筑前・岩屋城(ちくぜん・いわやじょう)・その2
●所在地 福岡県太宰府市大字観世音寺字岩屋
●登城日 2013年2月3日
◆解説(参考文献『戦国九州三国志・学研編』等)
前稿に続いて、筑前・岩屋城を取り上げるが、今稿では二の丸跡といわれる箇所にある高橋紹運の墓(胴塚)を中心に紹介したい。
【写真左】高橋紹運の墓
約15m四方の規模を持つ墓所で、紹運並びに殉死した家臣の供養塔も建立されている。
墓所は道路を挟んで、南側には二の丸があったいわれ、その箇所には現在高橋紹運並びに、共に討死した家臣の供養塔が祀られている。
現地の説明板より
“高橋紹運公並びに勇士の墓
戦国の武将高橋紹運は23歳で岩屋城主となり名将の誉れ高かった。天正14年(1586)北上した島津5万の軍と戦い、城兵763名と共に玉砕した。時に39歳であった。紹運以下勇士たちここ二の丸址に眠る。
辞世歌
流れての 末の世遠く 埋もれぬ
名をや 岩屋の苔の下水
太宰府市”
【写真左】紹運の墓
この墓石は厳密にいえば墓石でなく碑銘で、写真の左に胴塚として祀られている石積の壇ががそれと思われる。
ただ、岩屋城の戦いのあと、勝利した島津軍は当然ながら首実検を行っているはずなので、紹運の頸は納められていないと思われる。
吉弘氏
ところで、前稿でも述べたように、紹運は元は吉弘鑑理(あきまさ・あきただ)の次男として、天文17年(1548)に生まれた。吉弘氏は大友氏庶流の一族である田原氏の分家である。実は、この田原氏を含めた大友氏庶流家は、大友氏嫡流家(宗麟までの系譜)より一代古い。豊後大友氏を起こした初代・能直(中原親能の養子・猶子)のとき、次の庶流家を輩出している。
紹運の妻は同国海部(あまべ)郡丹生荘を本拠としていた斉藤鎮実(しげざね)の妹である。丹生荘というのは、現在の大分市東部から臼杵市にかけての地域である。
紹運の妻(宋雲尼)とは、相当前から許嫁(いいなずけ)として約束があったが、途中で彼女は天然痘に罹り、それまでの端正な顔立ちが一変してしまい、兄鎮実は紹運に対し、とても嫁がせることはできないと申し出た。
しかし、紹運は「容姿や顔で心を引かれたのではなく、彼女の温和な気立てに引かれたのであって、どのような姿であろうと、妻に迎えたい」と返答した。この結果、約束通り紹運は宋雲尼を娶ったという(『常山記談』)。紹運の誠実な人柄が偲ばれる。
【写真左】墓所(二の丸)から本丸を見上げる。
本丸は写真の右側の高くなったところにあり、墓所から約200m程度の距離がある。
立花宗茂
そして二人の間にできた嫡男が、統虎(むねとら)で後の立花宗茂である。
以前にも述べたように、宗茂は父と同じく武功の誉れ高い武将として成長し、その器量にほれ込んだ立花道雪が、高橋家の嫡男であることを承知の上で、再三にわたり紹運に対し、立花家へ養嗣子として請うたため、紹運もしぶしぶ承諾し、立花家に入り、道雪の娘・誾千代(ぎんちよ)と結婚した。
【写真左】岩屋城から大宰府を俯瞰する。
島津氏が最初に占有した大宰府の町並み。
中央左は大宰府政庁跡。
秀吉が九州島津征伐を行う際は、先鋒を務め、秀吉から「九州の一物」と評され、関ヶ原合戦では西軍に属していたことから改易され、一時浪人となるが、大阪夏の陣では徳川秀忠麾下として活躍、その後幕府から旧領であった筑後柳川に10万9000石を与えられ、柳川藩主として再封された。
●所在地 福岡県太宰府市大字観世音寺字岩屋
●登城日 2013年2月3日
◆解説(参考文献『戦国九州三国志・学研編』等)
前稿に続いて、筑前・岩屋城を取り上げるが、今稿では二の丸跡といわれる箇所にある高橋紹運の墓(胴塚)を中心に紹介したい。
【写真左】高橋紹運の墓
約15m四方の規模を持つ墓所で、紹運並びに殉死した家臣の供養塔も建立されている。
墓所は道路を挟んで、南側には二の丸があったいわれ、その箇所には現在高橋紹運並びに、共に討死した家臣の供養塔が祀られている。
現地の説明板より
“高橋紹運公並びに勇士の墓
戦国の武将高橋紹運は23歳で岩屋城主となり名将の誉れ高かった。天正14年(1586)北上した島津5万の軍と戦い、城兵763名と共に玉砕した。時に39歳であった。紹運以下勇士たちここ二の丸址に眠る。
辞世歌
流れての 末の世遠く 埋もれぬ
名をや 岩屋の苔の下水
太宰府市”
【写真左】紹運の墓
この墓石は厳密にいえば墓石でなく碑銘で、写真の左に胴塚として祀られている石積の壇ががそれと思われる。
ただ、岩屋城の戦いのあと、勝利した島津軍は当然ながら首実検を行っているはずなので、紹運の頸は納められていないと思われる。
吉弘氏
ところで、前稿でも述べたように、紹運は元は吉弘鑑理(あきまさ・あきただ)の次男として、天文17年(1548)に生まれた。吉弘氏は大友氏庶流の一族である田原氏の分家である。実は、この田原氏を含めた大友氏庶流家は、大友氏嫡流家(宗麟までの系譜)より一代古い。豊後大友氏を起こした初代・能直(中原親能の養子・猶子)のとき、次の庶流家を輩出している。
- 能秀 詫摩家
- 時景 一万田家(鑑種⇒養子として高橋家へ)
- 能郷 志賀家
- 泰広 田原家
また、2代・頼泰の代になると、さらに新たな庶流が生まれる。
- 重秀 戸次家(戸次鑑連、後の立花道雪を輩出)
- 頼宗 野津家
- 親奏 田北家
- 能泰 野津原家
- 親重 木附(杵築)家 杵築城(大分県杵築市杵築)参照
ちなみに、大友嫡流家第21代の義鎮(よししげ)即ち、宗麟の系譜に至るまでは実に紆余曲折した流れで、基本的に長子による継嗣を基本としながら、実際には兄弟間による継嗣や、南北朝期における同氏一族の対立もあり一様でない。
さて、その吉弘家だが、以前にも紹介したように「豊州三老」の一人として、大友家忠臣として誉れ高く、特に紹運の祖父・氏直は、天文3年(1534)の勢場ヶ原の戦い(大村山合戦ともいう)において壮絶な討死をとげ、紹運の実兄鎮信は天正6年(1578)の日向耳川の戦いで、同じく玉砕している。
吉弘家にはこのように、代々主君である大友家に対し、命を賭して戦う「忠臣」の思想・信念が受け継がれている。
【写真左】二の丸跡及び紹運の墓所
岩屋城本丸の南に走る道路からさらに下った位置にある。
墓所を含め手前の平坦地も二の丸跡になるが、写真右側は切崖状の斜面で、水城に繋がる。また左手前には一段低くなった二の丸の郭跡らしき平坦地が確認できる。
【写真左】二の丸跡及び紹運の墓所
岩屋城本丸の南に走る道路からさらに下った位置にある。
墓所を含め手前の平坦地も二の丸跡になるが、写真右側は切崖状の斜面で、水城に繋がる。また左手前には一段低くなった二の丸の郭跡らしき平坦地が確認できる。
紹運の妻(宋雲尼)
紹運の妻は同国海部(あまべ)郡丹生荘を本拠としていた斉藤鎮実(しげざね)の妹である。丹生荘というのは、現在の大分市東部から臼杵市にかけての地域である。
紹運の妻(宋雲尼)とは、相当前から許嫁(いいなずけ)として約束があったが、途中で彼女は天然痘に罹り、それまでの端正な顔立ちが一変してしまい、兄鎮実は紹運に対し、とても嫁がせることはできないと申し出た。
しかし、紹運は「容姿や顔で心を引かれたのではなく、彼女の温和な気立てに引かれたのであって、どのような姿であろうと、妻に迎えたい」と返答した。この結果、約束通り紹運は宋雲尼を娶ったという(『常山記談』)。紹運の誠実な人柄が偲ばれる。
【写真左】墓所(二の丸)から本丸を見上げる。
本丸は写真の右側の高くなったところにあり、墓所から約200m程度の距離がある。
立花宗茂
そして二人の間にできた嫡男が、統虎(むねとら)で後の立花宗茂である。
以前にも述べたように、宗茂は父と同じく武功の誉れ高い武将として成長し、その器量にほれ込んだ立花道雪が、高橋家の嫡男であることを承知の上で、再三にわたり紹運に対し、立花家へ養嗣子として請うたため、紹運もしぶしぶ承諾し、立花家に入り、道雪の娘・誾千代(ぎんちよ)と結婚した。
【写真左】岩屋城から大宰府を俯瞰する。
島津氏が最初に占有した大宰府の町並み。
中央左は大宰府政庁跡。
秀吉が九州島津征伐を行う際は、先鋒を務め、秀吉から「九州の一物」と評され、関ヶ原合戦では西軍に属していたことから改易され、一時浪人となるが、大阪夏の陣では徳川秀忠麾下として活躍、その後幕府から旧領であった筑後柳川に10万9000石を与えられ、柳川藩主として再封された。
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