2010年2月20日土曜日

京羅木山城・砦群 その2

京羅木山城・砦群 その2

◆解説
 今稿は、前稿の続きとして、主郭からさらに南の尾根伝いを踏破し、途中の峠から西の谷を降り、本谷地区乗光寺まで歩いたコース周辺を紹介したいと思う。
 前稿でも述べたように、京羅木山城・砦群はその範囲が広く、遺構も数カ所に点在している。一般的な居城とされた山城ではないため、その施工精度は劣るが、毛利氏などが東麓の勝山城を中心として、この京羅木山や星上山を有機的に使用していたことが、現地に足を入れてみるとよくわかる。
【写真左】主郭付近
 前稿でも紹介したが、この場所には記念碑的なものが数カ所設置され、もっとも管理された場所である。
 ここから写真奥に向かって尾根伝いに進む。

【写真左】勝山城遠望
 おそらく方向としては、この山が勝山城の頂部と思われる。写真の川は飯梨川で、勝山城の東麓には足立美術館や、鷺の湯温泉などがある。

写真左】南尾根途中の郭と思われる平坦地
 全体に尾根幅は狭いところが多いが、途中でこうした平坦地がある。この場所などは、明らかに人為的に改変された地形で、ある程度まとまった広さが必要だったと思われる。
【写真左】切崖
 尾根が長いため全域にわたって城砦施工はされてはいないが、要所では徹底的な施工をおこなったものと思われる。
 この写真は途中で見えた切崖。

【写真左】峠の茶屋跡
 大内氏や、毛利氏が当城へ陣を行った時、月山富田城へ向かう道として考えられるのが、この写真に見える峠の茶屋分岐点から東下する道である。
 おそらく戦国期前から、この峠は揖屋方面から広瀬に抜ける古道として使われてきたものと思われる。

 この写真では左側へ向かうと、半場(飯場)地区に出、飯梨河畔の石原地区にたどり着く。ここから月山富田城までは南方約1.5キロになる。
 また写真上部(南)の尾根をさらに向かうと、星上山に向い、右の谷筋を降りると乗光寺に着く。今回はこの右の谷を降りて行った。
【写真左】責鞍(せめくら)の滝(ドウドさん)
 下山途中に、上記の滝がある。谷下までは降りていっていないが、天文12年(1543)の大内氏大敗の際、一武将兵頭の討死を悼み、地元民によって祀られているという。
 説明板より転載する。
責鞍ノ滝
 ここは昔、築陽川、今の意東川の上流である。
 この滝は古くは責鞍の滝と呼んだが、地元では「ドウドウさん」といった。
 昔、騎馬の武士がこの滝壺に落ちて死んだ。その馬のクツワを祀ったのが、この祠であると伝える。
 この滝壺には耳の生えたウナギが住んでいるという。
 旱天でここの水がなくなると、そのウナギが現れ、待望の雨を降らすということである。”

【写真左】討死した多くの部将を祀る塚山
 この塚も上記のとき(大内氏か)、多くの屍を地元民が一カ所に埋葬し、塚をもって祀ったとされる塚山
 伝承では、この大内氏の大敗北は凄惨さを極めたという。大内氏に与していた元尼子方の大半が寝返ってしまったことから、大内氏の残兵はほとんどこの京羅木山西麓側や、飯梨川を下った中海方面に逃散していった。
【写真左】下山麓にある乗光寺
 現地の縁起より
山号 楊瀧山 宗派 高野山真言宗
 開基創立の年代は明らかでない。この地が真言密教の行者の道場となったのは、平安末期とみられるが、多くの末寺を持ち、当時安徳山星上寺と共に真言寺院の中心的存在であったことは確かである。
 本堂裏の築庭は山陰の名園にも紹介され、月山富田城築城の王平悪七兵衛景清の築庭による枯山水式で有名である。
 また樹齢数百年を数える本堂前の銀杏の大木が往時を物語っている。
 これら乗光寺の歴史は、尼子時代をいろどるが、堀尾氏以来寺領7石5斗を受け、その寺領が維新まで継続した記録を持つ寺院である。
 本堂左側の金毘羅宮は、畑地区金刀比羅宮の下・富士ヶ瀬にあったが、明治41年現在地に移転奉祀された。
 永禄年中、毛利氏が京羅木山に滞陣中守護神とした十二所権現も、その金毘羅宮に合祀されている由緒深い歴史的寺院である。
 東出雲町観光物産協会”

月山富田城が築城されたのは、治承元年(1177)とされ、前掲説明板にある「王平悪七兵景清」すなわち、平景清とされている。ちなみに、その前年(安元2年)1月、藤原頼定が出雲権守に、藤原信清が出雲介にそれぞれ任命され、10月には出雲宗孝(のり)が国造職に任命されている。いずれも平清盛が事実上の最高権力者となって、特に西国に強力な指揮権を発揮している時である。
 その3年後(1180)の8月、源頼朝が伊豆で挙兵。このときから、武者の動乱の時代が以後400年にわたって繰り広げられることになる。

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