筑前・大野城(ちくぜん・おおのじょう)・その1
●所在地 福岡県大野城市・宇美町・太宰府市
●形態 朝鮮式古代山城
●築城期 飛鳥時代・(665年)ごろ
●築城者 大和朝廷
●指定 国特別史跡
●備考 四王寺山・福岡県立四王寺県民の森・岩屋城、水城・基肄(きいじょう)、
●遺構 土塁・式書き・礎石・門跡・烽火台跡・教筒その他多数
●標高 410m
●規模 土塁総延長8,200m
●登城日 2013年2月3日
◆解説
前稿大宰府政庁跡(福岡県太宰府市観世音寺4-6-1)で少し紹介したように、大宰府政庁跡の北方には四王寺山という山が背後に控え、この山全体に朝鮮式古代山城としての大野城が築かれていた。
朝鮮式古代山城についてはこれまで、
を紹介しているが、この他に類似するものとして、
【写真左】大野城が築かれた頃の要図
大野城の他に、付属する要塞施設として、西麓には細長い土堤をもつ水城を配置し、博多湾側からの攻撃を阻止するものも残る。
なお、この図には描かれていないが、大野城の南方には基肄城(きいじょう)という大宰府条坊域を守る支城的役目をもった城砦もある。
おそらく、当時はこの水城の手前までが灘となっていたものと思われる。
現地の説明板より
“大野城とは
ここ四王寺山の一帯には、今から約1350年前の西暦665年から造られた朝鮮式山城の跡があります。名を大野城といい、頂上全体を囲むように土や石の城壁を巡らし、その中に建物を建てました。約70棟の建物跡が見つかっており、そのほとんどが高床の倉庫を考えられます。城壁は総延長約8kmにおよび、その途中4か所に出入口の城門を設けました。
この大野城は同時に築かれた基肄城(眼下の平野をはさんで向かい側(南)にある基山)、前年の664年に造られた水城(みずき)とともに、大宰府を守る役目を果たしました。
【写真左】大野城全体図
上が北を示す。大宰府口城門跡は、この図の下段右側に示されている。
大野城が築かれた理由
7世紀の中ごろ、朝鮮半島では高句麗・新羅・百済の3国が抗争を繰り返し、唐と手を結んだ新羅から、百済と日本の連合軍は大敗するという事件(白村江(はくそんこう)の戦い)が起きます。唐と新羅の侵攻を恐れた日本は、北部九州を中心に防衛網を作りますが、その一つが大野城・基肄城、水城なのです。
城の構造(城壁と建物)
城壁は尾根の部分は土塁(土をつき固めて積み上げる工法を用いた城壁)、谷の部分は石垣を築いています。
高床倉庫は柱が立っていた石だけが残っていますが、その上には右図③のような建物が建っていたと考えられ、倉庫内には米や武器などを収納していたと思われます。近くの倉庫群跡(尾花礎石群)周辺からは炭化した米が見つかり、この場所は焼米ヶ原と呼ばれています。
【写真左】城門・その1
下の東側から見たもの。
四王寺山の名
築造開始から、約100年経った奈良時代末、大野城内に四天王をまつり、仏の力で国を守ろうとしました。また四王寺という今の名は、この時の寺の名に由来するものです。”
さて、今稿では当城のうち、南側にある「大宰府口城門跡」及び「水の手口石垣」を中心に紹介したいと思う。
大宰府口城門
現地の説明板より
“大宰府口城門とは
大野城には4か所の城門が知られています。南側(太宰府側)には3か所設けられており、そのうちの一つが大宰府城門です。発掘調査前には唐居敷(からいじき)(門扉の敷居)の一部が確認されていただけです。この城門に接して、左手には谷筋から進入してくる敵を拒むように築かれた石塁(水の手口石塁)が、右手には焼米ヶ原に延びる土塁が築かれています。この城門は大宰府政庁側に位置し、規模が最も大きいことから大野城の正門ではないかと考えられています。
【写真左】城門・その2
上から見たもので、手前に2段の土壇のようなものが残る。
城門の変遷
発掘調査の結果、城門建築や両袖石積みの変遷が明らかになりました。城門は、最初に掘立柱形式の建物が建てられ、次に礎石形式へと大きく建替えられています。また、礎石形式の時には、規模はそのままに門柱の両袖を石積みで塞ぐ改修が行われたことも判明しました。掘立柱形式の建物規模は3×4間(9m四方)でしたが、礎石形式の建物では1×1間(5.2m四方)とやや小さくなります。
礎石形式の門は、2階建ての楼門形式が想定され、大野城の堅固な守りと威厳が示されていたのでしょう。”
【写真左】城門・その3
上から見たもの。
【写真左】城門・その4
【写真左】城門・その5 城門礎石跡
当初は掘立柱形式で、その後礎石による柱が立っていたという。
現在でもその礎石には柱穴が残る。
【写真左】城門口から中に入った上部
ご覧の通り渓流の谷間のような景観が広がり、中央部に行くにはしばらく坂道が続く。
【写真左】土塁・その1
東側にはこのような長大な土塁が構築されている。
おそらく大野城全体の外周部はほとんどこうした土塁を駆使して囲繞していたものと思われる。
【写真左】土塁・その2
北側から見たもので、眼下には大宰府の町並みが広がる。
【写真左】焼米ヶ原・その1
城門口を過ぎて少し北上していくと、ご覧の「焼米ヶ原」という箇所がある。文字通り炭化した「焼米」が出土した場所であったことから名づけられた。
【写真左】焼米ヶ原・その2
起伏の緩やかな丘陵となっており、現在では公園化され市民の憩いの場となっている。
【写真左】尾花地区の倉庫跡・その1
焼米ヶ原から少し西の方へ向かうと、南北及び西側には10棟の建物礎石が残る。
大野城内に武器や食糧の備蓄を確保するため倉庫が建てられていたものとされる。
建物は梁桁6.3m・桁行10.5mで統一されている。
【写真左】尾花地区の倉庫跡・その2
礎石跡の一例だが、建物は奈良東大寺の正倉院に似た高床式建物だったという。
●所在地 福岡県大野城市・宇美町・太宰府市
●形態 朝鮮式古代山城
●築城期 飛鳥時代・(665年)ごろ
●築城者 大和朝廷
●指定 国特別史跡
●備考 四王寺山・福岡県立四王寺県民の森・岩屋城、水城・基肄(きいじょう)、
●遺構 土塁・式書き・礎石・門跡・烽火台跡・教筒その他多数
●標高 410m
●規模 土塁総延長8,200m
●登城日 2013年2月3日
◆解説
前稿大宰府政庁跡(福岡県太宰府市観世音寺4-6-1)で少し紹介したように、大宰府政庁跡の北方には四王寺山という山が背後に控え、この山全体に朝鮮式古代山城としての大野城が築かれていた。
朝鮮式古代山城についてはこれまで、
を紹介しているが、この他に類似するものとして、
などが挙げられる。これらはいずれも瀬戸内海沿岸部に築城されたものだが、今稿の筑前・大野城は、西海道の玄界灘西端部にあるもので、下段に示すように7世紀頃、唐と新羅による日本進攻に対する備えとして九州の最前線基地に築かれた古代山城である。
大野城の他に、付属する要塞施設として、西麓には細長い土堤をもつ水城を配置し、博多湾側からの攻撃を阻止するものも残る。
なお、この図には描かれていないが、大野城の南方には基肄城(きいじょう)という大宰府条坊域を守る支城的役目をもった城砦もある。
おそらく、当時はこの水城の手前までが灘となっていたものと思われる。
現地の説明板より
“大野城とは
ここ四王寺山の一帯には、今から約1350年前の西暦665年から造られた朝鮮式山城の跡があります。名を大野城といい、頂上全体を囲むように土や石の城壁を巡らし、その中に建物を建てました。約70棟の建物跡が見つかっており、そのほとんどが高床の倉庫を考えられます。城壁は総延長約8kmにおよび、その途中4か所に出入口の城門を設けました。
この大野城は同時に築かれた基肄城(眼下の平野をはさんで向かい側(南)にある基山)、前年の664年に造られた水城(みずき)とともに、大宰府を守る役目を果たしました。
上が北を示す。大宰府口城門跡は、この図の下段右側に示されている。
大野城が築かれた理由
7世紀の中ごろ、朝鮮半島では高句麗・新羅・百済の3国が抗争を繰り返し、唐と手を結んだ新羅から、百済と日本の連合軍は大敗するという事件(白村江(はくそんこう)の戦い)が起きます。唐と新羅の侵攻を恐れた日本は、北部九州を中心に防衛網を作りますが、その一つが大野城・基肄城、水城なのです。
城の構造(城壁と建物)
城壁は尾根の部分は土塁(土をつき固めて積み上げる工法を用いた城壁)、谷の部分は石垣を築いています。
高床倉庫は柱が立っていた石だけが残っていますが、その上には右図③のような建物が建っていたと考えられ、倉庫内には米や武器などを収納していたと思われます。近くの倉庫群跡(尾花礎石群)周辺からは炭化した米が見つかり、この場所は焼米ヶ原と呼ばれています。
【写真左】城門・その1
下の東側から見たもの。
四王寺山の名
築造開始から、約100年経った奈良時代末、大野城内に四天王をまつり、仏の力で国を守ろうとしました。また四王寺という今の名は、この時の寺の名に由来するものです。”
さて、今稿では当城のうち、南側にある「大宰府口城門跡」及び「水の手口石垣」を中心に紹介したいと思う。
大宰府口城門
現地の説明板より
“大宰府口城門とは
大野城には4か所の城門が知られています。南側(太宰府側)には3か所設けられており、そのうちの一つが大宰府城門です。発掘調査前には唐居敷(からいじき)(門扉の敷居)の一部が確認されていただけです。この城門に接して、左手には谷筋から進入してくる敵を拒むように築かれた石塁(水の手口石塁)が、右手には焼米ヶ原に延びる土塁が築かれています。この城門は大宰府政庁側に位置し、規模が最も大きいことから大野城の正門ではないかと考えられています。
【写真左】城門・その2
上から見たもので、手前に2段の土壇のようなものが残る。
城門の変遷
発掘調査の結果、城門建築や両袖石積みの変遷が明らかになりました。城門は、最初に掘立柱形式の建物が建てられ、次に礎石形式へと大きく建替えられています。また、礎石形式の時には、規模はそのままに門柱の両袖を石積みで塞ぐ改修が行われたことも判明しました。掘立柱形式の建物規模は3×4間(9m四方)でしたが、礎石形式の建物では1×1間(5.2m四方)とやや小さくなります。
礎石形式の門は、2階建ての楼門形式が想定され、大野城の堅固な守りと威厳が示されていたのでしょう。”
【写真左】城門・その3
上から見たもの。
【写真左】城門・その4
【写真左】城門・その5 城門礎石跡
当初は掘立柱形式で、その後礎石による柱が立っていたという。
現在でもその礎石には柱穴が残る。
【写真左】城門口から中に入った上部
ご覧の通り渓流の谷間のような景観が広がり、中央部に行くにはしばらく坂道が続く。
【写真左】土塁・その1
東側にはこのような長大な土塁が構築されている。
おそらく大野城全体の外周部はほとんどこうした土塁を駆使して囲繞していたものと思われる。
【写真左】土塁・その2
北側から見たもので、眼下には大宰府の町並みが広がる。
【写真左】焼米ヶ原・その1
城門口を過ぎて少し北上していくと、ご覧の「焼米ヶ原」という箇所がある。文字通り炭化した「焼米」が出土した場所であったことから名づけられた。
【写真左】焼米ヶ原・その2
起伏の緩やかな丘陵となっており、現在では公園化され市民の憩いの場となっている。
【写真左】尾花地区の倉庫跡・その1
焼米ヶ原から少し西の方へ向かうと、南北及び西側には10棟の建物礎石が残る。
大野城内に武器や食糧の備蓄を確保するため倉庫が建てられていたものとされる。
建物は梁桁6.3m・桁行10.5mで統一されている。
【写真左】尾花地区の倉庫跡・その2
礎石跡の一例だが、建物は奈良東大寺の正倉院に似た高床式建物だったという。
貴重な資料有難うございます。 大陸交流が見てくるようです。
返信削除ありがとうございます。
削除今後ともご照覧の程をお願いします。
トミー拝