土佐・中村城(とさ・なかむらじょう)・その1
●所在地 高知県四万十市中村丸之内
●別名 為松城
●形態 平山城
●高さ 70m
●築城期 不明
●築城者 為松氏
●城主 為松氏、吉良親貞、山内氏
●遺構 郭、土塁等
●登城日 2005年6月10日、及び2017年5月21日
●別名 為松城
●形態 平山城
●高さ 70m
●築城期 不明
●築城者 為松氏
●城主 為松氏、吉良親貞、山内氏
●遺構 郭、土塁等
●登城日 2005年6月10日、及び2017年5月21日
◆解説(参考資料『中村城跡調査報告書』1985年3月 中村市教育委員会 等)
高知県の西部にある四万十市に築かれたのが、通称「中村城」といわれている城郭である。当城の歴史については不明な点が多いが、歴代城主とされる一条氏、長宗我部氏、山内氏が当地を治めた。
今稿では主に初期の城主とされる一条氏について紹介したい。
【写真左】中村城遠望 中村城の南方にある香山寺公園から俯瞰したもので、正面の小丘全体が中村城とされる。
手前の川は四万十川。中央右側に模擬天守風の四万十市郷土博物館が見える。
土佐・一条氏
土佐・一条氏(以下「一条氏」とする。」については、以前取り上げた河後森城(愛媛県北宇和郡松野町松丸)の稿でも触れているが、改めて同氏の経歴について見てみたい。
現地の説明板より
❝高知県指定史跡
一条教房墓
指定年月日 昭和28年1月28日
所在地 四万十市丸の内1639の1(妙華寺谷)
一條教房は、応永30年(1423)京都の一條室町第で五摂家の一つである一條家の嫡子として生まれた。父は、摂政、関白、太政大臣を歴任した従一位一條兼良で、母は、権中納言中御門宜俊の娘である。
長禄2年(1458)関白となり、寛正4年(1463)に辞し、この間に従一位に叙せられている。
中村城は別名為松城ともいわれる。為松城の名は、一条氏が土佐に入国する前の地元の豪族・為松氏の名から来ている。
一条氏が土佐に入国以来為松氏は同氏の家臣として仕えたという。
写真は為松城時代の詰(本丸)のあったところで、約800㎡の広さであったという。
応仁2年(1468)9月、泉州堺から船出し、同年10月頃幡多ノ庄に着いた。そして中村に館をかまえ、以来一條氏は、五代百余年にわたり戦国大名として土佐西部を支配するとともに京文化を伝えた。
文明12年(1480)58歳で逝去。墓はこの付近にあった妙華寺境内に祀られたようであるが、江戸時代に入り寺が退転すると、墓所は時の経過とともに人々に顧みられなくなったらしい。この墓碑は、後年教房の遺徳を慕う人々によりここに再建されたものである。
平成8年3月1日
四万十市教育委員会❞
図中の〇数字は、土佐・一条氏の始祖から5代兼定に至るまでを示す。
教房、幡多庄中村に下向
土佐一条氏の始祖となる教房が土佐の幡多(ノ)庄に下向したのは、説明板にもあるように応仁2年(1468)9月である。応仁の乱が勃発するのはこの前年(元年)の5月26日だが、それまで教房をはじめとする摂家等も在京のまま、戦乱が収まることを期待していたのだろう。
しかし、この年の8月、大内政弘(鏡山城(広島県東広島市西条町御園宇)参照)が西軍に属して摂津国で東軍を破り入京を果たすと、いよいよ乱は激化した。あくる2年8月19日、教房の父・兼良及び、前内大臣九条政忠らは、戦乱を避け南下し奈良に赴いた。このとき、教房と父兼良は最後の別れをしたのだろう。
【写真左】土塁か 北西の方向に向かったところで、道の左側がしばらく道路と並行して高くなっている。どの程度改変されたものか分からないが、土塁のような遺構に見える。
同年9月25日、教房は大平氏(下段参照)から回送された船に乗り、堺から船出し、26日土佐の神浦(甲浦)に着いた。この港は往古から使われてきた港で、畿内から土佐国に入る時の表玄関である。数日当地で休んだ後、10月1日出帆、一旦宇佐の猪ノ尻に着いた。
【写真左】一条教房の墓・その1 教房の墓は、北側の中ノ森という場所の東麓に建立されている。
【写真左】一条教房の墓・その2 宇佐の猪ノ尻とは、現在の土佐市宇佐町井尻のことで、土佐・蓮池城(高知県土佐市蓮池字土居)の稿でも述べたように、このころ蓮池城の城主は大平氏で、同氏が一条氏の土佐下向に大きくかかわっていたことが分かる。
教房がそのあと、宇佐の猪ノ尻から中村に到着した日時は記録されていないが、おそらく10月下旬か、11月ごろだろう。教房が中村において最初に居館とした場所は不明だが、『大乗院寺社雑事記』(文明3年1月1日条)に、「家門御方前殿土佐波多中村館」と記され、これ以外に土佐御所・幡多御所・波多御所といった名が残る。
因みに、『南路志』という史料には「愛宕山古城」という城郭名が記され、この場所で教房以後兼定までの5代が居住したと記されている。残念ながら、この場所が現在の中村城といわれている場所だったかどうかは確定していない。
【写真左】資料館側に向かう。 旧二の丸といわれている箇所で、この先に資料館が建っている。
房家・房冬
さて、教房は中村に下向してから12年後の文明12年(1480)10月5日に死去する。跡を継いだのが房家である。房家には兄・政房が居たが、応仁の乱において京で殺害されていたため、次男であった房家が跡を継いだ。この房家が長宗我部千王丸(のちの国親)(波川玄蕃城(高知県吾川郡いの町波川)参照)を養育する。
房家は天文8年(1539)に死去し、跡を継いだのが房冬だが、彼は家督を継いだ2年後の同10年に死去する。房冬には、同氏4代となる房基と、側室である大内義隆の姉との間に生まれた晴持がいた。
晴持は後に姉の実家である山口の大内義隆の養嗣子となり、月山富田城攻めに大内軍として参陣するも敗死することになる。
房基から兼定へ
房家が亡くなってから跡を継いだ房冬もわずか2年で亡くなったこともあり、このころ一条家は不安定な状況だったと思われるが、跡を継いだのが房基である。
天文10年(1541)に家督を継いだ房基は一条家を強固なものにすべく奮闘した。このころ東隣となる高岡郡内のほとんどを支配していた豪族・津野氏との戦いが多くみられる。その房基も、家督を継いでわずか8年で死去(自害)し、その跡を継いだのが最後の当主となる兼定である。
【写真左】山之神社 旧二の丸に向かう途中の左手にあるもので、この辺りでは最高所となる位置と思われる。
現地には最高所に水道タンクが設置され、その少し下には「山之神社」と記された祠が祀られている。
タンク周辺部はさほど広くはないものの、この場所が主郭ではなかったかと思われる。
兼定の苦悩
父房基が自害した理由は諸説あるが、28歳という若さで亡くなったことから、嫡男兼定はこのときわずか7歳である。当然ながら後見人が必要で、その任に当たったのが、房冬の弟・一条房通である。
永禄元年(1558)、すなわち兼定15歳のとき、宇都宮豊綱の娘を娶る。宇都宮豊綱は、伊予の大洲城主で、この婚儀は文字通り同盟を目的としたものだったが、6年後の永禄7年離別し、豊後の大友義鎮、すなわち宗麟(大友宗麟墓地参照)の長女を娶り大友氏との盟約を結んだ。
【写真左】二の丸・その1 高さ1.5~2mの土塁が残る。
兼定は永禄11年(1568)、宇都宮豊綱を支援し伊予に入ったが、安芸の毛利氏の援助を受けた河野氏と戦い大敗。さらに追い打ちをかけたのが、土佐で急激に台頭してきた長宗我部元親の猛攻である。
元親は土佐全土に版図を拡大すべく西進してきた。これに対し、兼定は妹婿であった土佐・安芸城(高知県安芸市土居)の城主・国虎と呼応し、元親を挟み撃ちにする計画だったが、永禄12年(1569)国虎が元親に敗れ、兼定はさらに劣勢に陥った。
【写真左】土塁 土塁の天端から見たもので、半円状の形で囲繞している。
豊後大友氏に奔る
こうしたこともあって、このころから、筆頭家老・土居宗珊を無実の罪で殺害するなど、次第に領主としてのまともな判断ができなくなり、家臣たちから非難を浴び、天正元年(1573)9月、ついに強制的に隠居を余儀なくされた。
翌2年2月にはついに追放され、豊後・臼杵城(大分県臼杵市大字臼杵)に逃れ大友氏を頼ることになる。一旦豊後に渡った兼定であったが、それでも中村の地に固執するものがあったのだろう、伊予高森城の城主・梶谷景則の下に行き、土佐奪還のため兵を募っている。
因みに、豊後大友氏の庇護にあったことから、彼もまたこのときキリスト教に入信、ドン・パウロの洗礼名を受けている。
【写真左】四万十市郷土博物館 二の丸の一角には冒頭で紹介した天守風の建物が建つ。名称は四万十市郷土博物館。
管理人が訪れたときは閉館中で入っていないが、現在は開館しているようだ。
兼定の最期
天正3年(1575)7月、大友氏の支援を受け豊後水道を渡海し、土佐に入った。しかし、四万十川の戦いで大敗、以後一条氏の復活は潰えてしまう。土佐一条氏の滅亡である。兼定はその後戸島(愛媛県宇和島市)に隠棲、天正13年(1585)7月同島で死去した。享年42歳。
【写真左】空堀か 土塁の外側に見えたもので、整備されていないため断定できないが、空堀のようにも見える。
次稿に続く
次稿では一条氏滅亡後の動きと、中村城(為松城)周辺の遺構などを紹介したい。