高100m)
●築城期 天正13年(1585)
●築城者 豊臣秀次
●城主 豊臣秀次、京極高次
●遺構 郭・石垣、居館
●登城日 2016年3月5日
◆解説(参考文献 『近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編』仁木宏・福島克彦編 吉川弘文館等)
管理人が気に入っていたTV時代劇「鬼平犯科帳」などに度々使われてきた八幡堀界隈は、滋賀県近江八幡市に所在する。この八幡堀は八幡山城の築城者であった豊臣秀次が築城に併せて設置した外堀である。
【写真左】本丸跡の村雲御所瑞龍寺
後段でも記すように、城主であった豊臣秀次が自刃した後、京極高次が城主となったが、その後破却されこともあり、当時の遺構が大分消滅している。
なお、村雲御所瑞龍寺については下段で紹介する。
現地の掲示資料より
“八幡山城の歴史と環境
八幡山城は、滋賀県近江八幡市北方の八幡山(鶴翼山)に所在する城跡で、当時は、後背から西にかけて津田内湖(昭和46年干拓)、東に西の湖が広がっており、内湖に囲まれた環境にありました。
豊臣政権下の天正13年(1585年)には、羽柴秀次に近江43万石が与えられ、この八幡山に八幡山城が築かれました。築城に際しては、山麓に存在していた願成就寺が八幡山南方にある日杉山の南麓へ移動させられたことが史料に伝えられており、山腹に鎮座していた日牟礼八幡宮の上社も同じく、麓の下社と合祀されたことが伝わっています。
【写真左】八幡山城配置図
八幡山城遺跡詳細測量図をもとに、管理人によって簡略化した配置図で、この図では秀次が居館としていた付近は図示していない。
本丸および二ノ丸、北ノ丸、西ノ丸、出丸の城郭施設は標高283mの山頂に位置し、居館群は標高約130mの山腹の谷地形に平坦地を設けて造られています。
大手道は、居館群最高所に位置する秀次館から麓に下り、築城時に開削されたと伝えられる八幡堀に到ります。この大手道両側には雛壇状に家臣団の居館群が広がっていて、東側の尾根と西側の尾根と八幡堀がセットで惣構えを構成していると考えられます。
【写真左】ロープウェイで山頂に向かう。
山城愛好家としては本来徒歩で向かうべきなのだが、次の予定もあったため、これを利用させてもらった。
乗車時間は僅か4分ほどである。
天正18年(1590年)に秀次が尾張清洲に移った後は、京極高次が代わって、2万8000石で城主となり、秀次が自害する文禄4年(1595)に聚楽第と同じく破却されました。
尚、昭和42年に、山頂本丸部分から山麓にかけて集中豪雨によって土砂崩れが発生しました。御来訪の皆様に安心して見学していただけるように近江八幡市では、関係各局と検討を重ね、さらにその検討資料となるように平成12年度より確認調査や、測量調査などを行っています。”
【写真左】二の丸直下付近
ロープウェイを降りたところが当時の二ノ丸付近で、階段脇には石積が残る。
豊臣秀次の自刃
八幡山城の築城者豊臣秀次は秀吉の甥である。秀吉の兄妹で最も有名なのが、常に秀吉を支えて来た実弟・秀長であるが、秀吉の姉には後に三好一路の妻となった瑞竜院日秀、通称「とも」がいた。この二人の間にできたのが秀次である。
幼少の頃は、秀吉の戦歴の中で度々人質などになり、名前も度々変えている。最初の人質となったのが、小谷浅井氏の家臣宮部継潤に養子となって入った時である。このとき、宮部吉継と名乗る。その後、畿内で勢力を誇っていた三好一族の三好康長(岩倉城(徳島県美馬市脇町田上)参照)の養嗣子となり、三好信吉と改名し三好家の名跡を継いだ。
【写真左】出土した瓦片など
すぐそばには展望資料館があり、遺跡調査したときの遺物などが展示されている。
主に瓦関係が多いが、軒丸瓦・丸瓦・平瓦をはじめ、これに使われた釘なども展示されている。
その後池田恒興の娘を妻に持ち、秀吉が賤ヶ岳の戦い(賤ヶ岳城(滋賀県長浜市木之本町大音・飯浦)参照)で勝利を勝ち取り、天下人として歩み始めると、信吉(秀次)も秀吉の縁者の一人として重用されるようになる。秀次が三好姓から羽柴姓に復帰したのは天正12年(1584)頃といわれている。
この年(天正12年)4月、秀吉は尾張国長久手で徳川家康と激突した。いわゆる長久手の戦いである。秀次はこの戦いで功を上げるため大将として志願したものの失態を演じ、秀吉から烈しく叱責された。その後汚名を晴らすべく、四国征伐などで功を挙げ、何とか面目を保ち、豊臣姓を下賜された。
【写真左】村雲瑞龍寺門跡と北の丸方面の分岐点
左の階段を登ると瑞龍寺門跡へ、右奥の道を行くと北の丸へ繋がる。
なお、この位置に来る手前までには西の丸へ向かう道があるが、先にこちらに向かった。
先ず瑞龍寺門跡(本丸)に向かう。
秀吉の初めての嫡男・鶴松が天正19年(1591)亡くなったことにより、改めて秀吉の養嗣子となり秀吉に替わり関白となった。それから2年後の文禄2年(1593)8月29日、秀頼が生まれた。このとき、秀吉は秀頼には秀次の娘を嫁がせ、秀次のあとは秀頼へ政権を継がせる計画があったという。
しかし、この2年後の文禄4年(1595)7月、秀吉は秀次の関白職を剥奪、さらには自刃に追い込ませた。しかも、秀次の縁者であった子女、妻妾なども殺害した。
【写真左】村雲御所瑞龍寺門跡
本丸跡の一角に建立されているもので、現地には次のように記されている。
現地説明板より
“由緒
村雲御所と称し日蓮宗唯一の門跡寺院である後継者は、皇族五摂家華族から出て代々尼宮が住持する慣わしであった。
当所は、天正13年関白秀次公が八幡城を築いた要害の地であった。
当門跡は、関白豊臣秀次公の生母智の方事瑞龍寺殿日秀尼公が秀次公の菩提を弔うために文禄5年正月に創建されたもので、後陽成天皇からは村雲の地と瑞龍寺の寺号及び、寺禄一千石を賜りまた紫衣着用と菊の御紋章を許されて勅願所となった。
歴朝の尊崇も浅からず寺格は黒御所と定められ、これによって村雲御所と呼ばれることになった。
本山村雲御所瑞龍寺門跡”
因みに、秀次の生母・智(とも)が、秀次ら一族の菩提を弔うために開いた最初の場所は、京都の嵯峨にある二尊院の近くである。
秀次に自刃を命じたのは秀吉だが、この年(文禄4年)の7月3日、聚楽第にあった秀次のもとに石田三成・前田玄以・増田長盛・宮部継潤・富田一白らが訪れ、秀次に謀叛の疑いがあるとし、五か条の設問状を示し出頭を促している。
これに対し、秀次は出頭を拒否、誓紙を認め逆心がないことを誓ったが、8日に再び伏見に出頭を命じられ、已む無く伏見に赴くと、引見されず関白・左大臣の職を剥奪、さらには剃髪を命ぜられ、高野山清厳寺に流罪・蟄居となった。
【写真左】本丸の東側面の石垣
昭和42年に土砂崩れがあったことから、石垣の状況は当時のものではないかもしれないが、位置は同じところに積まれたものだろう。
上段奥に見えるのは、瑞龍寺門からさらに奥に向かった稲荷神社の本殿。
石田三成など5名のものが秀次に対し、どういう理由・根拠の下に「謀反の疑い」をかけたのか、未だに詳細は明らかにされていない。
ただ、この時期(同年7月)には、秀頼に対し秀吉直属の奉行人らが「太閤様御法度御置目」を誓約したほか、秀次が自刃した15日以後、前田利家・宇喜多秀家をはじめ、織田信雄・上杉景勝・徳川秀忠ら在京大名28人らが、血判起請文や血判連署起請文を提出している。何とも慌ただしい動きである。このことから、秀頼の継嗣に当たって、何らかの緊張状態があったのだろう。
【写真左】北の丸へ向かう。
村雲御所瑞龍寺門跡を終えて、一旦下に下がり北の丸へ向かう。
写真左側の石垣は上の写真と同じく、瑞龍寺門(本丸)側のもので、高石垣である。
それにしても、秀次の自刃の処置については、フロイスが記したように、「老体の狂気」ともいうべき常軌を逸した秀吉の狂乱ぶりが背景にある。秀次の頸は京都三条河原で晒された上に、その前で今度は秀次の遺児、側室・侍女29名が処刑された。また最上義光の娘は、秀次に乞われて上洛させていたが、この娘も家康からの嘆願もむなしく斬首された。
【写真左】北の丸
北側の尾根筋に配置された郭で、南北に長い方形の形態。
【写真左】北の丸から北方を見る。
北の丸からさらに尾根筋に北に向かっていくと、堀切があり、さらにそこから1キロ前後進むと、「北の庄城」がある。
残念ながらこの日は時間がなく、当城は登城していないが、佐々木六角氏によって築かれたともいわれ、大手の枡形虎口にみるべきものがあるという。
【写真左】北の丸から安土城及び観音寺城を遠望する。
この日は靄がかかっていたため、現地に設置してあったものを撮影し、管理人によって加工修正している。
近江八幡山城から安土城までは直線距離で5.4キロ、観音寺城(滋賀県近江八幡市安土町)までは凡そ7キロ離れている。
戦国期は左側に見えている西の湖がさらに内陸部まで広がっていたものと思われる。
【写真左】北の丸から本丸側を振り返る。
この位置では丁度本丸の北東隅の石垣が見えている。
このあと、西に向かい西の丸に向かう。
【写真左】西ノ丸
北の丸から少し西に回り込むと西の丸が控える。
【写真左】西の丸から水茎岡山城を遠望する。
西方に目を転ずると琵琶湖がみえるが、その湖岸には水茎岡山城が見える。
当城は頭山(147m)とその隣にある大山(187m)の二山に築かれた山城で、南北朝時代佐々木六角氏の湖上警備の支城として築かれたといわれる。
ただ、本格的な築城は、永正5年(1508)、足利11代将軍義澄が足利義尹の入洛を怖れて近江に逃れた際、伊庭、九里(くのり)氏を頼って岡山城に入城したときとされている。
【写真左】出丸
西の丸からさらに南の尾根筋に向かうと出丸が配置されている。
ただ、この日登城したときはご覧のように、カラーコーンやロープなどで立ち入り禁止の処置がされていたので向かっていない。手前に崩落した石が見えたので、危険なため通行禁止となったのだろう。
【写真左】秀次館跡測量図
秀次館は本丸と出丸の間の谷を降りた南側の山麓部にあり、中央部(赤い線)が大手道となっていた。
秀次館中心部はこの図の上部にあって、平成12,13年度の遺構確認調査では大型の礎石建物や石組みの溝などが検出されている。
また、家臣団の館は秀次館から下方に大手道を挟んで両側に雛壇状の平坦地を設け造られていた。
なお、この日(2016年3月)は危険な箇所もあり大手道が封鎖されていて探訪することはできなかった。
●所在地 滋賀県近江八幡市宮内
●別名 八幡城、近江八幡城
●高さ 283m(比高100m)
●築城期 天正13年(1585)
●築城者 豊臣秀次
●城主 豊臣秀次、京極高次
●遺構 郭・石垣、居館
●登城日 2016年3月5日
◆解説(参考文献 『近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編』仁木宏・福島克彦編 吉川弘文館等)
管理人が気に入っていたTV時代劇「鬼平犯科帳」などに度々使われてきた八幡堀界隈は、滋賀県近江八幡市に所在する。この八幡堀は八幡山城の築城者であった豊臣秀次が築城に併せて設置した外堀である。
【写真左】本丸跡の村雲御所瑞龍寺
後段でも記すように、城主であった豊臣秀次が自刃した後、京極高次が城主となったが、その後破却されこともあり、当時の遺構が大分消滅している。
なお、村雲御所瑞龍寺については下段で紹介する。
現地の掲示資料より
“八幡山城の歴史と環境
八幡山城は、滋賀県近江八幡市北方の八幡山(鶴翼山)に所在する城跡で、当時は、後背から西にかけて津田内湖(昭和46年干拓)、東に西の湖が広がっており、内湖に囲まれた環境にありました。
豊臣政権下の天正13年(1585年)には、羽柴秀次に近江43万石が与えられ、この八幡山に八幡山城が築かれました。築城に際しては、山麓に存在していた願成就寺が八幡山南方にある日杉山の南麓へ移動させられたことが史料に伝えられており、山腹に鎮座していた日牟礼八幡宮の上社も同じく、麓の下社と合祀されたことが伝わっています。
【写真左】八幡山城配置図
八幡山城遺跡詳細測量図をもとに、管理人によって簡略化した配置図で、この図では秀次が居館としていた付近は図示していない。
本丸および二ノ丸、北ノ丸、西ノ丸、出丸の城郭施設は標高283mの山頂に位置し、居館群は標高約130mの山腹の谷地形に平坦地を設けて造られています。
大手道は、居館群最高所に位置する秀次館から麓に下り、築城時に開削されたと伝えられる八幡堀に到ります。この大手道両側には雛壇状に家臣団の居館群が広がっていて、東側の尾根と西側の尾根と八幡堀がセットで惣構えを構成していると考えられます。
【写真左】ロープウェイで山頂に向かう。
山城愛好家としては本来徒歩で向かうべきなのだが、次の予定もあったため、これを利用させてもらった。
乗車時間は僅か4分ほどである。
天正18年(1590年)に秀次が尾張清洲に移った後は、京極高次が代わって、2万8000石で城主となり、秀次が自害する文禄4年(1595)に聚楽第と同じく破却されました。
尚、昭和42年に、山頂本丸部分から山麓にかけて集中豪雨によって土砂崩れが発生しました。御来訪の皆様に安心して見学していただけるように近江八幡市では、関係各局と検討を重ね、さらにその検討資料となるように平成12年度より確認調査や、測量調査などを行っています。”
【写真左】二の丸直下付近
ロープウェイを降りたところが当時の二ノ丸付近で、階段脇には石積が残る。
豊臣秀次の自刃
八幡山城の築城者豊臣秀次は秀吉の甥である。秀吉の兄妹で最も有名なのが、常に秀吉を支えて来た実弟・秀長であるが、秀吉の姉には後に三好一路の妻となった瑞竜院日秀、通称「とも」がいた。この二人の間にできたのが秀次である。
幼少の頃は、秀吉の戦歴の中で度々人質などになり、名前も度々変えている。最初の人質となったのが、小谷浅井氏の家臣宮部継潤に養子となって入った時である。このとき、宮部吉継と名乗る。その後、畿内で勢力を誇っていた三好一族の三好康長(岩倉城(徳島県美馬市脇町田上)参照)の養嗣子となり、三好信吉と改名し三好家の名跡を継いだ。
【写真左】出土した瓦片など
すぐそばには展望資料館があり、遺跡調査したときの遺物などが展示されている。
主に瓦関係が多いが、軒丸瓦・丸瓦・平瓦をはじめ、これに使われた釘なども展示されている。
その後池田恒興の娘を妻に持ち、秀吉が賤ヶ岳の戦い(賤ヶ岳城(滋賀県長浜市木之本町大音・飯浦)参照)で勝利を勝ち取り、天下人として歩み始めると、信吉(秀次)も秀吉の縁者の一人として重用されるようになる。秀次が三好姓から羽柴姓に復帰したのは天正12年(1584)頃といわれている。
この年(天正12年)4月、秀吉は尾張国長久手で徳川家康と激突した。いわゆる長久手の戦いである。秀次はこの戦いで功を上げるため大将として志願したものの失態を演じ、秀吉から烈しく叱責された。その後汚名を晴らすべく、四国征伐などで功を挙げ、何とか面目を保ち、豊臣姓を下賜された。
【写真左】村雲瑞龍寺門跡と北の丸方面の分岐点
左の階段を登ると瑞龍寺門跡へ、右奥の道を行くと北の丸へ繋がる。
なお、この位置に来る手前までには西の丸へ向かう道があるが、先にこちらに向かった。
先ず瑞龍寺門跡(本丸)に向かう。
秀吉の初めての嫡男・鶴松が天正19年(1591)亡くなったことにより、改めて秀吉の養嗣子となり秀吉に替わり関白となった。それから2年後の文禄2年(1593)8月29日、秀頼が生まれた。このとき、秀吉は秀頼には秀次の娘を嫁がせ、秀次のあとは秀頼へ政権を継がせる計画があったという。
しかし、この2年後の文禄4年(1595)7月、秀吉は秀次の関白職を剥奪、さらには自刃に追い込ませた。しかも、秀次の縁者であった子女、妻妾なども殺害した。
【写真左】村雲御所瑞龍寺門跡
本丸跡の一角に建立されているもので、現地には次のように記されている。
現地説明板より
“由緒
村雲御所と称し日蓮宗唯一の門跡寺院である後継者は、皇族五摂家華族から出て代々尼宮が住持する慣わしであった。
当所は、天正13年関白秀次公が八幡城を築いた要害の地であった。
当門跡は、関白豊臣秀次公の生母智の方事瑞龍寺殿日秀尼公が秀次公の菩提を弔うために文禄5年正月に創建されたもので、後陽成天皇からは村雲の地と瑞龍寺の寺号及び、寺禄一千石を賜りまた紫衣着用と菊の御紋章を許されて勅願所となった。
歴朝の尊崇も浅からず寺格は黒御所と定められ、これによって村雲御所と呼ばれることになった。
本山村雲御所瑞龍寺門跡”
因みに、秀次の生母・智(とも)が、秀次ら一族の菩提を弔うために開いた最初の場所は、京都の嵯峨にある二尊院の近くである。
秀次に自刃を命じたのは秀吉だが、この年(文禄4年)の7月3日、聚楽第にあった秀次のもとに石田三成・前田玄以・増田長盛・宮部継潤・富田一白らが訪れ、秀次に謀叛の疑いがあるとし、五か条の設問状を示し出頭を促している。
これに対し、秀次は出頭を拒否、誓紙を認め逆心がないことを誓ったが、8日に再び伏見に出頭を命じられ、已む無く伏見に赴くと、引見されず関白・左大臣の職を剥奪、さらには剃髪を命ぜられ、高野山清厳寺に流罪・蟄居となった。
【写真左】本丸の東側面の石垣
昭和42年に土砂崩れがあったことから、石垣の状況は当時のものではないかもしれないが、位置は同じところに積まれたものだろう。
上段奥に見えるのは、瑞龍寺門からさらに奥に向かった稲荷神社の本殿。
石田三成など5名のものが秀次に対し、どういう理由・根拠の下に「謀反の疑い」をかけたのか、未だに詳細は明らかにされていない。
ただ、この時期(同年7月)には、秀頼に対し秀吉直属の奉行人らが「太閤様御法度御置目」を誓約したほか、秀次が自刃した15日以後、前田利家・宇喜多秀家をはじめ、織田信雄・上杉景勝・徳川秀忠ら在京大名28人らが、血判起請文や血判連署起請文を提出している。何とも慌ただしい動きである。このことから、秀頼の継嗣に当たって、何らかの緊張状態があったのだろう。
【写真左】北の丸へ向かう。
村雲御所瑞龍寺門跡を終えて、一旦下に下がり北の丸へ向かう。
写真左側の石垣は上の写真と同じく、瑞龍寺門(本丸)側のもので、高石垣である。
それにしても、秀次の自刃の処置については、フロイスが記したように、「老体の狂気」ともいうべき常軌を逸した秀吉の狂乱ぶりが背景にある。秀次の頸は京都三条河原で晒された上に、その前で今度は秀次の遺児、側室・侍女29名が処刑された。また最上義光の娘は、秀次に乞われて上洛させていたが、この娘も家康からの嘆願もむなしく斬首された。
【写真左】北の丸
北側の尾根筋に配置された郭で、南北に長い方形の形態。
【写真左】北の丸から北方を見る。
北の丸からさらに尾根筋に北に向かっていくと、堀切があり、さらにそこから1キロ前後進むと、「北の庄城」がある。
残念ながらこの日は時間がなく、当城は登城していないが、佐々木六角氏によって築かれたともいわれ、大手の枡形虎口にみるべきものがあるという。
【写真左】北の丸から安土城及び観音寺城を遠望する。
この日は靄がかかっていたため、現地に設置してあったものを撮影し、管理人によって加工修正している。
近江八幡山城から安土城までは直線距離で5.4キロ、観音寺城(滋賀県近江八幡市安土町)までは凡そ7キロ離れている。
戦国期は左側に見えている西の湖がさらに内陸部まで広がっていたものと思われる。
【写真左】北の丸から本丸側を振り返る。
この位置では丁度本丸の北東隅の石垣が見えている。
このあと、西に向かい西の丸に向かう。
【写真左】西ノ丸
北の丸から少し西に回り込むと西の丸が控える。
【写真左】西の丸から水茎岡山城を遠望する。
西方に目を転ずると琵琶湖がみえるが、その湖岸には水茎岡山城が見える。
当城は頭山(147m)とその隣にある大山(187m)の二山に築かれた山城で、南北朝時代佐々木六角氏の湖上警備の支城として築かれたといわれる。
ただ、本格的な築城は、永正5年(1508)、足利11代将軍義澄が足利義尹の入洛を怖れて近江に逃れた際、伊庭、九里(くのり)氏を頼って岡山城に入城したときとされている。
【写真左】出丸
西の丸からさらに南の尾根筋に向かうと出丸が配置されている。
ただ、この日登城したときはご覧のように、カラーコーンやロープなどで立ち入り禁止の処置がされていたので向かっていない。手前に崩落した石が見えたので、危険なため通行禁止となったのだろう。
【写真左】秀次館跡測量図
秀次館は本丸と出丸の間の谷を降りた南側の山麓部にあり、中央部(赤い線)が大手道となっていた。
秀次館中心部はこの図の上部にあって、平成12,13年度の遺構確認調査では大型の礎石建物や石組みの溝などが検出されている。
また、家臣団の館は秀次館から下方に大手道を挟んで両側に雛壇状の平坦地を設け造られていた。
なお、この日(2016年3月)は危険な箇所もあり大手道が封鎖されていて探訪することはできなかった。