2010年2月4日木曜日

八橋城跡(鳥取県東伯郡琴浦町八橋)

八橋城跡(やばせじょうあと)

●所在地 鳥取県東伯郡琴浦町八橋
●登城日 2007年9月3日
●指定 町指定史跡
●標高/比高 15m/15m
●築城者 行松氏

【写真左】八橋城入口付近
 JR八橋駅の北にあり、9号線から南に向い、駅に向かって右(西側)に小丘として残っている。






◆解説(参考文献「サイト:城格放浪記」「続・因伯大名の戦国時代」等)

 前稿茶臼山本陣跡(鳥取県東伯郡北栄町国坂)のある北栄町の西隣・琴浦町にある平山城で、現在のJR八橋駅ができたため、当時の約半分の遺構を残している。

略歴については、現地の説明板による。

“町指定史跡   八橋城跡
(昭和49年5月1日指定)
 この城山は山陰線の開通により分断されたが八橋城跡である。中世、行松氏の居城で大江城とも号した。
 大永4年(1524)、ここを攻略した尼子経久は、城番として吉田左京亮を置いて伯耆支配の拠点とした。その後、尼子氏を滅ぼした毛利氏は、杉原盛重に城を守らせた。


 天正年間に入り、織田氏と対決するようになると、八橋城は山陰でもの毛利勢の中心拠点として重要視され、城の整備が進められた。「伯耆民談記」によれば、東に大手を構え、本丸と二の丸があり、周囲に堀を巡らせていた。

 豊臣治下では南条氏が領有したが、関ヶ原の合戦後の徳川治下で一時期、中村氏、市橋氏が封ぜられた。
 元和3年(1617)、池田光政が鳥取藩主になったとき、一藩一城制で廃城となる。寛永9年(1632)池田光仲入国後、津田氏が八橋を領有し、以後明治維新まで陣屋をおいて治めた。
 津田氏の菩提寺体玄寺(南西200m)の西丘陵上に津田家の墓所がある。雄大な墓碑11基が往時をしのばせている。
平成16年9月 琴浦町教育委員会”

【写真左】城跡内にある稲荷神社
 この稲荷神社のあるところも郭か何かの跡と思われる。







 大永4年の尼子経久の伯耆国の侵略は、いわゆる「大永の5月崩れ」といわれているが、以前にも指摘したように、近年この内容がすこしづつ覆され、大永の5月という短期に侵略されたものでないという研究結果もだされているようだ。

ただ、経久が怒涛のように伯耆に侵入し、伯耆国をおさめたということは間違いないようだ。

 このとき、経久が行った行為の一つとして、城は徹底的に破壊、神社仏閣も荒らされ、地元の民衆は尼子に対する憎悪の念は尋常ではなかったという。

 そして、壊滅的な被害を受けた伯耆国の主だった居城としては、米子天満城、黒坂不動岳、尾高城、淀江の各城、そして大山に登り、大山寺も焼き討ち、この後今稿の「八橋城」も落ちた。

 その後、経久はさらに東進して、以前取り上げた北条の堤城(山田高直居城)、泊の河口城(鳥取県東伯郡湯梨浜町園)(山名久氏居城)、さらに倉吉の打吹山城(鳥取県倉吉市)(山名澄之)、そして堅城といわれた羽衣石城(鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石)へ迫った。この間、東南の小鴨氏居城の岩倉城(鳥取県倉吉市岩倉)も攻め、小鴨氏も追われた。

 これだけの諸将がまとまって短期で敗れたことは、山陰戦国史の中でも珍しい。彼らは東へ敗走し、因幡守護の山名氏を頼り、鳥取布勢の天神山城へ逃げ込んだ。

 その後、経久が陥れた城には、次の部将を配置城番させた。最大の堅城羽衣石城には、尼子国久、泊河口城には国久の子・誠久を、そして尾高城に吉田光偏とし、今稿の八橋城には、説明板にあるように吉田左京亮をあてた。

【写真左】唯一残る石垣跡
 当時の大きさは現在の規模より2,3倍は大きかったものと思われる。JR山陰線も含め、南側にも遺構があったものと思われる。



 その後大永6年12月になると、山口の大内氏が石見方面へ進出してきたため、主だった尼子の諸将も石見へ出陣。このすきに伯耆の元城主たちは、奪回すべく因幡から伯耆へ向かった。

 それを知った経久は国久達に命じて、伯耆へ再びもどり争奪戦となったが、またもや尼子の勢いには抗することができなかった。まさに経久の隆盛期でもあった。それから10数年後は、まったく状況が変わり、毛利が次第に扶植していくことになる。

津田家墓所

 八橋城の西側には、関ヶ原合戦のあと、池田家に召し抱えられ、寛永9年(1632)国替により池田光仲が鳥取藩に移封された際、着座家であった津田家が八橋を領有、3代元茂のとき同家菩提寺となった体玄寺がある。

 境内には3代元茂から12代元亮までの墓及び、元茂夫人の墓など併せて11基が祀られている。
【写真左】体玄禅寺前に立つ津田家墓所の標柱

2013年2月1日参拝
【写真左】三代津田元茂の墓


【写真左】津田家累代の墓
【写真左】津田家墓所から東方に八橋城を遠望する。

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