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2021年12月9日木曜日

十膳山城(島根県出雲市野郷町~松江市大野町空山)

 十膳山城(じゅうぜんやまじょう)

●所在地 島根県出雲市野郷町~松江市大野町空山
●高さ 193.5m(比高40m)
●築城期 不明(戦国時代か)
●築城者 不明(宮倉氏か)
●城主 宮倉氏(大野氏一族)
●遺構 郭等
●登城日 2017年4月15日

◆ 解説(参考資料 『日本城郭体系第14巻』、『宍道町ふるさと文庫16』等)

 十膳山城は以前取り上げた本宮山城(島根県松江市上大野町)から西に直線距離で2.6キロほど向かった十膳山に築かれた城郭である。
【写真左】十膳山城遠望
 東方にある大野氏居城・本宮山城から下山途中の道から見たもの。
 主郭は南北に軸をとった独立峰である。左側が宍道湖方面になる。
 撮影日 2021年12月6日


現地の説明板より

”十膳山 標高193.6m
 出雲市と松江市の境界に位置。3等三角点がある。
出雲風土記に都勢野とあり辺りに沢がありおしどりが住んでいたと記されています。
戦国時代には、大野氏の一族宮倉氏の居城があったと伝わっています。
近年、伊野地区の方により整備され、休憩施設もあり、桜祭りが開催されたり季節の花が訪れる人々を和ませてくれる。”
【写真左】登城道・その1
 登り始めて振り返って見たものだが、ちょうどこの付近に1本の見事な桜が咲いており、その下で地元の老人会の皆さんが花見をしておられた。
 駐車場はこの桜のある広場に設置されている。


宮倉氏と大野氏

 本宮山城の稿でも紹介したように、現在の松江市大野町地域は大野氏が治めていたところで、十膳山城は現在の松江市と出雲市(旧平田市)との境に所在し、本宮山城の西の守りとして築かれたものと思われる。
 城主は大野氏の一族宮倉氏とされ、宮倉八郎五郎の居城と記されている。

 宮倉氏の主君大野氏については、本宮山城の稿ですでに紹介しているが、同氏本姓は紀氏といわれる。紀季康の孫季清のとき、源頼朝より大野庄地頭職に補任されて以来、大野庄に土着し、本宮山城を築き、館は坂本山(土居城(大野氏居館)跡(島根県松江市大野町)参照)に構えて大野氏と称した。
【写真左】登城途中、西方を見る。
 十膳山城の西側から登って行く道なので、東側は見えないが、西方の眺めは確保できる。西麓の野郷町の景色と奥には地元では北山といっている山がかすかに見える、この山には古刹鰐淵寺がある。


 頼朝から補任されている点から考えると、具体的な時期は建久年間(1190~98)の頃と思われる。
 大野氏の重臣として知られるのは、大垣亀畑山城主であった大垣八郎左衛門秀清だが、本稿の十膳山城主宮倉氏も大野氏を支えた一族である。

 因みに、大垣氏は本宮山城の東隣大垣町の地名から名乗った武将と思われるが、宮倉氏については、そもそも出雲国に宮倉という地名がないため、地元の国人領主ではなく、他国から入国した可能性が高い。そこで全く確証はないのだが、元々大野氏が紀氏を名乗っていた時代、出雲国東部および伯耆国にも触手を伸ばしていた時期があり、そのとき伯耆国から移ってきた可能性もある。現在でも宮倉姓が多いのは伯耆国(鳥取県)である。

 さて、十膳山城への登城コースとしては、西側(出雲市側)から向かうものと、東側(松江市側)から向かう二つのものがある。松江市側から向かうと、途中で宮倉氏が勧請したといわれる稲荷神社がある。これは宮倉氏の末裔奥原氏が奉斎したもので、元は別の所にあったようだが、現在地に移転している(下の写真参照)。
【写真左】正一位稲荷神社
 十膳山城の東側中腹にある社で、十膳山城主宮倉氏が勧請したもの。
 宮倉氏の末裔奥原氏が奉斎し現在地に移転し、その由緒を認められて明和8年(1771)神祇官より正一位の位階を贈られた。
 現在も奥原氏をはじめとする殿山地区の氏神として崇敬されている。
撮影日 2009年3月28日

【写真左】九十九折れ途中のターンする箇所。
 十膳山城の主郭は南北に軸をとる尾根の南端部に配置されているが、主郭となる頂部と、さらに尾根の北にも頂部がある。
 遺跡データではこの北側頂部に関する記録は残っていないが、北側にも物見櫓的なものがあった可能性が高い。


遺構

 十膳山城は写真でも分かるように、現在本丸跡とされる場所にはビニールハウスが建てられ、地元の方々がこの中でくつろげるようになっている。まわりにはきれいな花が植えられ、天気が良い日には宍道湖が眺望できる。

 このためか、島根県遺跡データベースでは「明確な遺構なし」となっている。たしかに明確な遺構は見受けられないが、当城本丸から眺望できる視界はきわめて広く、物見櫓などがあった可能性は高い。
【写真左】最後のターンを過ぎると、奥に本丸が控えている。
 今回利用した登城道は、地元のご年配の人が重機で整備されたとのこと。軽トラックならこのまま本丸まで行けそうだ。


 東南麓に「殿山」という地名があるが、おそらく平時はこの地区に住まいを持ち、有事の際本丸に上がるという体制をとっていたのだろう。
 また、西側から少し降りた中腹の野郷町(出雲市側)の畑の一角には土塁のような遺構が残っていることから、この付近にも何らかの手が加わっていた可能性が高い(下段の写真参照)。
【写真左】本丸にたどり着く。
 ごらんのハウスが見えた。
【写真左】説明板
 一角には冒頭で紹介した説明板が掲示されている。
【写真左】入口付近
 右側が登ってきた道で、左側に本丸。
【写真左】本丸に建つビニールハウス
 休憩小屋として建てられたようで、
「ハウス ご自由にお使いください」と書かれたものや、
「認定 地域が誇る観光スポット 十膳山山頂及び山頂からの風景 2016、3,14
出雲市」
と記されたものも掲示してある。
 ハウスの中は敷物があり、座布団まで用意してある。
【写真左】本丸南側
 ハウスから南側を眺める。
【写真左】南側から本丸を見る。
 休憩小屋や桜の木、チューリップなどが植えられているため当時の状況は分からないが、現状は東西幅はおよそ5m、奥行は30m弱程度の規模である。
 おそらく築城当時は東西幅は狭かったかもしれない。
【写真左】三角点
 ビニールハウスの一角に設置されている。
【写真左】本宮山城遠望
 東に目を向けると、大野氏居城の本宮山城が見える。
【写真左】本丸から南に宍道湖を見る。
【写真左】本丸から高瀬城を遠望する。
 本宮山城から斐川の高瀬城までは直線距離で15キロ前後となる。





◎関連投稿
【写真左】本丸から丸倉山城、大平山城を遠望する。
 なお、宍道湖対岸の宍道町西来待には「伝大野次郎左衛門墓」という大きな五輪塔がある(下の写真参照)。
【写真左】伝 大野次郎左衛門墓
 所在地 松江市宍道町西来待
 高さ2.9mの大型石塔。地元から産出される来待石で造られたもので、同石で造られたものとしては広瀬町にある堀尾吉晴墓に次ぐ大きさ。なお、この地域は大野原という地名である。
撮影日 2021年12月10日


 伝承では左衛門は本宮山城主であったといわれ、大野氏がもっとも活躍した南北朝期から室町期にかけて、この西来待(大野原)付近も同氏が治めていたといわれる。

◎関連投稿
【写真左】土塁?
 下山途中に見えたもので、右側が旧畑地で、左側には堤が控えている。

 わざわざここで盛土する必要がないような地形なので、場合によっては屋敷跡とも考えられる。
【写真左】旧畑地側から見る。
 高さは2m近くあるだろう。

2020年5月31日日曜日

出雲・諏訪城(島根県雲南市大東町須賀須我山)

出雲・諏訪城(いずも・すわじょう)

●所在地 島根県雲南市大東町須賀須我山
●別名 須賀城、須我城
●高さ H:211m(比高80m)
●築城期 興国年間(1340~46)
●築城者 菅孫三郎義綱
●城主 菅氏等
●遺構 郭、堀切、竪堀、虎口等
●備考 須賀神社
●登城日 2017年1月2日

◆解説(参考文献 『日本城郭体系 第14巻』)
 出雲・諏訪城(以下『諏訪城』とする。)は、前稿八雲山(島根県松江市八雲町~雲南市大東町須賀)から南西2キロほど向かった雲南市大東町の須賀神社後背に築かれた山城である。
 当城に関する史料はあまり多くないものの、築城期は南北朝時代の興国年間(1340~46)とされ、築城者は菅孫三郎義綱といわれる。
【写真左】義綱神社
 本丸付近に設置された小祠で、築城者とされる菅孫三郎義綱を祀る。







菅氏(すがし)

 菅氏は以前紹介した三笠城(島根県雲南市大東町南村) の城主・牛尾氏の一族といわれ、牛尾氏の始祖は信濃・中沢氏である。中沢氏は豪族神氏の一族とされ、本拠地は信濃国伊那郡中沢郷、現在の長野県駒ケ根市中沢地区である。
 因みに、この中沢地区から天竜川を越え、南におよそ12キロほど下った上伊那郡飯島本郷には、三沢城(島根県奥出雲町仁多三沢 )の城主となる同氏の始祖、信濃・飯島氏の居城・飯島城がある。
【写真左】諏訪城遠望
 南麓の須我神社参道側から見たもので、本殿の後背の小山が諏訪城となる。






 下向した時期については鎌倉期の承久の乱後で、いわゆる新補地頭として中沢真直が当地に移ったと伝える。下向した具体的な年月日は記録されていないが、このころおなじ信濃国から新補地頭として下向した三刀屋氏(三刀屋じゃ山城 その2 参照)、すなわち源助長が承久3年(1221)9月4日、同国三刀屋郷に入っているので、中沢(牛尾氏)もそのころと考えられる。
【写真左】須我神社・本殿
 楼門前の大きな石には「日本初之宮」と刻まれた石碑があり、八岐大蛇を退治した須佐之男命が、この地に宮を造り、「須賀宮」と命名、のちに「須我神社」となったという。

 「日本初之宮」については、真偽のほどはともかく、古事記・日本書紀に著されているところから相当古い宮であることは間違いない。


 真直の子・信濃守の娘に、玉造の湯氏初代頼清(玉造要害山城(島根県松江市玉湯町玉造宮の上)参照) の子・清信が婿として入り諏訪姓を名乗ったという。その後大原郡の佐世に移り、 金剛城(佐世城(島根県雲南市大東町下佐世) 参照)を居城とし佐世氏を名乗った。
 
 中沢氏はその後牛尾氏を名乗り、同族から今稿の諏訪城の城主・菅氏が出ている。そして、同氏の中から菅孫三郎義綱、菅四郎左衛門尉などが記録されている。

 この中沢氏が出雲国と関わった初見としては、
  • 正和2年(1313)7月7日、六波羅探題が淀本荘(よどほんのしょう)(牛尾荘)の雑掌・経範と地頭・中沢氏との相論を裁定し、中沢氏の地頭職を承認する(「集古文書」)。
 という記録があるが、これは旧来からあった荘園所有管理の荘官(雑掌)と、新たに下向してきた地頭職との土地を巡る争いで、鎌倉時代以降各地で勃発したトラブルの一例である。こうした記録を見ると、中沢(牛尾)氏も地頭職として安定した領地経営はすぐにはできなかったことが推察される。
 因みに、淀本荘は「旧島根県史」(第6)によれば、諏訪城を中心とした現在の薦沢・須賀・山王寺・北村・小河内・刈畑・中湯谷地域に比定している。
【写真左】登城口
 須賀神社の右側(東)の裏に回ると、御祖神社・社日神社と書かれた鳥居がある。

 また左側には両社と併せて、築城者である菅義綱を祀る義綱神社の案内板も掲げられている。
 登城道でもあるが、参道も兼ねている。


遺構

 諏訪城は写真で紹介するように小規模な部類の城郭である。主な遺構としては、郭が尾根上に数か所あり、手前には大分埋まっているが堀切があり、見どころとしては主郭の後背即ち搦手側に横堀や竪堀群がある。
 諏訪城の搦手から北東部へ向かうと八所(はっそ)という地区があるが、この個所には大屋敷・下屋敷・殿居などの地名が残っているので、平時の住まいはこの付近であったものと思われる。
 因みに、この八所からさらに北東部に向かうと、前稿で紹介した八雲山に至る。
【写真左】登城道
 尾根にたどり着くと少し登坂だが、ほぼまっすぐな道が続く。
【写真左】最初の堀切
 しばらくすると、登城道の両端側に堀切跡が見えてくる。

 写真はそのうち左側の部分だが、当時はもっと深く抉られていたと思われる。
【写真左】2番目の堀切
 最初の堀切を越えて、さらに奥に進むと次第に傾斜は緩やかになる。途中でもう一つの堀切が見える。

 いずれの堀切も現在の参道(登城道)を整備する際、断ち切っていた堀切は歩きやすくするため、道の箇所(尾根筋)は埋められてしまったようだ。
【写真左】御祖神社
 参道を進んでいくと正面に小郭が現れた。中央部に御祖神社が祀られている。
【写真左】左側にも小祠
 御祖神社の左側にも小祠が祀られている。
【写真左】義綱神社への案内標識
 上記の郭から北東方向に道があり、手前に義綱神社への案内板が設置されている。
【写真左】鞍部
 道中一旦低くなった箇所があり、自然地形の鞍部とも思えるが、浅い堀切だった可能性もある。
【写真左】主郭
 鞍部を過ぎると再び登り勾配の道を少し進むと、やがて主郭と思われる郭が見えてくる。
【写真左】東の段
 主郭の東側にはやや不定形な段が接する。腰郭の役目を果たすものだろう。
【写真左】義綱神社・その1
 奥に義綱を祀る神社(祠)が建立され、手前には「南朝忠臣 菅孫三郎義綱公御社」と書かれた標柱が建っている。
【写真左】義綱神社・その2 冒頭の写真にもあるように、当城の最高所と思われる個所に御覧の義綱神社が祀られている。

 これとは別に、東側にもこの写真にもあるように小祠が祀られている。この位置は主郭から少し下がった郭になる。
【写真左】横堀・その1
 主郭から東の段を経てさらに下がると、北に向かって伸びる横堀がある。
【写真左】横堀・その2
 横堀をさらに北に進んでみた箇所で、思った以上に長く構築されている。
【写真左】竪堀
 横堀から東に登って行くと、一条の竪堀が見えた。

 この付近にはこれ以外に数本あるようだが、藪状態なので写真はこれだけ。
【写真左】堀切
 北東方向に伸びる尾根筋に設けられたもので、右側にも浅い堀切があるので、この個所には二条の堀切が配置されている。
【写真左】主郭(義綱神社)を見上げる。
 横堀や竪堀のある東側斜面から見たもの。

 



2020年5月13日水曜日

八雲山(島根県松江市八雲町~雲南市大東町須賀)

八雲山(やくもやま)

●所在地 島根県松江市八雲町~雲南市大東町須賀
●高さ H:426m(比高250m)
●築城期 永禄6年(1563)ごろ
●築城者 毛利元就
●遺構 郭等
●備考 須我神社奥宮、和歌発祥地「八雲山」
●登城日 2017年1月2日

◆解説
 八雲山については以前出雲・熊野城(島根県松江市八雲町熊野)・その1 で少し触れているが、熊野城から北西方向へ直線で約1.5㎞ほどむかった位置に所在する山である。
 島根県遺跡データーベースでは城郭としては登録されていないが、熊野城が落城した際、毛利方が当山に拠って戦った記録があり、遺構の同定等はともかく、陣所として使われた場所である。
【写真左】八雲山遠望・その1
 西側の雲南市大東町側から見たもので、中央部が伐採されているのがよく分かる。




現地の説明板より ①

”八雲山
 標高426mの山頂からは周囲の宍道湖、中海、大山、中国山脈が木々の間から見わたせる眺望のすばらしい場所です。
 「古事記」によると、須佐之男命は山岐の大蛇を退治、稲田姫を妻にし、宮殿建立の地を求め大東町須賀へ「八雲立つ 出雲八重垣妻ごみに 八重垣つくるその八重垣を」と詠まれた和歌発祥の地であり、国名「出雲」もこの歌にちなんだものです。
 山も八雲山と称し、また中腹に巨大な霊石が二基あって、これを夫婦岩と言います。
     雲南市”
【写真左】八雲山と熊野城配置図
 北側にある熊野神社に設置された案内図で、八雲山に向かうには、熊野城へ向かう県道53号線の途中に案内標識が出ている。
 また、これとは別に西側(雲南市大東町)から向かう道もある。管理人はこの日(2017年1月2日)西側(県道24号線)から向かった。


現地の説明板より ②

❝和歌発祥地「八雲山」について
 出雲国八雲山は、素戔嗚尊によって

  八雲立つ出雲八重垣妻籠によって
      八重垣作るその八重垣を

 の短詩が詠われ、三十一音の和歌を発祥した史跡である。以来、和歌は日本の国風(くにぶり)となり、歴代天皇はもとより国民も敷島の道を尊み学び詠い、また日本文化を貫く根本精神となった。
 伝承神話によれば、素戔嗚尊は八岐大蛇を退治されるや、この地に来り給い「我が心すがすがし」と須賀の宮居を築かれ、祝賀に妃櫛稲田姫が弓を盥(たらい)に結び、梅枝で弦を打ち鳴らされた音に感動して“八雲立つ″の歌を詠われた。弓楽は弓太鼓と称し、我国弦楽の濫觴(はじめ)として古式"歌祭り"に伝わった。
 八雲山の伝承を世に顕彰したのは、大本の出口王仁三郎聖師で、昭和8年(10月10日)、次の和歌三首を刻んだ歌碑が建立された。(後、誤れる官憲の弾圧を受け破壊されている。)

 千早ぶる神の聖跡(みあと)をしたひつつ 八雲の山に吾が来つるかも
 八雲立つ出雲の歌の生まれたる 須賀の皇居(みやい)の八重垣のあと
 大山はみ空に霞み海は光る 出雲の国は錦の秋なり

 悠久の太古最初の和歌を生んだ八雲山上の風光は、今に明媚なること天下第一で、発祥の和歌に秘められた平和なこころを伝えている。
 昭和40年10月
   八雲山顕彰保存会❞
【写真左】熊野城側から北西に八雲山を遠望する。
 右に熊野城があり、その左側の麓には奥に進む道が見えるが、残念ながらこの道は八雲山には直接アクセスすることはできない。


 上掲した二つの説明板にもあるように、八雲山は出雲神話である八岐大蛇伝説や、和歌発祥の地として所縁が深く、またに西麓に鎮座する須賀(須我)神社との関係も深く、『出雲風土記』に出てくる「須我山」の主峰で当社の奥宮とされている。
【写真左】登山口
 雲南市大東町側の県道24号線から向かう道があり、要所に案内標識があったのでこれを頼りに進むと、かなり高度を上げた位置まで道が続く。
 写真は登山口の駐車場。

 
遺構

 写真でもわかるように、頂上部には現在「八雲叢舎」という研修施設のようなものが建っており、そのころ周辺部が改変された可能性もあるが、それでも山城遺構らしき郭段や帯郭状のものが散見されるため、熊野城攻めの際、毛利方が当山(当城)を一時的にせよ戦のための向城として手を加えた可能性が高い。
【写真左】尾根分岐点
 登って行くと尾根にたどり着く。右方向が八雲山に向かい、反対側の道は松江市(熊野神社方面)からの道となっている。




熊野城の落城

 ところで、出雲・熊野城(島根県松江市八雲町熊野)・その1 で少し触れたように、当城が史料上記録されているのは、永禄から元亀年間の頃である。
  • 永禄6年(1563)12月20日、毛利元就は吉川元春の出雲国白潟・熊野での軍功を賞する(『吉川家文書』)。
 これは、当時毛利軍が尼子方の支城の一つ白鹿城(島根県松江市法吉町) 攻めの際に発給されたもので、この年10月29日、白鹿城は落城した。
 この後は、山中鹿助らが起こした尼子再興軍との戦いで、元亀元年(1570)2月、毛利輝元が布部要害山城・島根県安来市広瀬町布部 で鹿助を破った後、再興軍が死守していた牛尾城(三笠城(みかさじょう)その2 参照)、熊野城、及び高瀬城(島根県斐川町) などを攻略していった記録である。このうち熊野城関係だけを拾うと次の記録がある。

  1. 元亀元年(1570)4月20日、毛利輝元、冷泉元満(冷泉氏館(山口県岩国市周東町祖生) 参照)に対して、牛尾城攻略のこと、熊野城・高瀬城で城を数城造らせ通路をふさいだので、ほどなく落城するだろうことなどを伝え、島根へ陣替えすべしと命ず(『萩閥108』)。
  2. 同年7月22日、小早川隆景、一昨夜山中鹿介ら熊野城へ兵糧を搬入しようとしたが、約束の場所を間違えて引き返したという湯原春綱(満願寺城(島根県松江市西浜佐田町)参照) の報告を謝し、末次城の普請に応じられるよう準備すべしと伝える(『萩閥115』)。
  3. 同年9月3日、尼子方の熊野城が落城する(『萩閥151』)。
【写真左】段
 登って行く途中の左側に見えたもので、郭のようにも見える。
【写真左】広場が見えてきた。
 ほぼ直線コースの登山道で、階段が設置されているため歩きやすい。
 登りきると、途端に視界が広がり広場が出てきた。
 右側に建物が見える。
【写真左】正面には一段と高くなった段が
ある。
【写真左】研修館
文字が薄くなっているが「八雲叢舎」と読める。
【写真左】正面の階段を登る。
【写真左】主郭か
 登りきると、奥に2m前後高くなった段が見える。
【写真左】出口王任三郎関係の石碑
 東側には昭和8年10月10日、上記説明板の和歌三首を刻んた歌碑などが建立されている。
【写真左】東側
【写真左】西側
 このあと東側から少し尾根伝いに降りてみる。
【写真左】主郭南端部
 この位置で1m程度下がった段になる。
【写真左】帯郭か
 主郭からさほどの高低差はないが、少し低くなった位置に、南北に長い郭状のものが繋がる。
【写真左】郭段
 小規模なものだが、上と下にそれぞれ段が認められる。
【写真左】熊野城を俯瞰する。
 八雲山は標高426mで、熊野城が280mなので、当山に陣を張った毛利方としては、この位置からは熊野城の搦手の様子も見ることができたのだろう。
【写真左】八雲山から常栄寺などを遠望する。
 この位置からでは見えないが、手前に熊野神社があり、その北隣に常栄寺及び普済寺が見える。
 常栄寺は尼子経久が開山した寺で、のちに大東の阿用城(島根県雲南市大東町東阿用宮内) の戦いで戦死した経久の長男政久の墓が祀られている。
 普済寺は、出雲札所第16番の寺。
【写真左】常栄寺と普済寺
【写真左】尼子政久の墓


【写真左】八雲山から北方に松江市街地を遠望する。
 天気が良いと松江市街地、中海、宍道湖などが見えるようだが、この日は靄がかかって鮮明でない。




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