丹波・亀山城(たんば・かめやまじょう)
●所在地 京都府亀岡市荒塚町
●形式 平山城
●築城期 天正6年(1578)
●築城者 明智光秀
●城主 明智氏、石田氏、羽柴秀勝(信長の子)・豊臣秀勝(秀吉甥)・豊臣秀俊(小早川秀秋)等
●別名 亀宝城、亀岡城
●遺構 石垣、堀
●備考 天恩鄕(大本教)
●登城日 2009年5月5日
◆解説
丹後・亀山城は、明智光秀が天正6年(1578)に築城したといわれている。
明治11年(1878)の廃城令によっていったん解体され、その後大正8年(1919)、朽ち果てた当城を宗教法人・大本教団が買い取り、修復と併せ同教団の施設としたもので、大分当時の面影は薄れているが、石垣や濠などには見るべきものがある。
【写真左】現地にある案内図
城跡に関係した遺構を表記したものはほとんどないが、この図にある中央部「大銀杏」辺りが当時の本丸付近だったと思われる。
この場所に行くには、「万祥殿」というところでお祓いを受けないと入ることはできない。当日は時間もあまりなかったため向かっていない。
なお、「大銀杏」は明智光秀が植えたと伝承されている。
現地の説明板より
“丹波亀山城跡
(宗)大本・天恩鄕
亀山城は、天正5~7年(1577~79)明智光秀による築城に始まり、大きく3期に分け完成した近世平城です。
第1期は、光秀の丹波攻略の拠点で、近世城郭の先駆的なものとして築かれました。3層の天守を備えていたと伝えられていますが、詳細は不明です。
第2期は、豊臣秀吉の支配下にあった時期で、城下町整備を中心とした小早川秀秋による築城整備です。
第3期は、最も大規模なもので、岡部長盛が亀山藩主の時、大阪城の包囲網として、西国大名の賦役による天下普請で完成し、明治11年(1878)の廃城令で解体されるまでその雄姿を誇りました。
【写真左】本丸跡付近に建つ教団の施設
大正8年(1919)、荒廃していた城跡を、教団「大本」が買取り、石垣を積み直し、「天恩鄕(てんおんきょう)」として神苑整備されました。
昭和10年(1935)の大本弾圧事件で廃墟と化しましたが、戦後同教団によって復興され、城跡のたたずまいとして残る石垣と清閑な森は、往時の姿を偲ばせてくれます。”
従って現在は同教団の施設となっていることから、見学する際は、教団の受付の手続きが必要だ。
明智光秀
明智光秀についてはこれまでもいろいろな史料で紹介されているが、光秀が完全に信長に属したのは、足利義昭が信長と対立したときからである。同じ行動をとったのが、元々義昭の家臣だった細川幽斎(「丹後・田辺城」2011年3月5日投稿参照)である。
【写真左】石垣
施設内の石垣は綺麗に修復されている。
光秀は元亀2年(1571)に近江坂本城を本拠として領地を与えられると、信長の命によって畿内各地を転戦、天正3年(1575)には、日向守の官位を与えられ、「惟任(これとう)」の姓も授かる。
彼が戦った主な相手は、紀伊の雑賀衆、丹波の波多野秀治や赤井氏、大和の松永久秀(弾正)、摂津の荒木村重などである。
【写真左】石垣に残る家紋
亀山城の天下普請の際、西国の大名が賦役として動員されているが、この写真にある石には家紋らしい刻印が見える。
ちなみに、亀山城の石垣には、55か所(17種類)残っているという。
丹波・亀山城はこうした相手の勢力配置のほぼ中心地点になる。つまり光秀にとっては戦況が変われば、挟み打ちにされる位置にいたわけである。
それでも短期のうちに敵方を打ち破ったことから、丹波一国を与えられた上に、丹後を預けられた細川幽斎や、大和を領地した筒井順慶を与力大名としてつけられている。
おそらくこの段階で、信長の他の重臣すなわち、柴田勝家や羽柴秀吉らと同格の扱いを受けていたものと思われる。
小早川秀秋は、秀吉の正室・高台院の兄・木下家定の5男で、元服後秀吉の養子となり、その後天正17年(1589)、信長の四男で秀吉の養子となった羽柴秀勝の領地であったこの亀山城10万石を与えられ、文禄3年(1594)には、小早川隆景の養子となって、小早川秀秋と改称した。
【写真左】犬の散歩を禁止した立て札。
「神域につき犬の散歩を御遠慮ください。 大本本部」とある。
管理人の山城探訪はほとんど犬同伴だが、今回だけは車中で我慢させた。
亀山城をさらに本格的な近世城郭としたのが岡部長盛とされているが、彼が当城の城主となったのは、慶長14年(1609)で、その後大坂夏の陣で論功を挙げ、慶長20年(1615)には隣の福知山藩へ加増移封された。
◆感想
城跡がこうした宗教法人によって買取られ、整備されているところはおそらく全国ではここだけかもしれない。
大正8年(1918)教祖・出口王仁三郎が荒れ果てた古城を買取り、今日まで受け継がれてきていると思うと、これもまた近世史の一コマといえるだろう。
当日敷地内で多くの学生(中学生か高校生)が清掃作業をしていたが、すれ違うたびに挨拶をしてくれる。
城跡としての遺構は大分消滅しているが、その分対応していただいた受付の人や、学生たちの態度に好感が持て、心地よい探訪だった。
●所在地 京都府亀岡市荒塚町
●形式 平山城
●築城期 天正6年(1578)
●築城者 明智光秀
●城主 明智氏、石田氏、羽柴秀勝(信長の子)・豊臣秀勝(秀吉甥)・豊臣秀俊(小早川秀秋)等
●別名 亀宝城、亀岡城
●遺構 石垣、堀
●備考 天恩鄕(大本教)
●登城日 2009年5月5日
◆解説
丹後・亀山城は、明智光秀が天正6年(1578)に築城したといわれている。
明治11年(1878)の廃城令によっていったん解体され、その後大正8年(1919)、朽ち果てた当城を宗教法人・大本教団が買い取り、修復と併せ同教団の施設としたもので、大分当時の面影は薄れているが、石垣や濠などには見るべきものがある。
【写真左】現地にある案内図
城跡に関係した遺構を表記したものはほとんどないが、この図にある中央部「大銀杏」辺りが当時の本丸付近だったと思われる。
この場所に行くには、「万祥殿」というところでお祓いを受けないと入ることはできない。当日は時間もあまりなかったため向かっていない。
なお、「大銀杏」は明智光秀が植えたと伝承されている。
現地の説明板より
“丹波亀山城跡
(宗)大本・天恩鄕
亀山城は、天正5~7年(1577~79)明智光秀による築城に始まり、大きく3期に分け完成した近世平城です。
第1期は、光秀の丹波攻略の拠点で、近世城郭の先駆的なものとして築かれました。3層の天守を備えていたと伝えられていますが、詳細は不明です。
第2期は、豊臣秀吉の支配下にあった時期で、城下町整備を中心とした小早川秀秋による築城整備です。
第3期は、最も大規模なもので、岡部長盛が亀山藩主の時、大阪城の包囲網として、西国大名の賦役による天下普請で完成し、明治11年(1878)の廃城令で解体されるまでその雄姿を誇りました。
【写真左】本丸跡付近に建つ教団の施設
大正8年(1919)、荒廃していた城跡を、教団「大本」が買取り、石垣を積み直し、「天恩鄕(てんおんきょう)」として神苑整備されました。
昭和10年(1935)の大本弾圧事件で廃墟と化しましたが、戦後同教団によって復興され、城跡のたたずまいとして残る石垣と清閑な森は、往時の姿を偲ばせてくれます。”
従って現在は同教団の施設となっていることから、見学する際は、教団の受付の手続きが必要だ。
明智光秀
明智光秀についてはこれまでもいろいろな史料で紹介されているが、光秀が完全に信長に属したのは、足利義昭が信長と対立したときからである。同じ行動をとったのが、元々義昭の家臣だった細川幽斎(「丹後・田辺城」2011年3月5日投稿参照)である。
【写真左】石垣
施設内の石垣は綺麗に修復されている。
光秀は元亀2年(1571)に近江坂本城を本拠として領地を与えられると、信長の命によって畿内各地を転戦、天正3年(1575)には、日向守の官位を与えられ、「惟任(これとう)」の姓も授かる。
彼が戦った主な相手は、紀伊の雑賀衆、丹波の波多野秀治や赤井氏、大和の松永久秀(弾正)、摂津の荒木村重などである。
【写真左】石垣に残る家紋
亀山城の天下普請の際、西国の大名が賦役として動員されているが、この写真にある石には家紋らしい刻印が見える。
ちなみに、亀山城の石垣には、55か所(17種類)残っているという。
丹波・亀山城はこうした相手の勢力配置のほぼ中心地点になる。つまり光秀にとっては戦況が変われば、挟み打ちにされる位置にいたわけである。
それでも短期のうちに敵方を打ち破ったことから、丹波一国を与えられた上に、丹後を預けられた細川幽斎や、大和を領地した筒井順慶を与力大名としてつけられている。
おそらくこの段階で、信長の他の重臣すなわち、柴田勝家や羽柴秀吉らと同格の扱いを受けていたものと思われる。
小早川秀秋は、秀吉の正室・高台院の兄・木下家定の5男で、元服後秀吉の養子となり、その後天正17年(1589)、信長の四男で秀吉の養子となった羽柴秀勝の領地であったこの亀山城10万石を与えられ、文禄3年(1594)には、小早川隆景の養子となって、小早川秀秋と改称した。
【写真左】犬の散歩を禁止した立て札。
「神域につき犬の散歩を御遠慮ください。 大本本部」とある。
管理人の山城探訪はほとんど犬同伴だが、今回だけは車中で我慢させた。
亀山城をさらに本格的な近世城郭としたのが岡部長盛とされているが、彼が当城の城主となったのは、慶長14年(1609)で、その後大坂夏の陣で論功を挙げ、慶長20年(1615)には隣の福知山藩へ加増移封された。
◆感想
城跡がこうした宗教法人によって買取られ、整備されているところはおそらく全国ではここだけかもしれない。
大正8年(1918)教祖・出口王仁三郎が荒れ果てた古城を買取り、今日まで受け継がれてきていると思うと、これもまた近世史の一コマといえるだろう。
当日敷地内で多くの学生(中学生か高校生)が清掃作業をしていたが、すれ違うたびに挨拶をしてくれる。
城跡としての遺構は大分消滅しているが、その分対応していただいた受付の人や、学生たちの態度に好感が持て、心地よい探訪だった。
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