瀬戸山城・その2
◆解説(参考文献「飯南町教育委員会資料」等)
ここで、瀬戸山城主としての佐波氏から、赤穴氏(戦国期)まで続く、主だった系譜を記しておきたい。
瀬戸山城を築城したとされる佐波常連(赤穴常連)の父は、佐波実連で、常連の兄弟として頼清がいる。頼清はそのまま石見国の所領を継承したと思われる。常連以降の系図は以下の通り。
①常連⇒顕清⇒②弘行⇒③幸重⇒④幸清⇒⑤久清⇒⑥光清⇒⑦久清⇒⑧幸清⇒⑨元寄(中川氏)
なお、2番目に記した「顕清」が2代目とならず、弘行が世襲した扱いになっている。前稿で示したように、正平6年1月、顕清は足利直冬に地頭職の安堵を請い承認を得ているが、父である常連の意向なのか、孫が世襲したことになっている。
【左図】藤釣城附近警備之古跡図
藤釣城は、瀬戸山城の別名である。
この図は「飯石郡誌」に掲載されたもので、これによると大手は北側に、搦手は南に配置され、上赤名から登る道があったようだ。また、次稿で予定している永禄5年の毛利氏攻略の際、陣を築いたとされる東方の武名ヶ平城も記され、そのほか出城と思われる下赤名の杉谷城、鳶ヶ城もある。
さて、戦国期の瀬戸山城を舞台にした大きなな戦いは、天文11年(1542)と、永禄5年(1562)の二つがあげられる。
最初の天文11年のものは、今月取り上げた「京羅木山城」における大内義隆方大敗の時のものである。
その前年(天文10年)1月、尼子晴久が安芸吉田郡山城攻めで大敗し、富田城へ敗走する。しかも、この年の11月には山陰の雄といわれた尼子経久が亡くなる。
【上図】衣掛城郭図
衣掛城も瀬戸山城の別名である。
この図は、高橋謙二氏という方が作図されたもので、フリーハンドの絵図だが、立体的な表示で分かりやすい。
特に左側の武名ヶ平から瀬戸山城に至るまでの遺構(郭段、空堀、郭)の内容や、南登山道付近に、数段の土塁や、竪堀、空堀が図示されている。
尼子氏隆盛を極めた中心人物が亡くなり、しかも大敗間もない時期である。当然、尼子方の戦意は落ちている。毛利元就からはじめに山口(大内氏)に向けて使者が送られる。大内氏の出雲国攻略が翌年の天文11年1月決まった。それまで尼子に与していた者が次々と大内氏へなびいていった。
【写真左】登城口付近にある稲荷神社
あとから知ったのだが、この神社奥に松田左近将監の墓が安置されている。松田左近は関ヶ原合戦の後、新しく入部してきた堀尾吉晴の家臣で、本城・富田城(のち松江城)とは別に、出雲南方の押さえ・城番として当城に入った。
3月初旬、大内氏は先ず石見国出羽の二ツ山城(2009年12月投稿・参照)へ陣を構えた。そこへ石見国のほとんどの領主が馳せ参じた。
このころ、すでに赤穴城では城主・赤穴右京亮光清をはじめ、尼子富田月山城から、田中三郎左衛門を大将として、約一千騎が在城していた。
『雲陽軍実記』によれば、双方の規模は、大内軍4~5万、対する瀬戸山城籠城軍は、尼子方の援軍を併せても、わずか2千という明らかな差があった。
【写真左】稲荷神社付近にみえる数段の平坦地
上図(衣掛城郭図)でいえば、「軍集合場」と思われるが、一部には戦国期の武家屋敷跡であったかもしれない。
大内軍が瀬戸山城周辺に陣を構えた時期は明記されていないが、記録上最初に動きがあったのが、6月7日大内方の熊谷直続(なおつぐ)の先陣とされているから、5月の段階では大方の大内連合軍は、二ツ山城から当地に移動していたものと思われる。
熊谷直続の先陣は、抜け掛けの功名が動機とされているが、これは大内連合軍が余りにも大軍であるため、各諸将の意見がまとまらず、軍議を開いても結論が出されないというジレンマを起こしていた。こうした状況のため、熊谷のように命が下されれないことに、いらだった結果だったとも言われている。この状況は結局、後に京羅木山に移っても変わらず、大敗していく最大の要因になる。
組織が肥大化すると、とかく意思疎通が希薄になる。もともと思惑のそれぞれ違う一族・郎党の急造組織の軍団である。長期化すればするほど、内部での調整が困難になる。
【左図】瀬戸山城縄張図
作図:寺井毅氏(平成5年4月29日)による。なお、左方向が北を示す。
築城期は南北朝時代とされているが、その後毛利氏時代になって、大型の土塁や、郭群の改築がなされているという。
さらに堀尾氏時代(松田左近将監城番)には、近世城郭を目指した跡が残り、特に石垣を多用し始めている。おそらく、当初天守閣のような建造物があったものと思われるが、一国一城令が出たため、工事半ばで中止しているではないかと思われる。
さて、直続は先陣するも、赤穴光清・吾郷大炊助に討たれる。次に福屋・山内の2,000が城下へ向かうものの、これも光清らによって撃退される。
次に本城経光を中心に出羽の軍2,000が向い、田中の陣へ攻撃してきた。この後、7月の後半まで瀬戸山城は陥落せず、持ちこたえたが、いよいよ同月27日、大内軍は全軍あげて総攻撃が始まった。
おそらくこのころと思われるが、城主赤名右京亮光清は、陶晴賢軍の弓矢で喉を射られ、城中で亡くなった。田中三郎左衛門は、このことを大内方には明かさず、降参の旨を伝えた。そして、瀬戸山城開城の前に、密かに城内の者は城を抜け出し広瀬月山へ向かった。
それにしても、大内軍4~5万の大軍に対して、瀬戸山城にこもる赤穴氏ら2,000余騎で、2か月も持ちこたえるということは奇跡的なことである。大内軍の拙い戦ともいえるが、赤穴氏の奮闘ぶりは、月山で待ち構えた尼子晴久の言で示されている。
「汝は永らくの間、赤穴に在城し、城主右京亮(光清)と心を合わせて守ったばかりでなく、一同をつつがなく月山まで連れ戻したことは、まことに殊勝である。赤穴で籠城した者の妻子はすべて当城で養育し、大内さえ片付けば必ず本領へ帰し、また討死した者もねんごろに弔ってやるであろう」
【写真上】本丸から二の丸、三の丸を見たもの
この写真も当町教育委員会から頂いた資料である。おそらく、昨年秋におこなわれた作業の時のものと思われるが、これだけ地元の方々や賛同者が参加されたことは近在でもあまり例がないだろう。
【写真左】武名ヶ平方面に向かう尾根
管理人が登城したこの日は、東方にある武名ヶ平山城までは行っていないが、その手前付近はかなり広い削平地が見られる。
高橋氏の城郭図によると、この先には数段の郭、空堀などが配置されている。
特に、永禄年間毛利氏がこの武名ヶ平城を向城とした際、大堀切と土橋が明瞭に残っているという。
【写真左】石垣
本丸周辺にこうした石垣の跡が残る。堀尾氏時代のものと思われるが、いかにも工事が中断したような痕跡である。
【写真左】本丸下の郭
どの方向の郭か記憶が薄れているが、おそらく搦手側のものだろう。
【写真左】主郭跡
資料によれば、主郭から第5郭にかけての石垣は、横矢をかけることを意識した造りという。
主郭の形状は変形の5~6角形で、いびつな形をしている。
◆解説(参考文献「飯南町教育委員会資料」等)
ここで、瀬戸山城主としての佐波氏から、赤穴氏(戦国期)まで続く、主だった系譜を記しておきたい。
瀬戸山城を築城したとされる佐波常連(赤穴常連)の父は、佐波実連で、常連の兄弟として頼清がいる。頼清はそのまま石見国の所領を継承したと思われる。常連以降の系図は以下の通り。
①常連⇒顕清⇒②弘行⇒③幸重⇒④幸清⇒⑤久清⇒⑥光清⇒⑦久清⇒⑧幸清⇒⑨元寄(中川氏)
なお、2番目に記した「顕清」が2代目とならず、弘行が世襲した扱いになっている。前稿で示したように、正平6年1月、顕清は足利直冬に地頭職の安堵を請い承認を得ているが、父である常連の意向なのか、孫が世襲したことになっている。
【左図】藤釣城附近警備之古跡図
藤釣城は、瀬戸山城の別名である。
この図は「飯石郡誌」に掲載されたもので、これによると大手は北側に、搦手は南に配置され、上赤名から登る道があったようだ。また、次稿で予定している永禄5年の毛利氏攻略の際、陣を築いたとされる東方の武名ヶ平城も記され、そのほか出城と思われる下赤名の杉谷城、鳶ヶ城もある。
さて、戦国期の瀬戸山城を舞台にした大きなな戦いは、天文11年(1542)と、永禄5年(1562)の二つがあげられる。
最初の天文11年のものは、今月取り上げた「京羅木山城」における大内義隆方大敗の時のものである。
その前年(天文10年)1月、尼子晴久が安芸吉田郡山城攻めで大敗し、富田城へ敗走する。しかも、この年の11月には山陰の雄といわれた尼子経久が亡くなる。
【上図】衣掛城郭図
衣掛城も瀬戸山城の別名である。
この図は、高橋謙二氏という方が作図されたもので、フリーハンドの絵図だが、立体的な表示で分かりやすい。
特に左側の武名ヶ平から瀬戸山城に至るまでの遺構(郭段、空堀、郭)の内容や、南登山道付近に、数段の土塁や、竪堀、空堀が図示されている。
尼子氏隆盛を極めた中心人物が亡くなり、しかも大敗間もない時期である。当然、尼子方の戦意は落ちている。毛利元就からはじめに山口(大内氏)に向けて使者が送られる。大内氏の出雲国攻略が翌年の天文11年1月決まった。それまで尼子に与していた者が次々と大内氏へなびいていった。
【写真左】登城口付近にある稲荷神社
あとから知ったのだが、この神社奥に松田左近将監の墓が安置されている。松田左近は関ヶ原合戦の後、新しく入部してきた堀尾吉晴の家臣で、本城・富田城(のち松江城)とは別に、出雲南方の押さえ・城番として当城に入った。
3月初旬、大内氏は先ず石見国出羽の二ツ山城(2009年12月投稿・参照)へ陣を構えた。そこへ石見国のほとんどの領主が馳せ参じた。
このころ、すでに赤穴城では城主・赤穴右京亮光清をはじめ、尼子富田月山城から、田中三郎左衛門を大将として、約一千騎が在城していた。
『雲陽軍実記』によれば、双方の規模は、大内軍4~5万、対する瀬戸山城籠城軍は、尼子方の援軍を併せても、わずか2千という明らかな差があった。
【写真左】稲荷神社付近にみえる数段の平坦地
上図(衣掛城郭図)でいえば、「軍集合場」と思われるが、一部には戦国期の武家屋敷跡であったかもしれない。
大内軍が瀬戸山城周辺に陣を構えた時期は明記されていないが、記録上最初に動きがあったのが、6月7日大内方の熊谷直続(なおつぐ)の先陣とされているから、5月の段階では大方の大内連合軍は、二ツ山城から当地に移動していたものと思われる。
熊谷直続の先陣は、抜け掛けの功名が動機とされているが、これは大内連合軍が余りにも大軍であるため、各諸将の意見がまとまらず、軍議を開いても結論が出されないというジレンマを起こしていた。こうした状況のため、熊谷のように命が下されれないことに、いらだった結果だったとも言われている。この状況は結局、後に京羅木山に移っても変わらず、大敗していく最大の要因になる。
組織が肥大化すると、とかく意思疎通が希薄になる。もともと思惑のそれぞれ違う一族・郎党の急造組織の軍団である。長期化すればするほど、内部での調整が困難になる。
【左図】瀬戸山城縄張図
作図:寺井毅氏(平成5年4月29日)による。なお、左方向が北を示す。
築城期は南北朝時代とされているが、その後毛利氏時代になって、大型の土塁や、郭群の改築がなされているという。
さらに堀尾氏時代(松田左近将監城番)には、近世城郭を目指した跡が残り、特に石垣を多用し始めている。おそらく、当初天守閣のような建造物があったものと思われるが、一国一城令が出たため、工事半ばで中止しているではないかと思われる。
さて、直続は先陣するも、赤穴光清・吾郷大炊助に討たれる。次に福屋・山内の2,000が城下へ向かうものの、これも光清らによって撃退される。
次に本城経光を中心に出羽の軍2,000が向い、田中の陣へ攻撃してきた。この後、7月の後半まで瀬戸山城は陥落せず、持ちこたえたが、いよいよ同月27日、大内軍は全軍あげて総攻撃が始まった。
おそらくこのころと思われるが、城主赤名右京亮光清は、陶晴賢軍の弓矢で喉を射られ、城中で亡くなった。田中三郎左衛門は、このことを大内方には明かさず、降参の旨を伝えた。そして、瀬戸山城開城の前に、密かに城内の者は城を抜け出し広瀬月山へ向かった。
それにしても、大内軍4~5万の大軍に対して、瀬戸山城にこもる赤穴氏ら2,000余騎で、2か月も持ちこたえるということは奇跡的なことである。大内軍の拙い戦ともいえるが、赤穴氏の奮闘ぶりは、月山で待ち構えた尼子晴久の言で示されている。
「汝は永らくの間、赤穴に在城し、城主右京亮(光清)と心を合わせて守ったばかりでなく、一同をつつがなく月山まで連れ戻したことは、まことに殊勝である。赤穴で籠城した者の妻子はすべて当城で養育し、大内さえ片付けば必ず本領へ帰し、また討死した者もねんごろに弔ってやるであろう」
【写真上】本丸から二の丸、三の丸を見たもの
この写真も当町教育委員会から頂いた資料である。おそらく、昨年秋におこなわれた作業の時のものと思われるが、これだけ地元の方々や賛同者が参加されたことは近在でもあまり例がないだろう。
【写真左】武名ヶ平方面に向かう尾根
管理人が登城したこの日は、東方にある武名ヶ平山城までは行っていないが、その手前付近はかなり広い削平地が見られる。
高橋氏の城郭図によると、この先には数段の郭、空堀などが配置されている。
特に、永禄年間毛利氏がこの武名ヶ平城を向城とした際、大堀切と土橋が明瞭に残っているという。
【写真左】石垣
本丸周辺にこうした石垣の跡が残る。堀尾氏時代のものと思われるが、いかにも工事が中断したような痕跡である。
【写真左】本丸下の郭
どの方向の郭か記憶が薄れているが、おそらく搦手側のものだろう。
【写真左】主郭跡
資料によれば、主郭から第5郭にかけての石垣は、横矢をかけることを意識した造りという。
主郭の形状は変形の5~6角形で、いびつな形をしている。